車が止まる頃には、暗い夜はとっくに明けて車内には朝日が差し込んでいた。
車から出ると、涼しい風が吹き抜けていった。
黒木さんは長い運転で凝り固まった身体をほぐすように、大きく両腕を空へと伸ばした。
「少し、休憩してもよろしいでしょうか」
「はい。運転ありがとうございます」
「お礼を言われると気が狂います。執事としての仕事を全うしているだけですから」
黒木さはそんなふうに謙遜した。
こういう会話も最後なんだと思うと何気ない言葉がいつも以上に大切に感じた。
缶コーヒーの味は苦くてあまり美味しくはなかった。
大人になるって凄いんだな。と子どもみたいな感想しか思い浮かばなくて、
「コーヒー苦手でしたか?」という黒木さんの言葉に、
「あまり得意ではないです」と答えた後に付け加えるようにして、
「でも、美味しいです」と噓をついた。
高校生にコーヒーってなかなかのセンスだなと思いながらも、
黒木さんの不器用なその優しさがあったかくて笑みがこぼれた。
「ようやく笑いましたね」
そう言われて気づいた。
私は暫く笑うことを忘れていた。無理に笑ったり、本気で笑ったりすることもできなくなるくらい、笑顔っていう存在自体を忘れていた。
黒木さんのコーヒーは、あと少しで飲み終わりそうだった。
私のコーヒーはぬるくなってきているのに、まだ半分以上も残っていた。
黒木さんは口直しにと、買ってきたグレープジュースを差し出した。
私はそれを受け取ると、黒木さんは車のエンジンをかけて車を発進させた。
私のコーヒーは助手席のドリンクホルダーに一人寂しく置き去りにされていた。
移り変わる街並みが田舎を感じさせる。
いつも輝いていた街並みが噓のようで、今はその景色すら霞んでいた。
「本当に、ここでよろしいのですか?家までお送りいたしますよ」
「大丈夫です。こんな高級車が家に泊まったら、おばあちゃん驚いちゃいますから」
私の言葉を聞くなり、
黒木さんは、成績が書かれた証明書を私に差し出してきた。
そこには、卒業できるだけの噓の成績が記されていた。
数字が並ぶ成績表は、私の人生ではもらうことができない値で身震いした。
「すいません。これはお返しします」
私は黒木さんから受け取った成績表を黒木さんに返した。
「なぜですか?もしかして誠人様に知られてしまったから?
それとも、お嬢様が告発したからですか?もし、罪の意識を感じているなら……」
「違います。どちらでもありません。こうすることは自分で決めました。
誰かのせいじゃありません」
今まで人に流されるばかりの人生は、楽だった。
誰かのせいにもできたし、失敗しても自分を責めずに済んだ。
でもその代わり、後悔ばかりが付きまとった。
「私、調理師を目指そうと思います。
なれるか分からないけど、目指すのは自由ですよね?」
「勿論です」
「道のりは決して容易くはないと思います。
それでも、今度こそ胸を張って生きられるように。
悔いがないって言える、そういう人生を歩めるように。
私は、自分の力で自分の人生を生きていこうと思います」
「そうですか。では、こちらをお渡ししておきます」
「黒木さん、これって……」
それは、私の人生を表したかのような最低最悪の成績表だった。
黒木さんにはやっぱり勝てない。
いつも私の先をいく。いつも私を見守ってくれている。
「それじゃ、また」
「お元気で」
沢山泣いたせいか、別れはそれほど悲しくなかった。
駅のホームに立つと、一般人に戻った気分になった。
いつも学校にはこの車両を利用していた。電車なんていつぶりだろうか。
すれ違う人達が忙しなく歩くその光景は、まるで夢から醒めて現実に戻ったみたいだった。
