「可哀想よね。結構好きだったんだけどな莉佳子の家の和菓子」
「真紀はさ、知ってたの?莉佳子ちゃんの家のこと」
「うん、知ってたよ。何か月も学費滞納してたらしいしまぁ仕方ないわよね」
真紀は爪を磨きながらつまらなそうにそう言った。
「そんな言い方ないんじゃない?私たち友達でしょ?」
「だから?」
「こうなったこと、真紀は悔しくないの?悲しくないの?」
真紀は椅子から立ち上がると鋭い視線をこちらに向けてきた。
「悔しいとか悲しいとか、そういう問題じゃないでしょ。
この学校に私たちがどれだけ寄付金出してると思ってるの?マリアの家が一番大きな額だしてるのよ?それなのに、学費払えない人置いておけないでしょ?
マリアがそんなことも分からない馬鹿だとは思わなかった」
突き放たれたその言葉に私は落胆した。
マリアさんの家が一番寄付金を出している。それが何を意味しているのか。
要するに、この学校が経営できているのはマリアさんの家のおかげってこと。
マリアさんの家が莫大な寄付金を支払っているから、この学校は成り立っている。
つまり、金にものを言わせているのは紛れもなく私の家だった。
「どうして言ってくれなかったんですか。寄付金のこと」
「言ったらやめてました?あなたがあのチラシを配ったことで莉佳子様は余計に学校にいられなくなった。あなたは自ら彼女の首を絞めたんですよ」
それはその通りだけど。黒木さんの言う通りだけど。
「何かしてあげたかったんです。友達として。私の時は誰も何もしてくれなかったから……」
「それはあなたのエゴです。何も分かってらっしゃらないのですね」
黒木さんは車を停めた。
ワイパーの音が響く車内はやけに静かだった。
「あなたのご友人は何もしてくれなかったんじゃない。何もできないから何もしなかったんです。
あなたは、卒業できないと言われてご友人にご相談なさってましたよね。
ご友人からはバイトを減らすように言われた。でも、あなたはそれをしなかった。それは何故か。
バイトを減らしたところで卒業できる見込みがあなたの中でなかったから。
莉佳子様も同じです。チラシを配ったところで経営を立て直すことができないと分かっていた。
確か、ご友人はあなたが留学を決めたことに最後は応援してくれたと仰っておりましたよね?
してくれてるじゃないですか応援。
それが、ご友人としてできる精一杯なんです。
応援するというのがあなたの言う、友達として出来ることなんです」
私は何も分かっていなかった。何一つ分かっていなかったんだ。
あの時誰よりも親身になってくれたのは加奈だったのに。
「今日、莉佳子様あの家を出ていくそうですよ」
私は、傘を持って走っていた。
雨の中を走るなんてお嬢様らしからぬ行動だけど、今はそんなことどうでもいい。
今はただ莉佳子ちゃんに会ってちゃんと謝りたかった。
許してもらえなくてもいい。彼女の人生を変えてしまったのは私だから。
「莉佳子ちゃん!」
家を出ていくというのに彼女が持っていたキャリーバッグはそれほど大きいものではなかった。
「マリアちゃん……わざわざ来てくれなくても良かったのに」
「ごめん、私のせいで……」
「マリアちゃんのせいじゃないから。元々、退学になるのは決まっていたし。
そんな顔しないでよ。そんな顔されたら私が悪いことしたみたいじゃない。仕方ないよ。私立はお金かかるんだし」
莉佳子ちゃんは、何かが吹っ切れたような清々しい顔をしていた。
「私ね、この前のテストでマリアちゃんの成績落ちた時、正直少しだけ嬉しかったの。
マリアちゃんがずっと羨ましかったから。
成績よくて、美人で、スタイルもよくて、お金もあって、素敵なフィアンセもいて。非の打ち所がなくて羨ましかった。
だけどね、この間のテストでマリアちゃんも完璧じゃないんだって分かったの。
もしかしたら、今まで完璧に見せていただけで本当はプレッシャーとかあったのかなって。
学年トップでいるための努力とか、いつも綺麗でいるために美容とか健康とか人一倍気を遣っていたりとか。
