「詩織ちゃん、これどうする?」
「あぁ、これはあっちに」
「詩織ー!これできない!」
「私がやっておくよ」
文化祭の準備中。
クラスは、もうすっかり文化祭ムードのテンションだ。
そんな中、クラスに一人は絶対的に必要な重要人物となる、テキパキと準備を進めてくれる役割。特に学級委員長、それが私。
さっきから、「あれがわからない」だの、「これやって」だの。
雑用を任せれば頼りになるような私は、ひっぱりだこの状態であった。
しょうがないか、一週間後に迫っている文化祭が終わるまでの辛抱なのだから。そして、私は学級委員長である限り、このようなことは日常茶飯事だと思っていなければならない。
誰にも聞こえないようにため息をつくと、私は黙々と作業を続けた。
***
《完全下校時刻となりました。校内に残っているみなさんは、速やかに下校をしてください___》
毎日の放課後十九時に流れる、下校を促す放送部による校内放送で、ハッと我にかえった。そこで初めて、自分がどれだけ集中していたのかを思い知らせる。
外を見れば、案の定真っ暗。
時間の進みなんて、全く気にしていなかった。
私は、なんとか仕上げたクラス看板を踏まないよう、空いたスペースに座り込む。
長時間しゃがみながら創作していたせいか、腰が痛んだ。
「誰もいない教室……。なんだか新鮮ね」
「俺もいるんだけどね」
一人でポツリと呟いたはずだった。誰もいないと思ってこぼした声だったはずなのに。
まさか人がいたなんて。
慌てて起き上がって、声の主の方を確認する。
「……あぁ、降谷くんか」
「なにその残念そうな声。どーも、降谷くんです」
リュックを机に置いたまま自身の席に座っていたクラスメイト___降谷玲弥。
クラスの中では中心的な人物で、男女問わず人気がある。いつもみんなで騒いでおちゃらけているイメージが私の頭の中に映し出された。
「どうして帰ってないの。もう下校時刻なんですけど」
「失礼だなぁ。委員長のこと待ってたんだけど?」
てか、俺の名前知ってんだね。なんて言いながら、よいしょと椅子から立ち上がる彼。
「委員長だからね」
彼の名前を知っている理由、そんなもの、委員長だから意外にない。
軽く受け流して絵の具の片付けをし出すと、降谷くんは、長めの明るい茶髪を揺らしてかすかに笑った。
「委員長はすごいなぁ。自分の仕事じゃないことまでやってさ」
「……委員長だからね」
少し試すようなものいいにイラッとしながらも片付けを進める。
あまり今まで接点はなかったはずなのに、馴れ馴れしく……いや、フレンドリーに話しかけてくる降谷くんの方がすごいとは思う。
___が、口には出さないでおいた。
それでも私には、程遠い存在だから。
「あ、そーだ。これあげる、おつかれさま」
そう言って降谷くんが私に軽く投げたものは、学校内の自販機にあるカフェオレ。
まだ温かくて、まだ買ってまもないことがわかる。
「ありがとう」
片付けをしている時も。帰り支度をしている時も。降谷くんは、じっと座って私を見つめていた。
「___ねぇ、なんで待ってるの?」
降谷くんの視線に耐えきれずそう聞いても、曖昧に受け流されるだけ。
「俺が待ちたかったから」
答えになっていないじゃない。そんなことを思いながらも戸締りをして、降谷くんと一緒に教室を出た。
少し肌寒くなってきた季節。
私は、さっき降谷くんがくれた温かいカフェオレから熱を分けてもらおうと手で包み込む。
……そっか、私と降谷くん、たしか中学校が一緒だったっけ。一度も同じクラスになったことはなかったけれど。
帰る方向が一緒なことにも納得しながら歩いていると、不意に、隣にいたはずの降谷くんの足音が消えた。
「……?降谷くん、帰らないの?」
「え……?あ、ごめん!ちょっと立ちくらみしただけ」
「ほら、寒い中私のことなんか待ってるからじゃない」
私は、握り込んでいて少しだけぬるくったけれど、まだ熱を持っているカフェオレを彼の手に握らせた。
