耳を疑った。何かの間違いだ。きっと夢だ。


「君は、マリアちゃんじゃないよね」


でも、夢なんかではなかった。
誠人さんの声は確かにそう言っていた。


「いつから気づいてたんですか」


言い訳をしても、どうせ隠せない。
誤魔化すフレーズも一瞬頭をよぎった。
でもそれは一瞬で、こうなることを予知していたかのように、
自分でも驚くくらい私は冷静だった。


「君の演奏を初めて聞いた時。マリアちゃんのピアノの音じゃなかった」


音。たったそれだけで。
今まで、どんな話をしてもどんな顔を見せても気がつかなかったのに。
せめて、もっと違うところで、もっと早く気づいて欲しかった。



「どうして、直ぐに言わなかったんですか。マリアさんじゃないって気づいた時に」


「言えるわけないよ。この演奏会を楽しみにしている人が沢山いるのに」


理由すら誠人さんらしくて反論する余地すらない。
どこまでも真っ直ぐな彼が、今は私の敵。
元々味方でもなかったけど、敵にだけはなってほしくはなかった。

「マリアちゃんは?今、どこにいるの?」

「分からないんです。見つかるまで私がマリアさんの代わりをすることになっていて……」

「どういうこと?」

「そういう契約なんです」


彼の表情がみるみるうちに曇っていく。
知らなければ良かったと思っているのだろうか。
それとも、気づけて良かったと思っているのだろうか。
彼に、今どんな気持ちかなんて聞けるはずもなかった。


「このことは黙っていてください」


私は、彼に頭を下げた。
あっけなかった。あっけなくて惨めな終わり方だった。
マリアさんが見つかるまでという契約は果たされることはなく、卒業もできない。
誰にも知られてはいけない。もしも、誰かに知られたらその時はもう……


「僕も、大ごとにはしたくない」

物わかりのいい彼が逆に嫌らしかった。
彼が黙っているのは、紛れもなくマリアさんの為。
そう分かってしまったから、いっそバラして欲しいとさえ思ってしまった。

「君は、マリアちゃんじゃなかったんだね……」

彼は私のことをずっとマリアさんだと信じて疑わなかった。
もしかしたら、このまま噓をつき続けるべきだったのかもしれない。
だけど、私にはそれができなかった。
全部が噓だったわけじゃない。そう言いたかった。
でも、噓だって思ってくれた方がいいのかもしれない。
この恋が本物だったって知られなくて良かったのかもしれない。



事情を知った黒木さんは私のことを責めることなく、むしろ庇ってくれた。
ただ黙っていることしかできなかった。


暖房が効いているせいか、それとも雨が降っているせいか、
車内の窓ガラスは曇っていて、外の景色は見えなかった。
訳もなく流れ出る涙が頬を伝っていく。

いつも会話をしている車内は静かでよどんだ空気に満ちていた。

何か言ってほしい。こんな時だからこそ何か言って欲しかった。
これからどうやって生きていけばいいのか。彼が黙ってくれるなんて保証もない。
もしも、公になったら私はこの国では生きていけなくなる。おばちゃんにも迷惑がかかる。色んなことが頭を巡らせた。



「自分の事しか考えられない人間にはなるな」と、父に教えられた。


だけど結局、私は自分が一番大切で、自分が一番特別なんだ。


"何もかも終わりにしたい"初めてそう思った。


苦しむくらいなら、いっそ消えて無くなりたい。


私は、部屋の窓を開けた。



ここからなら……そう思って、足をかけたその時だった。



「いけません!自ら命を絶っては!」



血相を変えて部屋の扉を開けたのは黒木さんだった。



「貴方の命は、貴方だけのものではないのですよ!
残された人達がいる。悲しむ人がいるという事を、どうか、忘れないでください」


私はその場に崩れ落ちた。
泣いてどうにかなるなら、いくらでも泣ける。
でも現実はどうにもならない事の方が多い。
それでも私は涙が溢れてきた。
声を荒げて泣き喚いた。
全身の力が抜けていく感覚がした。

