いつものようにごはんを一緒に食べて、お風呂上がりに一緒にテレビを見ていた。
「今日、結花さんに会ったときになんかあった?」
「……ねぇ和人。もし、あたしが今から和人との赤ちゃんが欲しいと言ったら、引いちゃう?」
「えっ?」
そうだよね。一瞬言葉に詰まった和人の反応がこの年代の普通なんだ。
あたしの中に和人を迎え入れたこと、もう思い出せない数にはなっていると思う。だけど、これまで『間違い』を起こさないように必ず避妊してきた。
でもね、『間違い』って何なんだろう。
あたしと結花はもともと同級生だよ。
結花の妊娠はみんな喜んでくれる。もし今のあたしが同じことを言ったら、きっとみんなは『早すぎ』とか『間違えたこと』と言ってくるだろう。
この差はいったい何だろう。
もちろん、結花はもう結婚して姓も変えて、正真正銘に認められた小島先生の奧さんで、あたしたちはまだ大学生の恋人同士に過ぎない。
だけど、私と同い年の大親友であることは昔から変わらない。
あたしだって、和人との子どもは欲しいと思っている。
児童館というアルバイトの環境で見ていることも大きく影響を受けていることは間違いないと思うよ。
それでも、あたしだって一人の女の子に生まれた。年頃になって好きな人との新しい命を育みたいと考えることは間違っているのだろうか?
「千佳、無理はしていないか?」
「ううん。聞いておきたい。あたしは和人が好きだし、結婚したいし、和人との子どもだって欲しいと思ってる。だけど、それが和人にとって重荷になってしまうのか分からない」
そんなストレートな言葉を発したあたしを、和人は穏やかな顔で見てくれていた。
「ありがとう、千佳。俺のことそんなに考えていてくれたんだね。俺も千佳との家族は欲しい」
「本当に?」
「もちろん」
あたしは、結花が妊娠していることを伝えた。それも、一度悲しい思いをして再び立ち直ってのことであることも。
「なるほど。そういうことなんだね」
和人は笑い飛ばしたりしなかった。あたしの手をぎゅっと握って、続けてくれた。
「俺さ、千佳と付き合いだした頃から、絶対に千佳と結婚して、子どもも作って、なんてガキなりにいつも妄想してた。だから、こんな俺と結婚してくれるって、本当に嬉しいし、もう千佳以外に考えられない。だけど、今はまだもう少し待ちたい。焦れば千佳を悲しませてしまうような厳しい現実も待っていると思う。だから、千佳さえ許してくれるなら、卒業したら結婚しよう。俺も千佳を心配させないように、ちゃんと就職して、頑張って働く」
「和人……」
自然に涙がこぼれたよ。「結婚しよう」って言ってくれた。卒業まであと1年と少し。これまでの時間に比べたらあっという間だよね。
「子どものことも分かってる。けど、それは俺と千佳だけじゃない。その子の将来にも責任を持たなくちゃいけない。俺たちがちゃんと親になる準備が出来るまで」
「うん……」
そうだ、結花も教えてくれた。準備ができたらまた降りて来て欲しいと願ったと。結婚をして夫婦になった二人でもそう思うんだ。
今のあたしにはまだその準備が終わっていない。こんなこと、授業なんかで絶対に教われる事じゃない。
「これだけ一緒にいるんだぞ。千佳の体だって分かってる。ちゃんと考えてるよ。千佳を諦めるようなことはしたくない。結花さんに追いつくのは、それからでも遅くないと思う。結花さんだってそれで千佳を軽蔑するような人じゃないのは一番分かってるだろ?」
「うん。結花は絶対にしない」
「来週、先生たちに会うまで、いろんな事を考えてみようよ。なんか久しぶりだな。こういうのガチで相談できる機会ってなかなかないし」
悩んでいたあたしとは反対で、和人は楽しそうだった。
やっぱり和人は凄いな……。いつの間にかあたしとの先の道を少しずつ考えていてくれた。
