「いってきまーすっ」
弾んだ気持ちで家を飛び出した。
昨日、迅さんはわたしの家の近くまで送ってくれた。そのおかげか、今日は家の近くで待ち合わせなのだ。
「おはよう!迅さん」
思えば迅さんは、あの閉じ込められたときもわたしの家に来てくれたような気がする。
「おはよ」
どうして分かったか聞きたい気分になったが、迅さんの爽やかな笑顔を見ると、別にいいや、と思ってしまった。
「今日は何するんですか?」
わたしは助手席のシートベルトを締めながら問いかける。いつもは隙間のある後部座席が、今日はパンパンだ。
「卒業制作、描き直そうと思って」
「え!間に合うんですか?」
「ギリギリね」
よく見ると迅さんは、目の下にクマを作っていた。
それほど制作に熱中するのはいいことだとは思うが、身体は壊してほしくない。
「無理しないでくださいね」
わたしはそう言って笑った。
ビートルの中は、やっぱり絵の具の匂いが染み付いていた。

今日の目的地は、いつもの公園ではなかった。
車を走らせて一時間ほどの、わたしの地元よりももっと田舎らしい田舎。でも、歴史のある建造物の保管地区とかで、小学生の頃は校外学習で行った気がする。
でも迅さんの目的地はこの歴史的な街並みではなく、そこからもう三十分車を走らせた山の中だった。
「昨日から制作で使えそうなところ探しててさ。この辺りはピッタリだな、って」
迅さんが指差したのは、崖の端だった。
夏の蒼空に見下ろされ、青々とした緑の森に包まれ、遠くには海が見える、そんな場所。
「自然のお手本みたいなところですね」
「ははっ、いい表現じゃん」
そう言いながら、迅さんはキョロキョロと視線を動かした。いったい何を探しているのだろう。
「カーディガン、脱いで」
「……え?」
「下にTシャツとか着てるでしょ。脱いで」
「いや、わたしには……」
傷跡がある。まだ癒えていない、自分でカッターを押し当ててつけた、苦い過去の。
「俺は、依茉のありのままを描きたい。俺も含めて、誰もが辛い過去を隠して生きていっていると思う。でも、それを見せることで獲得するものも、確かにあると思うから」
ーーわたしの、ありのままの姿。
ぎゅっと腕を握りしめる。お母さんと和解して以来やめたけれど、まだ少し痛む傷跡たち。
「依茉にしかできない、依茉にしか伝えられないものが、きっとある。俺はそれを、伝えたいんだ」
わたしにも、誰かを助けることができるの?
わたしのように苦しむ誰かを、助けることが。
それなら、わたしはーー。
「分かり、ました」
カーディガンを脱いだ。外で半袖になるのは、久しぶりだった。
風が腕を撫でて、気持ちがいい。
迅さんは、優しく笑って、絵の具をパレットに並べていく。
その真剣な表情に、思わず見惚れてしまった。

その日の夜のことだった。
わたしは、お母さんに傷跡のことを打ち明けた。
“ありのままの自分”を受け入れてくれる人を、迅さん以外にも作ろうと思ったから。
お母さんは、傷跡を見た瞬間、一筋、涙を流した。
気付けなくてごめんね。追い詰めてごめんね。長袖着てたことを気にも留めなくてごめんね。
そう何度も謝られ、わたしは静かに首を振った。
自分で苦しみを溜め込んで、間違った道を歩んだだけ。そう、お母さんを宥めた。
お母さんとの距離は、以前よりも確実に近くなったと思う。
ただ、なぜか、以前よりも息苦しく感じることが増えてしまった。