「俺が中三のの話なんだけどさ」
迅さんは、嫌な顔ひとつせず、ただ淡々と事実を述べるように話し出した。
驚くほど苦く、耐え難い、過去のお話を。
「二つ年上の兄貴と大喧嘩して、家を飛び出した。
でも、その日は嵐でさ。俺、公園の遊具の中で雨から逃れてたんだ」
迅さんはコトン、と筆を置く。
「そしたら、人に見つかってさ。誘拐でもされるかと思ったら、俺のこと歓迎して、飯までくれたんだ」
その視線はいつも通り真っ直ぐで、寂しげで。
いつもより、苦しそうだった。
「その人大学生で。たまたまコンビニ行った帰りだったんだって。あの後、その公園が酷い有様になってたから、あの人が助けてくれなかったら俺は死んでたかもしれない」
空を見上げる先輩の横顔。
寂しさと苦しさを隠しきれていない横顔。
でもその横顔は、何よりもかっこよかった。
「それ以降、俺はその人の家に入り浸ってた。例えれば、野良猫が、可愛がってくれる飼い主を見つけて、その人に縋る、みたいな感じ」
思わずくすり、と笑ってしまう。
迅さんが野良猫だなんて、面白い例え。
迅さんは、少し安心したように微笑んでから、話の続きをした。
「その人、すげぇ絵が上手くてさ……俺の憧れの人なんだ、今でも」
なるほど、その人は、今の迅さんを形作る人なんだ。今の迅さんの大部分を占める人なんだ。
ーー特別な人、なんだ。
「まぁ、死んだけど」
息が止まる。
思わず迅さんの方を見た。迅さんの瞳は、いつもと違い、何の色も含んでいない。
まるで、感情をひた隠しにしているみたいな。
「事故だったんだよな。マジで神様恨んだ。そのあと家に帰って兄貴と和解して……でも学校は行けなくてさ。結局通信制の高校行くことにしたんだ。高校は入るべきだって親がしつこかったから」
『いろいろあったんだよね』
初めて会ったときに、迅さんがやけにさっぱりした声でそう言っていたのを思い出した。
「それが俺の過去。今の俺を作る、過去」
「……そう、なんですね」
いい相槌が思い浮かばない。
ただ、聞きたいことだけは浮かんだ。
「今、絵を描いているのは何でですか?」
きっと、その人に憧れて絵を始めたんだと思う。
けれど絵を描いていたら思い出さないのだろうか。そんな辛い過去のことを。
迅さんは一度わたしに視線を向け、それから空を見上げた。雲ひとつない、蒼空を。
「描きたいから。描かなきゃやってらんねぇって、心のどこかで思ってるから」
「ーー羨ましい」
わたしの口から、不思議とそんな言葉が漏れ出た。
わたしにはない。心からやりたいと思うこと。
「わたしには……何もない。空っぽ。それが嫌」
親の敷いたレールをただ走ってきただけの人生。
足枷になって、嫌だったそのレールを取っ払うと、次はどこに進めばいいのか、分からなくなってしまった。
「……空っぽ、か」
迅さんはわたしの頭をくしゃくしゃ撫でる。
その瞬間、心臓がどきん、と跳ね上がった。
「卒業制作、書き直そうかな」
そう呟いた迅さんの瞳は、いつものものに戻っていた。