「では公主様、時間になりましたら夕餉をお持ちいたします」
「ええ、よろしく」
青藍の自室の扉にて緋燕は拝手した。二人きりでは友人として接しているが、誰が居るかわからない場所では互いに主従らしく振舞っている。
本日の青藍一行は昼下がりに紫微城内の庭園で蒼琳の側近たちと茶会で過ごしていた。
瑛青宮へ戻ってきた頃には青藍は疲れから不機嫌になっており、いつ爆発しないか緋燕は内心ひやひやしていた。もっとも、付き添いの侍女たちも彼女の扱いに慣れているので、瑛青宮に戻るまで我慢させるのが上手かった。
(まぁ、今日も何事もなく終わってよかった)
皇帝の側近の腹を探るのも妹の役割だと緋燕に言っていた。二人の兄妹関係も良好で、青藍は兄の長期的な政権を望んでいる。政治に口を出すわけではないが、少しでも兄の役には立ちたい。故に不定期で側近たちと茶会を開いては不穏分子が居ないか探っているそうだ。
青藍の元を離れ、瑛青宮の中庭を通り抜けて膳房に向かおうとした時、聞き慣れない声に名前を呼ばれた。
「廉 緋燕殿でいらっしゃいますか?」
振り返ると見知らぬ宦官が三人、瑛青宮の門をくぐろうとしていた。それぞれ顔の系統は違うものの、三人とも見惚れるぐらい整った顔立ちをしている。
とは言え、日頃から見目の良い皇帝兄妹を見ていることもあり、惚けることはなかった。
それよりも不審に感じることが先行し、緋燕は三人に対して身構える。
(なんで私のこと知ってんの、この人たち)
緋燕の素性を知っているのは青藍の従者のみ。口の固い、青藍が信頼した数少ない人物しか知らないはずだ。初対面の従者に声をかけられることなどありえないのだ。
しかし、声をかけられた以上、返事はしなければ非常識と思われるだろう。最悪の場合、この件を理由にありもしない話をでっち上げられて居場所を失くすかもしれない。
どちらにせよ厄介だと思いつつ、緋燕は口を開いた。
「……はい」
声をかけた宦官の後ろで控えていた二人のうち、赤茶の髪で活発そうな宦官が「普通じゃないか」とつぶやく。独り言のつもりだったかもしれないが、残念ながら緋燕の耳にも届いていた。赤茶髪の宦官の失言をかき消すように、隣に並んでいた黒髪で寡黙そうな宦官が咳ばらいをしてごまかした。
後方二人のやりとりなど気に留める素振りもなく、手前に立つ色素の薄い金髪の宦官は人の好い笑みを浮かべた。
「わたくしどもは御薬院の者です」
「御薬院……」
御薬院は字の通り薬を扱う部署だ。薬以外にも皇帝の身の回りの世話を行う私的な立ち位置でもあるため、優秀な人材が所属している。おそらくこの三人の身分は緋燕なぞ足元にも及ばない程高い地位にあるだろう。
そんな高貴な人が何の用なのか。緋燕は三人が口を開くのを待った。
「かねてより公主様の食事を一人でご準備されているとお聞きしておりますが」
「まぁ……はい」
警戒するあまり曖昧な返事をすると、赤茶髪の宦官が眉間に皺を寄せる。
今にも舌打ちをしそうな彼に内心緋燕は萎縮していたが、悟られないように奥歯を噛み締めた。
「長官殿より薬膳料理について伺いたいことがあるとの申し付けを受けて参りました。ご同伴をお願いしてもよろしいでしょうか?」
確かに、料理と薬は切り離せない部分がある。しかも薬膳料理ならなおさらだ。
理にはかなっているものの、何故、顔も知らぬ宦官を訪ねる必要があるのだろうか。
「構いませんが、私じゃなくて尚膳監のもっと上の方に聞かれた方がいいんじゃないですか?」
「現場で実際に作られている方に、と長官殿はおっしゃっています」
しびれを切らしたのか後ろに控えていた二人が手前に出てくる。緋燕より背が高い彼らから見下ろされると気おされる。知人ではないゆえ、なおのことである。
多少おかしいと思いながらも格上の相手に対して噛みつけるわけもなく。緋燕は渋々承諾するしかなかった。