家までの道のりは自然豊かな海の潮の香りがほのかに香ってくる。
そこには、懐かしい景色と香りが広がっていた。
やっぱり私にはここが一番あっている。
この街が好きで、ここの人が好きで。本来の私のいる場所。
長かった。長かったようで短かった。
後ずさりしてしまう自分を鼓舞して家の扉に手をかけた。
「……柚子ちゃん?」
振り返るとエコバッグを持ったおばちゃんの姿がそこにあった。
生暖かい液体が頬を伝った。
私は走っておばちゃんに抱きついた。
おばちゃんは私を抱きしめると「おかえり」と言って背中をさすった。
小学生の子どもがお母さんに甘えるみたいに、暫くおばあちゃんから離れなかった。
いい匂いがする。
ただいま。おばちゃん。
「向こうの生活はどうだった?」
「うん、色々大変だった」
「そうかい。でも、勉強になった?」
「うん。すごくね」
おばちゃんはどこまで気がついているのかな。
おばちゃんのことだから、気づいていたとしても言わないだろうけど。
「あのね、おばちゃん。私、やりたいこと見つけたんだ」
「どんなこと?」
「調理師になりたい。
でもそのためには専門学校に通わないといけないし、勉強もしなきゃいけない。
今までよりもバイトもできなくなる。
高校卒業できないかわりに高卒認定試験受けようとも思ってる。
学費は奨学金借りる。おばちゃん、また苦労させちゃうけど、
目指してみてもいいかな」
「駄目だって言ったら、諦められるのかい?」
私は首を大きく横に振った。
「なら、私から言えることは一つだけ。頑張りなさい」
その日の夕飯は、私の大好きな和風ハンバーグだった。
「久しぶりだな。この味。」
「海外のご飯じゃ、日本の味が恋しくなるでしょ」
「うん。おばあちゃんの料理が恋しかった」
おばちゃんはしわだらけの顔で笑っていた。
良かった。おばちゃんが嬉しそうで。本当に良かった。
「明日、退学届出しに行ってくる」
「うん。ちゃんとお礼言うんだよ」
皆にも早く会いたかった。
でも、本音を言うと会うのが怖い。
あれだけ騒ぎになっていたから、勘の良い加奈は気づいていたし他の皆もきっと……
そんな不安を抱えたまま、私は、次の日学校へと向かった。
廊下は、あの時と同じように賑わっていて、どこか懐かしかった。
職員室は相変わらずコーヒーの匂いがして、
印刷機の音が忙しなく鳴っていた。
「おぉー大野!お帰りー、元気だったか?」
小言ばかり言う担任の声でさえも今は不思議と嫌じゃなかった。
留学していた時の成績表を見て先生は眉をひそめた。
私の顔を見て荒い鼻息を吐く先生より先に、私は口を開いた。
先生は安堵したようで、「よく頑張ったな」とテンプレートを言い放って書類を渡された。
結果は同じなのに自主退学だと先生はあからさまに表情が和らぐのが腑に落ちなかった。
クラスメイトに挨拶でもしようかと階段を上がろうとしたけどすぐにやめた。
合わせる顔がなかった。理由はそれだけじゃなかったけど。
校庭の砂利がローファーの中に少しだけ入って、片方脱いだ。
「柚子……?」
片足で立っていた私は、その声にすぐには振り返ることができなかった。
「砂、入った感じ?」
「うん」
「肩かす」
「ありがとう……」
久しぶりに入ったカフェは私たちの憩いの場だったはずなのに、
気まずくて落ち着かなかった。
「加奈、学校は?行かなくていいの?」
「今日は、サボり」
「ん、そっか」
沈黙になることなんてなかったのに、今の私たちには距離がありすぎた。
久しぶりに会えた友達だったら、もっと喜ばしいことなはずなのに、
嬉しさよりも別の感情が芽生えた。
「私さ、退学したんだ」
「どうして?」
「成績悪かったから」
加奈が聞きたいのはそういうことじゃないことは分かっていた。