「せっかくのプレゼント嬉しいけど、今日は降谷くんが持って帰りなよ。……風邪ひかれたら困るのよ」
これだとなんだか私が降谷くんに風邪を引かれたら嫌だと言っているのと一緒じゃない。慌てて、"文化祭前なんだから"と付け加えた。
「委員長はツンデレだなー!俺のこと心配してくれたんでしょ!」
「……違う」
ニコニコしている降谷くんを置いて、再び歩き出す。
「___降谷くんは、どうしてみんなと仲良くするの?」
「え……?」
前を向いたまま、横を歩く降谷くんに静かに尋ねる。ただ少し気まずい沈黙を破りたかっただけ。もう少し気の利いた質問のチョイスはなかったのだろうか、と私を心の中で一喝した。
それでも、一度言った言葉を取り消すというのも感じが悪い気がしたので、そのまま続けてみることにする。
「苦手な人、一人や二人いるじゃない。でも降谷くんは誰にでも笑顔を向けて、優しくできるでしょ」
誰にでも平等に接して、誰にでも笑顔を向けられる。そんな降谷くんを教室でいつも見てきた。
学校では教えられるだろう。『誰にでも平等に接する』などと。でも、現実はそのような良心しかないような人間などいないも同然なのだ。
それなのに、降谷くんはいつも___。
「そんなのわかんないよ」
でも、降谷くんは、少し考えるような動作をしたあと、あっけらかんと言い放った。
「え……?」
「だってさ、人が人と関われるなんて、そんな時間割と少ないよ?」
まるで、「できることはやらなくちゃ」そんな言い方。
「俺は人と関わることが好きだよ」
そう言う彼の横顔は、どこか切なげだった。
いや___気のせいか。
「その委員長が思う苦手な人って、例えば誰?」
少し意地悪く笑った降谷くんは、私に質問を振った。
嫌いな……人……。
「誰にでもいい顔する人」
「ははっ、それ、俺のこと言ってるでしょ」
なんでこんなこと、彼の前で言ってしまうのだろうか。失礼極まりない言動をしたことに、自分自身も驚いていた。
「でもさ、俺のことが苦手なのに。どうして俺がみんなにいい顔してるとか、笑顔でいるとかわかんの?」
……なんでかな。
私が立ち止まると、降谷くんも立ち止まった。
「そうやって、クラスメイト全員のことちゃんと見てる委員長、すごいんだってこと、俺は知ってるよ」
ドキッと心臓が音を立てた。胸が、ぎゅっと縮んだような、そんな感覚。
「だから俺は、委員長のこと苦手なんかじゃない」
じゃ、俺こっちだから。そう言って、ひらりと手を振る彼は、私に背を向けた。
……なんで。嫌なことを言ったのに、どうして苦手じゃないなんて、真っ直ぐな笑顔で言うことができるの?
この時、私の心臓が激しく音を立てていたこと。顔に熱が集中していたことにも、気づくよしもなかった___。
***
文化祭前日。
「やばっ、これまだできてない。詩織!」
「委員長!」
クラスは少しずつ、焦りと不安が入り混じった空気になってきた。それもそうだろう、今の今まで、ダラダラと準備を進めてきていたのだから。
みんなが頑張って準備をしてくれていたことはじゅうぶんわかっているのに。どこかイライラしている自分がいた。
「全部やっておくね」
「え、でも___」
「いいから。ほら、友達が呼んでるよ」
そう言って、オロオロしている女子の背中をポンと押した。
……これ、本当に終わるのかな。
私たちのクラスの出し物は、お化け屋敷。スタンバイの位置や、お化けの衣装、内装。
まだまだ準備しなければいけないものだったり、全員で決めないといけないものがたくさんあるのに。
___間に合わない。
また全部、私がやらなきゃ。
急ぎ足で、大きな段ボールを職員室まで運んでいると、不意に、腕が軽くなった。
「降谷くん」
「どーも、降谷くんです」
ただ名前を呼んだだけなのに、少し嬉しそうに笑う降谷くん。
「手伝うよ。重いでしょ」
「ありがとう。でもなるべく早くお願い」
「承知しました」