連れてこられたのは宮城の北端にある小さな宮だった。廃れた宮の中を三人は途中まで前を歩いていたが、ある一室の前でぴたりと足を止めた。
「此処は?」
先に行くよう促され、緋燕が中に入る。建付けの悪い扉を開けると、部屋の中は真っ暗だった。
手燭もないので扉の前で立ちすくんでいると、背後から誰かに押し出された。
「うわっ!」
突然のことで対応できるはずもなく、顔面から転倒した。幸い床は何もない置かれていないらしく、大した怪我ではなさそうだ。しかし何もないからこそ、緋燕は思いっきり鼻先をぶつけた。
「いたたた」
上半身を起こして鼻をさすっていると、小さな光が視界の端に入る。
振り返ると金髪の宦官が手燭台を持って緋燕を見下ろしていた。随分用意周到だなと緋燕は三人を睨みつける。
一見穏やかに見えるものの、陰影のせいか、三日月のように細められた目は全く笑っていなかった。
「悪く思わないでくださいね」
「何が……うわっ!」
「やれ」と告げた金髪の宦官に気を取られていると、残りの宦官たちに両腕を取られる。
「な、な、な、な、何!?」
もがこうとするも、男二人に勝てるはずもない。二の腕を掴まれ、暗闇へと引っ張られる。どうにか足を使って引きずられるのを防ごうとするが、抵抗も空しくずるずると部屋の奥へと連れて行かれた。
「出る杭は打たれるって言うでしょう?」
右腕を掴んでいた黒髪の宦官が緋燕の耳元で囁く。暴れて逃れようと思ったものの、生殺与奪は宦官たちに握られている。緋燕は自分が窮地に置かれていることに改めて気づいた。
不自然に置かれた古びた机の前で金髪の宦官が立ち止まると、手燭台を置いて振り返った。
机の上には手燭台以外に桶があり、中には淀んだ色の液体が入っていた。
「貴方は平民の癖にでしゃばりすぎたんですよ」
桶を緋燕の方へと寄せ、水面が鈍く揺れる。液体の正体が水ではないことは薄暗くとも理解出来た。
今から何をされるかわからない恐怖がぞわりと背すじを駆けあがる。緋燕は自分が怯えて居ることを悟られないよう、ぐっと顔をしかめて金髪の宦官をねめつけた。
「出しゃばってなんか無いです! それに、こんなところ来たくて来たんじゃないので!」
望んで後宮へ来たわけでない。緋燕の言いたいことはもっともであるが、この場で働く者の大半は強い上昇志向を持っている。きっかけは緋燕と同様に己の意思ではないかもしれない。それでも与えられた場所で必死に這い上がろうと足掻く者たちにとって、緋燕の態度はさぞかし癇に障っただろう。
暴れる緋燕の前髪を乱暴に掴み、無理矢理顔を上げさせると、笑みを崩さなかった金髪の宦官が目の前で舌打ちをした。
「いいよね。そうやって居たくないなんか言ってても、陛下の近くに居られるんだから」
取り繕う余裕がないのか、金髪の宦官の言葉が乱れる。拳に力を込め、痛みで顔を歪める緋燕を氷のような視線で見下ろしていた。
「僕らだって来たくてこんなところに来たわけじゃないのに」
桶の中に緋燕の顔を沈めようと勢いよく前髪を掴んだ手を振りかぶる。しかし緋燕もそう簡単に顔を浸けるわけにもいかないと踏ん張る。
「最近の陛下は何かあれば緋燕、緋燕、緋燕ってさ。……こんなんじゃ、努力してる僕らがまるで馬鹿みたいじゃないか」
自嘲気味に微笑みながら、前髪を離した手で後頭部を押さえる。一瞬泣きそうな顔をしていたにも関わらず、金髪の宦官の腕には相当の力が入っていた。
「ああ、もう。みっともないな」
例えこの液体が水だったとして、顔を沈められればどうなるかわからないほど馬鹿でもない。みっともないと言われようが死にたくはないのだ。
どれぐらい耐えただろうか。緋燕と宦官たちの攻防は水面ぎりぎりのところで続いていた。いくら宦官とは言え、男性三人に抵抗する力はもう残っていなかった。
(もう駄目だ!)
