二月。
 降谷くんが学校に来なくなってから、二ヶ月ほどたった。そして今日は、冬休み明けの登校日。

 そして。

 私の中からとうとう、降谷くんとのあの景色が少しずつ色褪せ始めている頃だった。思い出せない、あの景色の色が。感覚が。
 もう、どうやっても思い出せなかった。

 ___今日は来るはず。

 と、謎の自信を持ちながら教室の扉を開ける。だって、もう冬休みも明けたのだから。



___静かだった。



 いつもの騒がしいクラスメイトの声を聞くよりも先に私の耳を包むようにして聞こえたのは。
 シン……と、まるで防音室に入ったかのような静寂の音。
 空気が重力に乗っかったように重く、そして、自分の体に沈んでいくような。

 そして、すでに登校を終えた生徒の表情は見えない。
 席についてじっとしている人もいれば、一箇所に集まっている人、誰かをなぐさめるようにして友達の背中をさすっている人。
 全員が下を向いていて、どんな表情をしているのかすらわからなかった。

「っ……なぁ、委員長。……降谷、どこいるか教えてくんねぇ……?」
「……え……?」

 降谷くんと仲の良かった松村くんが、眉を八の字に下げて私を見た。その表情は、泣きそうに歪んでいて。
 取り巻きにいる男子たちも、同じだった。

 そこで、はたと気づいた。

 松村くんを始めとした、降谷くんと仲の良かった人たちがどこに集まっているのか。

 ___降谷くんの席"だった"場所。

 人数の関係で、降谷くんだけ最後列から飛び出るようにして、一番後ろをキープしていた降谷くんの席。そこにはもう、"席"と呼べる場所はなかった。机も、椅子も。

 そして、黒板に貼っているクラス全員の名札マグネットも降谷くんのものだけ。

 ロッカーの中も、降谷くんのものだけ。

 全てが、抜けの殻だったから___。

「メールだって……ろくに帰ってこねーんだよ……」

 その言葉を聞くこともなく、私は走り出していた。教室を出て、校門を出て。
 乱れていく髪も制服も、今はどうでもよかった。
 ただ早く、降谷くんのもとへ行かなければ、もう二度と会えない。___そんな気がしたから。
 そんな考えばかりが、私の体を突き動かした。

 なんで……?
 なんでこうなるの……!?

 激しい息切れを繰り返しながら、ろくに回らない頭で必死に考える。

 ___降谷くんが……いなくなっちゃうの?会えなくなるの……?
 嫌だ、絶対に嫌だ。
 
 そんな中たどり着いたのは、いつしかプリントを届けに行った降谷くんの家。

「はぁっ……はぁっ……」

 今まで走った分のエネルギーを補給しようと、必死に酸素を取り込もうと荒い呼吸を繰り返す。さらに自分の体がなまりのように重くなるけれど、そんなものは無視をする。
 そして、震える手で呼び鈴を押した。

 大丈夫、大丈夫。
 きっと降谷くんはいる。

 だって表札に、はっきりと「降谷」って苗字が書いてあるもの。
 
 それでも震えは止まらない。
 なんでかな。
 今にも、満面の笑みで玄関から飛び出して来てくれそうなのに。
 朝からサボりか!なんて言って頭をぐちゃぐちゃに撫でてくれそうなのに。

 呼び鈴を鳴らして数十秒。___誰も出てくる気配はなかった。

 なんで……?
 心拍が急激に早くなるのを感じる。
 冷たい風が、逆撫でするように私の冷や汗を増やしていく。
 どうしよもなく息が苦しくなって「降谷くん……!」とその場で叫ぶ。


___出て来てくれるはずなんてないのに。


 いつのまにか熱くなっていた体の芯が、無機質で冷たい風に冷やされていく。

 ここにいないなら、降谷くんがいそうな場所を片っ端から……!

 再び走り出そうとした時だった。

 降谷くんの家の玄関が、控えめな音を立てて開いたのは___。

「え……?」

 振り返る___けど。
 玄関から出て来たのは、四十代くらいの女性。
 少し切長の大きな目には見覚えがあった。

 ___降谷くんの、お母さんだ。

 女性は私の着ている制服を見ると、少しびっくりしたような表情を浮かべた。

「……何か用かしら……?」

 少しやつれているようにも感じた。


***


「詩織さん……だったかしら」
「はい。降谷くんのクラスメイトです」

 降谷くんのお母さんは、私の前に、温かいお茶を淹れたカップを置くと、机を挟んだ向かいに座った。

「そう。……どうして、ここへ?」

 嘘、きっと降谷くんのお母さんは私がここに来た理由をわかってる。
 でも、わざわざ聞いてくるということは、あまり知られたくないことなのだろう。

「降谷くんが……どうして学校へ来なくなったのかを聞きに来ました」

 とても失礼極まりない質問をしているとは承知の上だ。亡くなった人のご遺族の方に「なんで亡くなったんですか?」と聞いているようなものなのだから。けれど、これを聞かずに大人しく学校に戻ります、なんてできるわけがない。
 降谷くんのお母さんは、少し困ったような顔をすると、黙って首を横に振った。