まだあたしの答えは出ていないけれど、この人と一緒にいれば大丈夫。
あたしたちがこの夜にそれぞれの部屋に入って明かりが消えたのは、時計に表示されている日付が変わった後だった。
<数年ぶりの面談>
「和人は用意終わった?」
「俺はもう大丈夫だよ。千佳は?」
もう、いいなぁ。男性はこういうときあっという間に身支度終わっちゃうんだもん。
「ごめん、あたしまだ終わってない。先生と結花を迎えに行ってくれる? お茶とか用意しておくから」
あたしに至っては、まだ寝間着代わりのスエットだし、化粧だってまだしていない。
「分かった。行ってくる」
「結花は早く歩けないから、忘れないでよ!?」
いつもの和人の歩調に、結花ならなにも言わずに合わせてしまうと思う。でも今の結花の身体は一人じゃない。
「あいよー」
和人が部屋を出て行ってから、リビングのテーブルの上にお茶菓子を用意した。
結花の体調を考えれば本当は椅子の方が楽だったはず。でもうちのダイニングは二人用。
仕方ないから、バイト先にお願いして和室の備品の座いすを借りてきた。
そこまで終わらせると、部屋に入ってクローゼットを開ける。
ハンガーにかけてあった洋服は、数日前からこの日にと決めてあったものだから……。
「うん、分かった。大丈夫、こっちは準備終わるよ」
和人から電話で結花と先生が駅に到着したと知らせてきた。
そこからなら、この部屋まで結花に合わせてゆっくり歩いても10分ほどで着く。
ポットでお湯を沸かして、ちょうどできあがった頃に、外に声がした。
「千佳、先生たち来たよ」
「いらっしゃい」
和人が玄関の扉を開けて二人が入ってくる。
「忙しいところすみません」
テーブルに先生と和人にはコーヒー、結花とあたしはカフェインレスの紅茶を用意した。
「ちぃちゃん、そのくらい大丈夫だよ。気にしてたらなにも飲めないし」
結花は笑っていたけど、食事にもこれまで以上に気を遣っていると聞いていた。やっぱり今度こそ失敗したくないという思いが伝わってくる。
「なんだか、この二人を見ていると、高校生に戻ったように見えるな」
先生があたしと結花を見て笑う。
仕方ないよ、二人で申し合わせてそういう服装にしたんだもの。
結花はネイビーにクリーム色セーラー襟のワンピース。本来はウェストを調整するベルトがあるんだけど、お腹があるので、それをリボンのように結んで飾りにしていた。
あたしはさらに幼く見える。丸襟にレースのついた白ブラウスとライトグレーのベスト。赤チェックの膝丈スカート、フリルとリボンの付いた白いニーソックスというコーディネート。
それを見たときに、和人と結花が息を飲んだのにも気付いた。
「せっかくなので、数年前に戻りました」
「そうか。それじゃあ、四者面談を始めるか。この時間は当時に戻って原田と呼ぶことにする」
「久しぶりですね。そう呼んでもらうの」
嬉しそうに頷く結花を座椅子に座らせて、他のメンバーもそれぞれに腰を下ろす。
「二人とも元気そうでよかった。最後の半年は見てやれなかったから、申し訳なかった」
「小島先生、それはもうなしです。事情も分かってます。原田さんを助けられたのは先生しかいませんでしたから」
この場のメンバーなら、それは全員分かっている。あの当時の結花と彼女を支える先生の絆を知っていれば、二人がとった道というのはやむを得ないことなのだと。
現役の高校生では理解できなくても、大学生になった今ならできる。
同じように、学生の間での将来を模索し、別の進路をとるべきか悩んだ同級生を何人か知っていたからだ。
でも、その全てが成功したというわけではないとも聞いた。
それだけ結花たちがあの当時に難しい大人の判断を悩みながら下して、それを守りきったから今がある。
「そうは言っても、原田さんは別格ですよね?」
