「日本人形?」

 日本人形が怪訝そうな顔で俺を見た。そして、「人の顔に指差さないでくれる」と睨んだ。

「あっ、ごめん」

 俺は慌てて指を引っ込めた。そうかあの小さな靴は子供じゃなくて日本人形のだったんだ。いやっ、それよりも

「あのところでここで何してるの?」

 それが一番気になっていることだった。

「なにってアスパラ茹でてるんだけど。あっ、ちょっと待って」

 慌てた様子で俺に背を向けてから、鍋の中からアスパラを引き上げ、氷水の入ったボウルに沈めた。そして「うん。良い茹で加減」と言いながら再び俺の方を向いた。

「恵子さんの甥っ子でしょ? 聞いてるよ。私、神尾早紀」

 早紀が自己紹介をした。学校ではポツンとしていたのに、どういうわけかエプロンをかけた早紀はこのキッチンの主に見える。

「あっ、俺は寺平翔。あの、俺と神尾さん同じクラスだよね」

「えっ、三組?」

「うん。そうそう。クラスメイト」

 そうか。気づいていなかったか。とりあえず俺はニコッと笑って見せた。

「へえ、そうなんだ」

 早紀はそれだけ言うと、またもや背を向けた。そしてまな板の上にアスパラのせてから包丁を握った。

「あの、ちょっと待って神尾さん」

「何?」

 早紀はめんどくさそうに首だけ俺の方を向けた。

「なんでここで料理してるの?」

「なんでって、ここ数か月は来れなかったけど、君がここに来る前はしょっちゅうここに来て料理作ってたんだよ。ねえ、それより料理に集中したいからちょっと話しかけないでくれないかな」

 早紀の圧を感じた俺は「あっ、すんません」と言いながら立ち去ろうと思った。しかし、足を止めた。後ろ姿だけだけど、包丁でアスパラを切る動きが本物の料理人のように見えた。包丁で食材を切る。切った食材をボウルに入れる。ただそれだけの仕草が何故だかカッコよくて、ずっと見ていられそうだった。なんだこの謎の主人公感は。早紀の背中をバックにオープニングテーマが聞こえてきそうだ。いや、実際にも早紀のスマホからロックサウンドが爆音で流れている。
 それになんだろう。テキパキと料理をしている後ろ姿っていいものだなあ。何故だか心が癒されているような感覚もある。
 
 でも、なんで家で料理しているんだ。謎は消えなかった。もう一度、早紀に話を聞こうと思ったけど、邪険にされそうだから恵子さんに訊くことにした。廊下を歩き、アトリエの前まで来てふと思った。早紀と同じで、恵子さんも絵に集中しているときに話しかけられることを嫌う。前に、用があってアトリエで声を掛けたら鬼の形相で睨まれた。その恐怖があるからそれ以来アトリエには近づいていない。

 またあとで聞こう。俺は自室に入って制服からスウェットに着替えた。漫画を読もうとベッドに寝転んで開いては見るが、頭に入ってこない。いつもだと恵子さんはアトリエに籠りきっきりで一切音も出さないから落ち着く空間だった。でも、一階からなにやら活気が伝わってきて気分が落ち着かない。
 
 そういえば元気そうに見えても病気したんだよな。だけど生き生きと料理をしている姿を見ると、とても病気だったようには見えない。キッチンが気になって漫画を読む気にもならずにぼんやりしていると、廊下でドスドスと歩く音が聞こえてきた。この歩き方は恵子さんじゃない。ということは早紀だろう。あの小さな体でどう歩いたらこんな音が出るんだ。
 俺は廊下の方に耳を澄ませた。すると、ノックする音が聞こえた。方向的にアトリエをノックしている。あっ、絵を描いている恵子さんの邪魔はダメだ。機嫌が悪くなる。俺は注意しようと廊下に出た。

「ああ、早紀。料理できた?」

 機嫌が悪いどころか、恵子さんはご機嫌な様子で廊下に出てきた。いつものように頭はボサボサで、絵の具で汚れた白Tシャツ姿だ。とても他人の前に出る格好とは思えない。

「恵子ちゃん、前菜できたから先に食べててよ。今日は地物のアスパラがメイン。久しぶりだからご馳走にしたんだよ」

「やったーアスパラも大好き。じゃあ、白ワイン開けちゃおう」

 恵子さんは子供のように喜んだかと思えば、「シャブリがいいかな」と眉間にしわを寄せながら考え込みキッチンに足を向けようとした。すると俺と目が合った。

「あっ、翔。おかえり。紹介するね。こちら神尾早紀」

 恵子さんは早紀の肩に手を置いた。

「うん。知ってる。同じクラスだった」

「えっ、そうなの? わーっすごい偶然。じゃあこれから仲良くしなよ」

 恵子さんは俺に近づき、肩をパンパン叩いた。力が有り余っているのかけっこう痛い。

「あっ、そうだ。翔も一緒に食べない? 早紀の料理めちゃくちゃ美味しいから」

「えっ、だって俺」

 俺は口ごっもった。

「あっ、そうか翔は食べられないんだ。忘れてたごめんごめん」

 ガハハハと笑うと、恵子さんは早紀と一緒に階段を下りた。

 なんだか、妙に二人は仲が良さそうだ。それにいつもより恵子さんのテンションが高い。名前だけは紹介されたけど、関係性などわからないことだらけだった。カラオケをたっぷり歌って腹がへった俺は、恵子さんの後を追うようにキッチンに向かった。