ピシッと敬礼のポーズをとる彼。今の私には、降谷くんがどうしてそんなにも余裕そうな表情ができるのか不思議で仕方がなかった。
「じゃあ私は先に教室___」
「待って」
やらなきゃいけないことがあるのに。
小走りで教室へ戻ろうとすると、降谷くんに呼び止められた。
「……今じゃなきゃダメなの?」
なんで今なのか、という苛立ちの混じった疑問が頭の中に思い浮かぶ。
「ダメだよ、今じゃなきゃ」
「何?」
「……」
「……」
私は、黙って降谷くんの隣を歩き、彼が発する言葉を待つ。
でも、いつになっても降谷くんは口を閉じたままで。
何も言わないじゃない。こんなことをしている暇があるなら、一刻も早く準備を進めなければ。
「何もないなら私___」
「なんでそんなに焦ってるの?」
まるで、私がそう言うのを待っていた。とでも言うように、降谷くんの声が私の言葉を遮った。
「わざわざ聞かないで。間に合わないから、私が早く戻って準備をしなきゃいけないの」
なんでこんなことを聞いてくるのか、わかってるくせに。さらにイラついて、つい口調が強く、大きくなってしまう。
私の中に隠されていた"焦り"が丸見えになっていく___。
「……ふーん」
降谷くんは、重い段ボールを廊下の端に置いた。
何をしているの、それは職員室に届けなきゃいけないものなのに。
「ほら、早く___」
「委員長だから、自分がやんなきゃいけない?」
「え……?」
まっすぐで、透き通った降谷くんの瞳が私をしっかりと捉えた。そして、私が思っていたことを開口一番に言い当てられたことに、少し驚く。
「詩織、何も分かってないよ」
「……は……?」
初めて降谷くんに下の名前で呼ばれた。しかも呼び捨てで。
そんなことを考えている余裕はなくて。降谷くんの言っている言葉の意味が理解できなかった。
「自分がやらなきゃ、じゃないよ。焦る必要もない」
「……何が言いたいの?」
降谷くんのこんな真剣な表情、初めて見た。教室にいても、部活をしている時を見た時も。
いつだって私が見ていた降谷くんは、笑顔の絶えない人物。
でも、今は違う。まるで別人のように。
「だから、委員長だからって考え捨てろよってことだよ」
「なんっ___」
「俺たちをもっと頼ってってこと」
真剣だった降谷くんの顔が、一気に優しげな表情に変わる。
「全部詩織がすることなんてない。俺たちだって、ちゃんと頑張ってる詩織のこと知らないわけじゃないんだよ」
軽くデコピンをくらう。
「……知ってても知らなくても今は急がなくちゃいけないの」
そんな降谷くんの言葉になんてなびかないから、と睨むけれど、降谷くんはへらっと笑ってどこかに電話をかけ始めた。
「今、教室ん中どうなってるか知ってる?」
いたずらっ子のように笑った降谷くんに、誰かとのビデオ通話の画面を見せられる。
息を呑んだ。
《委員長が帰ってくるまでにこれだけは終わらせておこう!》
《委員長びっくりさせようぜ!》
クラスメイトが真剣な表情をして、作業を進めていた。
全然できていなかった教室の飾り付けもすごいスピードで終わらせていくクラスメイト。
《あ、委員長。今玲弥と一緒にいる?委員長は今日くらいゆっくり休んで!じゃ!》
それだけ言うと、ビデオ通話は切られてしまう。
一瞬だけ映った、クラスメイトの男子、松野くん。降谷くんといつも一緒にいる人だった。
「ほらね、みんな詩織が頑張ってるの見てるでしょ」
降谷くんは、私の頭をポンポンと優しく撫でた。
「っ、別にがんばってなんか___」
「目の下。……隈、できてる」
ね、頑張ってるでしょ。と微笑む彼に___いや、私の感情に逆らえなかった。
「ほら、一人で全部抱えるからすぐ苦しくなるだろ」
いつのまにか、ポロポロと両目からこぼれていた大粒の涙。
「っ、なんで……っ」
「大丈夫、大丈夫」
西日が差し込む誰もいない廊下。
降谷くんは、私の肩を優しく抱き寄せて、自分にもたれかからせた。
「ちょっと自分がわかんなくなっただけ。そんな時なんて、人間山ほどあるんだからね」
