……と、青藍は言っていたが。
(全部が全部、急すぎるんだよな〜)
やれ流行りの物語だの、やれ蒼琳に気に入られているだの、今まで考えたこともなかったことを一気に詰め込まれた気分だった。
あのやりとりの後に開かれた茶会は途中まで穏やかな時間であった。中盤以降、蒼琳や例の物語の話題ばかりで緋燕は気が気でなかったのだが。
今、もっとも懸念すべき点は、明日の朝餉なのだ。
茶会を終えた夕暮れ時。あらかじめ青藍が人払いをした書庫にて、緋燕は天井まで所せましと並ぶ書物の海の中を泳いでいた。
(献立の品目が一周しそうで困ってたんだよなぁ)
彼女は宮廷専属の料理人ではない。城下町の小さな料理店の娘であり、調理は両親から習った知識しかない。
そのうえ緋燕はごく限られた青藍の側近としか会うこともなく、その中に尚膳監の宦官は含まれていない。つまるところ緋燕には同僚が居らず、誰にも頼ることが出来なかったのだ。そこで青藍に「宮廷料理のいろはを知りたい」と相談し、先人たちの書き記した料理本に師事を扇ぐこととなった。
この宮城内には両手でも数えきれないほどの書庫が存在している。日記のような日々の記録をまとめた書物を保存している書庫は、幸いにも瑛青殿と目と鼻の先にあった。
「確かこの辺りにあったはず……」
夕方にもなると書庫内はうす暗く、目的の本を探すのに手間取っていた。かれこれ数十分は一冊ずつ表紙を確認して棚に戻すのを繰り返していた。
「これじゃない。これでもない」
まずは一番下から。順に上へ上へと向かって確認していく。前に別の本を探しに来た時に今読みたい記録を見かけていたのだが、想像していたところにはなく、思ったより手間取っていた。
とうとう一番上の棚まで上り詰める。脚立が何処かにあるのかもしれないが、生憎人払いがされているので尋ねることも出来なかった。仕方ないので背丈が足りないので地面を蹴って跳び、本を取り出しては跳んでまた棚に戻していた。
「あ、そっちか!」
取り出した本によって出来た隙間から、目当ての本の表紙がちらりと見えた。
後はこの本を返し、隣の本を取るだけ。
緋燕は本から視線を逸らすことなく、ぐっと膝を曲げて飛び跳ねる助走をつけようとした。
「そこにいるのは、もしかして緋燕かい?」
「え?」
うまく力が入りきらず、本棚に届くことなく着地してしまった。
聞き慣れた声に嫌な予感がした。振り返ると思っていた通り、蒼琳が棚と棚の間から顔を覗かせていた。
「へ、陛下!」
「ああ、畏まらなくていいよ」
頭を下げ、拝手しようとするも、片手で制される。
明るい時間に顔を突き合わせるのは初めてであった。朝の挨拶は顔を伏せているので足元しか見えていないのだ。
(こ、こんな時間に陛下と顔を合わせるなんて不敬では!?)
瑛青殿以外で会う蒼琳は、重ね着のせいかいつもより逞しく見えた。低い位置で結われている姿を見慣れてるので、きっちりと髪を一つに結い上げた姿も新鮮だった。改めていつもは私的な時間に蒼琳と出会っていたことに気づく。
土下座もいとわないような心地であったが緋燕は袖で顔を隠したまま視線だけを蒼琳へ向けた。
「……!」
蒼琳と視線が絡み合うと、緋燕は目をみはった。
いつの間にか近づいていたらしい蒼琳はやわらかな笑みを浮かべて見下ろしている。
端正な顔が、近くにある。いつもとなんら変わらぬ距離感なのだが、今の緋燕には今日の蒼琳はいつもと違って見えた。
ぼーっとする緋燕を見て「どうしたんだい?」と蒼琳が首をかしげた。覗き込んでくる視線が上目遣いのようで、母性本能をくすぐる。可愛さとは相反して、かしげた際に肩へと落ちた青みがかった髪は艶やかだった。
いつもよりも着こんでいるはずなのに、どうしてこんなに見てはいけないものを見ているような感覚になるのだろう。
混乱した脳裏に、いやらしく笑う青藍の顔が浮かんだ。
(青藍があんなこと言うから〜!)
