わたしがきみに出会ったのは、三年前。中学一年生の初夏の音楽室だった。
 当時、同級生からいじめを受けていたわたしは教室に居場所がなくて、授業以外の時間はずっと音楽室で過ごしていた。
 学校の中で一番好きな音楽室。
 そんなある日。わたしの人生は動いた。
 昼休みの終わりが近づき、掃除の時間が迫った頃。グランドピアノの鍵盤を優しく叩いて、わたしはひとり音の余韻を楽しむ。
 まだ昼休み。でも、真面目なきみは誰より早く、持ち場の音楽室に来る。
「失礼しまーす」
 しんとした空気を震わせる、きみの涼やかな声。ピアノ椅子に座るわたしに気付いたきみは、箒を手に固まった。
「あ、ごめん。邪魔した?」
 わたしはただ、きみに見惚れて言葉が出なくて。
 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
 わたしはハッとして「いえ」と小さく返す。急いで楽譜をまとめて胸に抱くと、するりときみの横をすり抜けた。
「あ、ねぇ」
 呼び止められ、胸が弾む。視線を感じて、顔が熱くなっていく。
「さっきのって、きみのピアノ?」
「……はい」
 小さく答える。
「すごく良かった。なんて曲?」
「……名前は、ないです」
「え、そうなの? どうして?」
「……わたしが作った曲なので」
 目を泳がせながら、わたしは答えた。
「へぇ。すごい。じゃあ名前決まったら、教えてよ」
「え……」
 長い前髪の隙間からわたしは、きみをちらりと見た。
 すらりと長い体躯。少し幼げな印象の二重。唇は薄めで、鼻筋はすっと通っている。きっと、誰が見ても好青年と呼ぶだろう風貌。
 地味で根暗で、いじめられっ子のわたしとはまるで違う。
「きみ、いつもここにいるでしょ? 実はぼく、きみのピアノのファンだったりして」
「ファン……?」
「うん。あ、ごめんね呼び止めて。掃除、急がなくて大丈夫?」
 そう言って、きみは椅子をひとつひとつ机に上げ始めた。
 階段を小走りで降りながら、わたしは楽譜をぎゅっと抱き締めた。
 さっきまで灰色だったはずの景色に、赤や青や黄色やオレンジ、いろんな色が灯り出す。恋に落ちた瞬間だった。
 わたしは知らない感情に、くらりと目眩を覚えた。
 出会ったことのない感情が、まるで炭酸水のようにしゅわしゅわと、全身に弾けた。
 
 きみはわたしより二つ上の三年生で、名前は白木(しろき)響介(きょうすけ)くんというらしい。先輩だと知って、少し遠いなと落ち込んだ。でも、恋人がいないと知って少し嬉しかった。
 わたしたちは、時折音楽室で会うようになった。べつに約束をするわけではなかったけれど、わたしがピアノを弾いていると、きみはふらっと現れた。
 
 とある雨の日。傘を忘れた私が音楽室の窓から空を見上げていると、きみはわたしに透明のビニール傘を差し出した。
「……え?」
 傘を忘れたなんて言っていないのに、と思いながら、きみを見る。
「貸してあげる。昇降口に傘ひとつもなかったから、忘れたんでしょ? ぼく、折りたたみ傘あるから」
「……ありがとうございます」
 わたしだけに向けられたその優しさが嬉しくて、思わず俯く。
 雨が降ってて良かった、と心から思った。その日の帰り道、わたしは顔が緩んで仕方なかったから。
 きみが貸してくれた傘はわたしの宝物で、どうしても返したくなくて。わたしは自分の赤い傘を渡そうと、いつもの音楽室に向かった。

 でも。
「先輩! あの……」
 きみは、眉を寄せる。
「……きみ、誰だっけ?」
 昼休みが終わる直前の音楽室。きみはどうしてか、わたしのことを忘れていた。からかっているというような感じではなかった。泣きそうなわたしに、きみは本当に困ったように頭を搔く。
「ごめん。ぼく、記憶障害というか、忘れっぽいところがあってさ。たまに知り合いのこと忘れちゃうんだ。でも、大抵そういうのは家族とか大切な人ばっかだったんだけどな……ぼく、きみになにかしてた?」
 しょんぼりと眉を下げるきみに、わたしはなんとか涙を堪えて笑みを浮かべた。
「……いえ」
 そして、きみに赤い傘を差し出した。
「これ、先輩が前に貸してくれた傘です。ありがとうございました」
「ぼくが? こんな傘持ってたっけ……。でも、ありがとう」
 それからは、休み時間も昼休みも放課後も。ずっと音楽室にいるようになった。もしかしたら、きみが来るかもしれないと思って。
 でもきみは、あれきり音楽室には来なかった。