「そう言いたいところなんだが、この間、あそこの先生と久しぶりに飲んだ時に聞いたところによると、高校卒業して1年以内に結婚したのは他にもいたそうだ。だから、原田が19歳の誕生日で入籍したのは残念ながらトップじゃなかったんだなぁ」
結花の誕生日は早生まれの3月25日。だから、同じ19歳となればもっと早い子がいたんだ。
「へぇ、それじゃ赤ちゃんは?」
「それも聞いたら、もう子持ちもいるそうだ。このまま行けば原田の出産は22歳だから、学年で言えば大学4年だろう? 一般的な女性の体から考えれば早すぎると言うこともない。まぁ、最近の風潮からすればそれでも十分に早いほうに入るんだろうけどな」
それも聞いていなかった。あの高校で、卒業生の8割が進学、残りの2割が就職となっている。その就職組の中で、早くに人生の伴侶を見つけて家庭を持つという進路を選んだ同級生が他にもいたということだ。
「先生、あたし、どうすればいいか本当に分からなくなってきたんです……」
ここまできて、あたしは先生に自分の不安を吐き出した。
和人と5年間一緒に過ごしてきたこと。彼のことを思う気持ちは今も全く変わっていないし、去年からはこうして一緒に暮らしていると言うこと。
どちらの両親からも交際は反対されておらず、将来的には二人が結婚することも視野に入れてくれていること。
「なるほど。聞く限りは順調に来ているのに、佐伯は何が不安になったんだ? それと佐伯の気持ちは分かったが、斉藤はどうなんだろう?」
先生は、あたしに頷いて和人の方を見た。
「俺は、千佳のことが誰よりも大事です」
「そうか」
先生はそう言い切った和人に目を細めた。
「では斉藤。もし佐伯が今のように元気な体ではなくなってしまったとき、佐伯を支える覚悟はできているか?」
結花が顔を上げる。
「先生、私のは特別ですよ……」
先生は頷いて穏やかに答えた。
「確かに、原田の一件はこの歳を考えればイレギュラーに思えるかも知れない。でもな、原田がいつも必死で頑張っている姿を見て、例えあのまま寝たきりになったとしても、俺は原田を支えようと決めていた。それは原田から例の手紙をもらう前からの話だ。しかし、当時は俺も原田も許させる関係ではなかった。本当にどうしようか悩んだよ」
「じゃあ、私を追って学校を辞められたのは本当だったんですか?」
「表向きにそんなことを言えば大騒ぎになる。前にも言ったかもしれないが、原田の退学を知った日から、本当に自分に力が入らなくなった。支えを失うというのはこういうことを言うのだと思ったよ。生徒に支えられてるんじゃ、それこそ教師失格だ。ただな、原田のせいじゃない。俺がまだ学生時代のことにけりが付いていなかったからだ」
先生は笑っていた。もう認めちゃったと同じ。結花の存在がすでに特別なものになっていたわけだから。
それに結花はもちろん先生も学校にはいない。それを今から蒸し返してとやかく言われることもない。そのために二人は「生徒と教師」という関係を人生をかけて断ち切ったのだから。
「俺は、千佳がどうなったとしても、一緒にいてもらいたいんです。もちろん、お金の問題とか、きれい事だけじゃ済まないことも分かってます。苦労させちゃうかも知れないけれど、どんなに金持ちになっても、千佳がいなければ意味がありません。ですから、大学を出たら就職します」
「そうか」
小島先生は今度はあたしの方に向き直った。
「斉藤はこう言ってくれている。今度は佐伯だ。男性よりも女性の方がいろいろな道があるのは確かだ。この原田だって、ここまで来るのは何度も悩んだし、二人で何度も喧嘩もした」
先生は変わっていなかった。あたしの個人面談の時、同じようにいろんな話をしながら一緒に答えを探してくれたから。
「先生、あたし、いろいろ迷ってます」
「ほう?」