黒木さんは私をソファーに座らせると、いつもみたいに話し始めた。
心地よいトーンが身体の内側から染み渡っていく。
その言葉に耳を傾けた。


「お嬢様も一度だけ命を絶とうとしたことがございました」


マリアさんが一番辛かった時、隣にいて欲しい人はもういなかった。
母親の死を本当の意味で受け入れられていなかったんだそう。


「その時、代表が言ったんです。
『人は、簡単に命を絶つ事が出来る。でも、簡単だからといって逃げてはいけない。
たとえどんなに苦しい道のりでも、必ず生きていけるように出来ている。
だから人生に甘えるな。
簡単に生きる事が出来るなんて、思ってはいけないんだ』と」


私には、まるでその言葉が、
亡くなったマリアさんのお母さんに向けた言葉のように聞こえた。


もしかしたら、その言葉を言っていれば、
マリアさんのお母さんも踏みとどまれたのかもしれない。


私も、ずっと甘えていた。人生という長い道のりに。
親がいなくて、裕福ではなくて、自分は普通の人に比べたら不幸なんだとずっとそう思ってきた。でも、今ならそれが間違っていたことだって分かる。
普通の人って何?それは、私の勝手な考えで普通は人それぞれ違う。
私は皆と違うから仕方ないって思えるように、口実を作るために、
私はそうやっていつも他人と比較して、逃げ道を作っていた。

もっと苦しい思いをしている人も、このコミュニティの中で必死に生きている人もいる。
そういう人たちもいるってことをここにきて知った。
でもその人達は、逃げることなく前に進んで生きていた。

かっこよかった。自分が笑えるくらいかっこよかった。

目先の事にとらわれずに思い出すんだ。本当に今まで辛い事ばかりだったのか。

そんな事は無い。

楽しい事も沢山あった。そして、きっとこれからも……

この先、たとえどんな辛いことが起ころうとも、もう逃げたりしない。
それも全部自分がしたことの行いだから。
受け入れて生きていく。


「明日は、学校をお休みされますか?」



「大丈夫です。マリアさんの代わりは、私しかいませんから」



昨日から続く雨はまだ、あがっていなかった。
でも、私の家の周りはマスコミで大騒ぎだった。


なぜなら、週刊誌に掲載されたからだ。テレビは、その話題で持ちきりだった。


"御縁のご令嬢が、同級生に暴力"
"マリア様、影武者説"
"マリア様と誠人様、妊娠疑惑……"

あることないこと書かれていた。

こうなることは覚悟していたし、いつかこうなる気もしていた。
だから、私も黒木さんも社長も慄いてはいなかった。


「速報です!
只今、御縁家のご令嬢のマリア様が緊急会見を開かれるとの情報が入りました……」

私は会見を開くなんてこと言っていない。
勿論、黒木さんや社長もその事実を知らなかった。
そうなると、会見を開くのは本当のマリアさん。

週刊誌に話をしたのもマリアさんで間違いなかった。
私と誠人さんのリサイタル講演の写真がネットニュースで話題を呼んでいたのは、記憶に新しい。
きっと、マリアさんもそれを見たのだろう。
黙っているわけにはいかない。そう考えるのも無理はなかった。


テレビから聞こえてきたアナウンサーの声に社長は癇癪にも似た態度でどこかに電話をかけていた。
鳴り響くシャッター音はテレビの音声をかき消すほどだった。


そして、テレビに映し出されたのは、私と同じ顔のもう一人の人物だった。


沢山のフラッシュが焚かれる中、
映像に映し出されたマリアさんは私とは比べ物にならないくらい、
綺麗で美しくて儚くて、凛とした佇まいが目を引いた。


「この度は、お集まり頂きありがとうございます。
報道されている沢山の情報は、事実の事もありそうでない事もあります」

初めて聞いたマリアさんの声は、私よりも少しだけ大人びていて透き通っていた。

「影武者はいるのですか!」
「誠人さんとの妊娠は本当なんですか!」


飛び交う記者からの質問に、マリアさんは動じることなく淡々とまるで台本でもあるかのように、答えていた。


「あの写真に写っていた人物は私ではございません。
妊娠の事実もございません。今回、皆様にお集まり頂いたのには、
別の件でお話ししたい事があったからです」


私はただ静かにマリアさんの話す言葉を聴いていた。
この時既に私は、マリアさんではなくなっていた。
終わり方は最悪すぎるくらい最悪だけど、ほっとしている自分もいた。
全国に流れているもう一人の自分の声が不思議で、私は確かにマリアさんとして生きていたんだと実感させられた。



