珈琲は苦い。苦いから嫌い。

そんなことを言ってしまえば子ども扱いされるから、私は嫌いな珈琲に口をつける。


……苦い。

私は珈琲の入ったマグカップを、そっとテーブルに置く。表情一つ変えずに。



「……それで。話って何?」



私はここへ呼び出された理由を知りたかった。

店内全面ガラス張りのカフェ。そこから見える大きな道路には、青から赤へと変わる信号と、加速してそれを通り抜ける車たち。

人通りも多くて、賑やかに見える外。太陽の日差しが降り注いでいるためか、街行く人たちの表情も明るく見える。

そんな外の世界とは違う店内。ガラス壁を通して太陽光が降り注ぐ店内には、特別明るい照明がない。オレンジ色のライトが灯っているだけ。

テーブル席がいくつか用意されているけれど、店内にいるのは私たちとカフェの店員だけだった。

静かな空間に響く音楽はゆったりしすぎて、逆に心が落ち着かない。



「突然、呼び出してごめんな」

「……謝らなくていいから」



テーブルを挟んで座る彼。白いワイシャツに朱色のネクタイがよく似合う。彼の目の前にも私と同じブレンドの珈琲の入ったマグカップが置かれている。

珈琲に映る彼のシルエットはネクタイと同じ朱色に見えた。
「こんなカフェに呼び出すの、珍しいね」



私がそう言うと、彼は静かに微笑む。



「そうだな」



彼が何を言いたいのか、私は知っている。彼のまとう空気から伝わる、悲しい匂い。

私は覚悟した。無理やり口角を上げ、目尻を細める。マグカップに添えていた手をゆっくりと膝の上に下ろす。



「……俺たち、別れよう」



ああ。やっぱり。そう言われると思ったよ。

覚悟していたけれど、やっぱり胸が痛くなる。泣き出したくなる感情を必死に抑えることに精一杯で、私は口を開くことすらできなかった。

口角を上げたまま、静かに頷く私。

……分かったよ。あなたがそう言うなら別れよう。

私の頷きを“肯定”と受け取った彼は、席を立ちカフェを出て行く。私はその後姿を見送ることもなく、目の前にある珈琲を見つめた。


テーブルに置かれたままの珈琲。彼は最後まで飲み切ることなく、ここを出て行った。

別れ話をするためにここへ呼び出したなら、カフェ代くらい置いていってくれてもいいじゃんか。呼び出したのはそっちでしょう。

マグカップ以外、なにも置かれていないテーブルが腹立たしい。それに、私を振ったあいつのことが腹立たしい。
……私は。

私は、どんな彼でも好きだったのに。

すれ違うたびに優しい笑顔を見せてくれる彼。

2人きりの時だけは砂糖のように、とびきり甘く接してくれる彼。

人前ではこの冷めきった珈琲のように、冷たい視線を向ける彼。

ああ。冷めきっていたのは私たちの関係だったのか。

そう思うと、一人で苦笑してしまう。

どんな彼でも好きだった。そう思っていたのは私だけだったのだろうか。


彼に近づこうと努力した。

髪型だって、あなたの好みの黒髪ロングヘア。

乱れることのない服装。

彼のために人並みのおしゃれやメイクもしない私。

彼の好きな珈琲を好きになろうと毎朝飲んでいたけれど、やっぱり好きになれなかった。


……努力の甲斐なし。

結果、こうして振られているわけだし。失恋しちゃったわけだし……。


悲しい。胸が痛い。これからは、今までのように彼と話すことはできないのかな……。

すれ違っても挨拶するだけ。そんな関係に戻ってしまうのかな。

……嫌だ、な。でも、忘れなきゃ。


そう思って、最後の珈琲を飲み干そうとしたその瞬間。


ガシャンッ!

爆音のような大きな音が店の外から聞こえた。

マグカップを持ったまま、ガラス壁の外を見る。
「えっ!」



そこには電柱にぶつかって大破している車と、その近くに慌てて集まっていく人の姿。

思わず私は店から飛び出していた。



「ちょっと、お客さん! 代金……っ!」



店員さんの声が聞こえた気がするけど、私はかまわず人だかりのある場所へと走る。

さっき一瞬だけ見えた。人だかりが見える前に、道路に倒れていた人影。その人は、朱色のネクタイをつけていた……。



「誰か救急車を呼べ! 人が車に跳ねられたぞっ!」



私は人だかりをかき分けるように中へ入っていく。



「ちょっと……。どいて! 通してくださいっ!」



人をかき分けたその先には、先ほどまで目の前にいた彼が血を流して倒れていた。

徐々に朱色に染まっていく白いシャツ。ネクタイも血の色に染まっていく。

思わず彼に走り寄る。崩れ落ちるようにしゃがむ私は、彼の手を握ることしか出来ない。

微かに温かい手をぎゅっと握りしめる。



「お嬢ちゃん! 知り合いか……っ⁉」



見知らぬ男性に話しかけられて、私は首を縦に振る。



「今、救急車呼んだからな……っ」



私は一刻も早く救急車が来てくれることを祈った。


死なないで……っ。

お願いだから、このまま死なないで……っ。

早く。お願いだから、早く彼を助けて……っ!


私は祈るように彼の手を握りしめる。
「お願いだから……っ」



助けて……。


そう祈っていると、彼の目が微かに開いた。



「あ、や……」



ゆっくりと動かされた唇から、絞り出すように出てきたのは私の名前。

なんで、今なの……。

なんで、今、私の名前なんか呼ぶの……っ。

今まで呼んでくれなかったじゃん……っ。



「ごめ、ん、な……」

「なにも喋らなくていいから! すぐ救急車来てくれるから!」

「……だいすき、だよ」



それが最後の言葉だった。

彼の最後の言葉だった。
救急車に運ばれていった彼は、あれから目を覚ますことはなかった。

話によると、事故か自殺か分からないそうだ。

私は高校の制服を身にまとい、廊下を歩く。

今の私の目はきっと、死んだ魚の目。



「ねえ、あの子だよ。亡くなった先生と付き合っていた、っていう……」

「付き合ってた噂、本当なの?」

「先生が車に跳ねられた時、一緒に居たんだって」



そんな他の生徒の声なんて私の心には届かない。

私の心は空っぽで、何も感じない。


私は無意識に屋上へ向かう。

屋上から見える空はあの日と同じ、憎いくらい明るい空だった。

私は屋上のフェンスを掴み、ひたすら涙をこぼした。



「先生——……っ」



Fin,

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