先程の茶会で「陛下の素敵なところ」と銘打った話題で盛り上がっていたせいだろう。今まで知りもしなかった蒼琳の一面を聞き、少なからず興味が湧いていた。
何より、緋燕だって年頃の娘だ。元より整っていた顔立ちだとは思っていたが、寵愛だのお気に入りだの言われた後では意識をするなと言われても勝手に期待してしまう。
今まで異性として見たことなく接してきたため、今更どうしていいかわからなくなっていた。
そんな緋燕の胸中を知る由もなく、蒼琳は気さくに話を振って来る。
「珍しいね、こんなところで会うなんて」
「あ、献立を考えるために過去の記録を見ようかと思いまして……」
蒼琳は緋燕の姿を頭のてっぺんから爪先まで見やる。片手は棚の天板を掴み、空いた手には何も持っていないこと確認すると、棚を見上げた。
「届かなかったのかい?」
「お、お、お恥ずかしながら……」
もじもじとする緋燕のつむじを見下ろしながら蒼琳は尋ねた。
「私が取ろうか?」
「え?」
安請負しようとしているが、彼は皇帝である。
棚から手を離し、正面に向き直ると、両手をぶんぶんと勢いよく振って拒絶した。
「え、あ、いや! お手を! 煩わせるわけには!」
「気にしないでおくれ。私がしたいだけだからね」
「妹妹の大事な側近に怪我をされては困るだろう?」と気遣う言葉に、緋燕の胸は高鳴った。
(ど、どくんってなんだ!?)
生まれて始めて感じる鼓動の早まりに、緋燕は動揺していた。たかが言葉一つでこんなに揺さぶられるものなのか。
理由のわからない高揚感から逃れるべく、蒼琳のまなざしから目線を逸らす。未だ早鐘を打つ胸元を無意識に掴んでやり過ごそうと決めた。
「どの本だい?」
先ほどよりも近くで声がすると横を見れば、すぐ横に蒼琳の端正な顔があった。
跳びあがって距離を取りたくなるのをぐっとこらえ、緋燕はしどろもどろに口を開いた。
「いや、あの、流石に公主様に怒られてしまいます……」
心なしか顔に色を帯びた緋燕の反応に、蒼琳は面食らった表情で見下ろす。
自分のことでいっぱいいっぱい彼女がそれに気づくはずもなく、心の中でただただこの時間が早く過ぎることを願っていた。
「妹妹なら、むしろ後押ししてくれると思うけどな」
すぐ隣に居るはずなのにうまく聞き取れなかった。顔を上げて緋燕は聞き直した。
「何かおっしゃいました?」
「いいや、こちらの話だよ」
困ったように蒼琳は肩をすくめる。すると何かを思いついたのか「あ」と声を漏らした。
背筋を正して蒼琳の言葉を待っていると、不意に耳たぶに誰かの息がかかった。
「少し動かないで」
「え」
ぞわりとした感覚の原因に気づくよりも先に、緋燕の周りが真っ黒になった。
時がゆっくりと進んでいるような錯覚の中、蒼琳の大きな体躯が緋燕を覆いかぶさる。衣擦れの些細な音と共に背中にぬくもりが与えられ、顔を上げると暗がりで漆黒に見える手入れのされた髪が頬にかかった。真下から見上げる蒼琳は首筋がすっと通っており、女性にはない喉仏がくっきりと浮かび上がっていて、均整の取れた彫刻のように思えた。
「はい、これでいいかい?」
瞬きも忘れて蒼琳を見つめていると下を向けた彼と視線がかち合う。目を見開いたままの緋燕の視界に、逆光の中でにっこりと微笑んだ蒼琳だけが映っていた。
「緋燕?」
形の良い唇に名前を呼ばれ、ようやく我に返る。
背中から蒼琳の気配が消え、体が震えた。本棚と蒼琳の間で固まったままの緋燕をよそに、蒼琳は取り出した本を差し出す。
「あ、ありがとうございます……」
「私はまだ書庫に居るから、届かない本があればいつでも言うんだよ」
あっさりと身を引き、屈んで子供に言い聞かせるように告げる。
呆気にとられたままの緋燕は、本を両手で抱えたまま大きくうなずくだけであった。
「うん。よろしい」
言葉を発しない緋燕を少しも不審がることなく、蒼琳は満足げにうなずいた。
そして何事も無かったように書庫の奥へと消えていった。
(な、何あれ……!)
