彼が棲む病室は、海の底のようだ、といつも思う。
特に今日は雨だからだろうか。電気もつけないで窓の外を見ている彼は、昏く青い水底に潜り込んで動かない魚みたいだ。


回診に行くと、彼は病気のわりには血色の良い顔を上げる。


「真田先生」


私を呼ぶ声に軽く会釈をした。
30代半ば程の彼は、本来であれば仕事盛りの年齢のはずだ。それがこんな白い檻に閉じ込められているのは、ひとえに彼を蝕んでいる疾患のせいだった。


「南さん、何を見ていたんです?」

「ああ、銀杏(いちょう)の木です。見事でしょう。僕が思うに血液内科病棟のなかで、この角部屋からが一番良く見える」


少し誇らしげな声で彼は言う。
窓の外の大きな銀杏は、私がこの病院に来た数年前から変わらずそこにある。私もこの季節はいつもこの木を窓から見つめていたっけ、と思う。


ここの窓は大きな庇(ひさし)のおかげで雨粒が景色を邪魔しない。長く部屋にいる患者が景色を楽しめるようにとの配慮だった。


「そして、どうしたんです、先生。今日は浮かない顔をしていますね」


困ったように眉を下げて彼は微笑んだ。
私は、先ほどの骨髄検査結果を彼に告げなければいけなかった。天涯孤独の彼は、重大な話のICをする際に家族を呼ぶ必要がない。だから、彼への大事な話は、いつもこの水底のような仄昏い部屋で二人きりで行ってきた。


今日もひとつ、呼吸を止めてから。私は彼へあまりにも良くない結果を告げなければいけない。



「ああ、もう駄目だね、南さんは。おしっこ出なくなってきてる」


上の先生の言葉に私は凝視していたカルテから視線を上げた。


彼の部屋で、最悪の結果、すなわち骨髄移植後も彼の中の白血病細胞が増加を続けていること、今の体力からは次の治療ができないこと、ここで緩和に移行した方が、彼の最期が穏やかになるであろうことを告げたのは、つい2週間前のことだ。


進行が早い。


「もってあと数日だなあ」


顎の髭を撫でさすりながら上の先生が告げた言葉に無言のまま頷いた。


人間の排尿が止まる時は死の近さを意味する。
腎臓までが機能破綻に陥っている証拠だ。
ここまでくるとあとはもう、もって2、3日だ。


「私の判断ミスです」


深い悔恨の言葉が唇から漏れ出た。


「もっと移植のタイミングが早ければよかった。白血病細胞が抑え込まれているうちに判断するべきだったのに」


「でもあの時は感染症も酷かった。そっちで死にそうだったんだから、その治療を優先するのは仕方なかったろう。例え時期がずれても骨髄移植ができただけですごい状態だったと思うぞ」


あまり気に病むな、と肩を叩かれる。


「南さんもそれは分かっているだろ」


そう、きっと彼はちゃんと分かっている。
けれど、天涯孤独で、支えてくれる人間がいなくて、それでも前を向いて治療に励む彼を。自分が一番しんどいはずなのに、私の拙い言葉に微笑んで頷いてくれる、優しい彼を。
私は、救いたかったのだ。


「いっそ代わってあげられたら…」


これは自分の罪だ。
自分が彼に代わることが贖罪になるのなら。


「私はそれでも構わないのに」


そのまま私はカルテの前に突っ伏した。自分を守るみたいに両腕で顔を隠して、疲れていたのか、そこからの記憶はプツンと途切れた。




夢を見ていた。
昏く青いその部屋のことは、よく知っていた。


窓から月の光が差し込む。
隔てられた窓の向こうに見える、柔い光に照らされて浮かび上がる見事な銀杏の木。
まだ、朝に沈む前の、海の底みたいな静寂。
モニターの単調な機械音には、その静寂を破る力は無い。


