華楼宮――その美貌や評判から勧められるままに、もしくは当人の意志の所存関係なく、利権や野望の絡んだ思惑の上で、国内外問わず瑚王家のために集められた夫人の暮らす女の園。

 新しい即妃が輿入れする際には、まずは華楼宮の最奥、天平殿へ出向く。ここには後宮の最高位である皇后、四夫人が住まい、最初に挨拶すべき場所だ。

 異性は皇帝のみしか立ち入ることが許されず、皇子たちでさえ足を運ぶことは禁じられている。唯一無二の後宮の絶対的な存在。

 天平殿に続く千桃道の両端に華楼宮で暮らすほぼすべての即妃たちが集まり、新しい即妃を出迎える。

 笑顔で姉妹の契りを交わそうと歓迎する一方で、その内心に秘めた各々の感情は千差万別だ。渦巻くその色はけっして明るく綺麗なものだけではない。

 春咏は周りの空気を探りながら真っすぐに前を見据え千桃道を進む。加術士として白雉殿を訪れていた際に鳴り響いていた青銅の鐘が、今は春咏のために華楼宮に響き渡っていた。

 天平殿の入口で、春咏は跪きこうべを垂れる。しばらくすると人の気配を感じた。

「面を上げなさい」

 ゆったりとした声の中には鋭さが混じっている。おもむろに従うと、ここでは皇后しか座ることが許されない玉座に腰を下ろして、こちらを悠然と見下ろす人物が目に入る。現皇帝の正妻であり第一皇子、煌揚の母である、陶貴妃(とうきひ)だ。

 艶々とした豊潤な黒髪に、冠帽の華やかさは随一。身に纏っているものも、彼女の周りの空気さえもがすべてが他者を圧倒させる。

「可愛い娘よ、名前は?」

「お初にお目にかかります。大宝家の縁者である春咏と申します」

 名を告げ、春咏はすぐに頭を下げる。初めて会う陶貴妃は、現皇帝の第一夫人であり汪青家が族滅させられたときの皇后でもあった。彼女なら間違いなく当時の事情を知っている。情報を渇望する一方で、陶貴妃の放つ圧に直視が敵わない。

「春咏ね。先にいただいた香油、とてもいい香りだったわ」

「恐れ入ります」

 用意したのは慶雲だ。事前に陶貴妃の好みを把握し、贈り物をしておいたのだ。それほどまでに華楼宮では彼女に気に入られるか、否かで変わってくる。

 穏やかに取り繕っているが、その瞳の奥にある怜悧さと獰猛さをたしかに感じる。だてに長い間、正妃の立場でいない。彼女もまた自分の立場やその地位のためなら邪魔する者には容赦しないのだろう。

 無事に天平殿での謁見を済ませ、春咏はホッと胸を撫で下ろす。彼女が滞在するのは、位のない即妃たちが住まう安和(あんわ)院だ。

 個人に対し専属の女官がつくのは賓以上の階級となり、それより下の即妃たちは、数人の女官が掛け持ちして世話して回る。つまり自身の身の回りの支度は、自分でしなくてはならない。専属の女官がつくのに憧れ、即妃として出世を望む者もいるが、この状況は、春咏にはかえって好都合だ。

 第一関門は突破した。意外とこういった即妃たち同士に交流のある場の方が様々な噂や情報が行き交っていたりする。

 とくに場所に対して術が施されている感じはない。加術士として改めて乾廉を確認したが、彼自身に呪いがかけられている様子もなかった。

 しかし彼が華楼宮で何度か通った女性は必ず不幸に見舞われるという事態は実際に起きている。それは偶然で片づけられるものではないらしいが……。

「春咏さん?」

 不意に声をかけられ、春咏は振り向いた。そこには数人の即妃たちが、緊張した面持ちで春咏をうかがっている。

「初めまして、私たちも先日こちらに輿入れしたばかりなの」

 おそらく春咏が専従加術士として乾廉と対面したのと、時を同じくして華楼宮にやって来た娘たちだ。こうして新しく入った者には声をかけ、後宮でのしきたりや人間関係などを申し伝えていくのだろう。 

「初めまして、春咏です」 

「初めまして、春咏さん。李蝶艶と申します」

 自己紹介を互いにしていく中で、春咏は覚えのある名を聞いた。輿入れした日に乾廉に美酒を献上した女性だ。彼女の父親が乾廉の専従加術士をしていたらしいが、名字からして、おそらく宝亀家の縁者だろうと予測する。

 年は春咏よりもやや年下の印象だ。しかし家柄か彼女の立ち振る舞いはここにいる即妃たちの誰よりとしての優雅で余裕がある。胸元で前合わせた着物は榛色で襦裙は正絹だ。

「皆様は、どの皇子にお渡りに来ていただきたい?」

 こうした場では必ず好色めいた話題を振る者がひとりやふたりは出てくる。表面上は照れて驚きつつ慎重に他の面々の様子を探る。

「第一皇子の煌揚さまは、めったにこちらにいらっしゃらないわ。そもそも、正妃になるためには、まず陶貴妃に気に入っていただかないと」

「まぁ、あなた正妃を目指していらっしゃるの?」

 口元に手をやり、笑みを浮かべながら即妃たちは好き好きに話す。まだ後宮に来て間もなく、即妃としての地位もないので好き勝手言えるが、位を与えられるとまたこの雰囲気は変わるのだろう。

