ケイナはまるで緻密に作られた人形のようだった。
 自分で動くことがなければ誰もが作り物だと思うに違いない。
 ただ、気をつけていなければ水を飲むことも食べることもしないようだった。
 セレスはしばらくケイナの状態を受け止められない様子だったが、彼なりに決心をつけたらしくできるだけ長い時間ケイナのそばにいることに専念した。
(こいつにレジー・カートから聞いた話は言えねえな……)
 アシュアは思い詰めたようなセレスの顔を見て思った。
 自分の祖先がそもそも張本人だったと聞くことにとてもセレスが堪えられるとは思えなかった。
 だが…… いつかは言わないといけないだろう……。
 アシュアはそれを思うと気が滅入った。
 セレスは毎日ケイナを外に連れ出した。
 どんなに喜怒哀楽がないといっても、ずっとテントに篭らせることはとてもできなかったからだ。
 磁場の外には出ないようにというお達しつきだったが、森の中に連れていって子供たちとハーブを摘むそばに座らせて一生懸命セレスはケイナに話しかけた。
 ケイナは何ひとつまともな答えを返すことはなかったが、セレスはそれでもいいと思った。
 夜はケイナのそばに身を縮込ませるようにして眠った。
 数日たって、リアが見かねてセレスに声をかけた。
「セレス…… あんた、疲れてるみたいよ…… ケイナの面倒見るの、私が代わるわ……」
「いいよ……」
 セレスはかぶりを振った。そばにいたアシュアが心配そうにふたりを見た。
「でも、少しゆっくり休まなきゃだめよ。長丁場になるんだし……」
「いいったら!!!」
 セレスは怒鳴った。
 そしてはっとしたような表情になり、目を伏せた。
「ごめん…… やっぱり疲れてるみたいだ……」
「可哀相に……」
 リアはセレスの肩を抱いた。
「大丈夫よ、私とアシュアで見るわ。それだったら心配ないでしょ?」
 セレスはうつむいたままうなずいた。
 本当に疲れていた。
 何の反応もないケイナと一日一緒にいることは知らず知らずのうちにセレスに緊張を強いていた。
 リアはセレスから離れると、ベッドに座っているケイナに近づいた。
「ケイナ」
 リアは手を差し出した。
「森へ行こ。アシュアも一緒よ」
 ケイナはゆっくりと冷たい目をリアに向けた。
 リアはにっこり笑った。
「行こ?」
 しかし、ケイナは立ち上がらない。いつもセレスが声をかけると立ち上がるというのに……。
「どうしたの?」
 リアは首をかしげた。
「いつも行ってるでしょ? 今日あたりきっとバジルがいっぱいとれるわ」
 ケイナはリアから目をそらせた。
「セレス……」
 彼の口から思いがけない言葉がこぼれた。リアははっとしてセレスを見た。
 セレスは呆然とし、そして顔を歪めた。涙がこぼれた。
 ケイナに走り寄ると彼を抱き締めた。声にならない嗚咽をセレスは漏らした。
 ケイナはセレスが抱きついても何の表情もあらわさない。
 リアはアシュアを見た。ケイナって、意思表示できないはずよね? 彼女の目はそう言っていた。
 アシュアはため息をついてうなずいた。
「分かった。分かったわよ……」
 リアは降参したと言わんばかりに両手を広げてセレスに言った。
「みんなで行きましょう。ね? それであんたはとにかく森の中ででも眠るの。あんたがそばにいればケイナも安心なんでしょ? それだったら一石二鳥じゃない?」
「リア!」
 セレスは今度はリアに抱きついた。リアはくすくす笑った。
「やあねえ。あんたってば、ほんと、子供みたい」
 アシュアは黙ってそれを見つめていた。
 リアは優しいやつだ……。
 おれは、どれほど人の思いに気づかずにいたのだろう。
 アシュアは目を伏せた。

「アシュア、手伝ってよね」
 大きなカゴを手にリアは鼻息も荒く森の中を歩きながらアシュアに言った。
 セレスはケイナの手を引きながらくすくす笑った。
 そんなたくさんの人数で行くなら、今日摘まなければならないハーブはきみたちで摘んでくるように、とトリがノルマの全リストをカゴとともにリアに渡したからだ。
「おれは料理用のハーブの種類なんて知らないんだけどなあ……」
アシュアは弱り切ったように頭を掻いた。
