『ライン』の新入生たちの間ではしばらくスキンヘッドと赤毛の少年の喧嘩騒ぎがことあるごとに話題に昇っていたが、すぐにそんなことに関わってはいられなくなった。
 毎日があまりにも忙しすぎて、彼らは自分のやらなければならないことをこなすのがやっとだったのだ。
 部屋が向かい同士であるにも関わらずセレスとアルも数日に一度、食事の時間にダイニングルームで顔を合わせるくらいになっていた。
 もともと科が違うのだから同じ時間帯では動いていない。
 同じ科のトニのほうがアルとは顔を合わせる機会は多かっただろうし、会うと必ずふたりで一緒にいるから案外気があっているのかもしれなかった。

 そんなハードながらも規則正しい生活を送る中でセレスは気づいたことがあった。
 セレスがケイナに話しかけた日を境にジュディの自分を見る目が変化したのだ。
 もともと人を見下したような表情をする少年だったが、こちらを見る顔つきに敵意がありありと現れるようになった。
 セレスはそれを意識して無視した。それがジュディの神経をさらに逆撫でしているようだったが、彼はセレスを睨みつける以外に敵対する方法を見いだせないらしかった。
 ケイナは相変わらずマイペースの生活を続けている。セレスはあれ以来ケイナとは全く言葉を交わしていない。
 同じ部屋でもケイナはハイライン生だから部屋にいる時間は本当に限られていた。
 噂ではハイライン生の生活はセレスたちのようなロウライン生よりも自由だが、もっとハードだと聞いた。
 しつこく質問攻めにしていたジュディもケイナを捕まえられなくなっていた。
 そしてラインに入所して二ヶ月たった頃、新入生の誰もが生まれて初めてのハードなスケジュールに疲労の色を隠せなくなっていた。
 その中でも特に傍目で見ても分かるほどすさまじい疲労を顔に浮かべている新入生がいた。
 セレスの部屋からはかなり離れた53-Aのスタン・ザックだ。
「ルームリーダーが異様にぼくらをこき使うんだ。自分のブリーフまでぼくらに洗濯させるんだよ。信じられない」
 セレスと同じ訓練グループだったスタンはシャワールームで漏らした。
 同じグループにはほかにジュディとトリル・ブラウという少年がいたが、ジュディはそれを聞いても興味がないような顔でさっさとシャワールームを出ていってしまった。
「規則にはルームリーダーの世話までやかないといけないなんて項目ないよ。洗濯物だけは出せば洗って返ってくるシステムになってんだし、断わればいいじゃないか」
 トリルは憤慨して言ったが、スタンは首を振った。
「やらないと殴られるんだ。教官に言うと、もっと殴られるんだ」
「ひどいな……」
 トリルは同意を求めるようにセレスの顔を見た。
 セレスはなんと言っていいか分からなかった。
 ひどいとは思う。でも、自分にはどうしてやることもできない。
 てこでも反抗して殴られろとでも言うのか? それとも黙って耐えろと言うのか?
 しかたなく曖昧に相槌をうって、濡れた髪をタオルでごしごしこすった。
「こういうことさせるルームリーダーって、全部ユージー・カートの取り巻きだって聞いた」
 スタンは疲れきったように壁に寄り掛かり、やるせない調子で言った。
「ユージー・カート?」
 それを聞いてセレスは手をとめてつぶやいた。カートといえば、ケイナと同じ姓だった。
 トリルが不思議そうな顔をした。
「知ってるの?」
「いや…… 知らないけど……」
「誰、そのユージーって人」
 トリルが尋ねると、スタンは肩をすくめた。
「ぼくも会ったことないからよくは知らない。でも、ハイラインのほうはユージー・カートを崇拝してるグループと、彼の弟のケイナ・カートを中心としてるグループとでけっこう諍いがあるって……。ユージー・カートのグループは弟のグループとしこたま仲が悪くて巻き込まれると大変だからできるだけ関わるなって2回生の人が教えてくれた」
 スタンはそう言って、腹立たしそうにタオルを壁にたたきつけた。
「だけど、自分のルームリーダーになられたんじゃ、関わるもクソもないよ!」
「そういえば、きみの部屋のルームリーダーはケイナ・カートじゃなかったの?」
 トリルが自分に目を向けたのでセレスは渋々うなずいた。できれば話題がこちらに向くことは避けたかったがしようがない。
「そうだけど…… ケイナはブリーフを洗わせたりしないよ」
「ケイナ・カートは優秀な人だよ」
 スタンはタオルをひろいあげて言った。
「ユージー・カートなんて知らなかったけど、ぼくはケイナ・カートの名前は知ってた。3年前にトップでここに合格した人だ。それも、これまで誰も取れなかったくらいの総合得点でだ。今でもライン中で一番できる人だって言われてるんだろ。 きっとユージー・カートって人は弟のできが良すぎて妬んでるんだ。それに周りを巻き込んでるんだよ」
 セレスは黙って洗いたてのトレーニングウェアを着た。
 ケイナの兄がいるなんて知らなかった。
「ケイナ・カートは怖い人かい? そういうのは聞いたことあるけど……」
トリルの問いに、セレスは少し考えたあと答えた。
「分からない。ほとんど話をしないから…… でも自分に厳しい人だと思う」
「きみがうらやましいよ」
 スタンは失望の表情で言った。
「おれ、もうあと半年も持たないかもしれない。やってられないよ」
 そう言い残してシャワー室をあとにするスタンをセレスとトリルはセレスは黙って見送った。
 ユージー・カート…… ケイナの兄。いったいどんな人なんだろう。
 弟を憎むなんて、そんなことあるんだろうか。兄弟なのに……?