それ以降、何も言わずに優しい手つきで背中を撫でてくれる彼。
降谷くんには、私とは全く別の世界が見えているのだろう。
ちゃんと周りが見えて。
ちゃんと世界に色がついていて。
全てがキラキラと輝いている。
そんな彼のことを、少しだけ。羨ましい、なんて思ってしまった___。
***
「ねぇ、降谷くん」
「ちょ、しーっ」
「……なんで私が……」
文化祭当日。
受付係だったはずの私は、なぜか今、お化け役をやらされている。白い布とおばけの画面を被っただけの、簡単な仮装だけど。
なんでこんなことに……。
突然降谷くんに連れてこられたと思えば。
「人手が足りなかったんだって」
降谷くんは、唇に人差し指を当てて静かにするよう促す。
「っ、」
昨日、あんなことがあったから、私の中では少しだけ気まずいんだけどな。降谷くんの前で思いっきり泣いてしまった自分を隠しに行きたいくらい。
「ほら、お客さん来たよ」
背中を優しくポンと叩かれる。それと共に、少し跳ねる肩。少し触れられただけなのに、その部分からじわじわと体が熱くなっていく感覚。
「で、出るだけでいいの?」
「そう、出て歩くだけ」
そんな感覚を掻き消すように、私は言われるがままに立ち上がり、歩き出す。暗くて、足元くらいしかよく見えない状態。
それに、さっき降谷くんの肩と自分の肩が触れただけで、自分の心臓が妙に波打っているのだ。
「うっ、うわぁぁぁ!」
そんな叫び声に、驚かす側の私まで驚いてしまう。
本当に一瞬の仕事だったな……。
「こ、これでよかった?」
「ふっ、あははっ。うん、大成功」
笑ってガッツポーズを作る降谷くんはなぜか、いつもより楽しそうに見えた。
「休憩でーす!みんな、出ていいよ!」
そう声がかかった途端、一気に騒がしくなる教室内。私以外のお化け役をしていた人たちも、仮装を取って伸びをしている。
みんな、本当に楽しそう。ずっと笑顔が絶えない。
私だって、彼が私の気持ちを変えてくれなきゃ、こんなに微笑ましい気持ちで文化祭を過ごすことだってできなかったと思う。
だから___。
「降谷くん」
「ん?」
優しい眼差しをこちらに向けられて、胸が高鳴った。
なんなのだろう、少し前から。胸の鼓動が、変に思うのは。
違う、今はこんなことを考えているのではない。
ちゃんとお礼、伝えないと。
「き、昨日はありがと。……私、焦りすぎちゃって周りが見えなくなってた。だから___」
ちゃんと降谷くんと目を合わせる。
お面のせいで、彼からは見えないかもしれないけど。
「全部降谷くんのおかげ。私に大事なこと教えてくれて、ありがとう」
言っているうちに、だんだんと恥ずかしくなってきて思わず目を逸らした。
「こ、これを伝えたかったの。わざわざ呼び止めてごめんね」
くるりと踵を返して、教室を出ようと歩き出す___けど。
「待って」
肩を掴まれたと思えば、再び降谷くんの方を向かされた。
そして___。
「っ……!」
お面越しに触れた、何か。
怖くて目は開かなかった。
でも。
今、降谷くんが私に何をしたのか。それを理解することにあまり時間はかからなかった。
「っ、今のっ……て……」
少し頬を赤らめた降谷くんは、口元を隠して私から目を逸らした。
「……詩織のこと……好きだ」
あぁ、そうか。
その瞬間、私の中の何かが、沸騰するように熱く脈をうった。
私が降谷くんに触れられてドキドキしていたのも。
顔が熱くなったのも。
全部、全部。
___降谷くんが好きだからだったんだ。
教室にみんながいることにも関わらず、降谷くんの大きな背中で私を隠すように煽っていた背中。
「っ、ごめん突然」
でも。やはり現実なんて、こんなものなんだ、と思わせるような言葉が、彼の口から静かに吐かれた。
「なかったことにして」
「……え……?」
何かに気づいたかのような表情を一瞬見せて、私からパッと離れた降谷くん。
何……?今、なんて言ったの?