「あたしのことを大切に思ってくれている和人と結婚したい、でも和人だけに苦労させたくない。だから働こうとも思ってる。でも、結花が結婚して赤ちゃんまで産もうとしているのに、あたしは女としてなんにも出来ていない。どれを取ればいいんだろう?」
「そうか。悩むよな……」
俯いたあたしの肩を先生はたたいてくれた。
「佐伯、お前は考えすぎだ。この原田だって、退学ギリギリの高3の4月まで進学希望だったんだぞ? 知らなかっただろ?」
「えっ?」
知らなかった。あの病気になってから、結花は進学を諦めたと言っていたのに。
「ごめんね。諦めたというより、限界だったの……。このまま進学してもやりたいことも見つからないって。だから考えるのを終わりにしようと思ったのがあの連休だったんだよ。もちろん寂しかったし、先生との約束を果たせなくなって負けちゃった自分に情けなかったし悔しかった。どっちかと言えば、行く先が見つからなくて自棄になってた……」
そこで語られたのは全員が初めて聞いた信じられない話。結花が自宅で飛び降り未遂を起こしていたなんて……。
「原田……」
先生にもそれは伝えていなかったみたい。
「そうか、もっと早く言え。水臭いぞ」
「誰も怪我をしなかったので。でも、それで学校を辞める決心がつきました。終われないなら少しずつ治していくしかないって……」
「そうだったのか……」
もちろんあたしも知らなかった。
時間をかけて体制を立て直した結花は、少しずつ仕事をしながら自分の道を見つけ出していったんだ。
「いきなりの事件発覚で話がずれたが、俺も原田も、佐伯が進みたいような就職先の候補はいくつも知っている。佐伯の気持ちをきちんと整理して、自分の進みたい道を考えてくれ。そのための手伝いなら手間を惜しむつもりはない」
結花も教えてくれた。結花が仕事をしていた児童施設でもやはり人手が足りない。一般企業では条件が厳しくても、いろいろと目を向けてみれば、あたしでも役に立てる仕事は見つけられる。あとはあたしの決心なんだって。
「ちぃちゃんなら、勉強しているし、きちんとやっていけると思う。私も今はこんな体だけど、昔のお仕事したところに連絡したら、仕事はいくらでもあるから是非また来て欲しいと言ってくれたし。だからね、体調をみながら少しずつ復帰するよ」
結花はそう言って、もし希望であればあたしのことも職場に話してくれると約束してくれた。
「ありがとうございます。なんだか、悩んでいたのがスッと軽くなりました」
遅くなってしまった昼食を結花と作る。
やはり数年間だとしても先輩主婦は手際が違うと感じた。
「結花、ありがとうね」
「うん? 私は大人の先生がいてくれたし。他の生き方は出来なかったからなぁ。ちぃちゃんの方が悩むと思うんだよねぇ」
「結花はそれで後悔してない?」
「ううん全然。逆にこれしか私には道がなかった。いろんな人の力は借りていいんだよ。あとで恩返しはいくらでも出来るから」
「結花……」
強くなったんだね。凄いや……。
あたしの就職の件も先生と結花に相談することにして、二人は帰っていった。
「なんか、一日疲れたなぁ」
「そうだね。でも、いろいろ嬉しかったよ」
壁に背中を付けて並んで座る。
「和人の気持ち、嬉しかった。あたし、邪魔じゃなかったんだって」
本当にそれが聞けただけでも、あたしの今日一日は大収穫だった。就職も心配だけど、あたしの居場所がどこになるかが全てのベースだから。
「冗談じゃない。千佳がいるから俺だって頑張れる。千佳さえよければこのままずっと二人で生きていきたい」
「もぉ、そういう大事なセリフは、もっと大事な時に使ってよね」
彼の唇にそっと合わせる。
あたしたちは人生の約束をどこで交わすのだろう。
あの結花と先生の話にはとても敵わない。
いろんなプロポーズも話だけは聞くけど、和人に言われれば、どんなシーンだってその場でOKしちゃうとは思うから。
「それより、千佳、この服……」