「今朝、三年が事故って死んだんだって」
「横断歩道にトラックが突っ込んだんでしょ? あそこ車飛ばすから怖いよねー」
「なんか、小学生の列を庇った事故だったらしいよ? トラックが突っ込んでくるの、その人分かってるようだったって」
「うわぁ、なにそれ。こわぁ……」
 きみと出会って色付き始めたわたしの世界は一転、色を失った。

 土砂降りの雨の中、わたしはきみが死んだ交差点で立ち尽くした。道路脇にはたくさんの花。
「お姉ちゃん……お兄ちゃんの知り合い?」
 ぼんやりとしていると、一人の小学生が声をかけてきた。赤いランドセルを背負った、目が大きな可愛らしい女の子だ。事故に巻き込まれた子だ、と彼女のその態度ですぐに分かった。
「……お兄ちゃん、りんちゃんが死ぬ未来が見えたんだって。だから、守ってくれたの」
 女の子がぽつりと言う。りんちゃん、というのは多分自分のことなのだろう。
「未来……?」
 以前、きみが言った言葉を思い出す。
『記憶障害というか、忘れっぽいところがあってさ。でも、大抵そういうのは家族とか大切な人ばっかだったんだけど――』
 もしかして、と、わたしは非現実的な想像をしてみる。とても有り得ない話。でも……。
「お兄ちゃん、未来が見えるんだって言ってたよ。未来を見たら、大切な人との思い出が消えちゃうんだけど、それでもきっとまた出会えるから寂しくないんだって、そう言ってた。でもすぐ、動かなくなっちゃって……」
 わたしは目を伏せる。りんちゃんの話は、最後の方は声が震えて、ほとんど聞き取れなかったけれど、彼女のおかげでわたしはすべてを理解した。
 じわり、とりんちゃんの瞳に涙の膜が張る。その瞳を見た瞬間、わたしもつられるように視界がぼやけた。
「お兄ちゃん、りんちゃんたち助けたせいで死んじゃった。りんちゃんたちのせいで……」
 りんちゃんはリミッターが外れたように、わんわんと泣き出してしまう。わたしはりんちゃんを強く抱き締めた。堪えていないと、わたしも声が震えてしまいそうだった。
「……違うよ。りんちゃんはなんにも悪くない。大丈夫。大丈夫だから」
 りんちゃんはごしごしと目を擦って、わたしを見上げる。
「お姉ちゃん、お兄ちゃんの大切な人?」
 あどけない声で尋ねられ、わたしは小さく首を横に振った。
「違うよ。お兄ちゃんが、わたしの大切な人」
「りんちゃんも、お兄ちゃん大好き。お姉ちゃんも好き」
「ありがとう」
 ようやく笑ったりんちゃんにほっとして、わたしはりんちゃんに家に帰るよう説得した。
「またね! バイバイ」
 りんちゃんは素直に頷いて、黄色い傘を広げて横断歩道を渡っていった。

 りんちゃんの姿が見えなくなると、わたしはひしゃげたガードレールを見つめて、流れる涙もそのままに、息を吐く。
 ふらりと視線を移動させる。
 いくつもの献花や供え物の中に、赤い傘を見つけた。灰色の世界にぽんと咲いた赤い花。持ち主を失ったその傘は、寂しげに花たちを雨から守っていた。
 わたしはとうとう堪え切れず、膝から崩れ落ちた。
 いやだ。どうして。どうして、神様。わたしの好きな人を取らないで。なんでもするから。なんでもあげるから。
 きみが変えた未来なのに、きみがいないなんておかしいよ。
「お願いだから、先輩を返して……」

 ――わたしを、ひとりにしないで。

響介(きょうすけ)くん」
 震える声で強く願ったその瞬間、雨が止んだ。いや、止んだのではない。
 時が止まったのだ。顔を上げると、交差点に侵入していた車も、傘を差して歩いていた人たちも、空から落ちてくる雨粒も。すべてが止まっている。
 わたしは目を瞠る。
 カチリ、と音がして、時と同じくわたしの思考も停止した。どうなっているのかと冷静に頭を回そうとした途端、わたしの意識はそこで糸がぷつっと切れるように途切れた。