そういうの、見せないじゃない?マリアちゃんは。
だから、知らなかったし分からなかったけど、でももし、そうなんだとしたら私には無理だなって思った。
そんなに頑張れないから。私はマリアちゃんみたいにはなれないって。というか、なりたくないって思った。
だからもう、羨ましがるのはやめようと思う。羨ましいって思う時間があったら自分を磨くことにしようと思う」
同じだ。あの時の私と。
加奈もこんな気持ちだったのかな。
羨ましいって思われるのって、こんなだったのかな。
全然そんなことないのに。羨ましくなんかないのに。
そう思われるのって、こんな気持ちだったのかな。
今の私と同じような気持ちだったのかな。
「今度会うときはさ、私が羨ましいって思ってもらえるように頑張ってみるね!」
傘に落ちてくる雨粒がうるさかった。
莉佳子ちゃんは会社も家もなくしたのに、全然不幸には見えなかった。
お金がなくなっても莉佳子ちゃんはあのままだった。
黒木さんが言っていた。お金は関係ないって。そういうことなのかもしれない。
「あれ?マリアちゃん?」
顔を上げるとそこにいたのは「誠人さん……」
「こんなところで会えるなんて奇遇だね!これから時間あったりする?」
湿気で髪はへたっていた。
こんな姿で誠人さんに会ってしまうなんて最悪だ。
それに今は誰にも会いたくない気分だった。
時間がないと言えば良かったのだろうけど、黒木さんにも会いたくなかったし、行く当てもない私は誠人さんの家まできてしまった。
「今日さ、親が出掛けてたから一人で散歩してたんだ。そしたら、たまたまマリアちゃんに会えて凄く嬉しかった!」
誠人さんはいつもストレートに想いを伝えてくれる。マリアさんと会えるのがそんなに嬉しいんだね。でも、ごめんね。私はマリアさんじゃないんだ。
「あそうだ!マリアちゃんの料理食べてみたい!ほら、この間言ってたじゃん?最近料理するって。実はさお昼まだなんだよね」
あまり気は進まなかったけど、断って面倒になるのも嫌だった。
それに、こんなに楽しみにしてくれている人を前に断ることができなかった。
「何か食べたいものあります?」
「そうだな、んー、じゃオムライスとか?」
「分かりました。いいですよ」
「ありがとう!食材は冷蔵庫にあるもの勝手に使っていいから!」
誠人さんは本当に尊敬する。
いつも明るくて笑顔を絶やさない。こんな私にさえ優しくしてくれるんだから。
料理は久しぶりだった。ここにきてからは、キッチンにさえ立っていない。
もしも、もしも私が本当に誠人さんの彼女だったら。ありもしないことを考えるのはもうやめよう。
「これ、美味しい……お世辞とかじゃなくて本当に美味しい。こんなに美味しいと思わなかった。
あ、いや、美味しいだろうとは思ってたけど、ここまでとは思ってなかった」
「そんなに褒めても何も出ませんよ」
「ほんとだって!これ、お店出せるよ!マリアちゃんピアニストにもなれて料理人にもなれるなんてすごいね!」
そんなにいうほどでもなく普通の味なのに、オムライスをたいらげて無邪気に笑うその姿に胸が締め付けられた。
「誠人さんって、いつも楽しそうですよね」
「うん!だってマリアちゃんといるの楽しいから!」
「どうしてですか?私といて何がそんなに楽しいんですか?」
私は、マリアさんじゃない。誠人さんが思っているような人間じゃない。
マリアさんじゃないのに、私の前でも楽しそうにするなんておかしいよ。
「何がって言われると、難しいけど。ただ、マリアちゃんが好きだから。
政略結婚とかそういうのじゃなくても、多分僕はマリアちゃんを好きになっていたと思う」
誠人さんは言った後、顔を真っ赤にして弁明し始めた。
「あ、ごめん。今の凄い気持ち悪かったよね。
マリアちゃんはそんな気ないの知ってるから。
政略結婚だから一緒にいるだけだもんね。なんか、変な汗出てきた、ほんとうにごめんね」
なんで。どうしてそんなこと言うの。どうしてそこまでしてマリアさんの気持ちを守ろうとするの。
自分と同じように好きになってほしいってどうして思わないの?
