「見つけた」
そう言われて、わたしは彼の方を見た。
目が合うとさらに実感する。まっすぐな黒髪に、パーツパーツが整った顔立ち。見つめられたら惚れてしまいそうな、イケメン。
「……え」
思わず声を漏らしていた。
「君、俺のミューズになってくんない?」
寝起きの彼は、まだ眠そうな瞳でわたしを見ていた。
「ミューズ……?」
聞いたことのない単語。
と、そのとき。
プシュー、と音がして、電車が走り出した。
「あー、電車行っちゃった」
彼は頭をかきながら、少しだけ申し訳なさそうに、だけどとても楽しそうに言った。
「行っちゃった、じゃないですよ」
わたしはこれで高校遅刻確定だ。
遅刻がバレたらどうなるか。確実にお母さんに怒られて、また勉強量を増やされる。
「んで、お願いなんだけどさ。俺のミューズになってくんないかな」
ーーわたしには、無理。
「……他の人にお願いしてください」
はっきり言うのは気が引ける気がして、わたしはそう言った。
そしてカバンの奥底からスマホを取り出して、どうにか高校に間に合う方法はないか検索する。
「ミューズの意味、分かる?」
彼は、少し寂しげな声色で問いかける。
「分かりません。初めて聞きましたし」
わたしは正直に言った。隠すことはない。
短くため息をついた、求めてもいないのに説明をし始めた。
「俺、芸大通っててさ」
「……大学生なんですね」
だとしたらわたしより三、四歳年上ということだ。ジャージを着てだらっとしてるから、少し意外だ。
「今度卒業制作を作らなきゃいけないんだけど、そのモデルを君にお願いしたいんだ」
「……尚更無理です。そんな大役」
「ははっ、はっきり無理って言ったね」
「……っ、すみません」
愉快そうに笑い終えた彼は、スッキリしたような顔で言った。
「目を覚まして君を見た瞬間、絵のイメージが溢れてきて、止まらなかったんだ。この一回でいい。俺の絵のモデルになって」
ーーそんなこと言われたの、初めて。
わたしは長袖を着た腕をギュッと握りしめる。痛い。
「何で長袖なんだ?暑くない?」
「あ、えっと……その……」
寒がりなので、わたしは小さくそう伝えた。
もちろん寒がりではないし、好きに着ているわけではない。長袖を着なければいけないのだ。
「ふぅん」
彼は、腕をじっと見ながら、わたしの隠していることを見透かしたように笑った。
「ま、いいけどさ。君、人の顔色常に伺ってるね」
「…………」
どうして、いいえ、と言えないのだろう。
息苦しい。分からない。ただ、気持ちが悪い。心の中を、ずっとモヤモヤしているものを覆っている。
ーーたす、けて。
「ま、高校遅れるんでしょ。送るよ」
彼の好意に甘えて、わたしはこくりと頷いた。

車の助手席に、わたしはちょこんと座った。
こじんまりした黄色い車。車種を聞くと「ビートル」と言っていた。
「どこ高校?」
「浅羽高校です」
「いいとこ行ってんだね」
「……まぁ」
志望校はわたしが選んだわけではない。
お母さんが三校くらいをリストアップして見せてきて、その中から一番遠いところを選んだだけ。
「でも遠くない?電車で何分かかんの」
「二時間です」
「遠っ」
わたしはちらりと顔を上げて彼を見た。
鼻歌を歌いながら機嫌よく運転していて、黒い髪が太陽に反射してキラキラ光っている。
「俺、高校は通信制だったからなぁ」
「そうなんですね」
「いろいろあったんだよね」
やけにさっぱりした声。変なの。
ラジオから昔の洋楽が流れてくる。
「俺は神辺迅。君は?」
「……中野依茉です」
あれ?わたし、何で初対面の人に名前教えたの?
まずい。こんなことがバレたらまたお母さんにーー。
「腕、また握ってる」
言われて気がついた。無意識だった。
「君、寒がりじゃないでしょ。絶対」
何も反論できない。本当のことだから。
「俺が電話する。今日は高校休んだら?」
「休んだら、駄目…………」
「そっか。じゃあ一限遅刻で許して。寄り道しようぜ」
左手で、頭をくしゃくしゃ撫でられた。
それは久しぶりの温度で、優しさで。
思わず目から涙が溢れ出した。