和人と結花が部屋に入ってきたとき、二人の顔が驚きに変わったんだ。
「うん、結花も高校の頃のワンピ着てくるって言うし、あたしもと思ったんだけど、これが一番可愛かったし。それにもう和人がいるんだもん。大丈夫」
和人と交際を始めるきっかけになったあの夜に着ていたもの。
あの当時は汚されたことに悔しくて、またその当時をフラッシュバックしてしまって、この服を着ることは出来なかった。
あの当時、結花と一緒に買いに行った思い出がある。そして、あたしに似合うと選んでくれた一着。
だから、今日は髪形もいつものボブではなく、左右の両上でシュシュを使って短いツインテールにしてみた。
結花くらいの長髪だと髪型も自由自在だけど、これはあたしの中で一番幼く見える髪型かもしれない。これもあの子が最初にあたしの髪を結ってくれたのが始まり。
そんな二人にもう大丈夫だと伝えたくて。和人が気付いたくらいだから、結花にも伝わっただろう。
「似合わなかったかな……」
「いや……、その逆で……」
顔が赤い。もう、先生たちがいる時じゃなくてよかった。分かってるよ、あたしだってこの先に起こるだろう展開は想定していた。
「そんなに可愛い格好されたら、俺も抑えきれなくなっちまうかも……」
そうだよね。普段の生活では、どうしても着回しができるようなシンプルなのが多いから、おしゃれ着あまり着ないもんね。
「今日ね、和人の気持ち知れた。もう恐くない。和人の気持ち、抑えなくてもいいよ?」
腰に回されていた和人の腕をそっと一度外してもらう。
「和人、あたしのこと……放さないでいてくれる?」
「もちろん! それでもいい?」
あたしは軽く笑顔になって、ベストを脱いでから襟のリボンを解いて、ブラウスの第2ボタンまでを外した。横に座っている彼からは、下着とその下の膨らみだって直に見えてしまうと思う。でも、それでいい。
「あとは、和人やって? あたしも和人と一緒に歩いていくから」
「千佳……」
「うん。これからも守ってくれなきゃ、怒っちゃうぞ?」
テーブルの上にあった照明のリモコンで部屋の明かりを落として、あたしは和人の瞳に頷いた。
<夏休みと就職活動>
「そうかぁ、ちぃちゃんが私の代わりになってくれるんだぁ」
「うん、昨日決まった。茜音さんが結花にもよろしくって」
「そうかぁ。なら安心かな。でも、戻った頃に私の居場所ないかもなぁ」
「大丈夫、その頃にはあたしもきっと妊婦になっちゃうかも」
「そんなにタイミング良くなっちゃう?」
二人で笑うと、テーブルの上のグラスから氷がコロンと鳴った。
季節は回って、夏休みに入っていた。
実は夏休みに入ってから、アルバイト先の児童園には顔を出せていない。
その代わり、あたしは時間があるときは、こうやって結花と一緒に過ごしている。
結花のお腹の赤ちゃんは順調に大きくなって、今ではもうすっかり臨月だ。
いつ生まれても問題ないところまで来た。赤ちゃんも元気な女の子だと知らされていた。
でも、夏休みは旦那さんである小島先生も夏期講習の真っ只中。
アメリカから帰国した先生は、それまでの経歴や頑張りを評価されて、夏休みの午前中は大きなクラスの授業、午後は夜まで個人クラスの予定がギッシリの大人気講師になっている。
本当はこういう時、実家に帰省するのも一つの手だと思う。でも、結花は先生を一人にするのを嫌がったし、ご両親を横須賀から呼び寄せるのもお互いに気を使ってしまうと考えたみたい。
そこで、結花に何かあったときのために、平日の話し相手として目を付けられたのがあたしで、先生から結花のそばにいてあげて欲しいと頼まれた。
交通費だけじゃなく「バイト代より少なくて申し訳ない」と日当もくれている。
でもね、相手をしてくれるのが他の誰でもない結花だし、体を動かしにくくなってしまった結花と家事を分担したり、一緒に散歩したりの毎日。