「ごめんなさい。私が他の人に言っていいことではないの」

 ただうつむいて、悲しそうに瞳を揺らすばかり。

「っ、でも……降谷くんが学校に来てくれないとみんな元気がなくて……!もしも降谷くんが今辛い思いをしているならっ……」

 必死にすがりつくように降谷くんのお母さんの瞳を見つめる。

「今度は私が助けたいんです」

 降谷くんは、私に大きな世界を見せてくれた。息苦しい生活から救ってくれた。
 だから今度は絶対に。降谷くんが辛い時は、私が助けたいと思ったから。


 それ以降、無言で頭を下げ続けた。体勢がキツくなろうが、足が痺れてこようが、降谷くんのことを思えばそんなもの、どうだってよかった。降谷くんに会いたい、その一心で。
 もしかしたら、引きこもってしまっているのかもしれない。突然海外に留学することになったのかもしれない。もしかしたら___。
 今の降谷くんを知らない私にとって、どんなパターンでもおかしくないと思った。

 ___でも。

 あの降谷くんが。
 ずっと教室でみんなと笑い合って、大騒ぎして。何よりも大事にしている「人」に、仲間に。

 あんな表情、させたいわけがないから。

 脳裏に焼きついたままの、松村くんや他の男子の苦しそうに歪んだ表情。降谷くんがそんな姿を見たら、きっと飛んできて「バカやろ、なーに泣いてんだ」なんて言って、いつもみたいに笑顔でみんなの頭をぐしゃぐしゃに撫でていくだろう。

 それと共に、降谷くんが時折見せる寂しそうな表情。
 あの表情は、決まって楽しいことをした後だった。

 そのたびに思ってしまう。
 降谷くんは、はかりしれない何かを背負っているんじゃないかって。
 もしかしたら、もうみんなに会えなくなる___ということを悟っていたのだろうか。



「玲弥のこと、大切に思ってくださっているのね」

 頭を下げ続けて、何分経ったのだろうか。私には、何十分間もの時間に思えた。

 降谷くんのお母さんは、目に涙をうっすらと溜めて、優しく微笑んだ。その微笑んだ時にできるえくぼが、降谷くんにそっくりだ。

「……詩織さん、ここへ行きなさい」

 降谷くんのお母さんは、どこからか紙とペンを持って来たかと思うと、何かを記した紙を私に手渡した。

「これって……」
「あの子があなたを待っている場所。……ちゃんと、玲弥から話を聞いてきてね」

 さあ、行って来なさい。と、優しく背中を押される。

「っ……ありがとうございました……!」

 私は、唇を強く噛むと、かばんなんてものの存在は忘れ、降谷くんの家から飛び出した。
 
 そして、家から出る際に、降谷くんのお母さんから言われた言葉。

「玲弥のこと、大切にしてくれてありがとう。……きっと大丈夫だから」

 降谷くんは他人を大事にするばっかり……っ!人に向ける思いは優しいくせに、自分に向けられた思いには鈍感で、無頓着で。
 困らせてくれる。

 それでも憎めないのは、やはり降谷くんが私たちを大切にしてくれるから。

 待ってて、降谷くん。

 今度は私が、君を大切にしたいの___。


***


「降谷くん!」

 真っ白な扉を、勢いよく開ける。それとともに、消毒液独特の匂いが鼻をツンと刺激した。

 そして、ベッドに力なく横たわっていたのは___。

やはり、降谷くんだった。

 寝ているのだろうか、いつも笑った時にほそめられる目はかたく閉じられていた。
 できるだけ起こさないように、静かに降谷くんに近づく。数えきれないほどの管に繋がれた彼の姿から思わず目を背けた。

『清輝橋総合病院 F5 503号室』

 降谷くんのお母さんから受け取った小さなメモ用紙に、そう書かれていた。
“病院”という文字を見たときにほとんど悟ってしまったのだ。
 
 そして、朝日の当たる真っ白な個室に、彼はいた。病院服を着て、少し痩せている降谷くんが。

「っ、こんな辛い思い……一人で……?」

 見るだけでも痛いほどに伝わってくる。
 何度も点滴をしたのであろう手首の跡。数ヶ月前まではなかったはずの、大きな隈。
 降谷くんだって、ちゃんと寝れていないじゃない、人のことばっかり……。
 何も彼の変化に気づくことができなかった自分に嫌気がさしてつよく拳を作る。