降谷くんの言った言葉が、頭の中にループする。
今の言葉を……取り消してってこと……?
そう変換した瞬間、頭の中は真っ白になって。視界が歪んだ気がした。
なんで……?
なんでなかったことになんてするの?
ぎゅっと拳を強く握って、無数に湧き出てくる色々な感情を押し殺す。
降谷くんは、そんな私に目もくれずに、「ごめん」そう言って教室を出ていってしまった。
___。
しばらく呆然とその場に立ち尽くす。
ぽろぽろぽろっ、と私の両目からこぼれ落ちた温かい涙。
なんで私は泣いてるの……?
そんなことを思う暇もなく、私は教室を飛び出し、人気のない場所を目指して走っていた___。
おばけの仮装がそのままだろうが。みんなに注目されようが。
たった今あった出来事を忘れてしまいたい___。
そうよ、大体、なんで降谷くんが私のことを好きだなんて言うの?あんなに人気者の降谷くんが。
私のことを好きになるなんて、そんなことはきっとない。
気づくと来ていた屋上。やはり、文化祭の真っ只中ということもあって、屋上には誰一人いなかった。
「っ、忘れたい、忘れたい……」
自分に言い聞かせるようにして拳を握りしめる。息がしにくい。でも、溢れる涙は止まるということを知らないかのように、次から次へと私の視界をぼやけさせていく。
「なんで……っ!」
気持ちを切り替えなきゃ。
文化祭が終われば、すぐ近くに大きなテストが迫っているのだ。
それでも泣き続けようとする自分に___心に、嫌気が差す。
もうきっと。
降谷くんとは関わらなくなる___。
空は、まるで私の心を映したかのように曇天だった。
***
文化祭が終わった。教室内は、すっかりと穏やかなムードに切り替わり、同時に寂しさも感じるほどだった。
___でも、変わったことがひとつ。
「えー、今日もアイツ休みかよー!」
「玲弥が来ないと雰囲気乗んないんだけどー」
降谷くんが、文化祭の直後から学校を休んでいるということ。
「委員長は知らないの?玲弥が休んでる理由」
……そんなの、知るわけないじゃない。対して降谷くんと仲が良いってわけでもないし、休んだとしても私が理由を聞ける立場じゃないから。
「知らないな。なんでだろうね」
笑って誤魔化すけれど、うまく笑えない。まるで、顔の筋肉が固まっているかのように笑顔が引き攣る。
ふとした時に脳裏にフラッシュバックする、文化祭の休憩時の出来事。
あの言葉を……あのキスをなかったことにしてくれなんて言われたあの時。
何かが切れてしまった。
今まで気づいてきた降谷くんとの関係が。全てが、静かに壊れていってしまった気がした。
もしかすれば、降谷くんは私に会うのが嫌で学校を休んでいるのかもしれない。本当は私だって、今日学校に来たくなかった。いつも通りに登校して、教室に入って。
降谷くんの姿を見てしまえば、私の心のどこかにぽっかりと穴が空いてしまう気がしたから。息苦しくて、もっと自分のことが嫌いになってしまいそうだったから。
そんなことが理由だって、みんなには口が裂けても言えない。
私は、再び机の上に広げられた参考書に目を落とす。
そうよ、勉強は勉強。他のことは他。ちゃんと自分の中でうまく切り替えをしていかなきゃ、人生損してるも同然だから。
___でも、神様がいるのならば、どうしてこんなに意地悪をしてくるのだろうか。
「松野?これ持って行ってくれないか?」
「え……」
「降谷の家はここだからな!よろしく頼んだぞ、委員長!」
「あ、ちょっ……と……」
なんでこんな時に限って私なの。
勉強に集中するために、部活に入らなかった私。
そんな私に、担任が目をつけた。つけられてしまった。
いつものように、さっさと帰る支度をして帰ろうとすると、担任に呼び止められた。嫌な予感はしたものの、無視をするわけにもいかなかったので振り向くと案の定……といった感じだ。
……聞こえないふりして帰ればよかった。
「降谷がずっと休みだから」なんて言って、溜まっていたプリント類を家まで届けるように言われてしまったのだ。