我慢していた涙が水面に波紋を広げる。
鼻の先が水面に触れるか触れないかの瞬間。壊れそうな勢いで膳房の扉が開いた。
「緋燕!」
扉を開けた蒼琳が緋燕と宦官の元へ近寄る。
まぶしい。さっきまで蝋燭の光一つしかなかった部屋に、松明が何本も焚かれる。明るくなった室内では、緋燕と宦官たちを衛士たちが取り囲んでいた。
「へ、陛下!?」
「どうして此処が……」
動揺する三人を尻目に、緋燕は最後の力を振り絞って拘束から逃れた。
よろめいた緋燕をとっさに蒼琳が受け止める。蒼琳は片膝をつき、横たわる緋燕の肩に手を回した。
「たまたま私が聞いてたのよ」
声のする方へ向くと、ぞろぞろと衛士たちが次々に道を開けていく。海を割るように人の波を割いたのは、青藍であった。
いつもと様子は異なり、お転婆は鳴りを潜めた親友は、緋燕が見たこともないような冷たい目をしていた。
「今日も夜食をお願いって言おうとしたらあんたたちが緋燕に話しかけてるを聞いちゃったってわけ」
苛立ちを隠せないのか、青藍はこつこつと片足を動かしているらしい。静かな怒りがやけに部屋に響く。
「で、一体全体どこが薬膳のお話なのかしら?」
声を荒らげたいのをこらえ、青藍は口元を引きつかせながら尋ねる。
皇妹として立場をわきまえつつも、親友に対する暴挙に腹を立たせる青藍を見て、急に緋燕の涙腺が緩んだ。
「僕らは長官殿に言われて……」
彼らが言うには、自分たちの上司である御薬院長官がそそのかしたらしい。
優秀な宦官とは言え、新人の彼らは未だに蒼琳の世話役に選ばれたことがないらしく、今回の件が上手くいけば長官が口添えをしてくれる約束されたと言う。
宦官たちの言い分を聞いている間も、緋燕の目からかぽろぽろと安堵の涙がこぼれており、蒼琳が何も言わずにぬぐっていた。
「彼を陥れたら、長官殿が陛下と会う機会をくださると……」
金髪の宦官は時折蒼琳の様子を伺いながらも、衛士たちの尋問に答えた。慄く姿からはさっきまでのふんぞり返った姿を想像出来ず、なんとも無様であった。
「なるほど」
いつもより低い蒼琳の声に、肩が跳ねる。怯える姿は三者三様だが、視線は縋るように蒼琳を見つめていた。
当の本人は眉間に皺を寄せ、真一文字に口を閉じたまま、緋燕の赤くなった鼻先を凝視していた。
「君たちの処遇については、改めて検討する」
怒気を含ませつつも蒼琳が静かに言う。三人を一瞥すると、後ろに控えていた衛士たちに合図した。
「すまないが、彼らをよろしく」
「はっ」
抵抗する気力もないらしい三人は衛士にされるがままに立たされた。足をもつれさせながらも連行される姿は先程の緋燕を彷彿とさせた。丸くなった背中を目だけで追いかけていると、頭上から声が降ってきた。
「怪我は?」
「間一髪のところでお二人が来てくださったので」
青藍の声で顔を上げると、彼女の目には涙が浮かんでいた。止まりかけていた緋燕の目にもまた涙がにじんだ。
「よかった……!」
しかし思わぬところから引き寄せられ、驚きのあまり緋燕の涙は引っ込んだ。
「わ、ちょ、ちょっと! 陛下!」
緋燕の細い腰に蒼琳の腕が回る。青藍の前で抱きすくめられることが恥ずかしく、緋燕が必死に抵抗するが、蒼琳にとっては微風のようなものだった。
あまりの力強さに息苦しささえ感じてきたため、緋燕は思いきり腕を振り回した。すると懐に入った何かと手がぶつかった。緋燕が「あ」と声を漏らすよりも先に、紙片が飛び出した。
「あ、しまった……!」
宙を舞う紙を見上げながら蒼琳が珍しく動揺する。回収しようとするも、横たわる緋燕を抱えたままの彼にはどうすることもできず、空しくも紙は雪のように降り続いた。
「あ」
