「じゃあな、依茉。またいつか」
迅さんはそう言い残して、わたしの前から消えていった。
寄り道するとか言うから、どこか行くのかと思ったら、ただ、少し回り道するだけだった。
撫でられた後は、会話という会話をすることなく、わたしは学校まで送ってもらった。
でも不思議とその時間は心地よく、車内の絵の具の匂いはまだわたしの中に残っている。
ーーまた、会えたらいいな。
ふと、そんなことを思ってしまった。
駄目だ。高望みをしたら。わたしは“落ちこぼれ”だから。うん。もう会わなくて、いい。
今日は今日。明日は明日だ。
わたしは、一度深呼吸をしてから、学校の門をくぐった。

「いってきます」
「今日は数学のノート提出よね?持った?」
「……うん」
毎日同じような会話。いつからだろう。「いってらっしゃい」と言われなくなったのは。
またため息をついて、自転車を漕ぐ。
結局、昨日の遅刻はお母さんにバレることなく、ただ、小テストのことを聞かれただけだった。
迅さんのことは忘れよう。彼の爽やかな笑顔や、寂しげな横顔、そして優しい言葉も、全て。
忘れなければ、会いたくなってしまう。
彼の優しさに、甘えたくなってしまう。
「よしっ」
自分に喝を入れて、昨日のように待合室に入っていく。
「よぉ」
私の覚悟は、一瞬でどこかに行ってしまった。
「迅、さん?」
「そうそう。名前覚えててくれたんだな」
えらいぞ、そう言いながらまた頭をくしゃくしゃ撫でる迅さん。わたしのことをペットか何かと思っているのだろうか。それだとしたら嫌だけど。
「で?モデルになる気はできた?」
「えっ…………と」
無理です、昨日はスラリと言えた言葉が、言えない。
どうして?わたしはこんなことをしていられない。
またお母さんに怒られる。「何勝手なことをしているの」って。「あなたは勉強だけしてなきゃ」って。
なのに。なのにーー。
「やりたい……です」
口から出た言葉は、私が初めて迅さんに見せた、“本心”だったのかもしれない。
迅さんは、嬉しそうに笑ってから、また、わたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「ありがとな。今から絵、描いていい?」
「……はいっ」
何だろう。狭かったわたしの世界が、一気に広がっていくような、そんな気がした。

黄色いビートルに乗って向かったのは、駅から車で三十分くらいの公園だった。
「迅さん」
「何?」
「どんな絵を描くんですか?」
自分から選んで学校を休むのは、今日が初めてだった。
今までは両親が決めて、それに従ってきた。だけどずっと、それが息苦しかったんだ。
「お前が主人公の絵」
「主人公?」
「そ。絵の中じゃ、誰でも自由だから」
そう得意げに笑った迅さんの顔は、どこか晴れ晴れしていてーー憧れた。
「迅さんって、自由でいいですね」
「そうか?まあ留年しまくってるしなぁ」
留年だなんて。わたしとは関わりのない言葉。
ふふふっ、と笑っていると迅さんは、わたしから目を逸らして、それからまたこっちを向いた。
「そこに座って。あとは好きにしてていいから」
迅さんが指したのは、立ち入りが唯一許可されている花畑。そこは、たくさんの花が自由に咲き乱れていて、みんな太陽を求めてぐんぐん伸びていた。
「素敵……」
思わず呟く。
わたしはそれから、座ってみたり、匂いを嗅いでみたり。久しぶりにのんびり過ごした。
その時間は幸せで、嫌なことを、悩みを全て忘れることができた。
そして日が沈みかけた頃、迅さんが「送るよ」と言ってくれて、駅まで戻った。
そして自転車に乗って、家に帰った。
楽しかった。幸せだった。久しぶりに、ちゃんと息ができたような気がした。なのに。
玄関のドアを開けると、お母さんが仁王立ちしていた。
「た、ただいま……」
「どこに行ってたの⁈」
まずい。忘れていた。お母さんのことを。
「えっと……」
答えに困っていると、頰に痛みが走った。
「何回言ったら分かるの⁈あなたは勉強だけしてればいいの!」
どうして?どうしてわたしは、お母さんに全てを決められなければいけないの?
「何よ、不満でもあるわけ?」
「なんで、全部お母さんが決めるの?わたしの人生じゃんっ!」
初めて言えた、自分の本心。
すっきりしたわたしの心と裏腹に、お母さんの顔は真っ赤に染まっていった。
「……ふざけないでくれる?あなたをここまで育てて、高校の学費を払ってるのは誰だと思ってるの⁈」
わたしの心がまた、ずきりと痛んだ。