「おそらく陶貴妃さまのお眼鏡にかなった者だけが、煌揚さまとお会いできるのよ」

 その可能性は高いと、声には出さないが内心で春咏は同意する。第一皇子の煌揚との間に男児を設けた即妃が今のところ未来の皇后になる。そして、現皇后の陶貴妃の立場をより揺るがないものにするだろう。

 しかし、ならばもっと煌揚に華楼宮に赴くよう指示するはずだ。他の皇子が先に即妃に男児を生ませたら、煌揚はもちろん彼女に対する風向きも変わってくる。うかうかとはしていないはずだ。

 もしかすると煌揚に関しては、明らかになってはいないが、すでに貴妃候補が決まっているのか。

「一番、可能性があるのは第三皇子の姜刈さまかしら? 彼はよく華楼宮にいらしているもの」

「でも、ひとりの即妃の元に通うことなく、いつも違う女性を訪れているって」

 話題は次々と変わっていく。第三皇子は乾廉とはほぼ同時期に生まれたと聞いているが、良くも悪くも第三皇子として、他の兄皇子たちとは違い、自由に過ごしているらしい。

 皇子たちの中では、この華楼宮で一番姿を見ると続けられる。

「第二皇子の乾廉さまは?」

 巡り巡って乾廉の話になる。顔には出さないが、春咏の顔に一瞬緊張が走った。

「乾廉さまも、煌揚さま同様、こちらにはほとんど顔を見せないわ」

「乾廉さまといえば、知っている? あの噂」

 わずかに声をひそめ、ある即妃が切り出す。

「直接は知らないけれど、賓の方々から聞いたわ。彼と夜を共にしたら不幸が訪れるって」

「それって本当なの?」

「最終的には皆、華楼宮から出られたそうなの」

 どうやら想像していた以上に乾廉の呪いにまつわる話は広まっているらしい。

「怖いわ。乾廉さまには気に入られないようにしないと」

「でもここにいる限り乾廉さまにお目にかかることはないだろうから」

 すっかり怖じ気づき、重い雰囲気に包まれる。

「私の父は数年前、乾廉さまの専従加術士をしていたんです」 

 ところが明るい口調で蝶艶が切り出し、一同の注目を集めた。

「その際に何度かお目にかかったことがあるのですが、素晴らしい方ですよ。きっとその呪いも噂ですわ。私の父もずっとついておりましたし」

 言い切る蝶艶に即妃たちは目を丸くする。彼女は笑みをたたえたままだ。続けて蝶艶は春咏に問いかける。

「春咏さまは? 誰か気になる皇子はいらっしゃいますか?」

 今まで聞き役に徹していたので、急にお鉢が回ってきて春咏は内心で焦る。まさかそういう質問を受けるとは思ってもみなかった。

「私は……」

「これは、これは。新しい即妃たちは、どんな話で盛り上がっているのかな?」

 そこに突然割って入った声は男性のもので、その場にいる女性全員が硬直する。

「姜刈さま!?」

 まさに話題にしていた人物がその場に現れ、即妃たちは慌てて頭を下げる。

「かしこまらなくてかまわないよ。楽にしてほしい」

 姜刈の一言でおずおずと顔を上げる。そこに現れたのは姜刈だけではなかった。

「乾廉さま……」

 目を丸くして蝶艶が呟く。姜刈の隣にはここではめったに姿を見せない乾廉も一緒だった。彼を初めて見る者も多かったので、彼女たちは互いに顔を見合わせ、皇子ふたりの登場に狼狽えだす。

 さらにもうひとり、皇子ふたりから一歩下がったところに控えている男性がいた。彼の正体はその格好ですぐに全員気がつく。加術士だ。おそらく姜刈の専従加術士だろう。

 背が高く体形もしっかりしていて体術の使い手と言われても違和感はない。口元を隠し、間から覗く目は鋭く冷たいので、即妃たちを怯えさせるのには十分な圧を纏っていた。

 春咏としては気になるところではあるが、他の即妃同様目を合わせないよう心掛ける。

 華楼宮は皇帝や皇子を除き、基本的に男子禁制だ。とはいえ皇子ひとり丸腰でいるわけにもいかず、例外として帯同者を認めている場合もある。姜刈の場合は専従加術士なのだろう。

 皇子でも自由に出入りできるのは、昼間の明るい時間だけだと決まっている。夜伽の相手に指名するのは、それなりの手順を踏まなくてはならないのだ。

「先日、新しく輿入れした即妃たちに挨拶をしておきたくてね。俺は第三皇子、瑚姜刈。ここでの暮らしをどうか楽しんでほしい」

 乾廉よりわずかに背は低いが、姜刈の外貌は十分に整っている。わずかに色素の薄い髪、物腰柔らかい姜刈の雰囲気に、即妃たちは緊張を解いて頬を赤らめる。階級のない即妃である自分たちを気にかけてくれる皇子の優しさと気さくさに、心打たれるのは言うまでもない。彼に気に入られたら、それなりの地位も約束されるのだ。

