「何が信じられないの?」
 リアは顔を背けるセレスを覗き込むようにして言った。
「ケイナなの? 自分なの? どうして? ケイナはみんなを信じてるわよ」
「え?」
 思わず振り向いて、リアの顔があまりにも近くにあったのでセレスはぎょっとした。
 リア独特の花の香りが鼻をくすぐる。
「セレス!」
 リアはセレスの手をとって自分の手で握りしめた。少し凍えた手の冷たさがセレスの手に伝わった。
「なんでそんな顔してんの? 安心しなよ。ケイナはあんたのこと大好きよ。それでね、みんながあんたのことも彼のことも好きなの。あたしもアシュアもカインもリンクもトリもみんなが」
 みんなが好き……。それは分かるけど……。
 目を伏せたとき、口の端に花の香りを感じてセレスははっとした。
 リアが『ノマド』の親愛のキスをしてくれていた。セレスはみるみる顔に血が昇るのを感じた。
「大好きな人にはキスしたくなる。『ノマド』のキスはそういうことなの。代わりのいない自分の前にいる人。男も女も関係ないわ」
 大好きな人にはキスしたくなる……。セレスはリアの顔を見つめた。
「あたしはセレスが大好きよ。代わりのいないあたしの前にいる人だもの。大切な出会った人だもの。元気だしなよ」
 リアはもう一度セレスに顔を寄せた。
「やだ、泣かないでよ。」
 セレスの大きな目から涙が溢れたので、リアは慌てた。
 こういうところ、女の子っぽいんだよなあ、とリアは心の中で思った。
「リア、なんだか少しミントの香りがする……」
「ああ」
 泣きながら言うセレスにリアは思い出したような顔をした。
「ここに来る前、ミントのお茶を飲んだから。ごめん、そんなに嫌いだったの?」
 嫌いなはずがない。ミントの香りはケイナの香りだ。
 たがが外れたように泣き出したセレスにリアは少し困惑した顔をしたが、自分のタオルで彼の顔を拭いた。
「そんなに泣いたらもらい泣きしちゃいそう。ねえ、そんな顔してたらケイナが悲しむよ。あたしも悲しいわ」
 リアは優しい。この優しさをおれは知らずに疎ましく思ったこともあった。リア、ごめん。
 自分の肩に頭を寄せかけさせて、あとからあとから溢れでるセレスの涙をリアは根気強く拭ってやった。
 片手はしっかりとセレスの手を握っている。
 夢見のトリと同じ血を引くリアの手は、彼ほどの力はなくても心の影を吸い取ってしまうのかもしれない。張り詰めた気持ちがゆっくりほどけていくような気がした。
「……ありがとう。リア、ありがと。おれ、ちょっと元気出たかも」
 しばらくしてセレスは手で涙を拭って言った。
「ほんと?」
「うん」
「じゃ、帰ろう。寒くなってきちゃった」
 リアは笑った。立ち上がると、リアよりもセレスのほうが背が高い。
 セレスは腕をあげるとリアの肩を抱き寄せた。少しでも寒くないように。
「こういうことって、男の人がするんだよね、きっと」
 セレスが言うと、リアは笑った。彼女はセレスの腰に手を回した。
「女の子になったらあたしの妹になってね。男のままなら弟ね」
 セレスは笑った。

 アシュアは落ち着かない様子で何度もテントから出たり入ったりを繰り返していた。
 セレスがなかなか帰って来ない。
「うっとうしいなあ、もう。座れ!」
 ケイナが吐き出すように言った。カインは仏頂面で黙っている。
 ふたりとも、いつもと態度が逆だ。それが内心穏やかでないことを物語っている。
 ちくしょう、素直じゃねえ。
 アシュアはふたりをじろりと睨んだ。
「あ、帰って来た」
 アシュアが飛び出して行くのと、ふたりがそれを聞いて立ち上がるのが同時だった。
 しかし3人はセレスとリアが笑い合いながら歩いて来ることに気づいて仰天した。
「どうしたの?」
 口を開けて自分を見つめるアシュアの顔を見て、リアは怪訝そうな顔をした。アシュアはそれを無視してセレスに目を移した。
「アシュア」
 セレスは言った。
「ごめん、遅くなって。腹減っちゃった」
「ん、あ、て、テントにあるよ」
 口籠りながらアシュアが言うと、セレスはリアに顔を向けて口の端にキスをした。
「あら!」
 リアは思わずセレスの顔を見た。
「ありがと、リア。お休み!」
 セレスはアシュアの前を通り過ぎ、その後ろにいたカインとケイナの脇もすり抜けてテントに走っていった。
 カインとケイナは訝しそうに目を見合わせた。
「セレスと何してた?」
 アシュアはセレスを見送ってリアに向き直った。
「なにって……」
リアは困惑したように3人の顔を交互に見た。
「別に何もしてないわよ。あたし、水浴びに行って、セレスがいたから傷の消毒手伝ってもらって、少し話して……」
「いったい何を話したんだ」
