絵を描いているときの迅さんは、自由だ。
わたしは、指定された場所に指定されたポーズで立ちながら、そんなことを思った。
片手にパレット、もう片手に絵筆を持ち、大きなキャンバスに真剣な眼差しを向けている迅さん。
自由で、楽しくて、幸せで仕方ないって顔をしているのが、わたしにでも分かる。
「……自由だよなぁ」
ぼそりと呟くと、迅さんは首を傾げた。
「なんか言った?」
「あ、いえ……」
絵を描いているときは邪魔できない。それはわたしが勝手に心の中で決意していること。真剣そうな迅さんを、わたしのどうでもいい話で邪魔したくはないから。
「言ってよ。気になるじゃん」
迅さんは、そんなわたしの気遣いに気づいていないらしい。
「迅さんて、自由だなぁ、と思いまして」
「ははっ、よく言われる」
口ではいつも通りだけど、瞳はずっとキャンバスに向けられていて。
その視線が、真剣な瞳が、一瞬でもいいから、“わたし”を見てくれないかな、なんて傲慢なことを思ってしまう。
「わたし、自由になりたいなぁ」
迅さんのように。
真っ白なキャンバスに、いろんな色をのせていくように。
自分の“好き”を追求して、それを自分なりの方法でただただやり続けたい。
ーー好きなことが、ないのだけれど。
「俺はな、自由になりきれてなかったと思うんだ」
「……?」
「心の中でどこか、ずっとブレーキをかけてるような、そんな気がしてた」
夏の爽やかな風が、わたしたちの間を通り抜ける。
「でもな、あの日。依茉に出会って、変わった。止められないんだ。“描きたい”っていう衝動が」
『絵のイメージが溢れてきて、止まらなかったんだ』
そう言われたのは、きっとあの駅の待合室。
キラキラした瞳を向けられて、本当は少し嫌だったけれど、惹かれてしまった。
「自由っていまだに何か分かんないけどさ。それを追い求めていくのが自由だと思うんだ」
迅さんは、笑った。わたしの方を向いて。
ひまわりが咲いたみたいな、太陽が登ってきたかのような、暖かくて優しい笑み。
その瞬間、わたしは落ちた。そんな感覚がした。
「自由…………」
わたしには何もなかった。
夢も特技も、やりたいことも。
でもーー。
「……」
わたしは、迅さんことが、好きだ。
これだけは譲らない。譲れない。誰にも負けない。
「ふふっ」
わたしも笑った。迅さんのような笑みではないけれど。今できる精一杯の笑顔。
今、わたしは、しあわせだ。

家に帰って、わたしはお父さんの写真に話しかけていた。
「お父さん、わたし、好きな人ができたよ」
思えば、ずっと迅さんのことが好きだった。
わたしにかけてくれる、たくさんの優しい言葉が。
頭を撫でられたときに感じる、大きな手のひらの温度が。
迅さんといるときに流れる、ゆったりとした時間が。
あの綺麗な寝顔が。
まっすぐな瞳が。
強くて軸のある、彼の生き方が。
ーーそして何よりも、あの笑顔が。
「でもなぁ……」
迅さんとわたしは、画家とモデルだ。大学生と高校生だ。
想いは、伝えてはいけない。伝えられない。
わたしの心の中に、残しておくべきものだ。
ちゃんとそう思ってるのに。
「好き……」
想いを伝えたくて、どうしようもなかった。