コミュニティに戻って来たとき、びっくりしたのはケイナがテントの外に出て座っていたことだった。
 ちょうどリアが彼にカップを手渡そうとしていて、ふたりに気づいて顔を向けた。
「起きていいのか……?」
 アシュアが近づきながら不安そうにケイナを見たあと、リアに言った。一瞬彼女が無理をさせたのではと思ったらしい。
「さっきまではベッドで座ってたの。少しずつ起きて血圧を慣らせばいいってリンクが」
 リアは答えた。
「でも、まだ、立って歩けないのよ」
 カインは背中にたくさんクッションをあてがわれたケイナに無言で近づいた。
 ケイナはゆっくりと顔をあげてカインを見た。
「おか…… えり。」
 ケイナはかすれた声で言った。カップを持つ手に力が入らず、取り落としそうになったので、リアが慌てて手を添えた。
「おかえり…… カイ…… ン……」
 ここに来て、ケイナの目が自分をはっきりと捉えたのは初めてじゃないだろうか。
「うえ…… 向くの、辛いんだ…… ごめん……」
 眩しそうに目を伏せるケイナに、カインははっとしてケイナの前に膝をついた。
「気分、どう?」
 カインの言葉にケイナは笑みを浮かべた。
「おまえの…… 顔が見れて…… サイコウ」
 カインは思わず手を伸ばすとケイナの肩を抱いた。
「おかえり…… カイン」
 ケイナはカインに抱かれながらつぶやいた。

「森の中は何も異常なかった?」
 トリの言葉に、リアが入れてくれたお茶を受け取りながらアシュアは彼に目を向けた。
「今んとこ別に。だけど、ここにいることはバレてんだからいつかはまた来ると思うよ。今度は20人や30人じゃねえかもしれないな。 ……あ、あつーっ……!」
 アシュアはカップに口をつけて思わず叫んだ。リアが慌ててアシュアの顔を見た。
「いい。気にすんな。おれが確かめないで口つけたからだ」
 泣き出しそうな顔をするリアにアシュアは言った。
 指に熱さを感じることができれば、少し飛んだしずくででも入れたお茶の熱さを知ることができただろう。リアを責めることはできない。彼女が自分でお茶をいれてくれた、ということが有り難いくらいだ。
 ケイナは早速点滴を打たれている。Rt9は効果が出るのが早い。2週間たてばもしかしたらピアスを外すことも可能かもしれないとリンクは言った。
 ただ、問題はこれまでの状態ですでに異常が出ているかどうかはやはりコミュニティにある簡易のスキャン装置では厳密には解析が無理らしかった。
 それと…… セレスだ。セレスの中の見張り役のウィルスは残ったままだ。
 カインが戻って来るなり早速データを睨んでいるが、ケイナのようにパスワードが分からない限り特定をするためには相当の時間がかかりそうだ。
「一ヶ月たったら…… 地球に戻ろう」
 トリは床を見つめて言った。
「それくらいすればケイナも体力が戻るだろう。治療の効果もあらわれるかもしれない。何にしても『コリュボス』は狭すぎる。早く地球の同胞たちと合流しよう」
「一ヶ月の間にトウが何もして来ないとは限らないぜ」
 アシュアの言葉にトリはうなずいた。
「レジー・カートが動かない限り軍も動かないから大丈夫だよ。あれからだいぶんたつのに軍が動いて来ないというのは、たぶんレジーは生きているんだろう……。彼が生きていれば、ほかの指示では軍は動かない」
「カート司令官はこっちの味方につくと思うか?」
 アシュアは少し冷めたことを確かめてカップを口に運んで言った。だいぶんこのお茶を飲んで分かってきたが、どうも疲れを取る効果があるらしい。
「さあ、それは……。でも、ぼくが直接彼に会うことも考えてるよ」
 トリの返事にアシュアは仰天した。
「直接会うって、そりゃ…… 無茶だろ」
「ケイナもたぶん同じことを考えてるよ」
 トリは言った。
「地球に行ったらあっちの司令官がいる。『コリュボス』にいる軍を味方に入れていればそれくらい心強いことはない」
 リアは口を引き結んで兄とアシュアの顔を交互に見つめている。アシュアは息を吐いた。
 どんどん話が危なっかしい方向に動いていく。
 クーデター? それともテロ? 元はなんだ。たったひとりの…… 誘惑に負けた、たったひとりの人間のやったことが…… こんなにもことを大きくしている……。 取り返しのつかない大きな過ち……。
「セレスは?」
 アシュアはカップを置いてリアを振り返った。
「休んでる。血をとったあとは少し安静にしておいたほうがいいって」
 リアは答えた。
 おれはどうすればいいだろう。……どうしようもない。できることはひとつしかない。あの3人を守ってやることだ。
 アシュアはトリの視線から逃れるように立ち上がった。

『ああ、うっとうしい……!』
 カインは頭を振った。
 毎日データを睨みつけていると、伸びた前髪が気になってしようがなかった。
 後ろの髪はもう肩に届いている。アシュアのように結んでしまいたくても、ふぞろいの髪はあちらこちらから飛び出してひとつにはまとめられなかった。
「カイン、クレスのお母さんに切ってもらったら」
 頭をがしがしこすっているカインを見て、クレスの手を引いたセレスが言った。
 輸血後少し元気がなかったが、もう今は以前と変わりがない。
 彼のいいところは、落ち込んでも迷ってもどこかで必ず立ち直ることだ。これだけ立ち直りの早い人間にカインは出会ったことがない。
「おれ、一度切ってもらったよ」
 そう言うセレスの髪はすでに肩を越している。
 長い髪は彼のもともとの線の細さも手伝ってひどく中性的な雰囲気を作っていた。少年とも少女ともつかない危うい感じだ。
 15歳という年齢はとっくに声変わりを終えていたが、男性の声にしてもセレスの声はだいぶん高い。自分のことを「おれ」と言わなければ全く知らない人間は、セレスが男なのか女なのかで迷うに違いない。慣れているカインですらも、大きな目で見上げられるとその奥に潜んだ『女性』の部分を感じてぎょっとすることがある。
「ママ、呼んでくるねー…!」
 クレスが無邪気にそう言って駆け出した。
「いや、ちょっと……!」
 カインが言ったときにはすでにクレスの姿はテントに消えていた。セレスはくすくす笑った。
「クレスのママ、上手だよ。おれ、もう伸びるの速いからほったらかしてるけど」
 カインは観念してテント脇に座り込んだ。
 夕方、テントに入って来たカインを見て、アシュアが口笛を吹いた。
「久しぶりに『カイン』を見たような気がするぜ!」
 クレスの母親はまるでカインの心を読んだように彼の髪を短く切り、赤くなってしまった髪を染め粉で元の黒い髪に戻してくれた。
 ケイナはカインの顔をちらりと見たきり何も言わなかった。
 お帰りカイン。おまえの顔が見れてサイコウ。
 そんな嬉しい言葉を口にしてくれたのが夢の中のできごとのようだ。
「明日、子供たちが森へ行くんだそうだ。ケイナのリハビリとおまえの気分転換を兼ねて午前中はふたりに護衛して欲しいってさ。トリが」
 アシュアの言葉にカインは目を細めた。
「森?」
「ときどき、子供たちにハーブの種類や森の植物の勉強をさせに連れてくみたいなんだ。午後はおれとセレスが代わるから」
「……」
 カインは訝しそうにケイナを見た。ケイナは何か本を読んでいて顔をあげない。
「おまえもちょっと休め。そのほうがいいよ」
 アシュアは言った。気乗りがしなかったが、カインはしかたなくうなずいた。