まあでも、一番暇そうに見える私がそう頼まれても仕方がないか……。学級委員長でもあるし。
重力に負けてしまったくらいの大きなため息をつきながら、教えられた降谷くんの家の周りをうろちょろと歩き回る。
今、私の頭の中には二つの選択肢がある。
一、呼び鈴を押して直接渡す。
ニ、ポストに入れて、間接的に渡す。
どう考えても、気持ち的に楽なのは後者である。
でも、仮にポストに入れたとして、気づくのが遅くなったりしてしまったら申し訳ない。かと言って、おそらく体調を崩しているであろう降谷くんを、わざわざ呼び鈴で呼び出すのも……。
もんもんと一人で考えているうちにも、時間は刻々と過ぎていく。そろそろ通りがかりの人にも不審な目を向けられる頃だった。
そうよ、気まずかろうが私は学級委員長。クラスメイトのひとりひとりとちゃんとコミュニケーションをとるのも仕事なのだから。
無理矢理と言っていいのだろうか、頭を委員長モードに切り替え、呼び鈴を控えめに押した。
遠くで、ピンポン…と小さな音が聞こえる。
「___はい」
少しの間があってから、インターホンから少しくぐもった声が聞こえた。
「松野です」
私だってこと、気づかれませんように。なんて意味不明な祈りを込めて、小さく自分の名前を答えた。
さっさと渡して帰ってしまおう。
さっきからうるさい自分の心臓をしずめるように深呼吸を一度する。
その瞬間、慌ただしく音を立てて、玄関の扉が開いた。やっぱり降谷くんだった。
「……体調は大丈夫?」
必死に平静をとりつくろう自分。
降谷くんは、私の問いかけに少しびっくりしたような表情を見せると、またいつものように笑った。
「大丈夫だよ、元気百倍だからさ」
そう言ってマッスルポーズをとる降谷くんだけど、本当はどこかしんどそうだった。やっぱり、いつもの降谷くんだった。
私は、「そう」と短く返事をすると、プリントの入った紙袋を降谷くんに手渡した。
「わざわざ持ってきてくれたの?」
意外、とでも言うように意地悪く笑った降谷くん。
一度、喉まで出かかった言葉は、自然に引っ込んだ。「委員長だから」なんて理由、出てこない。
教えてもらったから。
今まで、何か理由を答えるたびに、「委員長だから」なんて必殺技のようなセリフを使っていたけど、それはあくまで表面上。
本当は、ずっと心の奥のどこかに自分の本音を隠し持っていて、そんな本音を綺麗にコーティングするための言葉だっただけ。
『委員長だからって考え、捨てろってことだよ』
いつか、そう降谷くんの言った言葉が頭の中に思い浮かぶ。
私がここに来た意味……。
先生に頼まれたから?
___違う。
私の通学路だから?
___違う。
……委員長だから?
___違う、違う違う。
私は、降谷くんの瞳をまっすぐに見つめた。
「降谷くんと話したかったから」
もう前みたいに、君が気づかせてくれたことを私の当たり前にさせたくなかったから。
もっともっと___。
「降谷くんのこと、知りたかったから」
___
______
_________
先に目を逸らしたのは、降谷くんの方だった。
「っ……うん、そっか」
優しく笑うと、降谷くんはもう一度私と目を合わせた。
「『委員長だから』って、言わなくなったね。成長したな!」
降谷くんの大きくて、まだ少し熱を持った手が私の頭の上に乗せられた。
「もっと俺も詩織のこと知りたい」
優しい眼差しで私を見つめる降谷くんの表情は、ひどく寂しげに見えた。
***
「俺、どちらかと言えばクリームパンが好きなんだよね」
「そう」
「クリームパンはな、中にあるあのカスタードの甘さが絶妙なんだよな!」
「……そう」
「小さいからもっと食べたい!って思うだろ?でもな、小さいからいいんだよ」
「…………ふうん」
「……聞いてる?」
「聞いてない」
えー、と唇と尖らせて拗ねるポーズを取る降谷くん。
___昼休み。
いつもの定位置である、図書室の一番奥のテーブル席で勉強していると、降谷くんがふらっとやってきたかと思えば、私にクリームパンの熱演をしだした。