思ってくれなきゃ困るのに。思ってくれなきゃマリアさんとしていられないから。
「そんなことないです。私も、私も誠人さんが好きです」
好きになっちゃいけない。私は自分にそう言い聞かせた。でも、言い聞かせていることに気づいてしまった。
誠人さんは口についたケチャップに気がついていないようで、こちらをじっと見つめていた。
「ありがとう。そうはっきり言われると、なんか照れるね」
「あ、すいません……」
「ううん。嬉しいよ。婚約者って言っても親同士が決めた相手だから無理に好きになる必要はないって思ってるんだ。
でも、そう言ってくれるなら嬉しいよ。僕もマリアちゃんのこと好きだから」
そうだよね。私じゃない。誠人さんはマリアさんが好き。マリアさんしか見えてない。
「おかえりなさいませ。話せましたか?莉佳子様とは」
黒木さんは分かっていたのだろうか。こうなることを全て予測していたのだろうか。
濡れた髪にタオルが降ってきた。
「風邪ひきますよ」
黒木さんはたまに凄く優しい時がある。
目からこぼれ落ちそうになる涙をタオルで隠した。
「羨ましいって言われました。ずっと羨ましかったって。
私もそう思ってたんです。マリアさんのこと羨ましいって」
「今は違うのですか?」
「羨ましいと思うこともあります。でも、羨ましいって思えるのってその人のいい所しか見ていないからなんだって気づいたんです」
「そうですか。それに気づけただけでも少しは成長できたのではないですか」
そうだった。私いつのまにか忘れてた。
誰かの良いところや自分にはないところを羨むばかりで自分は何一つ努力をしていなかった。
勉強もそう。努力することを避けて私はあの人じゃない。あの人だったらって言い訳を必死にさがしていた。
きっと、私がその人でも自分自身が変わろうとしなきゃ加奈のようにはなれていなかった。
「隣の芝は青いですね」
「なんですかそれ」
「ことわざです。他人のことは良くみえるっていう。
それはそうなんですよ。見えてる部分だけを見ているから。本当は見えない部分にこそ真実が隠されているのに」
見えない部分にこそ真実か。誠人さんには見えてる部分しか見えてない。本当の私は別にいるのに。
「実は……さっき誠人さんにも会ったんです」
「そうでしたか。何か話されたのですか?」
「マリアちゃんが好きだって言われました」
黒木さんは一瞬グラスを拭く手を止めた。でもすぐにまた作業に戻った。
「でも、私言いそうになってしまって。
私はマリアさんじゃないって。誠人さんが好きなのは私じゃなくてマリアさんだから」
「えぇ、そうですね」
「怖いんです。誠人さんの中のマリアさんが私の演じるマリアさんになってしまうんじゃないかって」
「大丈夫ですよ。元に戻ればそれも全て元に戻ります」
「でも、嫌なんです!私とマリアさんは違うから。違う人間だから。一緒にされたくないんです!」
「仕方ないじゃないですか……」
「分かってます!分かってますけど……」
分かってる。そんなことは重々承知だった。それでも、私だって人間だから。
感情を必死に押し殺しているけど、それでも、それでもやっぱり……
「誠人さんはあなたをお嬢様だと思っているから好きなんですよ。あなたがお嬢様ではないと知った瞬間それは全て崩れます」
「だから、それも全部分かってますって。
だから必死にマリアさんとして生きているじゃないですか!マリアさんじゃなきゃ駄目なことくらい分かってるから。
でも、人が変わっているのにそれに気が付かないで同じように好きでいられるなんておかしいです!好きなら気づくべきです!そんなの、本当の愛じゃない!」
「誰も本気で愛そうなんて思ってませんよ。そもそも、政略結婚なんてそういうものです。
好きになろうと努力して目の前のこの人を好きだと思い込ませているだけです。
実際、お嬢様は別の男性に恋をしておりますし、お互い本気で愛して欲しいなんて最初から望んでません。
誠人様もそうお考えだと思いますよ」
「だから……分かってますって……」
どんなに好きでも、どんなに想っていても叶わない恋もある。
マリアさんが家出をした理由が今やっと分かった。