まるで神のいたずらか。回収しようと天に掲げる蒼琳の手をすり抜け、緋燕の手元に紙が落ちた。
公的な書類と言うことは抜け落ちていた緋燕は手に取るなり中身を読み始めた。
秘密の庭を歩いている場面のようだ。物語の一部のようだが、既視感のある名前の宦官と皇帝に目を瞠った。
「……何、これ」
「あちゃー」
何故蒼琳が持っているか。
青藍に向かってそう言いたかったが、驚きのあまり言葉を発することが出来ない。代わりに視線で訴えるが、青藍は即座に逸らした。
「青藍が言ってた物語の続き、だよね?」
「そ、そうね……」
答えたものの、顔ごと逸らした青藍はそれ以上口を開くことはなかった。
他に頼ると言えば蒼琳しかこの場に居ない。おそるおそる顔を上げると、隠すように片手で顔を覆っていた。指のすき間から見える顔は真っ赤に染まっているが薄明りの中でもわかった。
三人しか居ない部屋にしばらく無言が続く。
見上げたまま動かない緋燕と隠したまま動かない蒼琳にいたたまれなくなったのか、青藍がようやく口を開いた。
「あー……。緋燕」
「何」
壊れた機械のようにぎしぎしと青藍の方へと視線を向ける。
視線がかち合うと、申し訳なさそうな青藍が小さく挙手をした。
「ごめん、あれ書いてたの私」
「……は?」
「いや~、今日も続きを書こうと思って兄上のところに行こうとしてたんだよね」
気まずそうに視線をさ迷わせながら青藍はまくしたてるように続ける。
「あ、ちなみに二人の背中を押そうと思って書いてたからね! からかってる訳じゃないから!」
言い訳じみた青藍の言葉は、もはや緋燕には一文字も届いていない。
どうしてこの本を青藍が書いているのか。何よりどうして蒼琳は持ち歩いているのか。
もう、何もわからない。緋燕はただただ、蒼琳の腕の中で目を見開いて固まっていた。
「ええ、よろしく」
青藍の自室の扉にて緋燕は拝手した。二人きりでは友人として接しているが、誰が居るかわからない場所では互いに主従らしく振舞っている。
本日の青藍一行は昼下がりに紫微城内の庭園で蒼琳の側近たちと茶会で過ごしていた。
瑛青宮へ戻ってきた頃には青藍は疲れから不機嫌になっており、いつ爆発しないか緋燕は内心ひやひやしていた。もっとも、付き添いの侍女たちも彼女の扱いに慣れているので、瑛青宮に戻るまで我慢させるのが上手かった。
(まぁ、今日も何事もなく終わってよかった)
皇帝の側近の腹を探るのも妹の役割だと緋燕に言っていた。二人の兄妹関係も良好で、青藍は兄の長期的な政権を望んでいる。政治に口を出すわけではないが、少しでも兄の役には立ちたい。故に不定期で側近たちと茶会を開いては不穏分子が居ないか探っているそうだ。
青藍の元を離れ、瑛青宮の中庭を通り抜けて膳房に向かおうとした時、聞き慣れない声に名前を呼ばれた。
「廉 緋燕殿でいらっしゃいますか?」
振り返ると見知らぬ宦官が三人、瑛青宮の門をくぐろうとしていた。それぞれ顔の系統は違うものの、三人とも見惚れるぐらい整った顔立ちをしている。
とは言え、日頃から見目の良い皇帝兄妹を見ていることもあり、惚けることはなかった。
それよりも不審に感じることが先行し、緋燕は三人に対して身構える。
(なんで私のこと知ってんの、この人たち)
緋燕の素性を知っているのは青藍の従者のみ。口の固い、青藍が信頼した数少ない人物しか知らないはずだ。初対面の従者に声をかけられることなどありえないのだ。
しかし、声をかけられた以上、返事はしなければ非常識と思われるだろう。最悪の場合、この件を理由にありもしない話をでっち上げられて居場所を失くすかもしれない。
どちらにせよ厄介だと思いつつ、緋燕は口を開いた。
「……はい」