何がしたいのやら。さっきからずっとちょっかいをかけられている。
「聞いてよー、つまんねー」
「……そう」
でも、不思議と鬱陶しいとは思わなくて。
隣にいると、なんだか心地がいい。……いや、安心する、と言う方が合ってあるのだろうか。
「なんでそんなに勉強すんの?」
少しの沈黙があった後。
きょとんとした表情をして、こてんと首を傾げる降谷くん。それと同時に、私の持っていたシャーペンを奪った。
予想していなかった質問に少し驚きながらも、ペンケースから予備のシャーペンを取り出して、再びノートに計算式を解いていく。
「なんでって……。テストのため?」
どうしてそんなことを聞いてくるのだろうか。
それでも、私の答えに納得がいかなかったのだろうか、降谷くんは再び私のシャーペンを奪った。
さすがに私もイラついて降谷くんを睨む。けど、降谷くんはまるで知らんふり。
「……暇」
「……知らない、教室戻れば?」
「やだよ、詩織がいないってなんかつまんねーし」
降谷くんは、小学生がやるように、椅子をシーソーのように倒して頭の後ろで手を組んだ。
……どうして降谷くんは、いつもいつも。
私が彼の何気ない発言でどんどん好きになっていっちゃうこと、知ってるくせに。抜け出せなくなること、わかってるくせに。
「……じゃあ一緒に勉強する?」
聞こえないようにため息をつきながら、教科書を降谷くんにも見せてあげようとするけど、「やだ」と即答される。
「じゃあ何がしたいのよ」
奪われたシャーペンを取り返そうと降谷くんの手元をチラリと見る。
私の奪われたシャーペンは、彼の手の上で器用にクルクルと回されていた。
「テストが近いから勉強してんの?」
何がしたいか、という問いかけに降谷くんは答えてはくれなかった。
「それ以外に何があるのよ」
降谷くんは私の言葉なんて聞こえていないかのように無視をする。
「今やらなきゃいけないこと俺は詩織としたいんだよな」
彼は、大きく伸びをして椅子から立ち上がった。
彼が何を言っているのか、私に何が言いたいのかが全く理解できない。
「だから勉強しなきゃいけないんじゃないの?」
そう言えば、降谷くんはきょとんとした表情をしてから、「そういうことじゃない」と付け足した。
「勉強なんていつでもできるでしょ」
「はぁ……?」
彼に理解ができないことを示すように首を傾げると、降谷くんは私の手をとって立たせる。
「やらなきゃいけないことっつーのは、いましたできないことなんだってば」
シシシ、と不敵に笑う降谷くん。
「ほら、行くよ!」
「え……降谷くん……!?」
急に降谷くんが走り出す。
私の手をつかみながら。
教室も、体育館も。
校門さえ抜けてもなお、降谷くんは走り続けた。あふれるように、私の目の前で景色が流れ続けていく。
何度も止まろうって、やめようって叫ぼうとした。
でも。
その時に一瞬だけ見えた、今までで見たこともないような降谷くんの笑顔が輝いていたから。私を照らすような笑顔が。
私の言葉を詰まらせたから___。
***
「やべー……ちょー楽しかった」
鮮やかな緑の草の上に、ごろんと寝転がる降谷くんは、少しも息が切れていない。
学校を無断で抜け出して来た私たちは、そのまま河川敷までたどり着いた。
人生で一度もしたことがない「サボり」。
きっと学校に帰ったら、先生にこっぴどく叱られるんだろうな、と呑気に思っている私は、少しも焦っていない。むしろ、今日くらいはいっか、なんて思っている私がいた。
この前までの私なら、そんなの絶対に許さなかったはずなのに。学級委員長としてあり得ない行為だ、と自分を叱っていたはずなのに。
降谷くんと一緒に走って、一緒に目にした時の景色がいつもより鮮やかで、輝いていて。
いつも通っている通学路、見慣れた景色のはずなのに。こんなに綺麗に見えたのは、生まれて初めてだった。
「こんなこと、しちゃっていいの?」
怒られちゃうよ、と付け足して、草原に寝転ぶ降谷くんの隣に腰掛ける。