 ダイニングでは、恵子さんがスキップしながらワインとグラスを用意していた。コルクにワインオープナーを差し込むとポンっと豪快に音を鳴らした。

「恵子ちゃん、そういう風にコルクの音を鳴らすのは下品なんだよ」

 早紀が料理を片手に持ちながら歩いてきた。

「いいの。だって鳴らした方が景気がいいじゃない」

 恵子さんがコルクを顔の前に掲げて言った。

「景気いいって恵子ちゃんはニートでしょ。景気悪いじゃん」

「何言ってるの。ニートじゃないよ。画家だよ」

 恵子さんが口を尖らせた。
 そうか、やっぱり恵子さんの絵は売れていないんだ。

「はいはい。早く絵が売れるようになるといいね」

 小さな子供をあしらうように言うと、早紀はテーブルの上に料理を置いた。皿を見ると、三本くらい並べられたアスパラの上に目玉焼きが載せられているだけの料理だった。あまりにシンプルでなんだか自分でもできそうだと思った。だけど、お皿がオシャレなのか高級料理のような佇まいも感じた。

「あー美味しそう。こりゃ酒が進むわ」
 
 さっそく手酌でワインをグラスに注ぐと、恵子さんは一気にワインを喉に流し込んだ。

「あー旨っ。幸せ。あれっ、翔どうしたの?」

 幸せそうな顔の恵子さんに訊かれた。

「腹減ったと思ってさ。何かないかなあって」

「あっそう。まあ、レトルトのカレーでもピザでもなんでもあるから適当にどうぞ。私は今日はもう飲むから。なにもやらないからね」

 恵子さんは俺の方を見ず、皿の上の目玉焼きにナイフを入れた。半生の黄身がアスパラにまみれていく。

「うわーっ、最高」

 恵子さんの顔を見て、これが至福というやつか。と思った。恵子さんの至福を邪魔をしてはいけないと思い、俺はキッチンに向かった。当然ながらそこには早紀がいて、フライパンで何かを焼いている。

「なに?」

 早紀が俺を見る。まるで自分の家かのような振舞いだ。

「いや、何か食べようと思って」

 と言いいながら棚を物色した。どれもそそらなかったけどレトルトカレーを手に取った。

「ごめん。ちょっとお湯沸かさせて」

「あー、はいはい。じゃあ、そのお湯使っていいよ」

 早紀は鍋を指さした。

「じゃあ、お邪魔します」と言いながら、早紀が指をさした鍋の中にカレーのパックを入れた。スマホでタイマーをかける。

 早紀を見ると、焼いているのは鶏肉だった。フライ返しで鶏肉をフライパンに押し付ける。ジュージューと水分が蒸発する音がする。その間も早紀のスマホからは、がなるようなボーカルの声が響き渡っている。

「ねえ、君ってレトルトとか冷凍食品しか食べないんだって?」

 鶏肉をひっくり返すと皮目にキレイな焦げ目がついていた。

「うん、まあ」

「極度の偏食?」

「うーん。まあそうなるかなあ」

 ちょっと違うような気もしたけど間違いではないような気がした。俺が答えた後、しばらく無言だったが。早紀がボソッと言った。

「つまんないね」

 舌打ちみたいな言い方だった。なんとなくその言葉に棘を感じた俺は、聞こえないふりをして、本来より一分早くカレーをお湯から取り出した。

 たった五分離れていただけなのに、恵子さんは酒の影響で顔が赤くなっていた。なぜかニュースを見ながら手を叩いて笑っている。ニュースで笑えることなんてあるのか?