背中が見えなくなるまで見送った後、緋燕ははっと我に返った。
顔が急激に熱を帯びている。心臓も驚く程早く脈打っている。
未だ何が起こったかわからずにいる緋燕は、受け取った本を抱え直し、すぐさま書庫を後にした。同じ空間に居ることでさえ、今の緋燕にとっては修行のごとくつらいものに感じた。
その日の夜、緋燕は朝食の仕込みで失態を起こしてしまうのだが、書庫での出来事を話すと、食にうるさいはずの青藍が珍しく怒りもせずにほほ笑んでいたと言う。
(全部が全部、急すぎるんだよな〜)
やれ流行りの物語だの、やれ蒼琳に気に入られているだの、今まで考えたこともなかったことを一気に詰め込まれた気分だった。
あのやりとりの後に開かれた茶会は途中まで穏やかな時間であった。中盤以降、蒼琳や例の物語の話題ばかりで緋燕は気が気でなかったのだが。
今、もっとも懸念すべき点は、明日の朝餉なのだ。
茶会を終えた夕暮れ時。あらかじめ青藍が人払いをした書庫にて、緋燕は天井まで所せましと並ぶ書物の海の中を泳いでいた。
(献立の品目が一周しそうで困ってたんだよなぁ)
彼女は宮廷専属の料理人ではない。城下町の小さな料理店の娘であり、調理は両親から習った知識しかない。
そのうえ緋燕はごく限られた青藍の側近としか会うこともなく、その中に尚膳監の宦官は含まれていない。つまるところ緋燕には同僚が居らず、誰にも頼ることが出来なかったのだ。そこで青藍に「宮廷料理のいろはを知りたい」と相談し、先人たちの書き記した料理本に師事を扇ぐこととなった。
この宮城内には両手でも数えきれないほどの書庫が存在している。日記のような日々の記録をまとめた書物を保存している書庫は、幸いにも瑛青殿と目と鼻の先にあった。
「確かこの辺りにあったはず……」
夕方にもなると書庫内はうす暗く、目的の本を探すのに手間取っていた。かれこれ数十分は一冊ずつ表紙を確認して棚に戻すのを繰り返していた。
「これじゃない。これでもない」
まずは一番下から。順に上へ上へと向かって確認していく。前に別の本を探しに来た時に今読みたい記録を見かけていたのだが、想像していたところにはなく、思ったより手間取っていた。
とうとう一番上の棚まで上り詰める。脚立が何処かにあるのかもしれないが、生憎人払いがされているので尋ねることも出来なかった。仕方ないので背丈が足りないので地面を蹴って跳び、本を取り出しては跳んでまた棚に戻していた。
「あ、そっちか!」
取り出した本によって出来た隙間から、目当ての本の表紙がちらりと見えた。
後はこの本を返し、隣の本を取るだけ。
緋燕は本から視線を逸らすことなく、ぐっと膝を曲げて飛び跳ねる助走をつけようとした。
「そこにいるのは、もしかして緋燕かい?」
「え?」
うまく力が入りきらず、本棚に届くことなく着地してしまった。
聞き慣れた声に嫌な予感がした。振り返ると思っていた通り、蒼琳が棚と棚の間から顔を覗かせていた。
「へ、陛下!」
「ああ、畏まらなくていいよ」
頭を下げ、拝手しようとするも、片手で制される。
明るい時間に顔を突き合わせるのは初めてであった。朝の挨拶は顔を伏せているので足元しか見えていないのだ。
(こ、こんな時間に陛下と顔を合わせるなんて不敬では!?)
瑛青殿以外で会う蒼琳は、重ね着のせいかいつもより逞しく見えた。低い位置で結われている姿を見慣れてるので、きっちりと髪を一つに結い上げた姿も新鮮だった。改めていつもは私的な時間に蒼琳と出会っていたことに気づく。
土下座もいとわないような心地であったが緋燕は袖で顔を隠したまま視線だけを蒼琳へ向けた。
「……!」
蒼琳と視線が絡み合うと、緋燕は目をみはった。
いつの間にか近づいていたらしい蒼琳はやわらかな笑みを浮かべて見下ろしている。
端正な顔が、近くにある。いつもとなんら変わらぬ距離感なのだが、今の緋燕には今日の蒼琳はいつもと違って見えた。
ぼーっとする緋燕を見て「どうしたんだい?」と蒼琳が首をかしげた。覗き込んでくる視線が上目遣いのようで、母性本能をくすぐる。可愛さとは相反して、かしげた際に肩へと落ちた青みがかった髪は艶やかだった。
いつもよりも着こんでいるはずなのに、どうしてこんなに見てはいけないものを見ているような感覚になるのだろう。
混乱した脳裏に、いやらしく笑う青藍の顔が浮かんだ。
(青藍があんなこと言うから〜!)
