ーーーーー目を開くと、そこは知らない天井だった。

なんてことはなく、目の前には見慣れた自身の部屋がある。
数秒かけてあたりを見回す。そして、確かに自分の部屋であることを確信した。


(でも、なんで?)


私は最後、何をしてたんだっけ。
そう考えながらも、ずきりと痛む頭を抑える。

ああそうだ、私は気持ち悪くて倒れて、気を失って。
それで、なんでここにいるのだろう。

深呼吸をしながら、目の前にあるカーテンを勢いよく開く。
夕方だと思っていた時間は、いつの間にか朝になっていた。
カーテンを開けたせいで一気に眩しくなった視界に目を眇めつつ、私は時間を確かめる。


「六時」


大丈夫、まだ間に合う。
そう頷き、まだふらつく足元に気を付けながらも階段を下りる。
六時なのでさすがに誰かが起きているらしく、リビングの明かりを頼りに、一歩ずつゆっくりと進んだ。

ガチャリとドアを開けると、新聞を読んでいる父と目が合った。


「おはよう」
「…………おはよう」


機械的に交わされるあいさつを返しながら、私は一瞬の迷いののちに二人分のお弁当を作り始める。

ただのお礼。ただのお礼。

そう言い聞かせていないと直ぐに火照ってしまう頬を抑えながら、私は順調に卵焼きを焼いていく。いつも気になっていたはずの父の姿は今だけ全く気にならなかった。
フライパンに影が差したことで顔を上げると、口元に弧を描いた母が目の前にいた。


「いいわねえ、お弁当。これ、お友達の?」
「………………あ、うん。そう、朱莉たちの」


母の言葉にぎこちなく頷き、嘘をついたことに罪悪感を覚える。
「お弁当を持ってくること、朱莉ちゃんたちに伝えた?」と聞く母に対して、「ううん、まだ」と答えると母はぱあっと顔を輝かせた。


「ねえ、ならこのお弁当お母さんにくれない?」
「え?」
「まだ伝えてないならいいでしょ。私、凪のお世話で忙しくって、手作りの弁当最近食べてないのよ。」


お世話してないくせに。どうせ暇なんだから、自分で作ればいいじゃん。
母に対してそんな感情が出てきた自身に驚く。そして、少しの気持ち悪さを感じた。

お母さんになんてこと思ってるの。ちゃんと私は「いい子」でいなきゃ。
そう考えて、私は笑顔を貼り付けて母が持っている詰め終わった弁当箱を取り返そうとする。
だが、母は「別にいいじゃないの」といって笑って交わしていた。

そんな母に対し、どんどん苛立ちが募っていく。


「お母さん」
「お母さんも食べたいのよー」
「ねえ、ちょっと」
「たまにはいいでしょ?」


一向に返す気配がないやり取りをしているうちに、私の胸には黒いものが溢れ出してくる。
ああ、やばい。


「ーーーーー返してよ!」


そう思ったときには手遅れで、私は大きな声で叫んでいた。
やばい、と思ったけれど、母は「あら、からかいすぎちゃった?」と何事もないように笑っていて。父も、「たまにはお母さんにあげてもいいんじゃないかなあ」と笑顔だった。
そんな普通の、いつものはずだった光景に私が顔をゆがめたとき、黒いものが私の全身を一気に覆った。


なんで笑ってるの。なんが面白いの。私はこんなにも苦しんでるのに、なんで二人は何も気にせずに笑えているの。


一度そう思ってしまったら、どす黒い感情が沸き上がってくるまで直ぐだった。

うざい。
嫌だ。
ひどい。
嫌だ。
憎い。
嫌だ。
死んでしまえば、


「嫌だ!」


心の声をかき消すように叫ぶ。
両親はいきなり叫んだ私を一瞬訝し気に見た後、「疲れてるのか?」と労い始めた。

いつも洗い物やってもらってすまんな。凪のお迎えもよくやってもらってごめんな。咲良のこともあまり構ってあげれなくてごめんなさい。

いつも言われているはずの言葉が、今日は嫌に引っかかった。
違う。私が欲しいのはそんな言葉じゃない。


『ーーーありがとう』


そういって、モザイクがかかりながらも笑った男の子の姿が脳裏に浮かび上がる。
その瞬間、目の前にいる人たちの口元がぐにゃりと歪んだ。

確かに上がっていたはずの口角が、頬が、歪んでいく。
笑っていた、はずだ。さっきまで、ちゃんと笑っていて。

あれ、笑ってるって、なんだっけ。口角が上がってること?だったら、さっきまで上がっていたんだから、二人はちゃんと笑っていたんだよ。ちゃんと、本当に笑ってて。


ーーー本当に?本当に、『笑って』いた?