「料理用だけじゃなくて薬用もあるわよ。わたしが教えるわ。いい? これ全部摘んで帰らないとトリに叱られるからね!」
 リアは紙の束をアシュアに示した。アシュアは口を歪めてうなずいた。
 日当たりのいい草地に出たので、リアはケイナを木の根元に腰かけさせた。
 セレスもその隣に腰をおろした。
「あたしとアシュアがいるから、とにかくあんた、横になって眠るといいわ。目が覚めて元気だったらハーブ摘むのを手伝って。元気だったら、でいいから」
 セレスは素直にうなずくとケイナのそばに横になった。ものの五分もたたないうちにセレスは寝息をたてていた。
「やっぱりだいぶん疲れていたのね……」
そんなセレスを見てリアはため息をついた。ケイナはうつろな目を遠くに向けているだけだ。
「あたしたちそこいらにいるけど、あんたも時々セレスの様子見てよね。変な刺し虫が来たら退治してやんのよ」
 リアは無駄と知りつつケイナに言った。ケイナは予想どおり、かすかに首をうなずかせただけだった。
 少し躊躇したが、彼の剣の柄をそばに置いた。
「大丈夫かしら?」
 リアは少し心配そうにふたりを振り返ってアシュアに言った。
「ピアスつけてる間は剣を持って暴走することはないよ。身の危険を察知する能力だけは本能的に表に出る、とトリは言ってたけど……。セレスのためにそれが動くかどうかは分からないな」
 アシュアは答えた。
「だけど、あれだけ閉じ込められててもセレスを認知してあの子じゃなきゃだめってことは意思表示したわ」
 リアは言った。
「うん…… セレスを守りたいって気持ちだけはがっちりとあいつの体にしみこんでるんだろう……」
 リアはじっとケイナの姿を見つめた。
「行くぞ」
 アシュアはリアを促した。
「日が暮れるまでに終わらねえぞ」
 リアはうなずいて、ふたりから離れた。

 森の中は静かだった。ケイナの耳に光る赤い石が日の光を浴びて光っていた。
 ケイナはゆっくりとまばたきをし、そして自分のすぐ近くに眠るセレスに目をやった。
 そして額に垂れかかった髪をかきわけてやった。
 最初から与えられた仕事であるかのように、ケイナはセレスを守るために周囲に気を配っているように見えた。
 ふと、ケイナは森の向こう側に目を向けた。彼の手が剣の柄に伸びた。
「森にいないもの……」
 うつろな目にかすかに険しい光が宿った。
「誰……」
 しかし、気配は遠離っていった。ケイナは剣から手を離した。
 彼はゆっくりと視線をセレスに戻した。何の感情もあらわさないケイナの瞳にほんのわずか、慈しみの色が現れた。
 
 その頃、カインは大きく息を吐いて木の根元に歩み寄り、疲れ切って腰を落としていた。
 何日森の中を歩いただろう。
 アシュアと同じように訓練を積んできたカインにとって森の中で数日過ごすことはさほど苦を強いることではなかったが、病み上がりの衰えた体力ではさすがに疲労をごまかしきれなかった。
 レイからもらった薬は昨日で飲みきった。
 包帯は取ってしまったので腕に自由が戻ったのは有り難かったが、森の湿気で時々傷が痛んだ。
「磁場か……」
 カインはつぶやいた。
 ポケットからジェニファがくれた水晶を取り出してみた。
 やはり自分は受け入れてもらえないのかもしれない。この磁場の強さだとアシュアの通信機は壊れただろう。もし、壊れていなくても今は自分が連絡をとることができない。
 カインは目を閉じた。
 今さら戻るなんて厭だ……。
 いつの間にか彼はうとうとと眠り込んでいた。
「森のものでないもの……」
 ふと、声がして、はっとして目を覚ました。
 今の声はケイナだ。慌てて立ち上がったが、気配はなかった。
「夢か……?」
 カインはつぶやいた。
「森のものでないもの……」
 再び声がしたような気がした。あたりを見回したが森は静まり返っている。
「何が言いたいんだ、ケイナ……」
 カインは言った。
「ぼくのことなのか?」
 しかし答えはなかった。
 カインは再び歩き始めた。食料はもうあと2日分しかなかった。

 1時間後、ふたりのいる場所に戻ってきたアシュアとリアは仰天した。