「なんで私に言ってくれなかったの……っ?なんで……頼ってくれなかったの……!」

 涙が止まらない。大粒のガラス玉は、彼の眠るシートにしみを作っていってしまう。

 降谷くんの手を握り込む。
 ___あたたかかった。
 降谷くんが死んでしまうんじゃないかって、ずっと思ってしまう。もう、目を開けないんじゃないかって。
 でも、手があたたかいことが、まるで私の不安をやわらげるようで。
 眠っていて言葉を交わせない代わりに、あたたかさで私を安心させるような、そんなあたたかさだった。

 暖房の効いた病室にうとうとしながらも、しばらく降谷くんの手を握り続けていると、かすかに___でも、しっかりと握り返される感覚があった。

 びっくりして顔を上げる。

「詩織……?」
「っ!……降谷、くん……」

 ダメだ、降谷くんの前で涙を見せたら。今一番辛いのは降谷くんのはずなのに。

 急いで拭おうとするけれど、すでに降谷くんの目は、私を捉えていた。その視線が、頬に流れる涙に向けられている気がして。

「詩織……また泣いてる」

 弱々しい力で、私の涙を拭う降谷くん。
 数ヶ月前と何も変わらない優しい笑顔を作った。

「また会えたな……」

 心拍が上がっていくのを感じた。
「っ、当たり前でしょ。だって___」

 委員長なんだから、なんてセリフはもうやめた。降谷くんが全部吸収してくれたから。

「降谷くんに会いたかったんだから」

 私も、笑顔を彼に返す。
 すると降谷くんは、少しびっくりしたような表情を浮かべて、かすかに口角をあげた。

「俺の前で笑うのは初めてだな」

 ドキリと心臓が音を立てる。……確かに、彼の前ではあまり笑っていなかったかもしれない。怒ったり、泣いたり。___私、降谷くんの前でだけ情緒がおかしくなっているのではないかというくらい、笑うこと以外の表情を見せていた気がする。

「詩織の表情辞典、完成だ」
「ばか、どんな辞典作ってるのよ」

 でも、今の笑顔は本当に自然だった。きっと、降谷くんのいつもの笑顔が私を笑顔にしたんだ。でも、今日降谷くんに会いに来たのは笑顔を作るためじゃない。

「降谷くん」
「……ん?」

 降谷くんは、これから何を聞かれるのかわかっているのだろう。上体を起こすと、静かに私から視線を逸らして、前を向いた。

「降谷くんの話、聞かせて……?」
「……」
「私は降谷くんがどんなものを抱えてるのかはわかんない。……でも、ずっと一人で戦わせて、ごめんね」
「え……?」
「ほんとは知ってたの。……楽しい時に限って、辛そうで、寂しそうな表情してること」

 文化祭の時だって、一緒にサボった時だって。

「だから、本当のこと。今降谷くんの抱えてるもの、全部教えて欲しい」

 ___目が合った。
 降谷くんの見開かれた瞳と。
 私の瞳が視線となって絡み合う。

 降谷くんは、一瞬だけ目を逸らしたかと思うと、再び私を見つめた。

「……俺、病気しててさ」
「っ、うん」
「うまく心臓が機能してなくて」

 降谷くんの口から出た言葉は、私の想像をはるかに超えるものだった。覚悟をしていなかったわけではない。……けれど、いざとなって彼の口からものを聞いてしまうと、かなりのダメージだった。

 降谷くん、死んじゃうの……?
 いやだ、これ以上聞きたくない。聞かなければよかった。

 自分から「話してほしい」なんて言っておいて、結局はわがままな自分の感情が、私を支配した。聞きたくなくて、両手で耳を塞ぐ。「もうすぐで死ぬから」って言われてしまったら、私……。

 降谷くんは、焦るように何かを言っているけど、耳を塞いだまま黙って首を横に振る。
 もう死んじゃう、なんて絶対に言わないで……っ!

 言わないで、この先は。
 私が聞いていいことではないから___。

 そう言おうとしたのに。
 降谷くんは、私の手を優しく掴んで、耳から離した。

「……俺は死なない」
「え…… ?」

 再び涙を拭ってくれる降谷くんの言葉には、全然説得力がなかった。

___降谷くんだって、辛そうな表情をしていたから。

「でも、詩織と一緒に卒業するのはできない」
「え……?」

 降谷くんは悲しそうに笑った。

「俺の場合、すごい稀なケースらしくてさ。手術はするんだけど___」

 頭が追いつかない。理解が追いつかない。

「成功するかもわからないし、仮に成功してもいつ目覚めるかわからないから」

 頭の中が真っ白になっていく___。
 それって……降谷くんともう会えなくなるかもしれないってこと……?
 この声が聞けるのも……?