通院も臨月になると1週間ごとになるから、夏場の外出は大変だ。そんなときも「二人で行けば楽しい散歩」と言ってくれる。
それだけじゃなく、結花から料理とか家事のコツまで教わっている。
あたしが結花に「プレ花嫁レッスン」とでも題して授業料を払わなくちゃならないほどの裏技満載の内容盛りだくさん。
本当にこの実態でお金を貰っていいのかと思うほどだよ。
「私も一人だといろいろ考えちゃう。ちぃちゃんが一緒にいてくれるから心強いんだぁ」
それだけじゃなく、ちゃんと二人は「その時の」用意もちゃんとしてあって、入院の用意だけじゃなく、タクシーや先生の連絡先なども全て大きく書き出してある。
「結花には、本当に世話になりっぱなしだよね。あんなに就職活動に悩んだり苦労していたのが嘘みたいだった」
「ううん、私はただ頑張っている子がいるから、会ってお話を聞いて欲しいと言っただけ。ちぃちゃんが頑張ったんだよ。何か困ったことがあったら、すぐに連絡してね。私からすぐにお願いできることになっているから」
さすがにこの時期になると、結花も少し動くと足が浮腫んでしまう。先生に教わったり、結花に言われるとおりに揉んであげると、気持ちよさそうに目を細めている。
顔写真だけ見れば、彼女は今でも十分に女子高生で通りそう。
こんなお母さんから生まれてくる女の子は、きっと可愛いんだろうな。
「今日も暑くなりそうだねぇ……」
結花がカーテンを開けて、外に広がる抜けるような青空を見上げた。
あたしが春先に先生と結花に打ち明けたあの日からしばらくして、それが口約束だけではなかったことを知った。
学生向けの就職活動が解禁になってすぐ、あたしのスマホに1本の連絡が入った。
松木茜音さんと名乗った優しそうな声。そして、「小島結花さんからお話を伺いました」と切り出してくれた。
仕事としてやりたいこと、今だけでなくその先の不安なども全て話して欲しいという。
親友はあたしのことをその施設の所長さんたちにきちんと伝えてくれていた。
アポイントをお願いして、あたしは結花と一緒に珠実園という施設を訪れた。
そこで待ち構えていたのは驚きの構図だった。
「やっぱり千佳ちゃんだったのね。よかった。健君、茜音も?」
結花に連れられて施設内を進むと、そこにいたのは、結花のお母さんだった。同じ部屋には、所長さんの松木健さんと茜音さんのお二人が待っていてくれた。
元々は私設の児童福祉施設だったこの園が、今では子ども園も併設した市の公認児童センターとして、運営されていること。
結花は主にカウンセラーとして、彼女のお母さんはここの顧問弁護士と親子で携わっていることを聞いて驚いた。
「いま、学業の合間で秦野の児童館でお仕事をされているそうですね? あちらの館長さんが誉めておられましたよ。よく頑張ってくれる子ですとね」
所長の健さんが笑ってくれた。もうそんなところまで話を進めてくれていたんだ。
あたしは、お二人とたくさん話をした。
結婚を約束してくれている和人のこと。仕事と家庭との両立、結婚や出産など将来の不安なども話題はたくさんあったし、茜音さんも健さんも、巧みにあたしからどんどん本音を引き出してくれた。
話し終わって、ふと気がついた。これは就職の面接ではなかったのか? 普通なら、将来の自分や職場に不利になることは話題にならないように進路指導でも言われてきたのに。
そんな不安にあたしが気付いたのを茜音さんは感じたらしい。
「所長、いいんですよね?」
「そうだね。他に理由無いよ」
お二人が頷いて、茜音さんがあたしに告げてくれた。
「佐伯千佳さん、次の春からわたしたちに貴女の力を是非貸していただけませんか?」
普通面接といえば長くても15分程度と先輩たちからの経験談で聞いていた。