 ニ週間後、セレスはトリルからスタンが『ライン』を辞めたことを聞いた。
「ルームリーダーのバッガス・ダンが、スタンをひどく殴ったんだ」
 トリルが少し声を震わせて言った。
「前にアシュア・セスとケンカをしてたスキンヘッドだよ」
「スタンはケガをしたの?」
 セレスは眉をひそめた。あんな太い腕で殴られたらスタンなどひとたまりもないだろう。
 トリルは首を振った。
「ケガは幸いにもたいしたことはなかったらしい。確かに殴られたほっぺたは倍ほど腫れ上がったらしいんだけど…… それ以上はさすがにバッガスでも手加減したんだと思うよ。 ……でも、スタンはきっと堪忍袋の緒が切れたんだ。人一倍正義感の強いやつだったから。これまでもよくバッガスにたてついてたらしいし……」
「でも、辞めたら負けだ」
 セレスはつぶやいた。
「そうかもしれないけど……」
 トリルは目を伏せた。
「そうかもしれないけど、立ち向かってもどうしても勝てない相手もあるよ」
 セレスは首にかけていたタオルを乱暴に取ると、行き場のない怒りにとらわれてトリルから離れた。
 その背にトリルが叫んだ。
「セレス! 次のブロード教官のトレーニングは2時間後に延期だよ!」
 セレスは振り向いた。
「スタンが辞めたことが問題にでもなってんじゃないかな。会議だってさ。それともブロードの持病の腰痛かもね」
 トリルは肩をすくめてみせた。セレスはうなずいて再びトリルに背を向けた。
 いきなり空いてしまった時間にセレスは戸惑った。
 普通なら夜にしなければならない午前中の講議の復習を自室でするべきだろう。トリルとジュディはきっとそうするに違いない。
 セレスはさっきのスタンの一件のことがまだ頭に残っていたのと、部屋に戻ってジュディの顔を見ることを考えるとどうしても戻る気になれなかった。
 ダイニングの前を通り過ぎたあと、ふと思い直して再び戻ってセレスは中を覗いてみた。
 昼食の時間はとっくに過ぎていたので誰もいなかった。
 彼はダイニングに入ると窓際の端の席に座り込んだ。
 窓から下を見下ろすと、ずっと広がる高層ビルの間をトレインが走っているのが見える。この高さから見るとまるで子供のおもちゃのようだ。
 いったいこのラインの中で何が起こっているというのだろう。
 ユージー・カートという少年はいったいどんな少年なのだろう。
 ケイナの容貌からはその兄の姿を想像することはできなかった。
 ケイナが飛び抜けて優秀なハイライン生であることは いやというほど耳に入ってきたから分かっていた。
 その優秀さに誰も追いつけないほどであることも分かった。
 『ライン』の軍科に入るということは、ケイナ・カートのそばに行けること、と憧れを持っていたロウライン生もいただろう。 だが、彼の兄の話は知らない者も多かった。
 容姿端麗で非のうちどころもないほど優秀で、それだけならまだしもあの無愛想な人を寄せつけないケイナの態度を良く思わない人間がいても不思議ではないが、その先導をきっているのが彼の兄というのがどうも理解できなかった。
 自分もいずれはいやでもこんなごたごたに巻き込まれることになるのだろうか。
 うっとうしいな、と思った。
 それでもケイナのそばには早く行きたかった。
 しかし今のところケイナは相変わらず誰とも距離を保ったままだ。
 ルームリーダーの補充トレーニングの時でさえ、あくまでもリーダーと新入生という壁を厚く塗り固めていて、必要以外は声もかけてこない。
 あの痺れるほど強く掴まれた腕に伝わったケイナの手の力強さと、バッガスとアシュアのケンカのあとに言葉を交わしたことがもうはるか昔のできごとのようだ。
「なんでこんなにケイナのことばっかり考えるんだろう……」
 セレスはつぶやいた。
 そしてテーブルにつっぷした。
 日頃の疲れも手伝って、そのまま知らないうちに夢の中へひきずり込まれていった。