次の土曜日。お父さんとお母さん、私の三人で東京の郊外にある公園墓地に向かった。
空は春霞のかかった淡い青。今年は春が早いかも知れないとニュースでは言っていた。
「結花、本当に大丈夫なのか?」
お父さんが心配そうに聞いてくれた。
「うん」
大丈夫。気持ちを落ち着けて次に進むため、私自身で乗り越えなくちゃならないんだ。
原田家のお墓にはこれまで何度もお墓参りで来ていた。おじいちゃんおばあちゃんたちが眠っていると。でも毎回、一つだけお菓子が置いてあったことを思い出して、ようやくその意味が分かった。
そう。ここには私が生まれる前に空に帰ってしまったお兄ちゃんがいる。
公園の管理事務所に着いて、私から事情を話させてもらった。
一緒に連れてきた、ほんの少しの灰。
あの葬儀場の人たちは、丁寧にゆっくりと荼毘に付してくれて、普通なら処理してしまうお骨でない僅かな灰も集めて渡してくれた。
これを納めさせて欲しい。
本当なら埋葬許可がないといけない。だけど、出生届も死亡届もない。書類上は存在しない私の赤ちゃん……。
事情を聞いてくれた事務所の人たちは分かってくれた。
本当なら小島家のお墓に納めるのが正しいのかもしれない。でも、母親の私が一緒に行けないのなら、知らない人より実のお兄ちゃんに頼みたい。
お兄ちゃんからすれば、この子は姪にあたる。迷わないように連れていってとお願いできるのは私だけだ。
「分かりました。お名前はありますか?」
「はい、……栞です。女の子です」
「栞ちゃんですね。みんなで送りましょう」
「ありがとうございます」
陽人さんへの連絡で、私の体を心配して念のために胎盤などを調べてもらっていた結果、あの子は女の子だったと。
この計画を陽人さんに打ち明けて許しをもらい、オンラインで顔を見合わせながら名前を考えた。
私たちはこの子を絶対に忘れない。そのためには心のページに挿む栞になるんだと。いつか会えたときに名前を呼べるように。
「……結弦お兄ちゃん。こう挨拶するのは初めてですよね。……妹の結花です。本当なら一緒に遊びたかったね」
「結花……」
お父さんもお母さんも心配そうに私を見ている。
大丈夫。このお願いはお空のお兄ちゃんにしかできない。それを頼むのは妹の私がするのが一番いい。
「結弦お兄ちゃん、私の娘の栞をお願いします。私が行くまで代わりに一緒に遊んであげていてください」
お墓の蓋を少し開けて、小さな瀬戸物の器をお兄ちゃんの隣に置いてもらった。
「わがままを聞いてくださって、ありがとうございました」
その夜、私は夢を見た。一面の菜の花畑の中、仲のいい兄妹のような幼い二人が笑いながら手を繋いでまっすぐに走ってくる。私に気づいた二人のうち、女の子が立ち止まった。
「行くよ」
「うん!」
男の子の方が、私にちらっと目配せをする。
「バイバイ」
「えぇ、バイバイ……」
手を振ってきた女の子に、そう答えることしかできなかった。でもその子たちは満足そうに笑って、また走っていった……。
ハッとして飛び起きた。真っ暗な寝室だ。横に寝ていたお母さんが気が付いて手を握ってくれる。
「結花……、大丈夫?」
あの二人は……。
「うん……」
涙が頬を伝う。でも、これまでと違う温かい涙だった。
「結弦お兄ちゃん……、ありがとう……。お願いします」
もう大丈夫。私も泣いてばかりじゃいられない。
「栞……、ばいばい……またね」
次の日から、少しずつ外を歩くようにした。
かなり体力も落ちていたんだな。これじゃお仕事をしている陽人さんに顔向けできない。
お仕事を休んでもらっていたお母さんにもお礼を言って仕事に復帰してもらった。
私が体を治すためにと学校を辞めた当時と同じように、家事も引き受けた。
ユーフォリアで菜都実さんとも話した。菜都実さんも同じように天使ママの経験があるからだ。
「結花ちゃん、あなたは本当に強いね。大丈夫よ。また赤ちゃんは降りてきてくれるから」
「はい。本当にご心配をかけてしまいました」
もう大丈夫だよ。自分で陽人さんに連絡もした。旦那さんに心配ばかりかけては本当に奥さん失格になってしまう。
「陽人くん、結花を頼む」
「結花、いつ帰って休んでもいいのだから。連絡しなさいよ?」
空港まで見送りに来てくれた両親の前、精一杯の笑顔を作った。
「ありがとう。また頑張るよ……」
私は手を振りながら、迎えに来てくれた陽人さんと二人で歩いていった。
<卒業後の迷い>
「栞、今ごろみんなと遊んでもらっているといいなぁ……」
