「ひ…… あっ……!」
 セレスは飛び起きた。なんだか途方もなく怖い夢を見ていたような気がする。
 そしてそのあと、自分の手がしっかり握っている先を見てさらに混乱した。トリが自分と手を繋いで突っ伏していたからだ。
「トリ?」
 セレスは戸惑いながらトリの肩を揺さぶった。
「目が覚めたか…… セレス」
 顔をあげたトリの顔はびっくりするほど青かった。
「……トリ、どうしたの? 大丈夫……? あれ…… ケイナは?」
 きょろきょろとあたりを見回すセレスを見てトリは笑った。
「大丈夫だよ。きみが助けてくれたから」
「え……?」
 セレスは再びあたりを見回した。ケイナのそばにいたはずなのに。どうして自分がベッドの上にいるんだろう?
「あの…… ケイナは?」
「もうすぐ…… 帰って来るよ」
 トリは手を放すと立ち上がった。
「帰って…… 来るって……?」
 セレスはトリを見上げた。
 ごめんよ、セレス……。
 トリは心の中でつぶやいた。

 アシュアは見慣れたコミュニティに戻って来たときほっとしたが、セレスの姿を見つけて再び緊張状態に陥った。
 ピアスをつけたあとのケイナは、リンクが言ったように手を引いてやらなければ歩くこともしなかった。
 あまりにも辛くて、途中でリアと交互に繋いだ。
 涙も出ない。
 虚空を見つめるケイナの目には何の感情もなく、癖だった髪をかきあげる仕種もぱったりなくなった。
 まるで相手の頭の深淵を見透かすかと思うほどまっすぐだった青い目は死んだように光を失っているし、形のいい口元から彼らしい相手を皮肉るような笑みも見えない。
 こんな姿はケイナだとは思えなかった。
 ずっと無言でケイナの手を引いて歩きながら、リアは時々こらえきれずに鼻をすすりあげていた。
 コミュニティに戻って、走り寄るセレスの姿を見たとき、アシュアは辛さを押し隠すことに必死だった。
「やっと目が覚めたか」
 アシュアはセレスを見下ろした。少し離れてトリとリンクがこちらを見つめている。
「ユージーの目が覚めたって聞いたんだ」
 セレスは戸惑ったような表情をしている。自分がぐうぐう眠っている間に大変なことが起こってしまったのを後悔しているのかもしれない。
 おまえは眠ってくれていて有り難かったんだよ。
 アシュアはそう思ったがそれは口には出さなかった。
「ユージーはもう森の外へ運んだ。大丈夫だよ」
 代わりに笑みを浮かべてそう答えた。
「うん」
 セレスはケイナに目をやった。
 それを見たリアが泣き出しそうな顔をそむけた。
「ケイナ」
 セレスは呼んだ。しかし、ケイナの応答はない。軽く伏せられた目はぼんやりと地面を見つめている。
「ケイナ?」
 セレスはケイナの顔を覗き込んだ。
「ケイナ、どうしたの? 気分でも悪い?」
 ふいにセレスの目が険しくなった。ケイナの顔の右側にかかった彼の髪をかきわけると、耳についた赤い点を見てみるみる怒りをあらわにした。
「なんだよ、これ!」
 セレスはアシュアを睨みつけた。
「なんで、これがついてんの!」
「おれがつけた」
 アシュアは答えた。
「つけなきゃ、危なかったんだ」
 途端にセレスはアシュアに飛びかかった。
「なんで! なんでケイナに抑制装置なんかつけるんだよ! なんでそんなことするんだよ!」
「そうしなきゃ、ケイナはどんどん死に近づくんだよ!!」
 アシュアは怒鳴り返した。
「……んだと……」
 セレスはアシュアの胸ぐらを掴んでいたが、その手を掴むアシュアの手のほうが何倍も力は強かった。
「ケイナは自分で決心したんだ! 生きるために! おまえも度胸決めろ!」
 セレスは大きな目に怒りをたぎらせながらアシュアを見ていたが、アシュアの手を振り払って再びケイナに近づくとその腕を掴んだ。
「ケイナ」
 ケイナはぼんやりとした視線をセレスに向けた。
「おれのこと分かるよね」
「セレス」
 無機質なケイナの声が響いた。
 セレスの口元が震えた。
「ケイナ、笑えよ……」
 リアがそれを聞いて不安そうにアシュアを見た。アシュアは口を引き結んでいる。
「ケイナ! 笑え!」
 セレスは叫んだ。しかし、ケイナの顔は無表情なままだ。
「ケイナに…… 喜怒哀楽はないよ。 ……できないんだ」
