「なんつうか、おまえほんと歩くのへたくそだな」
 アシュアは遅れ気味についてくるセレスを見て苦笑した。
「体調良くないか? 何ならおれひとりでもいいぞ」
「大丈夫だよ」
 セレスは少しアシュアを睨んで答えた。
「それにしてもあいつらどこ行ったんだか。子供らのところで待ってたほうがいいかな……」
 アシュアは顔を巡らせて人影に気づき、歩を進めた。そして声をかけようとして一気に顔から血が引くのを覚えた。
「アシュア、ケイナたち……」
 まずい! アシュアは振り向いたが、すでに遅かった。
「……」
 セレスの大きな目が見開かれていた。
「え?」
「来い!」
 アシュアは乱暴にセレスの腕を掴むと、目を見開いたままのセレスを引きずるようにして子供たちのところまで戻った。
「え?」
「なんも見なかったことにしろ」
 アシュアはセレスに噛みつくように言った。
「忘れろ。今見たことは忘れろ」
「カインとケイナ……」
「忘れろ。頼む!」
 セレスはふらりとするとそのまま草の上にしりもちをついた。
「セレス……」
 アシュアは泣きたい思いでセレスの顔を覗き込んだ。
 なんでこんなときに……。カインのばかやろう。いや、ケイナもだ。
「だ、だいじょうぶ……」
 セレスは引きつった笑みを浮かべてアシュアを見た。
「あ、あの…… か、カインのことは、し、知ってたんだ…… ほ、ほら、あの、夢の中で…… そ、そういうの聞いてたから…… し、しかたないよ。好きだったらさ。やっぱ、しかたないよ」
 そういう問題かよ……。違うだろ。アシュアは顔をしかめた。
 10分ほどして姿を見せたのはケイナだけだった。
「交替。じゃあな」
 早く消えろと言わんばかりに手を振るアシュアの影で、顔をあげずに座っているセレスの姿をケイナはしばらく見つめた。
 そして何も言わずにコミュニティに戻っていった。

「あの……」
 子供たちを連れて夕方近くコミュニティに戻って来たとき、セレスはアシュアの背に声をかけた。
 アシュアが振り向くと、セレスは無理に作ったような笑みを見せた。
「も、もうちょっとしてから戻る…… ごめん」
 アシュアは何も言わなかった。
 セレスはくるりと身をひるがえすと走り去った。おそらくいつもの池のほとりにでも行くのだろう。アシュアはため息をついてそれを見送った。そしてそのあと、怒りが沸き起こるのを感じた。
「どう? そっち、何か分かりましたか?」
 リンクはモニターを睨みつけているケイナとカインに声をかけて、のっそりとテントに入って来たアシュアに気づいた。
 お帰り、と言おうとして、彼の表情があまりに険しいのでためらった。
 アシュアはカインとケイナに近づくと、背後から手を伸ばしてふたりの頭を掴もうとしたが、残念ながらケイナはすばやく身を伏せてしまったので、彼の手が掴んだのはカインの頭だけだった。
 ケイナに後ろから近づいてやる行為にしてはあまりにもお粗末だったのかもしれない。
「痛っ……!」
 ケイナほど警戒心のないカインは悲鳴をあげた。
 ケイナは何をするつもりかとアシュアに抗議しようと彼の顔を見て…… やめた。
「おれたち午後には行くって言ってたよな!! セレスがいるんだから、考えろよ! ふたりとも知らないわけじゃないだろうが!」
 リンクは状況が分からず怪訝そうに3人を見つめている。しかし、カインはそれを聞いてかっと顔に血が昇った。ケイナは顔色ひとつ変えずにアシュアを見ている。
「あいつ、いろんなこと聞いても必死になって自分の中で消化しちゃあ、立ち直って来てんだぞ! この期に及んで一生懸命カインのカタ持とうとして、しかたないからって……!」
 カインは自分の頭を掴むアシュアの手を手首のところで掴み返して彼の顔を見た。
「男同士とかそんなんおれは別に言わねえし、あいつだって自分の気持ちをこれまではっきり言ってたわけじゃないけど、いいんかよ、こんなんで! カイン、おまえがそういうことしていいのかよ! おまえはそれでいいのかよ!」
 カインはアシュアの手を振りほどくとアシュアを睨んだ。そして立ち上がりかけたが、ケイナがカインの腕を掴んで止めた。
「ほっとけ」
