どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい――こんな自分のことが大嫌いだ。
*
冷たくて、苦しくて、辛い。酸素が欲しいのに、呼吸をするたびに肺が凍ってしまいそうで怖い。本当に、寒い。だけど、あそこには戻りたくない。
鉛色の空の下の公園、滑り台の下にぽっかりと空いている空洞の中で、私は膝を抱える腕に力を込めた。ぎゅっと足が圧迫されて、爪が白くなる。だけど代わりに、心の痛みが幾分か和らいだ。
鼻先が冷たくなって、ツンと痛む。温め方を知らない私は、腕と足の隙間に顔を埋めた。
視界が真っ暗になると、まるで映画館みたいに、記憶が蘇る。
『古谷くんは本当に絵が上手いね』
先生が、クラスメートの男子の絵を見て褒めた。当の本人はぶっきらぼうな、でも少し照れた様子で頭を掻く。
なになに?どんなの描いたの?
そう言って、他のクラスメートが彼の周りに集まる。みんな、彼の絵を見て、すごーい、とか、上手すぎでしょ、とか褒めちぎっている。
そして、その中の一人が不意に私の方を見た。感嘆の表情を浮かべたまま、私と目を合わせて、それから嘲るように口角を上げる。
『あんたの絵とは比べ物にならないね』
そう言われている気がして、ドキッと心臓が跳ねた。その子はただ私に嘲笑のような笑みを見せて、また彼の絵に視線を戻す。
私は俯いた。心臓がバクバクする。頭がクラクラする。息が苦しい。
分かってる。私の絵なんて、下手くそだから。彼の絵なんかと比べるレベルのものなんかじゃないから。
多分、彼が描いていた絵は、本当にすごく上手い絵なんだろうな、なんて、私は自分の絵を見つめて思った。
彼の絵は、何度も見たことがある。よくコンクールとかに出して賞をもらっているし、学校内にも飾られている。通るだけで、目が惹かれるような絵。それは、彼の才能だった。
才能。その言葉に、ズキッと胸が痛くなる。私には、そんなものなんてないから。私は、何にもない空っぽの人間だから。
不意に、誰かに見られているような気がして顔を上げると、古谷くんと目が合った。先ほどの女子とは違う、優しげな眼差し。だけど今、私が彼に抱いている感情が自身を苛立たせて、私はそっぽを向いた。
胸がまた、痛んだ。古谷くんにもだけど、何より、自分自身に。
「……っ!」
嫌な思い出が蘇って、私は再びきつく膝を抱く。冷えた指先がジンジンする。だけど、こんな痛み、あの時に比べたら造作もない。
『ねぇ何やってるのー!』
『あのぐらいちゃんと取ってよ!』
『あ、ごめん……』
パスされたボールを弾いてしまった私に、女子からの罵倒が飛んでくる。だけど彼女たちは、本気でやっていることからの怒りではなく、馬鹿にするような笑みを浮かべていた。
『ほんと、何にもできないよね』
『うちらの足引っ張ってるだけじゃん。もういっそ見学でもしといたら?』
ボールを取りに行く私の背中に、わざとらしい嫌味がぶつかる。ボールを掴む手に、ぎゅっと力が入った。
私だって、好きでこんな下手なわけじゃない。自分なりに、必死に努力はしている。なのに……。
周りからの視線も痛い。私を刺すのは、憐れみ、心配、そしてほとんどが蔑み。わざわざ、こんなところで注目を浴びるなんて……。
早く私を無視して欲しい。気にしないで欲しい。そう思った矢先だった。
『うわっすごい。さすが美宇!』
取ったボールを相手チームに渡して、試合が再開した途端にクラスメートの女子が点を入れた。
レイアップシュートを決めて、地面に降り立った彼女がガッツポーズをした。
彼女の額から流れ落ちる汗が、天井のライトの光を反射して宝石みたいにキラキラと輝いている。
笑顔で仲間とハイタッチする彼女が眩しい。彼女の周りだけ、星屑を砕いたような粒子が舞っている。
彼女は身体能力が高くて、いつだって明るくて……私とは、正反対だ。ただ突っ立ったまま、私は俯いた。誰も気にしない、誰も気にかけない。邪魔だ、という視線が刺さっているのが分かる。
私って、本当に取り柄がない。何をやってもダメなやつ。だから、どこに行っても人に迷惑しかかけられない。
痛い、痛い、痛い。思い出しただけで胸に刃が刺さる。苦しい。自分がここにいるという事実に、心が悩まされる。
なんで、何で私なんかが生きているんだろう?