「そっか。おつかれ」
加奈は笑っていた。全然嬉しくなんかないはずなのに聞きたいことはもっと沢山あるはずなのに、加奈は何も言わずに笑っていた。
「怒らないの?」
「怒るって、何を?」
「黙って行ったこととか、電話切ったこととか、噓、ついたこととか……」
「噓?噓は、私もついたことあるから。
中学の時、柚子が好きだった人いるでしょ?」
「浩二君?」
「あ、そう、浩二君。柚子に相談されて浩二君からも相談されてて、
二人が両想いだって知ってたから、応援するって言ったけど、
ほんとうはさ、私も好きだったんだ。好きだったのに噓ついた。
応援する気ないのに、応援するって噓ついた」
結局その彼と私は付き合ったけど、
二股かけられて別れた。その時慰めてくれたのも加奈だった。
「そうだったんだ。言ってくれれば良かったのに。加奈そういうとこあるよね」
私は笑った。全然嬉しくないのに嬉しかった。
「これからどうするの?」
「やりたいこと見つかって。調理師目指そうと思う」
「料理、昔から上手だったもんね。やりたいことやっと見つかったんだ。
良かったね。おめでとう」
加奈は何も聞かずに何も言わずに応援してくれた。
笑顔で応援してくれた。
留学の話は何も話さなかったけど、加奈からは何も聞かれなかった。
聞かないでくれた。
加奈は知っていて知らないフリをしてくれた。
それから一か月が経ち、マリアさんから手紙が届いた。
差出人の名前は英語でMariaだった。
手紙に書かれていたのは近況報告だった。
マリアさんの友達には事情を説明して今も仲良くしているそう。
莉佳子ちゃんの家はというと、マリアさんの会社が出資をして、
もう一度お店を出すことになったそう。
あの味をもう一度食べられるのはマリアさんも喜んでいた。勿論私も。
そして、マリアさんと誠人さんの婚約は正式に破棄された。
マリアさんはピアニストになるために留学し、誠人さんは会社を継ぐことになった。
マリアさんと先生はというと、無事に交際を認めてもらえたそう。
桜咲く季節。
花粉症に悩まされる季節。
卒業の季節。
順調に行けば、今頃私も卒業式というものに参加していた。
でも、私は部屋の窓から見える青空をぼんやり眺めていた。
部屋のドアをノックする音が聞こえ、私は口元で返事をした。
「柚子ちゃん、黒木さんっていう人が来てるけど知り合い?」
「……えっ」
私の記憶ではその名前の人は一人しかいない。
階段を勢いよく駆け下りた。
目の前には黒ずくめの男が立っていて、あの時のまま何も変わっていなかった。
「どうして、ここに?」
「申し訳ございません。お嬢様がどうしてもと」
車に乗り込むとマリアさんが笑顔でこちらを見つめてきた。
「久しぶり!柚子花さん!」
「あ、お久しぶりです」
マリアさんはあの時より、少しだけ綺麗になっていた。
恋をしている、幸せな女の子みたいだった。
「あの……、今日はどうして?」
「あ、そうそう、実は今日、誠人さんのリサイタルがあって」
彼のことは忘れようと決めていた。
思い出す度心がつぶされそうになるから。
ゴミ処理場でゴミが圧縮されるみたいに。
「それで、どうして、私に?」
「あなたのために開くリサイタルだから」
「誠人さんがそう言ったんですか?」
「そうよ。大切な人の為に弾くって」
「それ、私じゃないです」
誠人さんの大切な人は私じゃない。
私といるのが楽しいって言ってくれたけど、それは誠人さんの優しさ。
あの人はそういう人だから。そういう人だったから。
「でも、最近の彼、あなたの話しかしないの。
大切な人じゃないなら、彼にとってあなたは何なのかしらね」
誠人さんが私の話を?