「なによそれ」
 アシュアの言葉にリアはむっとした顔をした。
「たいしたこと話したわけじゃないわよ。なんか、ちょっと落ち込んでたみたいだったから、元気出せって……」
 リアはそこで悪戯をとがめられた子供のような顔になった。
「元気出るかなと思って、『ノマド』のキスをあげたの。大好きな人にはキスしたくなる、代わりのいない目の前の人は大切だからって……。トリがたまに言う言葉だわ。わたしもセレスが大好きだから元気出せって……」
 3人は無言だった。それがリアを不安に陥れた。
「あたし、なにか悪いことした?」
 体よく摺り替えられてしまったかもしれない……。
 だが、その摺り替えが3人にとって何より有り難いものであったことは事実だった。
「リア!」
 叫ぶなり大きなアシュアの腕に抱き締められてリアは慌てた。
「なに?いったいどうしたの?」
 ケイナとカインの前で真っ赤な顔になったリアはさらに抗議しようとしたが、アシュアの唇に口を塞がれてしまった。
 ケイナがカインの腕をつついたので、ふたりはリアとアシュアを残して踵を返した。
「ケイナ…… 悪かったよ……」
 そうつぶやくカインにケイナは小さく首を振った。
「『ノマド』は男とか女とか関係なく好きという表現をするんだ。キスくらいいくらでも」
「いくらでもだと……?」
 カインはむっとした。手を振り上げたが、その手はケイナの頬をかすかにかすって空を切った。 ケイナが顔をそらせたからだ。
 カインは刺すような視線をケイナに向けた。
「こんなのがよけられるくせに」
 ケイナはそれを聞いて目を伏せた。
『ノマド』の挨拶? きみの首元を絞めながら?」
 カインはケイナの伏せられた長い睫を見つめた。
「誰も気にしてない? キスくらいいくらでも? じゃあ、きみはセレスにできるのか? セレスには何にもできないくせに、ぼくが求めればできるわけ?」
 意地の悪いことを言っているのは分かっていた。だが、言わずにいられなかった。
「びっくりだ…… 人のことなんて全然無関心だったのにきみは人に執着してる。だけど、間違ってるよ……。言うこと聞けばぼくがここに留まるんじゃないかって…… 大事さの加減じゃないだろ、それは」
 カインは泣き出したい思いに駆られていた。
 こんなことを言っても目にわずかにしか表情を浮かべないケイナに、再び同じことを繰り返したくなる衝動が沸き起こる。
 いや、それとも殴りつけたいのかもしれない。どうせ、よけられてしまうんだろうけれど。
 暴力には敏感。愛情には鈍感。
「大事に思ってくれるのは嬉しいけれど、なんでいつもみたいに怒ったりしなかったんだって思うよ。残酷なことしてるって分かってないだろ」
 カインはため息をつくとちらりと後ろを振り向いた。リアとアシュアはまだ抱き合っている。こんなところで妙な喧嘩を始めるわけにはいかない。カインは諦めたような笑みを浮かべた。
 ケイナには無理だ。こんなこと、たぶん、ずっと彼は分からないだろう。
「また、トリと計画を練ったほうがいいと思うけど、地球に戻ったら、とにかくぼくはカンパニーに戻る。ぼくが『ノマド』にいても何も解決しない。ぼくがカンパニーに行っても解決できるかどうかは定かじゃないけど、きみたちのことだけじゃない。ぼくはやらないといけないことがたくさんある」
 ケイナは無言でカインの顔を見つめた。
「だけど、約束するよ。全部が終わったら必ず会いに来るから。その時にはリィの社長として。だから、それまでにちゃんと体、治しておくんだぞ」
「もう、いいよ……」
 ケイナがつぶやいた。
「もう…… いいよ……。データも手に入ったし、おれがセレスの治療法探すよ……。もう静かに……」
 そこまで言って、ケイナは口をつぐんで俯いた。
 言ってもどうにもならない。そのことだけはケイナも分かっている。
 ぼくがここまで言えば考えを変えることはないことをケイナは知っている。
 もう、静かにここに一緒にいよう。
 そんなふうに言ってくれようとしたんだよな……。
 カンパニーに仮死保存され、眠り続けるきみのそばでずっと過ごすことを夢見たこともあった。
 そうすりゃ誰も邪魔しない。きみはぼくが死ぬまで一緒にいてくれる。
 ぼくはきみの心を100%こっちに向けたいと思うよ。
 だけど、夢の中でもセレスには勝てなかったよ。
 セレスは怖い。彼にはきっと誰も勝てない。いや…… 彼女かな……。
 ケイナのそばにいて、何の治療もしなくても、日に日に女性になっていくようだ。
 きみたちの螺旋が生きる道を見つけられるよう、ぼくはぼくのやらなければならないことをする。
 きっとまた会える日が来るだろう……