 俺はいつも通り、恵子さんの向かいの席に腰を下ろした。

「ねえ、恵子さん。あの人ってなんなの? どういう知り合い?」

 カレーに手を付ける前に恵子さんに尋ねた。

「えっとなんだっけ。忘れちゃったな。多分アーティスト同志、共鳴するものがあったんだろうね」

 アスパラを口に運びながら恵子さんは言った。正直何を言っているのかさっぱりわからなかった。

「ねえ、恵子ちゃん、その説明じゃまったくわからないでしょ」

 声のする方を見ると、早紀がもう一皿運んできた。

「だってそんなことどうでもいいじゃない。お互いがお互いを認めて仲良くなったってそれだけでしょ?」

 アルコールの影響で恵子さんの声が大きくなってきた。

「そうじゃなくて甥っ子さんが聞きたいのはどうやって出会ったとかそういう事でしょ?」

 早紀が俺を見た。だから俺は「ああ、まあ」と答えた。

「まあ、わかりやすく言うと、私がスーパーで買いものしてたら恵子ちゃんからスカウトされたって感じかな」

 早紀は腰に手を当てていった。わかりやすくと言ってはいるが全然わからない。

「あーそうそう、あれは早紀が中学の時だよね。スーパー行ったら早紀が野菜の前でブツブツ言っててさ。野菜と会話している変な子がいるなあと思って話しかけたんだよ」

 変な子だなあと思って普通話かけるか? でもなんでも面白がるところが恵子さんらしいと思った。

「変な子だなんて失礼な」

 早紀が苦笑いを浮かべた。

「野菜と会話してる子がいたら変な子だって思うでしょうよ」

「違う。あれはレシピの確認をしてたの。頭の中で確認してたら口に出てただけ」

 早紀は顔を赤くして弁解した。

「まあ、いいや。でね、私から話しかけたの。そしたら料理が好きだっていうから、だったら家で作ってよ。って話になって家に連れて帰ったの」

 恵子さんは赤い顔でヘヘヘと笑った。

「恵子ちゃんから声をかけられた時はびっくりしたけど、どんな食材を使ってもいいし、キッチンも家より最新式だし、私にとってもいい話だったんだ」

 早紀も恵子さんみたいにヘヘヘと笑った。

 なんだこのへんてこなエピソードは。普通じゃない。ここに住んですぐに恵子さんが普通じゃないことはわかったけど、早紀も普通じゃない。

「ねえ、そんなことより温かいうちに早く食べてよね」

 早紀はテーブルの上に置いた皿を指さした。香ばしく焼かれた鶏のもも肉がトマトやレモン、あとよくわからない緑の野菜と一緒にきれいに盛られている。

「うん、食べる食べる。それにしても皮パリパリで美味しそうだね」

 恵子さんが鶏肉に夢中になったので、俺もカレーをスプーンですくい口に入れた。やっぱり一分短くお湯から引きあげてしまったからちょっと温い。かといって温めなおすのは面倒なので我慢して食べ進める。
 
 ぬるいカレーを食べ終えたころ、早紀がもう一皿持ってやってきた。

「はい、アスパラのリゾット。これで最後だから私もう帰るね」

 こじゃれた器がテーブルに置かれた。白いコメの中にアスパラの緑がきれいだった。

「ええっ、一緒に食べていかないの? 久しぶりだしいいじゃん」

 恵子さんは駄々をこねるように言った。

「そうしたいけど、退院してまだそんなに日も経っていないし、今日はお母さんがいつもより早く帰ってくるんだ」

 早紀の表情に影が差した。

「ああ、そうか。そうだよね」

 緩んでいた恵子さんの顔が急に真顔になった。

 恵子さんは早紀を玄関まで送ると、すぐにダイニングに帰ってきてリゾットを頬張り始めた。

「ああ、うまい。やっぱり早紀は天才だわ」

 満足そうに言うと、ワインを口に含んだ。

「ねえ、恵子さん。神尾さんの病気ってなんなの?」

 どう見ても病気だったんて信じられない。尋ねると、恵子さんはグラスを置いた。

「まあ、それはさ、翔から直接聞いたらいいんじゃない」

「直接って、今日知り合ったばかりでそんな話は聞けないよ」

 病気の話なんてしづらいし、向こうだって言いたくないかもしれない。

「だったら、これから仲良くなったら聞けばいいじゃん。というか、思ったんだけど翔やたらと早紀に興味もってない? なにタイプなわけ?」

 恵子さんが目を細めて茶化すように訊いてきた。

「ちっ、違うよ。同じクラスだし、それに料理している格好がなんかカッコいいなあと思っただけで……」

「カッコいい?」

 恵子さんが首を傾げた。

「なんか、漫画の主人公みたいな雰囲気を感じたんだよ。よくわかんないけど」

「おっ、漫画オタクだけあって、面白いこというじゃん。詳しく聞かせてよ」

 漫画オタクって。一瞬反論しようかとも思ったけど否定はできない。

「漫画の週刊誌読んでいると、人気の出る漫画とすぐに打ち切りになる漫画があって、人気の出る漫画って絶対と言っていいほど主人公に魅力があってさ、光っているというか、オーラがあるんだよね。なんだか特別な人って感じがしたんだよね」

 料理をしている後ろ姿しか見えなかったけど、特別な何かを感じたことはたしかだった。

「なるほどね」と恵子さんが腕を組んで唸った。そして、

「翔、あんた面白いよ。人と違う感性がある。さすが私の甥っ子、あんたもアーティストだね」

 恵子さんは立ち上がって俺の頭をわしゃわしゃした。

「やめてよ」

 俺は恵子さんの手を払った。すると恵子さんはその反動で椅子に腰かけた。そしてうつむき、「私は嬉しいよ。あんたがアーティストなことも早紀を気に入ってくれたことも。きっと早紀はあんたにとって特別な人になるよ」

 恵子さんは預言者みたいに言うと、数秒後にはいびきをかいて寝てしまった。
 
 一体なんだったんだ。別にアーティストじゃねえし、早紀を気に入ったとも言っていない。特別な人になるなんてもっと意味がわからない。ただ恵子さんの寝顔を見ると、嬉しそうだったから悪い気分ではなかった。