こんな人間なんて、居ても意味がないのに。
いつの間にか、雪が降ってきた。ハラハラと舞い落ちる白い粒は、風に乗って滑り台の下の空洞に吹き込んでくる。
寒さが増した。雪が体に付いて、溶けて、体温を奪う。指先が真っ赤になってきた。もう、感覚もない。
このままいっそ、消えられればいいのにな。不意にそんな考えが頭をよぎった。そういえば、いつか、同じようなことを言われたな。
ぼんやりと脳裏に映し出されるのは、校外学習の映像。
『ねぇ、早く行こー!』
『いいねいいね〜』
同じ班の女子が、キャッキャっと黄色い声を上げながら走っていく。二人と仲がいいらしい男子たちも、続いて先に行く。
『ま、待って……』
その中で、私だけが置いてきぼり。誰も、振り返らない。体力がない私は、走るだけですぐに息が切れてしまう。
体力は削られるし、途中で他の班の人にその行動を見られるし、最悪の連続だった。
四人が既に着いていた場所に、私はずいぶん遅れてやって来た。
『あんた遅すぎ。もっと早く来れないの?』
女子のうち一人が吊り目で私を見下ろしている。彼女の明らかな苛立ちに、他の三人はクスクスと笑っていた。
『足の遅い人がいると行きたい場所、回れなくなっちゃうじゃん』
『ごめん……、頑張るから』
『本当にそうだよ。ったく、わざわざ余ってるあんたを入れてあげたんだから、私たちに迷惑かけないでよ』
『うん。ほんとに、ごめん……』
吐き捨てるような彼女の言葉に、言い返すものなんて何もなかった。全部、事実だから。私が悪いんだ、私が全部。せめて、迷惑にならないようにしなきゃ。
だけどやっぱり、私はダメだった。
『あっ、あっちになんかあるよ!』
『マジ?行ってみようよ』
『いいね、それ』
彼女たちは面白そうな何かを見つけたのか、一目散にどこかへ走っていった。
『えっ、ちょっとそっちは……』
予定にない行き先だよ。勝手に違う場所に行ったら先生に怒られるよ。
そう、言おうとして、すんでのところで飲み込んだ。私が、何か物を言える立場じゃないから。代わりに、着いていく。もう随分と遠くへ行ってしまった彼らの背中を追いかけた。
予定していたルートを外れた私の班のメンバーは、帰ってから先生にこっぴどく叱られた。
『勝手に行動するなってあれだけ言ったでしょ!?みんなの迷惑になるし、先生たちだって心配するんだよ!?』
『はい……』
『気をつけます』
先生の前では反省の表情を浮かべていたのに、解放された途端、みんなは口を尖らせた。
『あんなに怒んなくてもいいじゃん。別に帰ってこなかったわけじゃないしさ』
『ちょっと他のところ行こうとしただけで怒るとかマジうざい』
『てかさ、叱られたのってあんたのせいだよね?』
不意に、一人の女子が言った。みんなの視線が、私に集まる。
『……えっ?』
『だってそうじゃん。あんたが道を間違えなければ遅れなかったのに』
『ほんとだよな。時間さえ間に合えばバレなかったじゃん』
その女子に同意していく他のみんな。言葉の刃は私に向けられた。
私のせいなの?
元はと言えば、あなたたちが勝手に別の場所に行ったからじゃないの?
そう、最初は思った。だけど、彼女たちの圧は強くて、だんだん私の思考は麻痺していく。
『ほんっと使えないやつ』
『うちの班に入れたのやっぱまちがいだったかー』
『こいつのせいで台無しだよ』
口々に、暴言が飛んでくる。私は必死に耐えた。心を厚い壁で覆って、守ろうとした。だけど。
『あんたなんか、消えればいいのにね』
誰かのその呟きで、壁はあっけなく壊れた。
ああ、そうなんだ。全部、私が悪いんだ。みんなを正しい方へ導かなかった、私が悪いんだ。
『ごめん、なさい……』
足元を映した瞳が燃えるように熱く、視界が揺れている。息が苦しい。まるで、私の周りだけ毒が振り撒かれているみたい。
『うわっ、こいつ泣きそう』
『は?ちょっとやめてよ。うちらが泣かせたみたいになるじゃん』
迷惑そうな声。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。心の中で、何度も謝罪した。
私は本当に、ダメなやつなんだって。
肺が針で刺されているように痛い。呼吸をしたくないのに、息を止めすぎると勝手に体が酸素を求める。
髪にも、腕にも、足にも雪がこびりついて、体温なんてほとんど消えていた。このまま、死ねればいいのに。
「もう、嫌だよ……」
真っ白い息と共に、ぽつりと吐く。
だんだん、視界の端が闇に侵食されてきた。目の前が薄暗くなっていく。
『ねぇ、あいつの写真、暗く塗りつぶしちゃおうよ』
『ああ、この間の集合写真のこと?』
『いいんじゃない』
トイレから戻ってきたところで、ふと物騒なことが聞こえてきた。私は廊下で立ち止まったまま、動けなかった。棒立ちの状態で、教室の声を盗み聞く。
