ハロウィンの起源を教えてくれたのは博学なあの人だった。少し遅い初恋の末に結ばれたあの人は教養があり、物を知らない私に色々なことを教えてくれた。悪い精霊や魔物から身を守るケルト人の風習だとあの人は言った。あの人が私を捨てたのは奇しくも10月31日の夕方だった。
 別れた後、呆然と立ち尽くす私を放ってあの人は立ち去った。俯けば右手の薬指につけた19歳の誕生日にもらったシルバーリングが視界に入った。
 父親の会社の取引先の社長令嬢とお見合いし婚約するので、関係を清算したいと言われた。世間知らずで馬鹿な私は駆け落ちしようと言った。あの人のために全てを捨てる覚悟はあった。
「最初から住む世界が違ったんだよ」
 私の初恋が崩れ落ちる音が耳の中で鳴り止まない。
 夜になってからようやく駅へと歩き始める。足がもつれて転び、血が出た。惨めだ。この世界から消えてしまいたかった。満月には少し足りない月が私を嘲笑った。

「お嬢さん、大丈夫ですか?」
 あの人に似た低く穏やかな声がして顔を上げると、狼男の仮装をした青年が跪いていた。青年はネクタイをほどくと、私に差し出した。
「血が出ている。これで止血してください」
「いえ、こんな高そうなネクタイ申し訳ないです」
「困っている女性を見て見ぬふりするのは騎士道精神に反します。このままだと吸血鬼が近寄ってきて危険ですから。だからといって、淑女の体に触れるわけにはいきませんので、男を立てると思って受け取っていただけませんか?」
「ありがとうございます」
 仮装をして浮かれているとは思えないほどに紳士的だった。私は彼の厚意をありがたく受け取った。
 彼も駅へと向かっているようだ。それにしても寒い。震えが止まらない。
「ハロウィンの夜に可憐な格好をしていては、魔物にさらわれてしまいますよ」
 彼はジャケットを脱ぐと、私の肩に羽織らせた。厚手のジャケットでとても暖かかった。花の良い香りが心地よかった。
「ありがとうございます。駅に着いたら、ちゃんと返します。ネクタイは弁償します」
「私が好きでしていることですから、お気になさらずに」

 駅に着いたが、強烈な違和感があった。電光掲示板の文字が歪んで見えた。行き交う人々は皆魔女や吸血鬼の仮装をしていた。地味な格好をしている自分が逆に浮いているようでいたたまれない。
「みっともない姿を見せてしまってすみません」
「そんなことはありませんよ。ただ、一目で人間と分かる格好をしていては魔物に食べられてしまいますから、よろしければこれを」
 彼は仮面舞踏会でつけるような仮面を私に差し出した。キャラ作りは彼なりのユーモアなのかもしれない。泣き腫らした目を隠せるのはありがたかったので仮面をつけた。
 電車に乗り込むと、彼は私に尋ねた。
「何か辛いことがあったのでしょう?私で良ければ力になれませんか?」
 これはさすがに踏み込みすぎではないか。
「何でもないです」
「お嬢さんは信じてくださらないかもしれませんが、この電車に乗ることが出来るのは人間界に絶望した人間だけなのです」
 大真面目な口調で訳の分からないことを語り出した。魔界から人間界への列車は満月の夜に出ている。人間界から魔界への臨時列車は、年に一度の豊穣祭すなわちハロウィンの夜にだけ出ている。そして、その窓口となる駅は普通の人間には見えなくて、希死念慮のある人間にだけ見える。とんだ作り話をいかにも真実というように語った。
「からかってるんですか?」
 不気味に感じて、ちょうど電車が終点に着いたのでジャケットを突き返した。電車を降りると駅にはリアルな仮装をした人がごった返していた。空を見上げると、箒に乗った魔女やドラゴンが飛んでいた。月はあり得ないほどの深紅で、まるで血の色のようだった。まさか、彼の言っていることは本当だったのだろうか。
「驚かせてすみません。信じてくださいましたか?」
 彼がジャケットを私の肩にかけながら言った。彼の言っていたことが本当ならば、私は魔物に食べられてしまうのだろうか。
「大丈夫です。落ち着いて。貴女は私が守ります。近くに私の家があるので、そこで貴女を匿います。神に誓って、私は貴女を食べませんし、襲いません」
 私にはこのまま電車に飛び乗って帰るという選択肢もあった。でも、あの人が私ではない誰かと生きていく人間界に帰りたくなかった。そして、なぜか彼の声はすっと耳に入ってきて、彼を信じたいと思った。
 彼の影に隠れるように、駅を出て歩いて行くと豪邸が見えた。庭には綺麗な紫色の花たちが咲き乱れていた。
 豪邸では多くの使用人が彼を出迎えた。高貴な身分であることが一目瞭然だ。彼は、私の衣服と部屋を準備するように使用人に命じた。
「私は貴女をお守りしたいのです。申し遅れました。私の名はギルバート。名も知らぬ男に、命は預けられないでしょう」
「美砂です」
「ミサ、麗しい名ですね。素敵な貴女にふさわしい名だ」
「そんなことないですよ。私、恋人に捨てられたんです。だから、素敵なんかじゃないです」
「それは信じ難いですね」
「馬鹿ですよね。そんなことで、死にたくなるなんて。ごめんなさい、迷惑かけて。次の満月の列車でちゃんと帰ります」
「愚かなのはその男でしょう。見る目がない男には虫唾が走りますね」
 強い口調でギルバートは言った。
「狼の嗅覚は美しい魂を嗅ぎ分けられるのですよ。貴女は美しい」
「でも、私は選ばれなかったんです。女の子としては落第点だったんです」
 あの人を思い出して涙がこぼれた。
「いいえ、貴女は魅力的な女性です」
 慰めるように優しく、でもはっきりとした声でギルバートは私の言葉を否定した。
「貴女を一目見た瞬間、恋に落ちたのです。私は貴女をお慕いしております」
 ギルバートは跪くと私の手の甲にキスをした。戸惑っている私に対して、彼はさらに言葉を重ねる。
「申し訳ない。困らせてしまいませしたね。早急な返事は望みません。代わりに、お願いを二つ聞いていただけますか?」
 彼と二つ約束をした。一つは、彼が渡した食べ物以外は口にしないこと。もう一つは、この世界に咲く花に決して触れないこと。