えっ? この部屋に入った時がお昼過ぎで、茜音さんがあたしに最後の言葉をくれて、お二人と部屋を出たとき、帰り支度をした結花がちょうどエレベーターを降りてきた。
時間にして約3時間。こんな就職面接は他には例がないだろう。
「秦野の館長に言っておかないとな。いよいよ困っていたら面倒見るなんて話もしていたんだけど、悔しがるかもな」
施設の正規職員として、そして市の嘱託職員という肩書きも付く。専攻でもあった児童福祉やリハビリテーション、心理学などの分野も全て活かすことが出来る。
帰りがてら聞いて、それだけでもありがたいと思った。試用期間が終わった頃、ちょうど産休から明けてくる結花をあたしに付けてくれる予定だという。
妊婦でありながら、結花は病気や学校中退、海外で過ごした自身の体験を活かしながら、今は生活相談カウンセラーとして右に出る者はいないんだって。
あたしは、持ち帰った書類を和人と見直した。
「千佳が一番やりたかったことがこれなんじゃないか?」
「うん。これから先の結婚とか出産のことも全部話しちゃった。所長さんから『それは当たり前のことだから心配する必要はない』って言ってくれた。結花も一緒だもん。あたしは不安もない」
「分かった。俺も頑張る。先に決められちゃったな。内定おめでとう」
あたしの就職活動はこうして思いもよらない形で終わったんだ。
<予定していた『その日』>
「結花……」
「うん、なぁに?
「なんか、あたし昔は結花を守るんだなんて思っていた時期もあったんだけど、いつの間にかすっかり逆になっちゃったね」
「ううん。私もちぃちゃんがいてくれたから頑張れた。お礼を言わなくちゃならないのは私だよ……」
そこまで言ったとき、結花の顔がぐっと歪んでお腹を押さえた。額から一筋汗が流れる。
「結花! 大丈夫?」
「うん……。近いのかも……。昨日くらいからあんまり動かなくなってたから」
あたしも結花と一緒にいろいろ勉強した。生まれる直前になると、あまり胎動がなくなって、ときどき陣痛の練習のようなことが始まると。
結花は初産だから、陣痛やお産の経過が予測できない。
それに体の負担も考えて、普通の妊婦さんよりも早めに連絡するように言われている。
「……ちぃちゃん、ごめん。お洗濯ものの取り込みと窓の戸締まりをお願いしていい? 心配は要らないよ」
痛みが少し退いたらしく、立ち上がった結花は、それでも笑顔であたしに声をかけてくれた。
『……はい、今から病院に向かうと主人に伝えていただけますか? えぇ、もちろん授業の合間で結構です』
結花が電話を切る。
「ごめんね、ちぃちゃん。あとは私が一人で行けるよ」
「何言ってんの。あたしがついて行くに決まってるでしょ?」
産婦人科に連絡をしたら、やはり結花には早めに来て欲しいとのことで、入院の準備をしたバッグを取り出して玄関に置く。
タクシーも予定どおりに連絡して、すぐに来てくれると返してくれた。
夕食も作ってあったけれど、それは冷蔵庫に入れて。最後に結花から先生が勤める職場に連絡も完了。
「結花、靴履ける? ゆっくり足上げて?」
妊婦さんの大きなお腹で靴を履くのも一苦労だ。片足ずつ上げてもらって、スニーカーをはめ込んだ。
荷物を持ち鍵を閉めて、結花の手を引いてエレベーターに向かう。
「どう? きつい?」
「まだ、間隔が長いから大丈夫かな」
待っていてくれたタクシーに乗り込んで病院に向かった。
「しばらくこの景色ともお別れだなぁ」
「まったく、何を言ってるんだか?」
本当に……。今度帰ってくるときは赤ちゃんを抱っこしているはずなんだから。
「これからお産ですか?」
「そうなんですよぉ」
女性の運転手さんは負担にならないように道を選んでくれた。
「頑張ってくださいね」
「ありがとうございました」
病院の受付で名前を告げると、待合順番を飛ばしてすぐに呼んでくれた。
あたしが一人で待合室で待っていると、結花が車いすで出てきた。