海外でのことだから、日本のように母子手帳などもない。病院のカルテでしか結花の妊娠を記録したものはないんだって。
「結花の心にいる栞ちゃん……。そっか……、だから菜都実さんも最初に大喜びというより心配そうだったわけか」
菜都実さんのお店での様子に、当時の結花の話を重ねると納得がいった。
「あの時は、ちぃちゃんにも連絡できなくてごめんね」
「仕方ないよそんなの。もし結花に会えても、あたしには言葉をかけられなかったかもしれないし」
正直に白状すればそのとおり。
もし、あたしが当時の結花に会って事の次第を教わったとしても、そこにかけられる言葉が見つからなかったと思う。
あたしの周りで妊娠や出産はもちろん、ましてや悲しい経験をした人など聞いたこともない。
あたしたちの年代、それも学生の目線に埋もれてしまうと、自分たちとは別の世界のようでもある。
それにたとえおめでたい話だったとしても、「学生なのに」とか「早すぎ」だなんて、きっと軽蔑の目で見られてしまうのがオチかもしれないんだ。
でも結花を見ていると、とてもそんなふうには見えない。前回からの不安はどこかに残っているかもしれないけれど、お腹の中の新しい命との対面を楽しみにしている。
大人になるって、こういうことなんだなとしみじみ実感した。
結花たちの帰国理由が彼女の妊娠だとなれば、当時の事情を知る人たちには、次こその無事を祈らずにはいられなかったはずだ。
「だからね、この子は私と陽人さんの二人目なの。今度こそは抱きしめてあげたい。だから、陽人さんにも言ったよ。私と赤ちゃんを選択しなくちゃならなくなったら、赤ちゃんを取ってって」
「先生、なんか言った?」
結花は複雑そうな顔で首を横に振った。
「結花、それが先生だよ。結花のことあれだけ必死に愛してるんだもん。結花だってまだ先生とやり残していることあるでしょ?」
当たり前だ。先生だってそんなお願いにやすやすとOKするとは思えない。万一のことがあれば、間違いなく結花を助けることになるだろう。
「だから、本当に二人目は慎重だった。安定期に入るまで帰国を延ばしたし、みんなもいる日本で産んだほうがいいってお医者さんも勧めてくれた」
そうか、だから突然の話になったように見えたんだ。
「でも結花、さっきエレベーターも使わないで階段だったじゃん? お腹は大丈夫なの?」
4階の部屋に上がってくるために、あたしとおしゃべりをしながら階段を上がってきたはず。
「まだ臨月じゃないし、私の方が体力付けなきゃならないから、運動していいってことになってるよ。私は本当にヒールの高い靴とは縁が無いなぁ」
もともとヒールが低い靴が多かった結花だ。妊婦ともなれば転倒しないように足元が安定する靴を履くことになる。あまりにも自然だったから見落としたけれど、バス停まで迎えに来てくれた彼女の足には薄桃色の柔らかそうなスニーカーだったよ。
なかなか自分の足に合う靴がないとこぼしていた学生時代。
後に小島先生はそんな結花の足の事情を知ってから、ずっと彼女専属のシューフィッターなんだって。
中期以降の妊婦さんだと足の浮腫も出やすいからとても気を使うと教えてくれた。
そうなったときに、合わない靴だと痛くなって歩けなくなってしまうけど、先生に選んでもらったものだと自宅まで帰ってこられるからありがたいって。
そこまで自分の奥さんの体のことを分かってくれている旦那さんって、本当に羨ましいくらいだよ。
「ちぃちゃん、迷ってるんだってね。和人くんから聞いたよ」
話題を変えて、結花はあたしの手を再び握った。
「うん……。なにやりたいのか分からなくなっちゃってね。就職だって何をどうすればいいのかが分からなくなって……」
「そっか……」
変わらない。結花と話しているとこんなに落ち着くのかと改めて思った。
たったこれだけの会話。それもあたしが一方的に吐き出してきているだけなのに、結花の温もりがあたしの中に一気に流れ込んできた気がした。
「今度、ちぃちゃんと和人くんのお部屋に行くよ。二人の気持ちが知りたいの。ちぃちゃんと和人くんのそれぞれの気持ち。だから、今は答えは言わないね。だからお願い。ちぃちゃんも和人くんも凄く大事な時期に来ているから、お互い別々の考えでもいい。ちぃちゃんが和人くんとどうなりたいのか、和人くんがちぃちゃんとどうしたいのか。それまで考えておいて欲しいの」
結花は立ち上がってスケジュールが書き込まれたカレンダーを確認している。
「来週の日曜日、二人とも空いているかな?」
