「いってきます」
ガチャン、とドアを開けた。
小さな声で言ったのに、お母さんはエプロンを着たままパタパタと走ってくる。
「今日は小テストあるわよね、頑張るのよ」
「……はい」
わたし、言ったっけ。今日の小テストのこと。
ドアがちゃんと閉まったのを確認してから、わたしは大きくため息をつく。
赤い自転車にまたがり、自転車を使っても三十分かかる最寄り駅まで向かう。
夏の朝。まだ涼しい風が吹く、田んぼの畦道(あぜみち)
「あら、依茉(えま)ちゃん、いってらっしゃい」
「……いってきます」
すれ違う人はみんな顔見知り。
こんな田舎が、地元で、大嫌いで。わたしは、わざと遠くにある高校を選んだ。
だけれども、何も変わることはなくて。結局キラキラしたクラスメートを見て憂鬱になるだけだった。
入学から半年経った今では、どうしてもっと近くの高校に進学しなかったのか、後悔している。
駅に着いた。一時間に二本、普通列車しか止まらない、無人の小さな駅。
確か今ここを使っているのはわたしだけで、わたしが高校を卒業した後は、この駅は廃駅になるらしい。
待合室は狭くて、ちょうど人が二人入れたらいいようなところ。わたしは毎日そこで五分、電車を待つ。
ガラガラっと扉を開ける。と。
「……え」
人がいた。たぶん、私よりも少しだけ歳上の男性。ジャージを着ていて、膝にはノートパソコンらしきものを置いている。
「あの……」
すやすやと寝息を立てるその人の顔は、とても整っていて、それだけで絵になった。
ーー“そっち側”の人じゃん。
声をかけながら、私は心の中でつぶやく。
キラキラしていて、環境にも持って生まれた能力にも恵まれていて、周りにずっと人がいるような、わたしの苦手なタイプの人。
「大丈夫ですか?」
狭い待合室に、二人きり。
でも彼は、目を覚ます気配はない。
「電車来ちゃうじゃん……」
ホームに電車が来たことを知らせる音楽が鳴り響く。高校に遅れるわけにはいかない。
でもこの人をこのまま放っておこうとする気持ちは、なぜだか生まれなかった。
「早く起きてください」
身体を揺する。彼からは太陽のような、あたたかな匂いがした。
「は、や、く」
電車が視界の端に映った、その瞬間。
パシッと腕を掴まれた。
そして一言。
「見つけた」
え。わたしは思わず声を漏らす。
まさかこのときは思いもしなかった。
この出会いが、私の人生を大きく変えることになることを。