声をかけた宦官の後ろで控えていた二人のうち、赤茶の髪で活発そうな宦官が「普通じゃないか」とつぶやく。独り言のつもりだったかもしれないが、残念ながら緋燕の耳にも届いていた。赤茶髪の宦官の失言をかき消すように、隣に並んでいた黒髪で寡黙そうな宦官が咳ばらいをしてごまかした。
後方二人のやりとりなど気に留める素振りもなく、手前に立つ色素の薄い金髪の宦官は人の好い笑みを浮かべた。
「わたくしどもは御薬院の者です」
「御薬院……」
御薬院は字の通り薬を扱う部署だ。薬以外にも皇帝の身の回りの世話を行う私的な立ち位置でもあるため、優秀な人材が所属している。おそらくこの三人の身分は緋燕なぞ足元にも及ばない程高い地位にあるだろう。
そんな高貴な人が何の用なのか。緋燕は三人が口を開くのを待った。
「かねてより公主様の食事を一人でご準備されているとお聞きしておりますが」
「まぁ……はい」
警戒するあまり曖昧な返事をすると、赤茶髪の宦官が眉間に皺を寄せる。
今にも舌打ちをしそうな彼に内心緋燕は萎縮していたが、悟られないように奥歯を噛み締めた。
「長官殿より薬膳料理について伺いたいことがあるとの申し付けを受けて参りました。ご同伴をお願いしてもよろしいでしょうか?」
確かに、料理と薬は切り離せない部分がある。しかも薬膳料理ならなおさらだ。
理にはかなっているものの、何故、顔も知らぬ宦官を訪ねる必要があるのだろうか。
「構いませんが、私じゃなくて尚膳監のもっと上の方に聞かれた方がいいんじゃないですか?」
「現場で実際に作られている方に、と長官殿はおっしゃっています」
しびれを切らしたのか後ろに控えていた二人が手前に出てくる。緋燕より背が高い彼らから見下ろされると気おされる。知人ではないゆえ、なおのことである。
多少おかしいと思いながらも格上の相手に対して噛みつけるわけもなく。緋燕は渋々承諾するしかなかった。
連れてこられたのは宮城の北端にある小さな宮だった。廃れた宮の中を三人は途中まで前を歩いていたが、ある一室の前でぴたりと足を止めた。
「此処は?」
先に行くよう促され、緋燕が中に入る。建付けの悪い扉を開けると、部屋の中は真っ暗だった。
手燭もないので扉の前で立ちすくんでいると、背後から誰かに押し出された。
「うわっ!」
突然のことで対応できるはずもなく、顔面から転倒した。幸い床は何もない置かれていないらしく、大した怪我ではなさそうだ。しかし何もないからこそ、緋燕は思いっきり鼻先をぶつけた。
「いたたた」
上半身を起こして鼻をさすっていると、小さな光が視界の端に入る。
振り返ると金髪の宦官が手燭台を持って緋燕を見下ろしていた。随分用意周到だなと緋燕は三人を睨みつける。
一見穏やかに見えるものの、陰影のせいか、三日月のように細められた目は全く笑っていなかった。
「悪く思わないでくださいね」
「何が……うわっ!」
「やれ」と告げた金髪の宦官に気を取られていると、残りの宦官たちに両腕を取られる。
「な、な、な、な、何!?」
もがこうとするも、男二人に勝てるはずもない。二の腕を掴まれ、暗闇へと引っ張られる。どうにか足を使って引きずられるのを防ごうとするが、抵抗も空しくずるずると部屋の奥へと連れて行かれた。
「出る杭は打たれるって言うでしょう?」
右腕を掴んでいた黒髪の宦官が緋燕の耳元で囁く。暴れて逃れようと思ったものの、生殺与奪は宦官たちに握られている。緋燕は自分が窮地に置かれていることに改めて気づいた。
不自然に置かれた古びた机の前で金髪の宦官が立ち止まると、手燭台を置いて振り返った。
机の上には手燭台以外に桶があり、中には淀んだ色の液体が入っていた。
「貴方は平民の癖にでしゃばりすぎたんですよ」
桶を緋燕の方へと寄せ、水面が鈍く揺れる。液体の正体が水ではないことは薄暗くとも理解出来た。