にわかに信じ難かったけど、マリアさんは噓をつくとは思えなかった。
「無理にとは言わないけど、できれば聴いていって欲しいの」
マリアさんがそこまで言うならみたいな顔をしたけど、本音は私も聴きたかった。
私は、やっぱりズルいのかもしれない。
やっぱり、彼のことを思うと会いたくなってしまうから。
車から降りた所は、前に私と誠人さんが演奏会をしたホールだった。
やっぱり、行くべきじゃない。
そう思って私は、黒木さんに視線を向けた。
「最後までいなくても、途中で帰られてもいいと思います。
会わずに帰るのもそれはそれで優しさだと思いますから」
まるで、私の気持ちを代弁してくれているかのようだった。
「私は、先生とデートの約束があるので。ゆっくり楽しんで」
マリアさんはそういうと車から降りることなく、
窓から少しだけ顔を出して私に手を振った。
相変わらず、自由な人だ。
でも、清々しいほど人生を楽しんでいるように見えた。
ホールの中に入ると、あの時の緊張感が蘇った。
あの日、確かに私はここでこの舞台で演奏したんだ。
誠人さんと一緒に。
あの日、誠人さんは私の正体に気づきながらも最後まで気づかないフリをしてくれていた。
客席は、あの時と同じように満席で、
あの時と同じように、誠人さんは美しかった。
「あなたの為に開くリサイタルだから」
マリアさんのあの言葉が頭の中で再生された。
その曲は、優しくて悲しくて。
自然と涙がこぼれて、心が熱くなった。
誠人さんは演奏を始める前にこう言っていた。
「この曲は大切な人を思って作曲しました。
今、何処にいて何をしているのかは分かりませんが、
この曲がいつか届くことを信じて心を込めて演奏します」
誠人さんは、ゆっくりと椅子に座った。
変わってないな。誠人さんは誠人さんのまま。そのまま。
ずっとあの時のまま。
もしも、その曲が私の為ならそうだったとしたら、
私はどんな気持ちでこの曲を聴いていたらいいのだろうか。
「それでは聴いてください。ブルースターに祈りを込めて」
車から出ると、涼しい風が吹き抜けていった。
黒木さんは長い運転で凝り固まった身体をほぐすように、大きく両腕を空へと伸ばした。
「少し、休憩してもよろしいでしょうか」
「はい。運転ありがとうございます」
「お礼を言われると気が狂います。執事としての仕事を全うしているだけですから」
黒木さはそんなふうに謙遜した。
こういう会話も最後なんだと思うと何気ない言葉がいつも以上に大切に感じた。
缶コーヒーの味は苦くてあまり美味しくはなかった。
大人になるって凄いんだな。と子どもみたいな感想しか思い浮かばなくて、
「コーヒー苦手でしたか?」という黒木さんの言葉に、
「あまり得意ではないです」と答えた後に付け加えるようにして、
「でも、美味しいです」と噓をついた。
高校生にコーヒーってなかなかのセンスだなと思いながらも、
黒木さんの不器用なその優しさがあったかくて笑みがこぼれた。
「ようやく笑いましたね」
そう言われて気づいた。
私は暫く笑うことを忘れていた。無理に笑ったり、本気で笑ったりすることもできなくなるくらい、笑顔っていう存在自体を忘れていた。
黒木さんのコーヒーは、あと少しで飲み終わりそうだった。
私のコーヒーはぬるくなってきているのに、まだ半分以上も残っていた。
黒木さんは口直しにと、買ってきたグレープジュースを差し出した。
私はそれを受け取ると、黒木さんは車のエンジンをかけて車を発進させた。
私のコーヒーは助手席のドリンクホルダーに一人寂しく置き去りにされていた。
移り変わる街並みが田舎を感じさせる。
いつも輝いていた街並みが噓のようで、今はその景色すら霞んでいた。
「本当に、ここでよろしいのですか?家までお送りいたしますよ」
「大丈夫です。こんな高級車が家に泊まったら、おばあちゃん驚いちゃいますから」
私の言葉を聞くなり、
黒木さんは、成績が書かれた証明書を私に差し出してきた。
そこには、卒業できるだけの噓の成績が記されていた。
数字が並ぶ成績表は、私の人生ではもらうことができない値で身震いした。
「すいません。これはお返しします」
私は黒木さんから受け取った成績表を黒木さんに返した。
「なぜですか?もしかして誠人様に知られてしまったから?