 アシュアの声にセレスは顔を歪めた。
 自分にすがりついたまま体を震わせるセレスを見ても、ケイナの目は虚空を見つめたままだった。

「セレスは……?」
 トリはテントの中を見回して言った。
「いつもの池のそばかなんかにいるのかもしれない。そっとしといてやってくれよ」
 アシュアは疲れ切った様子で椅子に腰かけたまま答えた。
 近くに座るリアの顔にも疲労が浮かんでいる。
 ケイナはベッドの上に足を投げ出して座ったまま、じっと虚空を見つめていた。
 まるで壊れた人形のようだ。
 アシュアが戻ってから水を飲ませたが、彼にしてはかなり咽が乾いていたはずだろうに、彼の表情にはやっとありつけた水に対する思い入れは見られなかった。
 機械的に飲み干された空のカップをアシュアは切ない思いで見つめた。
「通信機、壊したんだけど。ケイナがそうしろと言ったから」
 アシュアの言葉にトリはうなずいた。
「『ノマド』の痕跡はできるだけ残したくなかったからね…… ケイナはそのことを知っていたんだと思うよ」
「なるほどね……」
 アシュアは息を吐いた。あの状況でそんなところにまで頭が回るなんて。
「だいたいのことはリアを介して読めたんだけど……」
 トリは気づかうようにアシュアを見た。アシュアはうなずいた。
「レジーはケイナをアライドに亡命させて、あっちで治療を受けさせるつもりだったらしい。カートが敵か味方か、おれもまだ何とも言えないって思ってるんだけど、レジーが最後に言った『ホライズン』のセキュリティを突破してデータを取るっていうのは、それが一番てっとり早いんじゃないかなとは思う」
「いよいよとなったときにはそうしようと、その決心はついていたんだけど……」
 トリはつぶやいた。
「何か問題があるのか?」
 アシュアは目を細めた。
「時間の制限があってね。接触時間が長ければ長いほどこちらが知られる可能性が高い。知られる覚悟でなら相応の迎え撃つ準備がいる。だけど、こっちは戦闘力が足りないんだ。マシン類ももう少しグレードをあげないと効率が悪い。ちょっと方針を立てます」
「パスワードを言ってくれそうになったんだけど、だめだったのよ」
 リアが口を開いた。
「おまえの、って言ってたのが気になるんだよな……」
 アシュアはため息をついた。
「おまえの?」
 トリはアシュアの顔を怪訝そうに見た。
「おまえの…… ナントカ。そのナントカを言う前にレジーは撃たれた。結局そこを聞きだせなかった」
 アシュアはちらりとケイナに目をやった。
「あいつなら、分かったのかな……」
「いや…… 分かっていないと思う……。 そんな意識は感じられなかった」
 トリは答えた。
「『ホライズン』には数えきれないほどの部署があって、どこがプロジェクトを継続させているのか分からない。とにかく遺髪とふたりの遺伝子分析をして的を絞り込ませるようにしてみるよ。いよいよとなったらもう片っ端から読んでいくしかない」
 リアが兄を見た。
「兄さん……」
 トリはリアに目を向けた。
「森の中がおかしい。やっぱり静かすぎるわ」
「うん……」
 トリは眉をひそめた。
「誰かがいるんじゃない? 敵だったらまずいわ。あたしとアシュアを森に行かせて」
 アシュアはリアを見たあとトリを見上げた。
「もしかしたら、カインかもしれねえ」
「カイン?」
 リアは不思議そうな顔をしてアシュアを見た。
「ずっと行動をともにしてた。ここに来る前にはぐれたんだ」
 アシュアはそう言ったあと、目を伏せた。
「カインは…… トウの息子でリィの跡取りなんだ。あんたらは拒否するかもしれねえけど、おれはダチだから迎えに行かせてもらえると有り難いな」
 リアが気づかわしげに兄を見上げた。
「こちらの味方だという保証はある?」
 トリの言葉にアシュアは首を振った。
「カインは身を張ってケイナを守ったんだ。あいつは裏切らねえよ」
「だけど、トウ・リィの息子なんでしょう」
「本当に息子かどうか、血縁関係かどうかすら、今となっちゃ分からねえじゃねえか」
 アシュアは吐き出すように言った。
「数日様子を見させてください。きみたちも少し休んだほうがいい」
 アシュアは渋々うなずいた。