気持ちよさそうに風に吹かれながら微笑む降谷くんは、何も答えてくれなかった。
「……まあ、今しかできないこと……なのかもね」
なんだか、そんな今がとっても楽しくて。心の芯からじんわりと温まるような感覚。
優しく草を揺らす暖かな風が、まるで私の心の中を浄化していくみたいだった。
「降谷くんはすごいなぁ。……私が見れない景色、いつも見てるんだもんね」
ポロリとこぼれた本音。
いいの、きっと降谷くんは寝たふりをしているだけ。じっと私の紡ぐ言葉を待ってる。
「降谷くんが私に見せてくれる景色……人生で初めて見たの」
ほら、真っ青な空を小さな鳥が自由に飛び回ってる。川は太陽に反射して、ダイヤモンドが散りばめられたように輝いてる。
全部全部、初めて見たような感覚。
「だから、ありがとう」
「……もう見えてるよ、詩織にも」
「え?」
降谷くんは、再び口を閉じてしまった。
もう、見えてる……。
「私……今まで何をやっても楽しくなかったんだ」
その答えを今。
降谷くんが教えてくれたから。
「自分の人生が好きじゃないって思ってた。……でもね、委員長だからやんなきゃいけないって言い訳にしてる自分が好きじゃなかったって……今、降谷くんのおかげで気づいた」
降谷くんはきっと、本当に自分がやるべきことが見えているから。ちゃんと自分を愛しているから、こんな世界が見えてるんだよね……?
今の私も、一緒だから、わかるよ。
今、こんなに浮かれている自分がこんなにも好きだと思ったから。初めて、今。自分が輝いてるって思ったから。
きっと、こんなにも美しくて綺麗な世界が見えている___。
「ずっと苦しかったものが、取れた気がしたの」
「……」
降谷くんは、何も言わない。ただ、優しく微笑みながら、私の話を聞いていた___。
そんなこんなで、二人のんびりと過ごしていると、いつの間にか六限目が終わる時間となっていたことに気づいた。
……もうこんな時間なんだ。
少し寂しいような、そんな気持ちで空を見上げるけど、まだ青い。この青さが、どこまでも広がっていればいい。この心地よい時間が、いつまでも続けばいい、そう思った。
「また、連れて来てくれる……?」
そう問いかけると、降谷くんは起き上がって優しく微笑んだ。
「もう心配いらないよ」
やっぱり、いまいち話の噛み合わない降谷くんに苦笑して立ち上がる。
「帰ろう」
降谷くんは、寂しそうに口角を上げて静かに頷いた___。
***
あれから降谷くんは、学校に来なくなった。
連絡をしようとしても、メールアプリは繋がっていないし、電話番号すらもわからない。
文化祭の後日のような雰囲気が教室に漂っていた。
一方、担任の先生は、あの時のようにプリントを降谷くんの家まで持っていって欲しいと頼むことはなかった。
どうしたんだろう、と、私の心の中で小さな黒い糸が絡まり合っていく。
降谷くんのことなんだから、またどこかで学校をサボっているだけなのだろうか。
___よく考えたら私、降谷くんのこと何も知らなかったんだ。
降谷くんのことがもっと知りたい、とか自分で言っておいて、本当は何もわかっていなかったんだ。
昼休みの勉強だって、ずっと隣でちょっかいをかけていた降谷くんは、今日もいない。
……やっぱり一人じゃ、なんにもできないじゃない。
再び、視界が狭まる感覚。
降谷くんと一緒にいる時のような、鮮やかな景色を見ることもない。___いや、見ようとしても見えなくなってしまった。あれだけ綺麗だと思っていた景色も、「ただの冴えない田舎」なんていう名前がお似合いなくらいだ。
そんな景色に、「寂しい」と思っている自分がいた。
一ヶ月前まで、ただのクラスメイトだったはずなのに。面識のない、陽気なキャラだと思っていただけだったはずなのに。
私の中で降谷くんが、どんどん大きな存在になっていく。心のどこかで、この人だ。この人が、私が学校へ行く意味なんだ。___って思い込んでいた。
それなのに、降谷くんは。
今日も来ない。