今から何をされるかわからない恐怖がぞわりと背すじを駆けあがる。緋燕は自分が怯えて居ることを悟られないよう、ぐっと顔をしかめて金髪の宦官をねめつけた。
「出しゃばってなんか無いです! それに、こんなところ来たくて来たんじゃないので!」
望んで後宮へ来たわけでない。緋燕の言いたいことはもっともであるが、この場で働く者の大半は強い上昇志向を持っている。きっかけは緋燕と同様に己の意思ではないかもしれない。それでも与えられた場所で必死に這い上がろうと足掻く者たちにとって、緋燕の態度はさぞかし癇に障っただろう。
暴れる緋燕の前髪を乱暴に掴み、無理矢理顔を上げさせると、笑みを崩さなかった金髪の宦官が目の前で舌打ちをした。
「いいよね。そうやって居たくないなんか言ってても、陛下の近くに居られるんだから」
取り繕う余裕がないのか、金髪の宦官の言葉が乱れる。拳に力を込め、痛みで顔を歪める緋燕を氷のような視線で見下ろしていた。
「僕らだって来たくてこんなところに来たわけじゃないのに」
桶の中に緋燕の顔を沈めようと勢いよく前髪を掴んだ手を振りかぶる。しかし緋燕もそう簡単に顔を浸けるわけにもいかないと踏ん張る。
「最近の陛下は何かあれば緋燕、緋燕、緋燕ってさ。……こんなんじゃ、努力してる僕らがまるで馬鹿みたいじゃないか」
自嘲気味に微笑みながら、前髪を離した手で後頭部を押さえる。一瞬泣きそうな顔をしていたにも関わらず、金髪の宦官の腕には相当の力が入っていた。
「ああ、もう。みっともないな」
例えこの液体が水だったとして、顔を沈められればどうなるかわからないほど馬鹿でもない。みっともないと言われようが死にたくはないのだ。
どれぐらい耐えただろうか。緋燕と宦官たちの攻防は水面ぎりぎりのところで続いていた。いくら宦官とは言え、男性三人に抵抗する力はもう残っていなかった。
(もう駄目だ!)
我慢していた涙が水面に波紋を広げる。
鼻の先が水面に触れるか触れないかの瞬間。壊れそうな勢いで膳房の扉が開いた。
「緋燕!」
扉を開けた蒼琳が緋燕と宦官の元へ近寄る。
まぶしい。さっきまで蝋燭の光一つしかなかった部屋に、松明が何本も焚かれる。明るくなった室内では、緋燕と宦官たちを衛士たちが取り囲んでいた。
「へ、陛下!?」
「どうして此処が……」
動揺する三人を尻目に、緋燕は最後の力を振り絞って拘束から逃れた。
よろめいた緋燕をとっさに蒼琳が受け止める。蒼琳は片膝をつき、横たわる緋燕の肩に手を回した。
「たまたま私が聞いてたのよ」
声のする方へ向くと、ぞろぞろと衛士たちが次々に道を開けていく。海を割るように人の波を割いたのは、青藍であった。
いつもと様子は異なり、お転婆は鳴りを潜めた親友は、緋燕が見たこともないような冷たい目をしていた。
「今日も夜食をお願いって言おうとしたらあんたたちが緋燕に話しかけてるを聞いちゃったってわけ」
苛立ちを隠せないのか、青藍はこつこつと片足を動かしているらしい。静かな怒りがやけに部屋に響く。
「で、一体全体どこが薬膳のお話なのかしら?」
声を荒らげたいのをこらえ、青藍は口元を引きつかせながら尋ねる。
皇妹として立場をわきまえつつも、親友に対する暴挙に腹を立たせる青藍を見て、急に緋燕の涙腺が緩んだ。
「僕らは長官殿に言われて……」
彼らが言うには、自分たちの上司である御薬院長官がそそのかしたらしい。
優秀な宦官とは言え、新人の彼らは未だに蒼琳の世話役に選ばれたことがないらしく、今回の件が上手くいけば長官が口添えをしてくれる約束されたと言う。
宦官たちの言い分を聞いている間も、緋燕の目からかぽろぽろと安堵の涙がこぼれており、蒼琳が何も言わずにぬぐっていた。