「私、御縁マリアは、
羽衣石 誠人さんとの婚約を破棄する事をここに宣言致します」



背筋に衝撃が走った。
マスコミが騒ついているのがテレビの向こう側から伝わってくる。


「何を勝手なことを。速やかに止めるんだ!早く!」

社長の怒鳴り声が部屋中に響き渡った。
横目で黒木さんを見ると、飄々とした佇まいでその背中は頼りがいのある背中をしていた。
いつも支えてくれた黒木さんは今この瞬間でさえも私は支えられていた。


「お言葉ですが代表。
ここは、お嬢様の言葉を聞きましょう。
お嬢様がこうして自ら声を上げているのです。
それを聞いてあげるのが、親なのではないのですか」


ずっと傍で見てきたからこそ、黒木さんには分かるのだろう。
マリアさんがどこまでの覚悟で会見を開いているのかということが。
私も聞いてみたい。マリアさんの伝えたかったこと。
家出をしてまで届けたかった想いを。


「この件は、私個人が決めた事であり、羽衣石家の方々や、会社は一切関係ありません。
誠人さんは、私には勿体ないくらい素敵な方です。
ですが誠人さんとの婚約の話は元々親同士が決めた事であり、
以前からその事に対し、あまり良くは思っておりませんでした。
会社や親のためにどうして子どもが犠牲にならないといけないのですか?
私たちは決して会社や親の言いなりになる為に生まれてきたのではありません。
どうして、自分のやりたいことや将来の夢を追ってはいけないのですか?
どうして、好きな人と一緒にいてはいけないのですか?
自分の人生を犠牲にしてまで、親や会社の言いなりにはなりたくないのです。
私のこの決断で会社同士が対立する事は望んでおりません。
親は親。会社は会社。そして、子どもは子どもとして、どうかご理解頂ければと思います」


社長は何も言わなかった。
私も、何も言えなかった。


マリアさんは、それだけを伝えると、記者の質問に丁寧に答え会見を終えた。


静まり返った家の中は暖房が効いているはずなのに寒く感じた。

久しぶりに私のスマホが静かに鳴った。
着信の相手は加奈からだった。
このタイミングで鳴るということは、聞かれることは予想ができた。
出ないという決断もできたと思う。でも、ここで逃げたら何も変わらない。
今までと何も変われない。


「久しぶり……」

加奈の声は全然変わっていなくて、あの時の加奈のままで、無性に会いたくなった。

「元気だった?」

「うん。柚子は?」

「元気だよ」

加奈は何かを言いたそうだった。

「何か、聞きたいことがあって電話してくれたんでしょ?」

もう、何を聞かれても何を言われても大丈夫だから。
加奈についた沢山の噓は許されないとしてもそれでも、私は私の任務を全うする。

「今、どこにいるの?」

「カナダだよ」

「そっか……」

加奈の息をのむようにして話す声が電話の向こうから聞こえた。

「国際電話って呼び出し音が変わるんだよね。日本にいたら変わらないんだけどさ」

私がどこにいるのか加奈は分かっていた。
分かっていたから電話をしてきた。
それでも加奈はそれ以上追及してこなかった。

「ごめん……帰ったらちゃんと話すから」


加奈は「分かった」それだけ言って電話は切れた。
久しぶりに話した会話は、悩み事でも自慢話でもなくて噓に噓を重ねる会話だった。

加奈は、物わかりがよくて良かったと思った。
そう思ったのにそんな物わかりのいい加奈が加奈じゃないみたいで、
そうさせてしまったのもそう言わせてしまったのも私でつくづく自分のずるさに腹が立つ。