それとも、お嬢様が告発したからですか?もし、罪の意識を感じているなら……」
「違います。どちらでもありません。こうすることは自分で決めました。
誰かのせいじゃありません」
今まで人に流されるばかりの人生は、楽だった。
誰かのせいにもできたし、失敗しても自分を責めずに済んだ。
でもその代わり、後悔ばかりが付きまとった。
「私、調理師を目指そうと思います。
なれるか分からないけど、目指すのは自由ですよね?」
「勿論です」
「道のりは決して容易くはないと思います。
それでも、今度こそ胸を張って生きられるように。
悔いがないって言える、そういう人生を歩めるように。
私は、自分の力で自分の人生を生きていこうと思います」
「そうですか。では、こちらをお渡ししておきます」
「黒木さん、これって……」
それは、私の人生を表したかのような最低最悪の成績表だった。
黒木さんにはやっぱり勝てない。
いつも私の先をいく。いつも私を見守ってくれている。
「それじゃ、また」
「お元気で」
沢山泣いたせいか、別れはそれほど悲しくなかった。
駅のホームに立つと、一般人に戻った気分になった。
いつも学校にはこの車両を利用していた。電車なんていつぶりだろうか。
すれ違う人達が忙しなく歩くその光景は、まるで夢から醒めて現実に戻ったみたいだった。
家までの道のりは自然豊かな海の潮の香りがほのかに香ってくる。
そこには、懐かしい景色と香りが広がっていた。
やっぱり私にはここが一番あっている。
この街が好きで、ここの人が好きで。本来の私のいる場所。
長かった。長かったようで短かった。
後ずさりしてしまう自分を鼓舞して家の扉に手をかけた。
「……柚子ちゃん?」
振り返るとエコバッグを持ったおばちゃんの姿がそこにあった。
生暖かい液体が頬を伝った。
私は走っておばちゃんに抱きついた。
おばちゃんは私を抱きしめると「おかえり」と言って背中をさすった。
小学生の子どもがお母さんに甘えるみたいに、暫くおばあちゃんから離れなかった。
いい匂いがする。
ただいま。おばちゃん。
「向こうの生活はどうだった?」
「うん、色々大変だった」
「そうかい。でも、勉強になった?」
「うん。すごくね」
おばちゃんはどこまで気がついているのかな。
おばちゃんのことだから、気づいていたとしても言わないだろうけど。
「あのね、おばちゃん。私、やりたいこと見つけたんだ」
「どんなこと?」
「調理師になりたい。
でもそのためには専門学校に通わないといけないし、勉強もしなきゃいけない。
今までよりもバイトもできなくなる。
高校卒業できないかわりに高卒認定試験受けようとも思ってる。
学費は奨学金借りる。おばちゃん、また苦労させちゃうけど、
目指してみてもいいかな」
「駄目だって言ったら、諦められるのかい?」
私は首を大きく横に振った。
「なら、私から言えることは一つだけ。頑張りなさい」
その日の夕飯は、私の大好きな和風ハンバーグだった。
「久しぶりだな。この味。」
「海外のご飯じゃ、日本の味が恋しくなるでしょ」
「うん。おばあちゃんの料理が恋しかった」
おばちゃんはしわだらけの顔で笑っていた。
良かった。おばちゃんが嬉しそうで。本当に良かった。
「明日、退学届出しに行ってくる」
「うん。ちゃんとお礼言うんだよ」
皆にも早く会いたかった。
でも、本音を言うと会うのが怖い。
あれだけ騒ぎになっていたから、勘の良い加奈は気づいていたし他の皆もきっと……
そんな不安を抱えたまま、私は、次の日学校へと向かった。
廊下は、あの時と同じように賑わっていて、どこか懐かしかった。