「彼を陥れたら、長官殿が陛下と会う機会をくださると……」
金髪の宦官は時折蒼琳の様子を伺いながらも、衛士たちの尋問に答えた。慄く姿からはさっきまでのふんぞり返った姿を想像出来ず、なんとも無様であった。
「なるほど」
いつもより低い蒼琳の声に、肩が跳ねる。怯える姿は三者三様だが、視線は縋るように蒼琳を見つめていた。
当の本人は眉間に皺を寄せ、真一文字に口を閉じたまま、緋燕の赤くなった鼻先を凝視していた。
「君たちの処遇については、改めて検討する」
怒気を含ませつつも蒼琳が静かに言う。三人を一瞥すると、後ろに控えていた衛士たちに合図した。
「すまないが、彼らをよろしく」
「はっ」
抵抗する気力もないらしい三人は衛士にされるがままに立たされた。足をもつれさせながらも連行される姿は先程の緋燕を彷彿とさせた。丸くなった背中を目だけで追いかけていると、頭上から声が降ってきた。
「怪我は?」
「間一髪のところでお二人が来てくださったので」
青藍の声で顔を上げると、彼女の目には涙が浮かんでいた。止まりかけていた緋燕の目にもまた涙がにじんだ。
「よかった……!」
しかし思わぬところから引き寄せられ、驚きのあまり緋燕の涙は引っ込んだ。
「わ、ちょ、ちょっと! 陛下!」
緋燕の細い腰に蒼琳の腕が回る。青藍の前で抱きすくめられることが恥ずかしく、緋燕が必死に抵抗するが、蒼琳にとっては微風のようなものだった。
あまりの力強さに息苦しささえ感じてきたため、緋燕は思いきり腕を振り回した。すると懐に入った何かと手がぶつかった。緋燕が「あ」と声を漏らすよりも先に、紙片が飛び出した。
「あ、しまった……!」
宙を舞う紙を見上げながら蒼琳が珍しく動揺する。回収しようとするも、横たわる緋燕を抱えたままの彼にはどうすることもできず、空しくも紙は雪のように降り続いた。
「あ」
まるで神のいたずらか。回収しようと天に掲げる蒼琳の手をすり抜け、緋燕の手元に紙が落ちた。
公的な書類と言うことは抜け落ちていた緋燕は手に取るなり中身を読み始めた。
秘密の庭を歩いている場面のようだ。物語の一部のようだが、既視感のある名前の宦官と皇帝に目を瞠った。
「……何、これ」
「あちゃー」
何故蒼琳が持っているか。
青藍に向かってそう言いたかったが、驚きのあまり言葉を発することが出来ない。代わりに視線で訴えるが、青藍は即座に逸らした。
「青藍が言ってた物語の続き、だよね?」
「そ、そうね……」
答えたものの、顔ごと逸らした青藍はそれ以上口を開くことはなかった。
他に頼ると言えば蒼琳しかこの場に居ない。おそるおそる顔を上げると、隠すように片手で顔を覆っていた。指のすき間から見える顔は真っ赤に染まっているが薄明りの中でもわかった。
三人しか居ない部屋にしばらく無言が続く。
見上げたまま動かない緋燕と隠したまま動かない蒼琳にいたたまれなくなったのか、青藍がようやく口を開いた。
「あー……。緋燕」
「何」
壊れた機械のようにぎしぎしと青藍の方へと視線を向ける。
視線がかち合うと、申し訳なさそうな青藍が小さく挙手をした。
「ごめん、あれ書いてたの私」
「……は?」
「いや~、今日も続きを書こうと思って兄上のところに行こうとしてたんだよね」
気まずそうに視線をさ迷わせながら青藍はまくしたてるように続ける。
「あ、ちなみに二人の背中を押そうと思って書いてたからね! からかってる訳じゃないから!」
言い訳じみた青藍の言葉は、もはや緋燕には一文字も届いていない。
どうしてこの本を青藍が書いているのか。何よりどうして蒼琳は持ち歩いているのか。
もう、何もわからない。緋燕はただただ、蒼琳の腕の中で目を見開いて固まっていた。