『ははっ、いいね。なんならこいつの机に落書きしちゃおうよ。使えなくなったら学校来ないでしょ』
『だったらいっそ文房具とかも隠しちゃえば。多分焦るよ』
『面白〜』
嬉々として話す女子たちの会話に、私は寒気がした。同時に、酸っぱいような苦いようなものが込み上げてくる。口元を抑えて、体を抱きしめた。
『あいつってほんと邪魔だよね』
『それな。暗いし地味だし、それなのに先生からはやけに評価高くてさ』
『媚びってるんでしょ、多分』
そうだね。あはは。彼女たちの声が、ぐわんと頭の中に響いて気持ち悪い。吐き気がする。頭が痛い。
『ほんと、あいつ死なないかなあ』
それを聞いた瞬間、私は自分でも驚くほどの速さで廊下を駆けていた。目を見張る人々の間を走り抜いて、ひたすら校門を目指す。
居た堪れなかった。あそこにいたら、どんどん自分が壊されていく気がした。他人によって自身の心が狂うのは、一番嫌だった。
走って走って、ただ何も考えずに道を進んで、気がついたら、公園にいた。
ああ、頭がぼーっとする。睡魔がやってきて、私はウトウトした。もう、目がまともに開かない。
低体温で眠くなっているのだろう。このまま眠れば、多分私は死ぬ。でも、これから生きるより、そっちの方が楽かもしれない。
そう思って、私はゆっくりと顔を自分の腕の中に埋めた。
「……おい……起きろ……おい!」
どこか遠くから声が聞こえる。聞いたことあるような、ないような。とうとう幻聴まで聞こえるようになってしまったのだろうか?
「おい!起きろってば!」
パシンと腕に痛みが走って、微睡みそうな私はゆるゆると顔を上げた。
誰かが、立っている。男子だった。彼の背景は未だに止まない雪景色。視界が霞んでよく顔が見えない。
「お前大丈夫か?こんなところで眠ったりしたら死ぬぞ」
だんだん、目の前がはっきりしてくる。
「誰……?」
「俺だ、古谷だ」
私の目を覗き込んできたその人の顔が、ようやくくっきりとした。整った顔立ちに、眉が少しだけ吊り上がっている。
「なん、で……」
訳が分からなかった。古谷くんがきたことも、ここに私がいると気づいたことも、彼が怒っていることも。
「なんでって、心配したからに決まってるだろう」
「心配?私を?」
「お前以外に誰を心配するんだよ」
乱暴な口調に、私は少し驚いた。けど、すぐに思い出す。そうだ、彼は、こんな性格だった。口は悪いし、愛想もあんまりない。なのに上手いイラストとか描けちゃうから、そのギャップが激しいんだっけ。
そんな、すごい才能を持っている彼は、ため息をこぼしてからスッと私に向けて腕を伸ばした。
「取り敢えず、戻ろう」
「……戻りたく、ない」
古谷くんが差し出してきた手を取らず、私は俯く。吹雪が強くなる。空洞に雪が入り込んで、さらに温度を下げた。
「きっと、みんな私のことなんか要らないって思ってる。邪魔だって思ってる」
私を嗤うクラスメートの顔が脳裏に浮かんだ。燃えるように目頭だけが熱くなる。まるで、体の温度が全てそこに集まったみたい。
「みんなみんな、私を嗤う。全部、全部全部、私が悪いんだ。こんなダメな私だから」
じわっと浮かんだ涙は、限界まで溜まると地面に溢れた。ポタリ、ポタリとどんどん流れ落ちていく。
「私なんか、特技もないし、役にも立たないし、いても意味がない。だったら……」
だったら、もう、いっそ。
「このまま、死んだ方がいいんだよ」
「そんなわけあるか!」
唐突に、古谷くんが声を荒げた。予想しなかった反応に、私は弾かれたように顔を上げる。
そこには、怒りに燃える彼がいた。完全に怒っている。
「死んだ方がいい人間なんていないんだよ!自分の命を一時的な感情に任せて終わらせようとするな!」
古谷くんの瞳は真剣だった。感情任せに怒っているんじゃなくて、ちゃんと私を捉えていた。それが、不思議で堪らなかった。
「世の中には、生きたくても生きられない人だって大勢いるんだよ!なのにお前は!何不自由なく生きていられるのにその命を失おうとして!」
「でも!邪魔な奴ならいないほうがいいじゃん!」
気がつけば、言い返していた。だって、いくら生きれるからって、誰からも必要とされていないなら死んでるのと同じじゃん。
この気持ちをわかって欲しい。考えを理解して欲しい。だけど、古谷くんは目を吊り上げたままだった。
「なんでお前は邪魔な奴だと思うんだ?」
「だ、だってだって、私のことなんかみんな嫌っているし……」
「そんなの誰が決めた?いつ聞いた?」
「聞いてないけど、なんとなくそうなのかなって……」
私の答えに、彼は呆れたように肩をすくめた。
「いいか、それはお前の思い込みだ」
「思い込み……?」
「ああ。周りの人間は、そう思ってなんかいないよ」
本当に、そうなのかな?