あたしもスマートフォンのスケジュールを見る。大丈夫、二人とも事前の予定は何もない。
「陽人さんも行ける日だから、お願いするつもりなんだ」
「えっ? お休みなのに悪いよ」
結花は笑った。
「『小島先生』だって、私だけじゃなくて、ちぃちゃんも和人くんも教え子だもん。ちゃんと相談に乗ってくれるよ」
夕方、結花はあたしをバス停まで送ってくれた。今回はあたしが率先してエレベーターを使った。
お腹が張ってないから大丈夫だよと結花は笑っていたけれど。
「また来週ね」
見送ってくれる結花に手を振って、バスは停留所を離れた。
「そうか……、結花がお母さんになるんだ……」
何度も泣きながらも必死に立ち上がってきたこれまでの結花の努力には脱帽するしかない。それを支えた周囲だって間違いなく拍手ものだ。
「でも……、あたしは……」
乗り換えた電車の中で、ふと考え込んでしまう。
出会った頃から小学生・中学生の頃の結花はどこかいつも儚くて、二人でいるときは、あたしの陰に隠れて身を守っていることもあったし、あたしも結花の防波堤という自負を持っていた。
それが……、いつの頃からだろう。
結花は本当にゆっくり、クラスだけじゃなく同学年の周囲とは違う、彼女だけの道を歩き始めていた気がする。
小島先生に出会ってから、それはさらに加速したのではないか。
もしあの病気の一件がなかったとしたも、結花は大学への進学はしなかったかもしれない。
その証拠に、結花は退学した翌年の秋に高校卒業程度認定資格を取っているんだよね。
進学を考えていたなら、そこから1年遅れでも願書を出すことが出来たはず。
いつだったか、それをしない理由を聞いて驚いた。
諦めたわけじゃないって。「小島先生の奥さん」として、中卒・高校中退の経歴のままでは先生に迷惑をかけてしまいかねないからだと。
あたしは幸いにして目的を見つけて学校を選ぶことができたけれど、そうじゃない子の方が圧倒的に多かった。
結花は違う。人生の設計図がちゃんと出来ていて、その流れをきちんと考えて、今は結花自身の進学は要らないと選択したんだ。
プライベートにしたって同じだ。
結花はそれまで、彼氏を作ったことがなかった。
いじめをたくさん受けてしまっていたけれど、新しい環境になるとその儚いイメージ先行で告白されたことはたくさんあったという。
でも、彼女の気持ちを丸ごと受け止めるのは、同い年の男子では力不足だとあたしはずっと思っていた。
結花の相手は小島先生でなければならなかったんだと。
そうでなくちゃ、あたしが納得できない。
「ただいま……」
「おかえり。どうした千佳?」
部屋に帰ると、和人が夕飯を作っていてくれた。
「ううん、ありがとう和人……」
そうだよ。あたしは和人との道を選んだ。
こんな自分の彼氏になってくれて、まだ言葉にはきちんと交わせてはいないけれど、将来の結婚だってもう誰が見ても想定の範囲内だ。
一人の部屋じゃない。二人の部屋で暮らす安心感をあたしも和人も知ってしまったから、また別々の部屋で過ごすことになるようには戻りたくない。
でも、それを続けていくにはどうしたらいいのだろう……。
いつものようにごはんを一緒に食べて、お風呂上がりに一緒にテレビを見ていた。
「今日、結花さんに会ったときになんかあった?」
「……ねぇ和人。もし、あたしが今から和人との赤ちゃんが欲しいと言ったら、引いちゃう?」
「えっ?」
そうだよね。一瞬言葉に詰まった和人の反応がこの年代の普通なんだ。
あたしの中に和人を迎え入れたこと、もう思い出せない数にはなっていると思う。だけど、これまで『間違い』を起こさないように必ず避妊してきた。
でもね、『間違い』って何なんだろう。
あたしと結花はもともと同級生だよ。
結花の妊娠はみんな喜んでくれる。もし今のあたしが同じことを言ったら、きっとみんなは『早すぎ』とか『間違えたこと』と言ってくるだろう。
この差はいったい何だろう。
もちろん、結花はもう結婚して姓も変えて、正真正銘に認められた小島先生の奧さんで、あたしたちはまだ大学生の恋人同士に過ぎない。
だけど、私と同い年の大親友であることは昔から変わらない。
あたしだって、和人との子どもは欲しいと思っている。
児童館というアルバイトの環境で見ていることも大きく影響を受けていることは間違いないと思うよ。
それでも、あたしだって一人の女の子に生まれた。年頃になって好きな人との新しい命を育みたいと考えることは間違っているのだろうか?