「どうだって?」
「うん、まだ間隔が長いんだけど、もう子宮口が少し開いてるんだって。帰ったら経過が分からないから、このままお産にしちゃうみたい。今から入院だぁ。荷物も持ってきたからちぃちゃんは帰ってもらって大丈夫だよ?」
「何言ってるの。先生が来るまで帰らないからね!」
「ちぃちゃん……」
「今回は救急車で運ばれたんじゃないんだからいいでしょ?」
「もぉ。これでまた借りを作っちゃったなぁ」
「そんなの気にしない!」
結花が診察室に入っていた間、あたしは自分に出来る連絡先に電話をしていた。
結花の両親やあたしの実家はもちろん、和人にもだ。先生がまだ到着していないから、付き添うことも。
みんなが到着するまでしばらくかかる。それまであの子を一人にはさせないと心に決めていた。
「ちぃちゃん、ありがとうね……」
出産に向けて、いろいろなケーブルや点滴のチューブを付けられた結花があたしの手を握ってくれる。
「なにを今さら言うかなぁ。あたしたちに遠慮なしって決めたでしょ?」
本当の分娩室には家族でないと入れない。結花がお願いしてくれて、その手前の陣痛の経過をみる部屋までならあたしも入れてもらえた。
「ごめんね、こんな顔しかできなくて……」
少しずつだけど、結花が顔をしかめる間隔が短くなってきた。その度にあたしの手をギュッと握る。そのたびに頑張れと背中を擦ったり、頭を撫でた。
「先生、遅いよ……」
「ううん、これは私が頑張るお仕事だから、怒っちゃダメ」
あたし、自分が同じ事になったら耐えられるんだろうか?
「ちぃちゃん、その機械のボリューム少し上げてもらえる?」
それまで小さい音だった機械から、雑音の中に速いテンポのリズム音が聞こえてきた。
「これ、赤ちゃんの心臓の音なんだよ。私と違って元気そうでしょ?」
つい先日までと違う。結花の顔はもうお母さんだった。早く楽にしてあげたい。早く抱きしめたい。そのためならどんなに辛くても頑張れると。
夕食もあたしが陣痛の間隔を縫って口まで運んだ。
「うっ……、痛いよぉ……」
「がんばれ結花」
これまで一度も言わなかった結花が初めて口に出した苦痛の言葉。
小学校の6年生で、結花に付き添って救急車に乗ったときのことが思い出された。
当時と同じように右手をぎゅっと握って、「一人じゃないんだよ」って。
「私、最後までいけるかな……」
「何言ってんの、赤ちゃん抱っこするのを楽しみにしているんでしょ?」
額に浮かんだ汗をタオルでそっと拭ってあげる。
「結花、あんたはいつだって一人じゃない。きっと栞ちゃんも来て応援してるよ。あんたは天使を味方に付けているママでしょ?」
「栞……」
こんな場で出す名前ではなかったかも知れない。でもあたしには確信がある。
空の上にいたとしても、妹の誕生を喜ばないはずはない。なにより母親の結花を悲しませることはしないと。
「うん、頑張る……」
繋がれた手に再び力が入った。そう、それでいい。
「小島さん、もうすぐ。赤ちゃんも頑張ってる。そろそろ分娩室行きましょうか?」
「はぃ……」
痛みの間隔を見計らって立ち上がったとき、ドタバタと物音がした。
「結花!」
「陽人さん……」
「先生! 来るの遅い!」
あたしは握っていた結花の手を先生の手に託した。
「あとはお願いします。結花、いってらっしゃい!」
「うん」
頷いた先生と結花を見送って廊下に出ると、結花のご両親も到着していた。
「千佳ちゃん、本当にありがとうね。結花も心強かったでしょう」
「大丈夫ですよね、結花……」
「大丈夫。結花なら出来るから」
以前の時と違う。結花のお母さんの声にも自信がある。
時計の進みが酷く遅く感じた。早く、早く楽にしてあげて……。
いつの間にか自分の手が白くなるほど握りしめていたことに気付いたときだった。
部屋の中から、元気な産声が聞こえた。