 ケイナはセレスを抱きかかえるように顔を寄せて眠っていた。セレスも安心しきったような寝息をたてている。
「ケイナがこうしたのかしら……」
 リアは呆然として言った。
「それともセレスが?」
 アシュアはリアの言葉に分からない、というように首を振ってみせた。
「幸せそうな寝顔ねえ……」
 リアはふたりの顔を覗き込んで言った。
「あたしの入る隙なんかないはずだわ……」
 アシュアが目を細めてリアを見た。アシュアのそんな視線に気づいたのか、リアは彼を振り向くと笑った。
「ケイナは好きよ」
 リアは言った。
「だって、小さいときに姉弟みたいに育った仲なんだもの。兄さんと同じくらい大切な存在だわ」
「……」
 アシュアは無言だ。
「あたしの昔の記憶を隠したのはきっとトリだと思う。トリだって、そんなことはしたくなかったはずよ。でも、あのときのケイナはとても恐ろしくて…… 怖くて…… あの記憶を消してもらわなかったら、あたしもどうなってたか分からない。だけど、11年前っていったらトリもまだ10歳なのよ。あたしの悪夢は食べることができても完全に記憶を消すなんて無理だった。あたしはすっぽり空いてしまった記憶にケイナの愛情だけを増幅してバランスとるしかなかったんだと思うの」
 リアは身をかがめると、セレスの髪の上に落ちた落ち葉を拾ってやった。
「ケイナと手を繋いで記憶を戻す前に、あたしはそのことにはどこかで気づいてたんじゃないかしら。でも、あたしはそれに耳を塞いだの。トリとは双児よ。彼が苦悩すればあたしにも伝わるわ。あたしがケイナに執着するたんびに、トリはものすごく苦しんでた。自分の未熟さを悔やんだと思うわ」
 リアはアシュアに目を向けた。
「ごめんね、アシュア。あんたに甘えてたの。 私は剣を持ってるから『ノマド』ではみんながあたしのこと強いもんだって思ってるの。肩の荷が重かった。でも、あんたの前ではあたしはひよっこ同然で、あんたは遠慮しないであたしに言いたいこと言ってくれるし…… 突っかかってわがまま言いやすかったのよ」
 リアはケイナの顔をちらりと見た。
「あたしね、ケイナにキスしてって言ったの」
 アシュアはそれを聞いて戸惑ったように目を伏せた。
「ケイナはキスしてくれたけど、それはあたしが好きだからじゃないの。あたしがそうしろって言ったからそうしただけなの。彼の心にはあたしへの無意識の負い目があったのよ。 あのときはそれでもいつかはって…… 思ってたけど……」
 リアは片手で髪をはらった。
「でも、もういいわ。思い出しちゃったもの。彼も思い出してくれた。これから同じ時間に生きられるって言ってくれたよね。 ……もう、それでいいわ。だって、セレスはこんなにケイナのことに必死じゃない……。この子の代わりはあたしにはできないのよ……」
 リアは手に持っていたカゴを持ち替えた。
「さ、行こ。お昼までもう少し時間あるし、半分でも摘んでしまおう」
 リアは言った。
 アシュアは何かを考え込むような顔をしていた。
 リアはそんなアシュアに気づかず、彼の横をすり抜けてさっさと再び木立のほうへ歩いていった。
 アシュアは顔をあげて大きな深呼吸をした。
 そしてリアを追いかけると彼女の腕を掴んだ。リアの持っていたカゴが草の上に落ちた。
「なにすんのよ」
 カゴの中に入っていたハーブが散らばったのを見てリアはアシュアを睨みつけた。
「あの」
 アシュアはごくりと唾を飲み込んで言った。
「おれな、あいつらを守ってやらなくちゃならない。自分でそう決めたんだ。あいつらが自由を獲得したら、もうひとつ決めていることがあるんだ。おれはそのあとにさらにもうひとつ決めごとを作ることにした。あんたを必ず迎えに来るってことだ。あんたの意見なんておれは聞かないからな」
「は?」
 リアはびっくりしたようにアシュアを見た。
「待ってろ。これはおれが言い出したことだから、絶対に守る。あんたを迎えに来る」
 リアは呆然としてアシュアを見つめていたが、やがてくすくすと笑い出した。
「アシュア…… 無理することないわ。あんた、あたしのこと嫌いなんでしょう? 同情なんてしないでよ。そんなのごめんだわ」
「意見なんか聞かないと今、言ったろう。おれがそう決めたんだ。」