先程の茶会で「陛下の素敵なところ」と銘打った話題で盛り上がっていたせいだろう。今まで知りもしなかった蒼琳の一面を聞き、少なからず興味が湧いていた。
何より、緋燕だって年頃の娘だ。元より整っていた顔立ちだとは思っていたが、寵愛だのお気に入りだの言われた後では意識をするなと言われても勝手に期待してしまう。
今まで異性として見たことなく接してきたため、今更どうしていいかわからなくなっていた。
そんな緋燕の胸中を知る由もなく、蒼琳は気さくに話を振って来る。
「珍しいね、こんなところで会うなんて」
「あ、献立を考えるために過去の記録を見ようかと思いまして……」
蒼琳は緋燕の姿を頭のてっぺんから爪先まで見やる。片手は棚の天板を掴み、空いた手には何も持っていないこと確認すると、棚を見上げた。
「届かなかったのかい?」
「お、お、お恥ずかしながら……」
もじもじとする緋燕のつむじを見下ろしながら蒼琳は尋ねた。
「私が取ろうか?」
「え?」
安請負しようとしているが、彼は皇帝である。
棚から手を離し、正面に向き直ると、両手をぶんぶんと勢いよく振って拒絶した。
「え、あ、いや! お手を! 煩わせるわけには!」
「気にしないでおくれ。私がしたいだけだからね」
「妹妹の大事な側近に怪我をされては困るだろう?」と気遣う言葉に、緋燕の胸は高鳴った。
(ど、どくんってなんだ!?)
生まれて始めて感じる鼓動の早まりに、緋燕は動揺していた。たかが言葉一つでこんなに揺さぶられるものなのか。
理由のわからない高揚感から逃れるべく、蒼琳のまなざしから目線を逸らす。未だ早鐘を打つ胸元を無意識に掴んでやり過ごそうと決めた。
「どの本だい?」
先ほどよりも近くで声がすると横を見れば、すぐ横に蒼琳の端正な顔があった。
跳びあがって距離を取りたくなるのをぐっとこらえ、緋燕はしどろもどろに口を開いた。
「いや、あの、流石に公主様に怒られてしまいます……」
心なしか顔に色を帯びた緋燕の反応に、蒼琳は面食らった表情で見下ろす。
自分のことでいっぱいいっぱい彼女がそれに気づくはずもなく、心の中でただただこの時間が早く過ぎることを願っていた。
「妹妹なら、むしろ後押ししてくれると思うけどな」
すぐ隣に居るはずなのにうまく聞き取れなかった。顔を上げて緋燕は聞き直した。
「何かおっしゃいました?」
「いいや、こちらの話だよ」
困ったように蒼琳は肩をすくめる。すると何かを思いついたのか「あ」と声を漏らした。
背筋を正して蒼琳の言葉を待っていると、不意に耳たぶに誰かの息がかかった。
「少し動かないで」
「え」
ぞわりとした感覚の原因に気づくよりも先に、緋燕の周りが真っ黒になった。
時がゆっくりと進んでいるような錯覚の中、蒼琳の大きな体躯が緋燕を覆いかぶさる。衣擦れの些細な音と共に背中にぬくもりが与えられ、顔を上げると暗がりで漆黒に見える手入れのされた髪が頬にかかった。真下から見上げる蒼琳は首筋がすっと通っており、女性にはない喉仏がくっきりと浮かび上がっていて、均整の取れた彫刻のように思えた。
「はい、これでいいかい?」
瞬きも忘れて蒼琳を見つめていると下を向けた彼と視線がかち合う。目を見開いたままの緋燕の視界に、逆光の中でにっこりと微笑んだ蒼琳だけが映っていた。
「緋燕?」
形の良い唇に名前を呼ばれ、ようやく我に返る。
背中から蒼琳の気配が消え、体が震えた。本棚と蒼琳の間で固まったままの緋燕をよそに、蒼琳は取り出した本を差し出す。
「あ、ありがとうございます……」
「私はまだ書庫に居るから、届かない本があればいつでも言うんだよ」
あっさりと身を引き、屈んで子供に言い聞かせるように告げる。
呆気にとられたままの緋燕は、本を両手で抱えたまま大きくうなずくだけであった。
「うん。よろしい」
言葉を発しない緋燕を少しも不審がることなく、蒼琳は満足げにうなずいた。
そして何事も無かったように書庫の奥へと消えていった。
(な、何あれ……!)
背中が見えなくなるまで見送った後、緋燕ははっと我に返った。
顔が急激に熱を帯びている。心臓も驚く程早く脈打っている。
未だ何が起こったかわからずにいる緋燕は、受け取った本を抱え直し、すぐさま書庫を後にした。同じ空間に居ることでさえ、今の緋燕にとっては修行のごとくつらいものに感じた。
その日の夜、緋燕は朝食の仕込みで失態を起こしてしまうのだが、書庫での出来事を話すと、食にうるさいはずの青藍が珍しく怒りもせずにほほ笑んでいたと言う。