マリアさんは好きな人と結婚できないから家出をしたんじゃない。
耐えられなかったんだと思う。
先生のことを好きになってしまった自分も、誠人さんに噓をつき続けなければならない自分も。
私も今すぐ逃げ出したい。この場から消えてなくなりたい。
こんなに辛いなら好きになんてなりたくなかった。
好きになろうとなんてしていなかったのに。
マリアさんは一生懸命誠人さんを好きになろうとしたはず。それでも好きにはなれなかった。
好きになったらいけないと思えば思うほど、私は誠人さんに惹かれてしまう。
好きになってはいけない相手と好きにならなきゃいけない相手。どちらの方が残酷なのでしょう。
ついこの間まで普通の高校生だった。
朝は、いつも忙しなくて、メイクにやたら時間がかかって、遅刻ぎりぎりで教室に入る日の方が多かった。
友達に馬鹿にされて、くだらない話で盛り上がって。
そんな、なんでもない日がただ楽しかった。
でも、今は全てが変わった。
朝は、必ず時間通りに起こされて、寝坊もしないし、遅刻もしない。
友達に馬鹿にもされないし、いつも実のある話をする。
バイト先で怒られることも、クレームを言われることもない。
お金には困らないし、ブランドものにも囲まれて不幸か幸せかと聞かれたら断然幸せだ。
だけど、どうしてかな。全然楽しくない。
社長のご令嬢という圧力。
成績トップというプレッシャー。
婚約者や友達への気遣い。
そしてなにより、偽りの自分でいる事。
都会の街は夜でも明るい。窓から覗く月が滲んで見えた。
今、皆んなどうしてるかな。
またカラオケ行きたいな。加奈にカフェで相談聞いてほしいな。
皆んなに会いたい……
ねぇ、マリアさん。あなたは一体どこにいるの?早く戻ってきてよ……もうこれ以上、私を苦しめないで……
心の準備ができないまま、誠人さんのリサイタル当日を迎えた。
黒木さんが運転する車で会場へと向かう途中、歩いているカップルを見かけた。
普段ならなんとも思わない何気ない日常でも、今はそのカップルを見るだけで心が締め付けられる。
会場には、富裕層な人達が集まっていた。
黒木さん曰く、ここに集まっている人は皆んな羽衣石家や御縁家に繋がりのある人達らしい。
どこかの会社の社長さんとか、その御曹司やご令嬢とか。
「誠人さんこんなに沢山の人達の前で演奏するんですね」
「誠人様はコンクールで受賞歴もありますからね。まぁ、お嬢様にはかないませんが」
そうなんだ。そんな凄い人の演奏に招待してもらえるなんて贅沢だな。というか、マリアさんってそんなに凄いんだ。
客席が暗転すると開演前のブザーが鳴った。
会場が拍手に包まれると共に白いタキシードに身を包んだ誠人さんが登場した。
誠人さんがこちらに一礼すると、また拍手に包まれた。
その佇まいは美しかった。
誠人さんは椅子に座ると大きく深呼吸をして鍵盤に手を置いた。
緊張感がこちらにまで伝わってくる。
そして、演奏が始まった。
一音目の音がこの広い会場に響き渡る。柔らかい音で会場を包み込んだ。
川のささやきの様な、穏やかな夕陽に包まれているような。幸せな音色だった。
パッヘルベルのカノン。こんな曲だったんだ。
ちゃんと聞いたことなかったけど、優しい曲調で誠人さんらしい選曲だった。
ソーミファソーミファソ、ソラシドレミファミードレミー……
そうそうこれこれ。この部分。
いつのまにか会場にいた全ての人が誠人さんの演奏に引き込まれていた。
夜に輝いている月が照らし始め、孤独に光る星たちが夜空を彩っているみたいで。平和な音色は、どこか儚げでそれとなく優しかった。
誠人さんの旋律は、哀しさと愛しさで溢れていた。
そういえば、リサイタルの話を聞いた時、誠人さんが言っていた事を思い出した。
「今回のリサイタルは大切な人に向けたものなんだ」と。
大切な人が誰なのか。誠人さんが今、誰を思って弾いているのか。私は、分かってしまった。
胸が苦しかった。息ができないほど苦しくて。いつのまにか私は、泣いていた。
初めは楽しかったあの日々さえも次第に無くなって、
自分はここにいるのに愛する人はどんどん遠く離れていってしまう。