ここに来て、初めて友達になれた真紀や莉佳子ちゃんにも謝らないといけない。

今頃、学校は大騒ぎになっていることだろう。
何故か私は俯瞰的だった。
いつのまにか、私はマリアさんとして生きていて、
いつのまにか、それが当たり前になった。

人の人生を生きるのは、案外簡単ですごく恐ろしかった。


今思えば、こんな事をしてまで、
本当に卒業が大事だったのかとさえ思えてしまう。
私は、今の今まで一番大事な事を忘れていた。

それは、家族や友達。私を支えてくれている人達のこと。
その人達を騙してまで、
大事にしなきゃいけないものなんて一つも無かったこと。

私は、後悔をしたくなくてこの道を選んだはずだった。
だけど今は、この道を選んだ事に後悔という文字が浮かんだ。


今までで、一日が一番長く感じた。
芸能人のスキャンダルとかでマスコミが家まで押しかけてくるみたいな話をたまに耳にする。
自分には関係のないことだって思っていたけど、実際にその立場になると結構きついものがあった。


マリアさんと初めて会ったのは、それから暫く経ってからだった。

マスコミの数も減ってきて、ようやくマリアさんが家に戻ってきた。
少し変な感じだった。
同じ顔の人がこうして会うのはなんというか、不気味な感じがした。


黒木さんは少し涙目だった。
そして、黒木さんはマリアさんの頬を力強く叩いた。
黒木さんの手のひらは赤く震えていて、マリアさんは涙目だった。


「どれだけ心配したと思ってるのですか!」

「ごめん、なさい……」


マリアさんの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。


二人は本当の家族に見えた。
血はつながってないとしても、家族だった。

もうここに、私の居場所はない。

私は、その日身支度を済ませた。
一人で帰ろうと決めた。これ以上、マリアさんにも黒木さんにも社長にも誠人さんにも……迷惑かけられないから。

本当は最後くらい、笑ってさよならしたかった。なんて贅沢なことを考えてしまった。

止まない雨はないとか言うけど、今日も雨は止んでいない。
傘の柄に手をかけて、直ぐに離した。
この傘は持っていけない。もう返しに来れないから。

ずぶ濡れになりながら、キャリーケースを片手に布のバッグを肩からかけて歩く道は、不格好でその姿はもうお嬢様ではなかった。

涙なのか雨なのか分からないくらい私の顔は水だらけだった。
タクシーが中々捕まらなくて、挫けてしまいそうになる。

こんな運命になることを予想できていたら……
上を見上げたら、星なんか見えなくて目に鋭く突き刺さる濁った水だけが見えた。

私は、ボストンバッグを地面に落とした。
泥水で汚れたバッグも、ズボンも気にならなかった。
泣くのは最後にしようって決めたはずだったのに、コントロールなんてできなくて、
滝のように流れ出るこの涙が鬱陶しい。

そしてようやく私の前に一台の車が止まった。
やっときたのか。涙を拭って顔を上げた。

後部座席の窓がゆっくりと空いた。

「乗って!」

滲んだ視線には確かに彼の姿が映っていた。

「なんで……」

私が呆然としていると、彼の執事が私に傘を差し出して強引に車に乗せられた。

車はリムジン車で私は、誠人さんの前に座らされた。
後ろからタオルが差し出された。
無言で差し出された真っ白なタオルを無言で受け取った。
タオルは誠人さんの匂いがして、胸が張り裂けそうになる。
洋服や汚れた所を拭くためだったのに、私はタオルを顔に押し当てて泣いた。

「君の家はまだマスコミがいるからとりあえず僕の家で待機ね。
黒木さんには連絡しておいたから」

「すいません……」

「とりあえずこれに着替えて。その格好じゃ風邪ひくから」

こんなことになっても、誠人さんは優しくしてくれた。
マリアさんの会見のこともあって誠人さんも大変なはずなのに。
結局私は、また迷惑をかけてしまった。


「これから、どうするの?」

「マリアさんが帰ってきたので、私の役目も終わりました。だから、家に帰ります」

「そう。でもやっぱり、こうやってみるとマリアちゃんじゃないね」

当たり前のことを言われただけなのに苦しくなった。

「ほんとうはさ、気づいてたんだ。
マリアちゃんの気持ちが別の誰かに向いてるってこと」

誠人さんはどこか遠くの方を見つめ、悲しげな表情で何かを思い出しているみたいだった。

「必死だったんだ。マリアちゃんを振り向かせようと。
好きだったからじゃない。悔しかったんだ。
僕はさ、政略結婚でも多少は寄り添っていかないと上手くいかないってそう思うんだ。
なのに、マリアちゃんはいつも自由奔放で心ここにあらずって感じでさ。
俺だけがいつも頑張ってて、好きだって思い込ませて……」