そう自問した瞬間、引っかかっていた糸がするするとほどけていく。
同時に、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、という鳴り響く心臓の音を、私は感じていた。


…………そうだ、なんで私は忘れていたんだろう。


誰よりも『笑顔』を多く浮かべているのは。偽りに溢れた感情をすべてそれで隠し、『笑って』いるのは。
他でもない、私自身。


そう気づいた瞬間、滝のような汗がどっと溢れてくる。
気持ち悪い。

ただその感情だけが私を支配した。
冷や汗が急激に私の体温を奪っていき、顔色が真っ青になっていくのが自分でもわかる。

耳鳴りが脳の奥で響き、汗が私の顎を伝うとぽたりと床にシミを作った。

本当は、自分の気持ちにきちんと向き合ってから答えを見つけたかったのに。こんな、最悪な状況(シナリオ)で答えを突き付けられたくはなかった。

気持ち悪い。顔を見てもいないくせに、みんなが笑顔を浮かべていると思っていた自分が。笑顔で感情を取り繕い、嘘をついていた自分が。偽りの笑顔を当たり前のように作っていた自分が。そしてそれを全て自分に対して親切にしてくれた人のせいにしていた自分が。すべて、気持ち悪い。

はっ、はっと自身の呼吸の音が聞こえることで、なんとか意識を保っていた。
視界がぐるぐると回る。目の前の両親の顔が見えない。

笑っている?怒っている?悲しんでいる?それともーーーーー


何も、私に対して感情を持っていない?


そんなはずが、ない。
きっと、私は愛されていて、それで。

凪が、生まれたから、私は。


(そんなこと、ない)


一瞬思いついた考えを打ち消し、小さく首を振る。
その拍子に、視界がぐらりと揺れた。

反射的に前に手を伸ばしたが、その手は空振りする。
前は確かな暖かさを掴んでいたその手は、いとも簡単に手放された。

両親の視線は、起きて二階から降りてきた凪に向けられていた。


「どうして………」


抑えきれない感情が胸から溢れ出る。
私が見ることのできない目元がじわりとにじむのを感じながら、私はずるずるとしゃがみ込んだ。
凪が生まれてからの三年間、ずっと思っていた。
そして今この瞬間、すとんと腑に落ちたのだ。


ああ、二人は私のことなんてどうでもよくなったんだ。


そう思った瞬間、黒いものが溢れていても、もう何も感じなくなったのがわかる。

────準モザイク症候群にかかっているから構ってくれなんて、そんな我満は言わなかった。
でも、二人の子供として、愛されていると。

「昔は、思ってたのになあ……………。」

そういって、リビングの床に座り込み、額を抑える。
でもそれは頭痛のためではなく、色々なことに対する感情に向き合うためだ。
それらをすべて吐き出すように、大きな息を吐く。
吐き気も、もうない。

代わりに、寂しさともつかない諦めが胸に広がった。

(ああ、もうお母さんたちは)

私のことなんて、どうでもいいんだ。
今まで目を背けていたことからきちんと向き合うと簡単に出た答えに、涙すら出てこない。

でも、なにか。………いや。
どうして何も感じなくなったのに、こんな気持ちになるのだろう。
一瞬だけ芽生えた感情に蓋をして、私は二階から目を逸らす。

私は結局お弁当を持って玄関に向かった。
もし伊吹くんが食べなかった場合は、一人で食べればいいだろう。
そう考えながら、「いってらしゃい」すら言われない静かな家から一歩踏み出す。

その拍子に、ブレザーのポケットからカサッという小さな音が聞こえてきた。
なんだろうと思いながらポケットを探る。

『ご馳走様』

昨日もらった達筆なメモ書きを見つめる。
こんなゴミなんてどうでもいい。そう思って捨てようとしたけど、捨てる気分になれなくてもう一度ポケットに突っ込む。

もう感じないと思った胸の痛みと吐き気が、そのメモに触れた時だけ、なぜか一瞬だけ蘇ってきた。

だけど、不思議に思ったときにはまた何も感じなくなっていて、首を傾げる。
そのまましばらく歩き続けると、私と同じ制服の生徒が現れ始めた。

おはようと交わされる挨拶に笑顔で返しながら、やはりいつも感じていただるさなどが消えている────いや、感じないことに気づかないふりをする。

近くの店にあるウィンドウに映った私の胸は、真っ黒に染まっていた。





何も感じないとは、こんなにも楽なものなのか。
そう考えながら、私はいつも通りの笑顔を顔にはりつけて、朱莉達としゃべる。

でも、痛みや吐き気を感じないと言うことは、楽しさも感じない。
普段痛みを抱えているけど、朱莉達との会話はそれなりに楽しんでいるはずだった。

────伊吹くんと喋る時も、こうなるのかもしれない。

(…………それは、嫌だな)

嫌だ。そうはっきりと感じた自分に驚く。
だが、すでに気のせいだと首を振った。

何も辛くない。でも、何も感じない。
それは、あの日からいつも息苦しさを感じながら生きてきた毎日と、どっちがいいんだろう。


────ぼんやりと考えながら過ごす今日は、やっぱりなんの変化もない。