 ケイナの言葉にアシュアもカインも思わず彼の顔を見た。
「ほっとけよ。おれは別に悪いことしたって思ってない」
「何言ってんだ、ケイナ ……ぼくは…… 彼を傷つけ……」
「分かるって」
 カインの言葉を遮って、ケイナは再びそう言うと くるりと背を向けてモニターに向き直ってしまった。
「おれ、できない。大事さの加減なんて。きっと分かってくれる……」
 自分に言い聞かせるようにつぶやくケイナの言葉に、アシュアとカインはお互いの目をちらりと合わせてそして伏せた。

 セレスはくしゃみをひとつして鼻をすすった。池の面は静かだ。鏡のようにしんと静まり返っている。
 鼻をすすったのはくしゃみのせいだけではなさそうだった。気を許すと涙がこぼれそうだ。
 カインとケイナがキスをしていたのがショックだったのではなく、あのふたりを見たときに今まで感じたこともない気持ちが沸き起こったことがショックだった。
 それは怖れだった。今まで見たこともないふたりのおとなの顔。
 カインとケイナ、もちろんアシュアもずっと一緒にいたけれど、「男」とか「おとな」という意識ではあまり見ていなかったかもしれない。
 なんだか取り残されたような気分だった。怖かった。
 自分は彼らのことをなんだと思っていたんだろう。
 友人、兄、保護者…… そんなふうにしか見ていなかったかもしれない。
 対等に扱ってくれているようでいて、いつも自分を守ってくれていた。
 意識のないケイナのそばで彼の手を握りしめていたのも、半分は自分が救われたいがためだった。
 そばにいてくれる人を失うことが辛い。そのことのほうが大きかったかもしれない。
 おれはいったい…… なんなんだろう……。
 ふと、背後に気配を感じてセレスは振り返った。
 リアがびっくりしたような顔で立っていた。手に大きな袋を抱えている。
「どうしたの?」
 どうしてひとりになれないんだ……。
 セレスは顔をそらせた。
「水浴び…… したいんだけどなあ……」
 遠慮がちに言うリアの言葉にセレスはしかたなく立ち上がった。帰ろうと踵を返しかけたとき、リアが言った。
「良かったら、一緒に泳ごうよ」
「やだよ」
 セレスは即座に答えた。そんな気分になれるはずもなかった。
「じゃあ、消毒だけ…… 手伝ってくれない?」
 リアは探るような視線でセレスを見て言った。
 リアが肩に傷を負っていたことを思い出してセレスは目を細めた。
「傷…… 大丈夫なの? 水に入って……」
「もう癒着してるんだけど、水に入ったら消毒だけしときなさいってリンクが言うから…… だからそれ手伝って?」
 セレスは渋々うなずいた。
 リアはまだ肩を大きく動かせないのか、水に入ると少しだけ片手で泳いでいった。そして岸に座って待っているセレスを振り向いた。
「なにかあったの?」
 彼女の言葉にセレスはかぶりを振った。
 嘘ばっかり。そんな顔してなんにもないってことはないでしょ。
 リアは思ったが口には出さなかった。
 しばらくして戻って来たリアにセレスは袋から出していたタオルを放ってやった。
 リアは薄衣の上から素早く体をすっぽりと覆うとセレスの横に腰をおろし、袋からリンクが持たせたらしい消毒薬を取り出した。
「肩のね、ちょうど自分じゃ見えないところなの」
 リアは髪を左側に寄せると首をかしげてセレスに消毒薬を浸したガーゼを渡した。
 肩のちょうどてっぺんあたりに痛々しい長い傷がついている。確かにもうふさがってはいるようだ。
「危ない……」
 セレスはガーゼで傷を拭きながらつぶやいた。
「これ、ズレてたら、頸動脈切りそうだ……」
「うん…… そんなこと、リンクも言ってた」
 リアは答えた。セレスは手を止めた。
「どうしたの?」
 リアはセレスの顔を見た。セレスは泣き出しそうな顔をしていた。
「リアが死ななくて良かった……」
「セレス……」
 リアはびっくりした。いったいセレスはどうしちゃったんだろう。
「みんながものすごく危ないことになってて、戦ってんのに、おれ、何にも知らなくて……」
「何言ってんのよ。あんたとケイナが助けに来てくれたんじゃない」
 リアは肩までタオルを引き上げるとセレスのほうを向いた。