誠人さんもずっと苦しんでいた。
一方的に好きなんだと思っていたけど、誠人さんは必死に演じていたんだ。
マリアさんの婚約者を。

「今思えば、君はやっぱり変だったよ。マリアちゃんじゃなかった。
でも、気づけなかった。気づかないふりをしていたのかもしれない」


「どういうことですか?」


「楽しかったんだ。君といるのが」


優しい眼差しがこちらに向けられたのを私は故意に逸らした。
噓を見破られそうな気がしたから。
誠人さんに好きだと言ったのはマリアさんとして。
誠人さんと過ごした時間はマリアさんとの時間。
そう思ってくれないといけなかった。


沸騰したお湯の音が静かに鳴った。
誠人さんはマグカップにお湯を注いで私の前に置いた。


「体調が悪い時によくマリアちゃんが作ってくれたんだ。身体が温まるからって」

湯気とともに微かに香る柑橘系の香り。
マリアさんがよく作ってくれた物を私に出すなんて誠人さんは鈍感なのか、
ただの馬鹿なのか。二人の思い出は私には到底及ばないのは明白なのに、
誠人さんのその何気ない行動が仕草がマリアさんとの時間を物語っていて、熱い湯気が目に染みた。

息で冷ましながら啜ったその香りは口いっぱいに広がった。

「これって……」

「ゆず湯。口に合うといいんだけど」

ゆず。久しぶりに聞いたその言葉に今まで溜め込んでいた感情が一気に溢れだした。
忘れていた。私の本当の名前。
マリアさんじゃなくて、柚子花だったんだ。

優しい味わいが傷を癒すように染み渡っていく。
こんなに汚れてしまった私はこの柚子のように優しく人を癒してあげられない。
おばちゃんのことも加奈のことも色んな人の顔が浮かんだ。
みんなごめん。ごめんなさい。

こぼれ落ちた涙はゆず湯に混ざり合って溶けてなくなった。


家に帰ると「おかえりなさい」とマリアさんが出迎えてくれた。
少し二人で話そうと言われて、マリアさんの部屋に二人で入った。


「何だか、不思議ですわね。私と同じ顔の方がもう一人いるのは」

「そうですね……」

マリアさんの頬には湿布が貼られていた。

「まだ、痛みますか?」

「ええ、まぁね。初めてだった。黒木に叩かれたの。
でも、あなたの方が平気じゃなさそうね」

「すいません」

「謝らないで。謝るのはむしろこちらの方だから」

マリアさんは優しい人だった。
私のことを責めたり罵ったりせず、むしろ労わってくれた。
偽物の自分を目の前にして腹が立たないのだろうか。
器が大きいのか、腹が立つけど隠しているのかは分からない。
ただ一つ言えることは、マリアさんは私が演じられるほど簡単な人じゃないということだった。

「家出した理由聞いてもいいですか?」

「簡単なことよ。誠人さんと結婚したくなかった。それだけ」

何も言い訳せず言い切るマリアさんは清々しかった。
やっぱりそうだったんだ。と思ったけどきっとそれ以外にも色々悩んだ結果なのだろう。全てを口にしないのは誰のせいにもしたくなかったからだと思う。
マリアさんの責任の強さは初めて会った私でさえ伝わってくるものがあった。

「マリアさんの好きな人、どんな人か聞いてもいいですか?」

マリアさんは少し照れくさそうに人差し指で鼻をさすりながら話してくれた。

「凄く優しくて、穏やかで、一緒にいると安心できる。何より、彼の音が好きなの」

「音?」

「えぇ。ピアノの音」


ピアノの音。マリアさんが好きだと言ったピアノの音は、
皮肉にも私の正体を見破る音だったけど、音に惹かれたマリアさんは、
素敵だった。

その日は同じベッドで一緒に朝まで語った。

莉佳子ちゃんの家の話。誠人さんの話。マリアさんの友達と行った映画の話。
マリアさんが初めてコンビニのカップラーメンを食べた話。
電車に乗った話。駅ビルに入っているファッションブランドは意外と安いって話。
私からしたら、高いなと思うけどお嬢様はやっぱり感覚が違った。
私たちは沢山の初めてを語った。
何もかも忘れて、ただ笑いあった。そんなに面白い話はしてなかったけど、
大袈裟なくらい笑った。