職員室は相変わらずコーヒーの匂いがして、
印刷機の音が忙しなく鳴っていた。
「おぉー大野!お帰りー、元気だったか?」
小言ばかり言う担任の声でさえも今は不思議と嫌じゃなかった。
留学していた時の成績表を見て先生は眉をひそめた。
私の顔を見て荒い鼻息を吐く先生より先に、私は口を開いた。
先生は安堵したようで、「よく頑張ったな」とテンプレートを言い放って書類を渡された。
結果は同じなのに自主退学だと先生はあからさまに表情が和らぐのが腑に落ちなかった。
クラスメイトに挨拶でもしようかと階段を上がろうとしたけどすぐにやめた。
合わせる顔がなかった。理由はそれだけじゃなかったけど。
校庭の砂利がローファーの中に少しだけ入って、片方脱いだ。
「柚子……?」
片足で立っていた私は、その声にすぐには振り返ることができなかった。
「砂、入った感じ?」
「うん」
「肩かす」
「ありがとう……」
久しぶりに入ったカフェは私たちの憩いの場だったはずなのに、
気まずくて落ち着かなかった。
「加奈、学校は?行かなくていいの?」
「今日は、サボり」
「ん、そっか」
沈黙になることなんてなかったのに、今の私たちには距離がありすぎた。
久しぶりに会えた友達だったら、もっと喜ばしいことなはずなのに、
嬉しさよりも別の感情が芽生えた。
「私さ、退学したんだ」
「どうして?」
「成績悪かったから」
加奈が聞きたいのはそういうことじゃないことは分かっていた。
「そっか。おつかれ」
加奈は笑っていた。全然嬉しくなんかないはずなのに聞きたいことはもっと沢山あるはずなのに、加奈は何も言わずに笑っていた。
「怒らないの?」
「怒るって、何を?」
「黙って行ったこととか、電話切ったこととか、噓、ついたこととか……」
「噓?噓は、私もついたことあるから。
中学の時、柚子が好きだった人いるでしょ?」
「浩二君?」
「あ、そう、浩二君。柚子に相談されて浩二君からも相談されてて、
二人が両想いだって知ってたから、応援するって言ったけど、
ほんとうはさ、私も好きだったんだ。好きだったのに噓ついた。
応援する気ないのに、応援するって噓ついた」
結局その彼と私は付き合ったけど、
二股かけられて別れた。その時慰めてくれたのも加奈だった。
「そうだったんだ。言ってくれれば良かったのに。加奈そういうとこあるよね」
私は笑った。全然嬉しくないのに嬉しかった。
「これからどうするの?」
「やりたいこと見つかって。調理師目指そうと思う」
「料理、昔から上手だったもんね。やりたいことやっと見つかったんだ。
良かったね。おめでとう」
加奈は何も聞かずに何も言わずに応援してくれた。
笑顔で応援してくれた。
留学の話は何も話さなかったけど、加奈からは何も聞かれなかった。
聞かないでくれた。
加奈は知っていて知らないフリをしてくれた。
それから一か月が経ち、マリアさんから手紙が届いた。
差出人の名前は英語でMariaだった。
手紙に書かれていたのは近況報告だった。
マリアさんの友達には事情を説明して今も仲良くしているそう。
莉佳子ちゃんの家はというと、マリアさんの会社が出資をして、
もう一度お店を出すことになったそう。
あの味をもう一度食べられるのはマリアさんも喜んでいた。勿論私も。
そして、マリアさんと誠人さんの婚約は正式に破棄された。
マリアさんはピアニストになるために留学し、誠人さんは会社を継ぐことになった。
マリアさんと先生はというと、無事に交際を認めてもらえたそう。
桜咲く季節。
花粉症に悩まされる季節。
卒業の季節。