「あんた、なんか、変よ。どうしたの?」
「なんでもない」
 セレスはガーゼをリアに渡すと顔を背けた。リアはため息をついてしばらくセレスの顔を見つめた。
「あんたさあ、わりと自分ひとりで全部押し込めちゃうこと多いわね」
 思いがけないリアの言葉にセレスは彼女の顔を見た。リアは体をくるんだタオルで髪を拭いていた。
「ケイナとは何も話さなくても分かり合えるのかもしれないけど、ほかの人はさ、分からないわよ」
 リアは髪をこすりながら少し怒ったように言った。
 何も話さなくても分かり合える? そんなことないよ。わかんないよ。ケイナのこと。
 セレスは口をへの字に歪めた。
「子供はね、大人が聞いてあげるよって顔してあげないとちゃんと話しができないことあるのよね。それでもいつかはきちんと言うのよ。自分の言葉で。あんた子供よりタチが悪いわ」
 セレスはそれを聞いてむっとしてリアを睨みつけ、そして顔をそむけた。
「なによ、その顔。何にも言わないで人前でそういう顔見せるのって、我がままよ」
「リアに言われたかないよ!」
 思わずそう言ってしまって、はっとして口をつぐんだ。リアはちらりとセレスを見た。
「そりゃ、ま、そうかもね」
 気まずい空気が流れた。しばらくしてリアがくしゃみをした。
「風邪…… ひくよ」
 セレスは小さな声で言ったが、リアはそれには答えなかった。彼に目を向けずにリアは言った。
「セレス、ちゃんと生きなさいよ」
 リアは池の水面を見つめていた。
「あんた、ちゃんと治療してもらって、ちゃんと生きて、ケイナと結婚して子供作りなさいよ」
「子供?」
 セレスは顔を真っ赤にした。
「そ、そんなこと考えたこともないよ」
 なんでいきなり子供が出るんだ?汗がじわっと背中に浮かぶのをセレスは感じた。
 リアはパニックを起こしたような表情のセレスを見て笑った。
「子供ってかわいいよ。わたし、子供が大好き。生めるんなら、たくさん生みたいわ。子供の顔は人を幸せにするわ。みんなそうやって人を幸せにして来たのよ」
 リアの髪からしずくがひとつ草の上に落ちた。
「トリがね、時々言うの。目の前にいる命は誰も代わりができない。出会う人の代わりは誰もいない。作られたとかそうでないとか、もう関係ないの。わたしたちはいなきゃならないからいるの」
「リアは…… 女性に生まれて良かったと思う?」
 急なセレスの問いにリアはびっくりして彼の顔を見た。
「なあに? いきなり……」
 セレスは戸惑ったように目を伏せた。
「ん…… おれ、よく分からないんだ。だって、ずっと自分のこと男だと思ってたし。遺伝子にフィメールがあるからって言われても、女性になるってどういうことかよく分からないんだ」
「いいと思うこともあるし、面倒だと思うこともあるわ。そんなの男だって一緒でしょ」
 リアは答えた。
「あんたを見てると、どっちかに決めたらって思うことあるわ。見た目もどっちつかずっていうのもあるけど、頭がどうも女性っぽいところと男の子っぽいところと両方ごちゃまぜで、なんだか痛々しいわよ」
 リアは息を吐くと再び池の面に目を移した。
「なんかさ、男であることに引け目があって、でも女になるのも怖くてって…… そんな感じなんでしょ?」
 再び昼間の光景が甦ってセレスはドキリとした。引け目? 男であるっていうことの? どうして?
 また恐怖が沸き起こった。おれは何を求めてるの?
 ケイナの夢の中に入ったときもやっぱり怖かった。甘美で…… 怖い、ケイナのキス。体が震えた。
「寒い?」
 セレスの体が震えているのを見て、リアはびっくりして言った。
「あ、いや、そうじゃない」
 セレスは慌てて答えた。リアはそんなセレスをじっと見つめた。
「ケイナとなんかあったの?」
 勢いよくぶんぶんと首を振るセレスにリアは思わず吹き出した。
「こういうことは分かりやすいわねえ。 何にもなさ過ぎるからそうやって不審に陥るのかしら」
 セレスは口を引き結んでリアから顔を背けた。彼女の大人びた表情が胸に突き刺さった。
 大人びたじゃない。リアは自分よりずっとずっと年上だ。きっと自分の知らないことをたくさん知っているのかもしれない。