ここで止まる事しか出来ない不甲斐なさがあって、でも、愛しいこの想いだけは決して消えない。
誠人さんの音色が私にはそんな風に聞こえた。
誠人さんの演奏はマリアさんへの想いが詰まっていて、収まり切れないんじゃないかってくらい詰まっていて。
私の入る隙なんて一切なかった。
誠人さんを見ているだけで、心が壊れてしまいそうで私は会場を飛び出した。
このまま演奏を聞いていることなんてできない。だってあの曲はマリアさんへの想いが詰まったマリアさんに向けた曲だから。
愛の言葉を永遠と聞かされて、どんな気持ちで聞いていたらいいのか分からない。
このリサイタル、本当はマリアさんに聴いてほしかったはず。
誠人さんはマリアさんのことが大好きで、大切で、いつも頭の中はマリアさんのことでいっぱいだった。
白いハンカチが私の前に差し出されて、私は顔を上げた。
「黒木さん、私…」
私がそう言いかけると、黒木さんは何も言わずに頷いた。
黒木さんは「分かっているから何も言うな」という顔をしていた。
「お嬢様も誠人様の演奏を初めてお聞きになった時泣いておられました」
「マリアさんも?」
「はい。誠人様の演奏はお嬢様のお母様と似ているんです」
マリアさんのお母さん……確かマリアさんが幼い頃に亡くなたって……
「お嬢様の母親はピアニストを目指されていたのです。
お嬢様は誠人さんの演奏を聞くたび奥様のことを思い出してしまうようで」
「だから、誠人さんのリサイタルに聴きに行っていなかったんですか?」
黒木さんはロビーの椅子に腰掛けた。
「あなたにリサイタルに行ってもいいかと聞かれたとき、薄々気づいてはいたんです。
あの時、リサイタルに行くのを止めようか迷いました」
「どうして、止めなかったんですか」
「お嬢様のことを思いだしたからです。お嬢様も先生の演奏を聴きに行きたいと言っておりましたが、
それを認めることはできませんでした。
あなたにあの時のお嬢様と同じ顔をさせたくなかった。でも、逆に辛い想いをさせてしまったかもしれませんね」
黒木さんの言葉が重くのしかかる。
黒木さんはとっくに気づいていた。私よりも先に。
「私…誠人さんのこと…」
そんなこと思いたくなかった。でも、もう隠しきれない。
「それ以上、口にしてはいけません」
「分かってます。でも、心と頭がついていかないんです。これ以上、誠人さんのこと騙せません」
「もう少しだけ、耐えてください。
必ず、お嬢様を連れてきますから。それまで、あと少し辛抱してください」
黒木さんは必死に私を説得していた。
私は他人事のような目で黒木さんを見てしまった。
そんなにマリアさんが大事ならもっとどうにかできなかったのかと思ってしまった。
マリアさんが家出をする前にもっとなにか……
その夜、誠人さんからお礼の電話がきた。
「今日は、来てくれて本当ありがとう。演奏どうだったかな?」
「凄く素敵でした。誠人さんの気持ちが伝わってきて。すいませんでした。最後までいられなくて……」
「マリアちゃん忙しいもんね。大丈夫。来てくれただけで嬉しかったから。気持ち伝わったなら良かった」
気持ちは痛いほど伝わってきた。うるさいほど伝わってきた。
「今日は満月だね」
そう言われて窓を開けてみた。気持ちのいい風が部屋に流れてくる。
「こうやって同じ月が見えるとさ、離れていても繋がっているんだなって思うよね」
離れていても繋がっている。どんなに遠くへ行ってもそれは変わらないのかな。
もしもマリアさんが戻ってきても。同じように思ってくれますか。
「ごめんなさい。そろそろ……」
「うん、ごめんね。夜遅くに。じゃ、おやすみ」
もし、私がマリアさんでは無いと知ってしまったら、誠人さんはどうなってしまうんだろう。
信じていたものが偽物だったって知ったら。
母が生きていたころ、こんなことを言っていたのを思い出した。
嘘は、ついていい嘘と悪い嘘があると。
その見極め方は、相手が幸せになるかそうで無いか。
そして嘘をついてしまったら、どんな事があっても貫きとおさなければいけない。
私は、嘘をついてしまった。
それも、ついてはいけない嘘。そして、その嘘を貫き通す自身も今は無い。
今の私を見たら、お母さんはきっと悲しむだろう。