彼の言葉に疑いが募る。だけど、振り返ってみて、それが正しいことに気づく。
確かに、数人には嫌われていても、みんなから嫌いだって言われたことはない。じゃあ、これは私が勝手に信じ込んでいた偽り?
「それに、お前はダメな奴じゃないだろう?」
「えっ……」
「お前にはいいところ、いっぱいあるじゃん」
古谷くんは、今までとは打って変わって、優しい目で語りかけてきた。
「私にいいところ?そんなの、ないよ」
「いや、自分が気づいていないだけで、たくさんあるんだよ」
そうだな、例えば……と、彼は考えたのちに言う。
「優しいし、他人思いだし、いつだって周りを考えて行動するだろう」
「そうなの、かな?」
言われても、いまいち分からなかった。他人のため?周りを考える?そんなの、気にしたことない。
間違いじゃないか、なんて思ったけど、古谷くんは「そうなんだ」と言い切る。
「そもそも、自分を責めるのだって、他人に罪を着せたくないからだろう?自ら責任を負うことで、他人に乗っかる重りを軽くする。そうじゃないのか?」
「……」
尋ねられても、返答に困るだけだった。だって、彼の指摘は私に全く心当たりがないから。
黙り込む私に、彼はさらに続けた。
「それに、自分を責めるってことは、ようは優しいんだよ。自己中心的な人はなんでも他人のせいにしたがる。だけどお前は違う。いつだって自分のせいにするんだ。お前は広い心を持っているんだよ」
な、いいところあっただろ?古谷くんは、私に笑いかけた。それは、普段見慣れている馬鹿にしたものじゃなくて、優しくて、温かいものだった。
気がつけば涙は止まっていて、体が少しだけ、体温を取り戻している。外の雪も止んできた。
「いいか。お前は自分でなんでも抱え込みすぎだ。それに、自虐的に考えすぎている」
「そうなの……?」
「そうだろ。だから自分が悪いだなんて思うな。お前は正しい。お前には、いいところがいっぱいあるんだから」
ニカッと笑って、古谷くんは立ち上がる。きっと、学校に戻るんだ。
不意に、私も一緒に行きたいと思った。けど、足が動かない。まだ、覚悟ができていない。
「でも、周りはみんな敵だらけ。いくら、私にいいところがあっても、認めてくれる人がいなかったら意味がないよ」
「それなら、俺が認めるよ」
古谷くんは言った。彼の瞳に、曇りは一切ない。真剣な眼差しに、私の心はドクンと高鳴った。
「俺はお前の味方だ。誰がなんと言おうと、俺はお前が守る。だから」
古谷くんは頭を掻いてから、再び私を見た。
「お前も、自分を信じろ」
ドクン、ドクン。胸が、心が熱い。彼の言葉に、凍りつきそうだった心臓がまた熱を帯びた気がした。
この人なら、信じていいかもしれない、と。この人なら、私を守ってくれる、と。
「うん、分かった。自分を、信じてみる」
私は笑った。きっと、こんなにも心から笑ったのは久しぶりだろう。
私の笑顔を見た古谷くんも、柔らかい笑みを浮かべる。そして、再度私に手を差し出した。
今度は、その手をしっかりと取る。暖かくて、大きくて、頼り甲斐のある手だった。
古谷くんに引かれて、私はとうとう空洞から出た。もう、吹雪は終わった。空も晴れに向かっている。地面が一面、真っ白で宝石みたいにキラキラと輝いていた。
これから私は、学校に戻る。そこには、怒っている先生がいるだろう。戻ってきたんだって嗤う女子がいるだろう。
なんだっていい。だって私には、認めてくれる人がいるから。私にいいところがあると言ってくれた人がいるから。
そうも思うと、ほんの少し。
スゥッと空気を吸い込んで、ハァーと深く吐き出す。相変わらず、空気は冷たい。だけど、肺が痛くなることは無くなった。
古谷くんの、彼のおかげで、少しだけ息がしやすくなった気がした。