 アシュアはリアを睨みつけて言った。途端にリアの手が飛んできた。アシュアは首をそらせてやり過ごした。
「あんた変だわ。クレスにはお嫁さんなんかもらわないって言ってたじゃない」
「じゃあ、ひとつだけあんたの意見を聞くことにするよ」
 アシュアは言った。
「おれのことが嫌いか?」
 リアは目を見開いてアシュアを険しい目で見た。やがて怒ったようにカゴを拾うと背を向け、ずんずん歩き出した。
「嫌いなんだったら、諦める。だけど、諦めるのには相当時間がかかるからな!」
アシュアはその背に向かって怒鳴った。
「なんも言わなかったらそのまんま迎えに来るぞ!」
 足を止めて振り向いたリアの顔は真っ赤だった。怒りのためなのか、恥ずかしいからなのか、リアのいつもの泣き出しそうな表情からは判断できなかった。
 アシュアはそんな彼女の顔を見つめながら言った。
「自分で分かってた。おれには自分のことなんか考えてるゆとりがねえ。あいつら、死ぬか生きるかのぎりぎりんとこにいる。カインも命をかけて動いてる。おれだけが好き勝手なことしていいはずがない。そんなことを考えてたんだと思うよ。だけど、好きなもんは好きなんだ。あんたのことが好きなんだ。しようがねえじゃねえか……」
「アシュアは外から来たわ」
 リアは怒ったように言った。
「『ノマド』じゃないわ。外から来た人は外に出ていくのよ。あたしは『ノマド』から離れられないわ」
「おれが外とここを行き来する」
 アシュアはきっぱりと言った。
「『ノマド』が拠点なんだったらおれもそうする」
「あたしはすぐ泣くし、すぐ人に怒鳴るわ。あんたはすぐにうっとうしくなるわよ」
「ならない。そんなのこれまでずっと見てきたから知ってる」
「剣の腕だってたいしたことないわ」
「おまえのことはおれが守るんだよ。そんなもん必要ない」
「あたしは料理も作れないのよ」
「んん…… たぶん…… それはおれのほうが得意だ。ケイナにもよく食わせてた」
「あたしは…… ええと……」
 リアは視線を泳がせた。
「いつ迎えに来るっていうのよ…… 全然この先分からないじゃない。あたし、おばあさんになっちゃうわ」
「そんときゃ、おれもじじいだろ」
「そんな何年も待ってられないわよ!」
「ババアにならないうちに来るよ、絶対!」
「ババアなんて言わないでよ!」
「あ、悪い……」
 アシュアは頭を掻いた。
 リアはそんなアシュアを見つめてかぶりを振った。
「どうかしてるわ。……ああ言えばこう言う……」
「お互いさまだな」
 アシュアはリアに近づいて彼女の腕を掴むと顔を寄せた。
 再びリアの手が振り上げられたが、アシュアは顔をそらさなかった。
 リアの手がアシュアの頬の手前で止まった。
「なんで今度はよけないのよ」
 リアはいまいましそうに言った。
「おれの勝ち」
 アシュアは笑った。
「殴らねえって分かってたもん」
「あんた、最低よ」
「おれのこと、嫌いか?」
「……ううん。キライじゃない」
 リアはことんとアシュアの大きな胸に額を押し付けた。
 アシュアはリアの花の香りのする髪に顔を埋めた。
 ずっとこうしたかったんだと思う。
 毛布の中に引き入れたとき、半分眠れなかった。
 起こさないようにそっと肩を抱いてやりながら、もっと力をこめて抱き締められたらどんなにいいだろうと思った。
 セレスと比べても頑健そうなリアだったが、それでも自分が力を入れたら壊れそうだった。
 もう、気にしなくてもいいんだよな。
 そう思って力一杯抱き締めた途端、リアが叫んだ。
「いたーい!」
 アシュアは慌てた。
「す、すまん」
「アシュア」
「うん?」
「……汗臭い」
「……」
「湯あみしてる? 着替えは? クレスのママが届けてくれてるよね?」
「えーと……」
「ちゃんと体洗って着替えなさいよ! 汗臭いなんてもうっ…… さいて……」
 叫び散らす途中でリアの唇はふさがれてしまった。
 そんなふたりをケイナが遠い目をして見つめていることにアシュアもリアも気づかなかった。
 ケイナはふたりから目をそらせると、セレスの顔を見た。
「来る…… 森のものでないものが…… だれ……」
 彼はつぶやいた。