「詩織、大丈夫。俺、死なないから」
 な?と言って私の頭を撫でてくれた。

「でも___」
「この前、俺が詩織に言ったこと、覚えてる?」
「え?」
 降谷くんは、少し考える動作をしたあと、あれあれ、と言ってジェスチャーをしてみせた。
「詩織が「俺の景色」って言ってたけど、それは詩織が頑張ったからだよ」

 あぁ、一緒にサボった時のことだ。
 あの時、「降谷くんはすごいなぁ。……私が見れない景色、いつも見てるんだもんね」なんてことを呟いた気がする。

「詩織が必死に自分を好きになろうとしたからだよ、変わろうって思ったから。……あんな景色が見えたんだ」

 「もう詩織にも見えてるよ」って、降谷くん、言ってくれたっけ。
 そして、降谷くんが休んでいた間渡しに景色が見えなかったのは、自分の無力さに嫌気がさしていたから。そんなものじゃ、見れるわけがないもの。

「だから、俺がすごいわけじゃない。……いつもどこかつまんなそうな詩織の日常をぶっ壊しただけだよ、俺は」

 おちゃらけるように笑う降谷くんは、誰が病気だと想像するだろう。この笑顔の裏に何かがあると、誰が想像するだろう。

「……手術、いつ、なの……?」

 本当は、聞くのがすごく怖かった。聞いてしまえば、それまでの時間が降谷くんとのタイムリミットのように感じてしまうから。
___でも、ちゃんと向き合わなきゃ。

 降谷くんは、顔色ひとつ変えずに、サラッと口にした。

「三日後」
「っ……そっか」
「そんな泣きそうな顔するなよ、俺まで泣けてくるだろ?」

 冗談っぽく言っている降谷くんだけど、本当は計り知れない恐怖を抱えている。
 瞳がずっと揺れている。
 
 降谷くんだって怖いんだ。変えられない運命が。最初から決まっているのに、その時にならないとわからない運命が。自分が。
 きっと怖いのだろう。

 だから言わない。
 喉まで出かかった二文字を私は言えない。

「……降谷くんだって……っ」
「ん?」
「なんで笑うの……!ほんとは辛いくせにっ……泣きたいくせに……っ!」

 握りしめた行き場のない拳。

「人のことばっかり……っ、」
 今日一日で、何度泣いたことか。
 泣き腫らした目が、再び涙で覆われていく。

「辛いなら辛いって!泣きたいなら泣いてよ!……私たちの前でだけ……カッコつけないでよ……」
「……っ」

 降谷くんの表情は、溢れる涙でよくわからなかった。

 でも、それを確認するよりも先に、視界がさえぎられたから。
ぐっと頭を寄せられて、降谷くんの胸の中におさまる。一瞬だけ手に当たったあたたかい何かが、この一粒の涙が降谷くんの全ての感情なんだと悟った。

 「……詩織がそんなこと言うからなんか俺まで泣けてくんじゃん、どうしてくれんの」

 なんて困ったふうに言っているけど、その声色からは「恐怖」が混じったように震えていて。

「っあー……怖いなぁ、ほんとに」

 降谷くんの腕の中はあたたかかった。時々聞こえる降谷くんの心臓の音。
 生きてるんだ、と実感できた。

「ずっと詩織の前ではカッコつけていたかったけど、無理みたいだ」
「なにそれ」

 後頭部に回された降谷くんの大きな手がゆっくりと私の頭を撫でる。

「まだ死にたくないよ、俺だって。……やんなきゃいけないことすっげーあるもん」
「手術が終わったら私が全部叶えるから」
「ははっ、カッコいいな、俺の委員長は」
「やらなきゃいけないことって、例えば何?」
「……内緒、起きたらまた話すよ」

 それだけ言うと降谷くんは、「眠くなってきた」とだけ言って、私にもたれかかった。

 ___静かに眠りの世界へ落ちた。

 頭を撫でてくれていた手も、背中に回されていた腕も。全てが力尽きたように垂れ下がる。

「っ……降谷くん……。私も、まだ降谷くんに言いたいこといっぱいあるから」

だから。
絶対に。

 降谷くんのやらなきゃいけないこと、聞かせてね……?

 ゆっくりと寝かせた降谷くんの頬には、いくつもの涙の跡があった___。



 それから降谷くんは、手術の日まで目を覚ますことはなかった。