でも、こうするしか無かった。ううん。そんな事無かったのかもしれない。
だけど、あの時はこの方法が一番良いと思っていた。ついていい噓だと思っていたから……
でもこれも全て私が決めたこと。あの時誓ったはず。必ずやり遂げて見せるって。
マリアさんが戻ってくるまで、しっかりやってこようって。
そうだ。そうだった。もう、泣いてなんていられない。強くならなきゃ。マリアさんとしてやりきるんだから。
私は社長室を尋ねた。
「どうしたんだ?急に」
マリアさんのお父さんと会うのは久しぶりで緊張した。
「マリアさんのことについて教えていただきたくて。
マリアさんとして生活していく中で思ったんです。私は顔さえ似てるけどあとは何もかも違うって。
だから、知りたいんです。マリアさんがどんな人なのか」
マリアさんとして生きていくって決めたんだ。もう一度初心に戻ってちゃんと向き合う必要がある。
でないと私は自分の感情のまま動いてしまうから。
「マリアはね、意思が強くて頑固でね。小さい頃に母親を亡くしてね。確か君のご両親も」
「はい。今は祖母と二人暮らしです」
「それなら、分かるかな。マリアは母親が大好きでね。
だから余計にショックが大きくて。暫くは口も聞いてもらえなかった。
でも、母親がいない分一人で何でもできてしまう子になった。逞しくなりすぎてしまったよ」
「マリアさんのお母さんが亡くなったのってご病気か何かですか?」
「自殺だよ。社長の妻であるプレッシャーと、家のことを全部妻に押し付けた私のせいでね。
こんなことを言ったら言い訳になると思うけど、当時は会社の成長期でね頑張り時だった。
だから、殆ど家にも帰らず仕事ばかりしていてね。娘の面倒なんてろくに見たことはなかった。
妻には本当に申し訳ないことをしたと思ってる」
そんな過去があったなんて知らなかった。マリアさんも辛かっただろうな。
「奥様とも、政略結婚だったんっですか?」
「いや、妻とは大学が一緒でね。私の一目惚れだった。
妻はピアノ科を専攻していてピアニストを目指していた。
妻の家系は決して裕福ではなかったけど、大学に通いながらいつも凄く努力していたよ。
私と結婚しなければ、きっとピアニストになっていて今も生きていたんだろうな。私は彼女の夢も命も奪ってしまった」
「それって、好きな人と結ばれても幸せにはなれないってことですか」
「どうなのかね」
「だから、マリアさんの好きな人のことも……」
マリアさんのお父さんがマリアさんと先生のことを認めないのは、自分と重ねているからだったとしたら。
「誠人くん、彼良い人でしょ」
「はい。凄く良い人です」
「なんで彼じゃ駄目なんだろうね」
「人を好きになるって好きになろうとしてなれるものじゃないからだと思います。
きっと、気づいたらいつのまにか好きになっているものじゃないですか?」
「なるほど、そうかもしれない」
「どうしても駄目なんですか。誠人さんじゃなきゃ」
自分の経験を教えるのは大切なことだと思う。でもそれを押し付けるのは違う。
マリアさんが同じようになるとは限らないのだから。
「彼との結婚は御縁家だけの問題じゃない。
彼の家もマリアとの結婚を望んでいる。だから、こちらが拒否したところで向こうが承諾しない」
「でも、それでマリアさんは家出したんですよ」
「何かを得るためには我慢も必要なんだ。結婚を破談にしたら会社の生命も絶たれる。
マリアは今、この環境があるから家出ができる。帰ってくる場所があるから。
でも、どうだろう。もしも会社が倒産なんてことになったら。
家出どころか、家さえもなくなる。そうなるくらいなら、結婚した方がいいと思わないか?
マリアの代わりを選択した君なら分かるだろ?」
分かってしまう自分が怖かった。
マリアさんの気持ちも分かるけど、社長の言っていることも分からなくはない。
それに、マリアさんが先生を選んだとしても幸せになれる保証もない。
私だったらどうしていただろう。もし私がマリアさんの立場だったら。
もしかしたら、正しい答えなんてないのかもしれない。未来のことなんて予想はできてもどうなるかは分からないのだから。