順調に行けば、今頃私も卒業式というものに参加していた。
でも、私は部屋の窓から見える青空をぼんやり眺めていた。
部屋のドアをノックする音が聞こえ、私は口元で返事をした。
「柚子ちゃん、黒木さんっていう人が来てるけど知り合い?」
「……えっ」
私の記憶ではその名前の人は一人しかいない。
階段を勢いよく駆け下りた。
目の前には黒ずくめの男が立っていて、あの時のまま何も変わっていなかった。
「どうして、ここに?」
「申し訳ございません。お嬢様がどうしてもと」
車に乗り込むとマリアさんが笑顔でこちらを見つめてきた。
「久しぶり!柚子花さん!」
「あ、お久しぶりです」
マリアさんはあの時より、少しだけ綺麗になっていた。
恋をしている、幸せな女の子みたいだった。
「あの……、今日はどうして?」
「あ、そうそう、実は今日、誠人さんのリサイタルがあって」
彼のことは忘れようと決めていた。
思い出す度心がつぶされそうになるから。
ゴミ処理場でゴミが圧縮されるみたいに。
「それで、どうして、私に?」
「あなたのために開くリサイタルだから」
「誠人さんがそう言ったんですか?」
「そうよ。大切な人の為に弾くって」
「それ、私じゃないです」
誠人さんの大切な人は私じゃない。
私といるのが楽しいって言ってくれたけど、それは誠人さんの優しさ。
あの人はそういう人だから。そういう人だったから。
「でも、最近の彼、あなたの話しかしないの。
大切な人じゃないなら、彼にとってあなたは何なのかしらね」
誠人さんが私の話を?
にわかに信じ難かったけど、マリアさんは噓をつくとは思えなかった。
「無理にとは言わないけど、できれば聴いていって欲しいの」
マリアさんがそこまで言うならみたいな顔をしたけど、本音は私も聴きたかった。
私は、やっぱりズルいのかもしれない。
やっぱり、彼のことを思うと会いたくなってしまうから。
車から降りた所は、前に私と誠人さんが演奏会をしたホールだった。
やっぱり、行くべきじゃない。
そう思って私は、黒木さんに視線を向けた。
「最後までいなくても、途中で帰られてもいいと思います。
会わずに帰るのもそれはそれで優しさだと思いますから」
まるで、私の気持ちを代弁してくれているかのようだった。
「私は、先生とデートの約束があるので。ゆっくり楽しんで」
マリアさんはそういうと車から降りることなく、
窓から少しだけ顔を出して私に手を振った。
相変わらず、自由な人だ。
でも、清々しいほど人生を楽しんでいるように見えた。
ホールの中に入ると、あの時の緊張感が蘇った。
あの日、確かに私はここでこの舞台で演奏したんだ。
誠人さんと一緒に。
あの日、誠人さんは私の正体に気づきながらも最後まで気づかないフリをしてくれていた。
客席は、あの時と同じように満席で、
あの時と同じように、誠人さんは美しかった。
「あなたの為に開くリサイタルだから」
マリアさんのあの言葉が頭の中で再生された。
その曲は、優しくて悲しくて。
自然と涙がこぼれて、心が熱くなった。
誠人さんは演奏を始める前にこう言っていた。
「この曲は大切な人を思って作曲しました。
今、何処にいて何をしているのかは分かりませんが、
この曲がいつか届くことを信じて心を込めて演奏します」
誠人さんは、ゆっくりと椅子に座った。
変わってないな。誠人さんは誠人さんのまま。そのまま。
ずっとあの時のまま。
もしも、その曲が私の為ならそうだったとしたら、
私はどんな気持ちでこの曲を聴いていたらいいのだろうか。
「それでは聴いてください。ブルースターに祈りを込めて」