全て、肌馴染みが良かった。まるでずっとここにいたみたいだ。


腕には2本の管、首にも1本、管が入っていた。
その先に繋がるのは、私を生かすための魔法のような栄養が入っているという水。
大事だから抜くな、と何度も言われた。


指を動かそうとして、けれどピクリとも動かなくてもどかしい。
呼吸も苦しい。
けれど不思議と満足げな心地がした。


もしかしたら、私は南さんと入れ替わったのかもしれない。
だとしたら良かった。
私は私の罪を償える。


そんなことを考えて、バカみたいだと思った。
きっと私はカルテの前で寝てしまったのだ。南さんのことを考えすぎて、こんな夢を見ている。


扉の開く音がして、真夜中だと言うのに誰かが病室に入ってくる。


そちらに視線を向けると、月明かりに照らされて、白衣を着た南さんが私に近づいてくるのが見えた。
全然、白衣が似合っていない。


その姿が面白くて、はは、と笑おうとして、声が掠れきっていることに気づく。
反動で少し咽せて、白衣を着た南さんが驚いて私に駆け寄ってくる。


「大丈夫ですか」

「……大丈夫」


そうしてもう一度、まじまじと彼を見上げた。


「南さん、元気になったの?」


私が問うと、彼は血色の良い顔で少しだけ何かを考えている。
けれど、次の瞬間には、彼は私を安心させるように頷いた。


「ええ、貴女のおかげで元気になりました。今はこうして、夢だった医師として働いてる」


その言葉を聞いて安心した。


「そう。そうなのね。それは良かった。……私が貴方の身代わりになったのかしら。そうなればいいと、確かにさっき、願ったから……」


言いながら、意識が少しずつ曖昧になっていく。なんだかすごく眠かった。


「ありがとう。真田さん」


“真田先生”ではなく、“真田さん”。
なんだかすごくホッとした。本来の私に戻ったみたいだ。


ゆっくりと目を閉じる。
これが現実なら、私は本望だった。


病気の貴方の身代わりに私がなって、そのことにありがとう、と貴方は言ってくれた。
きっと貴方は良い医者になる。
だって、病気だった頃の痛みを知っているはずだから。


心が軽くなっていく。
私はやるべきことをやったのだ、と思う。


少しの違和感と、それをかき消すくらいの満ち足りた安堵に私は沈み込んでいく。


どこかで警報のように、不快な機械音が鳴って、けれどそれを認識することはできなかった。



スッと、彼女の全身から力が抜けるのが分かった。


心静止を示す、単一な機械音が静かだった病室を不愉快に満たした。


朝に沈む前のここは、まるで海の底みたいな静寂の青に包まれていた。満足気に笑みを浮かべるその痩せこけた顔をしばらく見つめてから、僕は静かに死亡確認を始めた。


「どうだった?真田夏菜子の最期は」


朝の回診の時に、上の先生に聞かれ、僕は重苦しいため息を吐いた。


「嫌な気分になります。死への冒涜にすら感じる。あんなふうに記憶を操作して、騙すみたいにして逝かせるなんて、悪趣味だ」


嫌なものを見てしまった。そんな感覚が拭えなかった。
血液内科という仕事柄、死に対しては嫌でも慣れてしまっていて、真田夏菜子への思い入れも他の患者とさして変わらないはずだった。


「けれど、それが真田夏菜子の希望だったんだろう。
2週間前までは酷かったじゃないか。死への恐怖で発狂して、管を全部引きちぎったり、一晩中泣いてたり、こちらへの暴言も聞いてられたもんじゃなかった」


そう、あの患者はひと月ほど前に余命宣告をされている。
2回目の骨髄移植をしてなお、白血病細胞が増えており、もう手の施しようのない状態で、緩和へ移行するICをしたのだ。


そこから彼女の情緒はおかしくなった。暴れて、泣いて、縋って、死への受け入れができる前に最期を迎えることが予想された。


そのため、近年緩和医療で導入されている、死への受け入れを容易にする記憶操作の機械を彼女に取り付けたのが2週間前のこと。




その機械を取り付ける旨の同意書を取りに行ったとき、彼女はやっと諦めたように微笑った。


久しぶりに見る彼女の笑みは、まだ治療が始まった頃、比較的元気だった頃の朗らかな彼女を想起させた。


「銀杏が綺麗だわ」


窓の外を見ながら彼女は言う。


「真田さんは知らないかもしれないけど、他の病室も知っている僕から言わせてもらうとね、この角部屋が一番銀杏が良く見えるんですよ」


そうなのね、と彼女は少しだけ誇らしそうに相槌を打つ。


「ねえ、南先生。この機械を付けると、私は今のこのつらくて苦しい気持ちから逃れられるのよね?」


「そのようです。僕もつけたことがないので分かりませんが……。
一応、患者さんの深層心理を汲み取って、見たい夢を見させてくれるようです」


死を受け入れたいと望むのならば、自然と死を受け入れることができるように。
もしくは、ただ心地よい微睡のみを与えることができるとか、なんとか。


こちらを振り返り、彼女は痩せこけた手で僕が差し出したペンを取った。


「ねぇ、先生。私、医者を目指してたこともあったのよ」


同意書の紙上に、もう力の入りづらくなった文字が掠れたように走る。


「だからね、夢の中では私、医者になるの。そうして貴方が患者よ、南先生。私を救ってくれなかった貴方を、今度は私が殺してやるわ」


そう、意地悪く微笑った顔が、今も胸にこびり付いている。