そして私は、今日ここを去る事が決まった。

見送りに来てくれたのはマリアさんだけだった。
それでも私は嬉しかった。


「柚子花さん、今まで本当にごめんなさい」


家出なんてあってもおかしくない。
私ぐらいの歳の子はそういう時期もある。
事を大袈裟にしたのは赤の他人の私。
それでもマリアさんの言葉が少しだけ救われたのは本当だった。
ただ自分の名前を呼ばれてなんだか少しこそばゆかった。



「そうだ。これ、誠人さんから。見送りに来られないからって」


マリアさんが差し出してきたそれは、
クリアケースの中に儚く咲いている青い小さな押し花のキーホルダーだった。



「私に……ですか?」


マリアさんは小さく頷いた。


私は、そのキーホルダーを見つめてそれからこう伝えた。


「今までありがとうって、誠人さんに伝えておいてください」



どういうつもりで、誠人さんがそのキーホルダーを
私にくれたのかは分からない。

でも、嬉しかった。

もう二度と会えないからこそ嬉しかった。
この時間が夢じゃなかった。誠人さんの人生の一部にはなれていたんだって。
そう実感できたから。

深夜十一時。

人目を避けながら、私は荷物を抱えて外へと出た。


「気をつけてくださいね。お元気で」


マリアさんからの言葉は、なんだか重みがあった。


「色々と、すまなかった。
これからの人生は君自身のために生きてくれ」


代表から謝られたのは、初めてだったから変な感じがした。


でも、今度こそ、
自分の人生を生きよう。生きていいんだ。そう思えた。



「お世話になりました」私はそう言って、頭を下げた。


色々あったこの一年間。

本当は、もっと早く帰るつもりだった。

それなのに、いつのまにかこんなに長居してしまった。



黒木さんの車に乗るのも今日で最後。


「では、参ります」

黒木さんは車を発進させた。



窓の外を見ると、満月が覗いていた。


初めは、髪をカットされて凄くそれが嫌だった。
洋服も私の趣味とは正反対で着るのが嫌だったのを覚えている。
家は、豪華で立派で。何もかも、新鮮で初めてだらけだった。

友達を傷つけたりもした。生きるのはそんなに簡単じゃないことも知った。

いつのまにか、本気で人を好きになった。
恋をすることが苦しくて悲しくてぼろぼろになってしまう日もあった。

楽しい事も苦しい事も沢山あった。
色んな事を学んで、色んな事に傷ついた。
そして、本当に大切なものにも気づくことができた。


私は、誠人さんから貰ったキーホルダーに視線を落とした。


「その花、何の花かご存知ですか?」


黒木さんからそう聞かれ、私は考えたけど、
やっぱり分からなかった。


「ブルースターの花言葉は、「信じ合う心」「身を切る思い」そして、
「幸福の愛」です」


彼がどんな意味を込めてこの花を私に送ってくれたのかは分からない。
でも、彼はずっと私を信じて疑わなかった。
騙していたのは本当だけど愛していたのは噓じゃない。
最後にそれだけでも伝えたかった。ううん。伝えなくて良かった。


時刻は午前零時を差した。



街は、一斉にライトアップされ、お祝いムードでいっぱいだった。

『ハッピーニューイヤー!』

年が明けた。そうだった。今日は新年だった。

明るい街の景色に私は自然と涙がこぼれた。


「ご立派でしたよ。お嬢様は」


黒木さんの言葉で今まで縛られていた何かが全部解けたみたいだった。
どうして泣いているのか、自分でも分からない。なぜ、涙が出てくるのかも。


涙でいっぱいのニューイヤー。

私の偽りはこうして幕を閉じた。