 口角を上げ、穏やかな口調だが春咏は直感的に姜刈への警戒心を強める。さっきからずっと目が笑っていない。放つ言葉も上滑りだ。

 続けて彼はうしろにいる加術士に目を遣る。

「こちらは俺の専従加術士。怖い顔をしているけれど俺に危害を加えない限りなにもしないから心配しなくてもかまわない」

 その言い方はまるで愛玩動物だ。紹介と呼ぶには不十分な扱いをされたにもかかわらず、加術士は、眉ひとつ動かさない。続けて姜刈の目線は、隣にいる乾廉に向けられる。

「さらに、今日は珍しい人物を連れて来たんだ。みんな、彼を知っているかい?」

 わずかに馬鹿にしたような空気を春咏は感じ取る。どうやら純粋な信頼し合っている兄弟というわけではないようだ。

「第二皇子の瑚乾廉だ」

 短く乾廉が名乗ると、姜刈がやれやれと肩をすくめる。

「まったく、どういう風の吹き回しだ? ずっと華楼宮から遠退いていたのに」

「挨拶しておきたい相手がいたんだ」

 姜刈に答えたのち、乾廉の目線は即妃のひとりに向けられる。

「お久しぶりです、乾廉さま。李玄棟(げんとう)の娘、李蝶艶でございます」

 乾廉の視線を受け、蝶艶はその場に膝を折った。

「父上の容体はどうだ?」

「はい。おかげさまであまり外には出られませんが、加術士としての腕はまだ健在です。父から乾廉さまにくれぐれもよろしくと。あの……御酒はお気に召していただけたでしょうか?」

 不安そうな眼差しで蝶艶は尋ねる。毒味させられたあの酒のことだと春咏はすぐに気づいた。

「ああ。その日のうちに飲ませてもらった」

「よかったです。有難き幸せでございます」

 乾廉の返答に、心底安堵したという面持ちで蝶艶は再度頭を下げた。

「へぇ。兄上は彼女が目当てだったのか」

 ふたりのやりとりを見ていた姜刈がからかい混じりに口を挟む。乾廉がなにかを言う前に彼の意識は蝶艶に向いた。

「でも気をつけた方がいいよ。なんせ乾廉は呪われた男だからね」

 その発言に他の即妃たちがざわつき出す。春咏は内心でふつふつと湧く怒りを抑える。もしも加術士としてそばにいたのなら言い返すところだが、今は沈黙を貫くまでだ。

「お言葉ですが、姜刈さま。私はまったく気にしておりません」

 春咏の代わりというわけではないが、蝶艶はきっぱりと答えた。その反応が意外だったのか、目を丸くする姜刈に蝶艶はにこりと微笑む。

「呪いと言われたのは以前のお話でしょう? 今はまた違っているかもしれません」

 即妃でありながら皇子に物申す度胸と乾廉に対する絶対的な信頼。彼女の揺らがない想いに、春咏の心がわずかに乱れる。姜刈は一瞬冷たい表情を見せたが、すぐに笑みをつくった。

「そういえば、君たちの名前を聞いていなかったね。教えてくれないかな?」

 他の即妃たちは、順に簡単な自己紹介と名前を告げていく。春咏も例外ではない。

「春咏と申します」

 すべて計画通りだ。

 囮になる春咏に会うためとはいえ、乾廉が今まで足を運んでいなかった華楼宮に急に顔を出し、面識のない即妃を夜伽の相手に指名などしたら、どう考えても不自然であり違和感を抱かせる。

 だから父が専従加術士をしていた蝶艶に挨拶をするため、重い腰を上げて華楼宮までやってきたという名目を作った。ほぼ同時期に輿入れした春咏と蝶艶が親しくなるのを見越して。

 姜刈の存在がどこまで計算のうちだったかは不明だが、先に第三皇子と面識ができたのは春咏にとっては好都合だった。さりげなく名前も名乗れ、最初の関門は突破したと言える。

「せっかくなら兄上の加術士も連れてくればよかったのに。また替わったって聞いたよ」

 安心していると不意に自分の話題が上がり、春咏はこっそり乾廉を見遣った。姜刈は興味津々といった調子だが、乾廉はなんと答えるのか。

 本来なら、自分も加術士として乾廉のそばにいるべきなのかもしれない。

「悪いが、見世物じゃない」

 しかし乾廉は姜刈をあっさりと一蹴する。そこで引き下がらず、さらに姜刈は問いかける。

「そんな隠したくなるほどの美人なのか?」

「そうかもな」

 冗談と皮肉が混じった言い方に、乾廉は真面目な顔で頷いた。姜刈は虚を衝かれた顔になり、春咏も目を見張る。そのとき意図せず乾廉と視線が交わり、慌てて逸らす。

 どうしよう。今のは、あからさまだった?

 気にするも、周囲は春咏の仕草などになにも注目していない。自分の使命はここで囮となり、乾廉にまつわる呪いの噂の真相を突き止めることだ。改めて役割を認識し、春咏は自身に活を入れた。