「千佳、無理はしていないか?」
「ううん。聞いておきたい。あたしは和人が好きだし、結婚したいし、和人との子どもだって欲しいと思ってる。だけど、それが和人にとって重荷になってしまうのか分からない」
そんなストレートな言葉を発したあたしを、和人は穏やかな顔で見てくれていた。
「ありがとう、千佳。俺のことそんなに考えていてくれたんだね。俺も千佳との家族は欲しい」
「本当に?」
「もちろん」
あたしは、結花が妊娠していることを伝えた。それも、一度悲しい思いをして再び立ち直ってのことであることも。
「なるほど。そういうことなんだね」
和人は笑い飛ばしたりしなかった。あたしの手をぎゅっと握って、続けてくれた。
「俺さ、千佳と付き合いだした頃から、絶対に千佳と結婚して、子どもも作って、なんてガキなりにいつも妄想してた。だから、こんな俺と結婚してくれるって、本当に嬉しいし、もう千佳以外に考えられない。だけど、今はまだもう少し待ちたい。焦れば千佳を悲しませてしまうような厳しい現実も待っていると思う。だから、千佳さえ許してくれるなら、卒業したら結婚しよう。俺も千佳を心配させないように、ちゃんと就職して、頑張って働く」
「和人……」
自然に涙がこぼれたよ。「結婚しよう」って言ってくれた。卒業まであと1年と少し。これまでの時間に比べたらあっという間だよね。
「子どものことも分かってる。けど、それは俺と千佳だけじゃない。その子の将来にも責任を持たなくちゃいけない。俺たちがちゃんと親になる準備が出来るまで」
「うん……」
そうだ、結花も教えてくれた。準備ができたらまた降りて来て欲しいと願ったと。結婚をして夫婦になった二人でもそう思うんだ。
今のあたしにはまだその準備が終わっていない。こんなこと、授業なんかで絶対に教われる事じゃない。
「これだけ一緒にいるんだぞ。千佳の体だって分かってる。ちゃんと考えてるよ。千佳を諦めるようなことはしたくない。結花さんに追いつくのは、それからでも遅くないと思う。結花さんだってそれで千佳を軽蔑するような人じゃないのは一番分かってるだろ?」
「うん。結花は絶対にしない」
「来週、先生たちに会うまで、いろんな事を考えてみようよ。なんか久しぶりだな。こういうのガチで相談できる機会ってなかなかないし」
悩んでいたあたしとは反対で、和人は楽しそうだった。
やっぱり和人は凄いな……。いつの間にかあたしとの先の道を少しずつ考えていてくれた。
まだあたしの答えは出ていないけれど、この人と一緒にいれば大丈夫。
あたしたちがこの夜にそれぞれの部屋に入って明かりが消えたのは、時計に表示されている日付が変わった後だった。
<数年ぶりの面談>
「和人は用意終わった?」
「俺はもう大丈夫だよ。千佳は?」
もう、いいなぁ。男性はこういうときあっという間に身支度終わっちゃうんだもん。
「ごめん、あたしまだ終わってない。先生と結花を迎えに行ってくれる? お茶とか用意しておくから」
あたしに至っては、まだ寝間着代わりのスエットだし、化粧だってまだしていない。
「分かった。行ってくる」
「結花は早く歩けないから、忘れないでよ!?」
いつもの和人の歩調に、結花ならなにも言わずに合わせてしまうと思う。でも今の結花の身体は一人じゃない。
「あいよー」
和人が部屋を出て行ってから、リビングのテーブルの上にお茶菓子を用意した。
結花の体調を考えれば本当は椅子の方が楽だったはず。でもうちのダイニングは二人用。
仕方ないから、バイト先にお願いして和室の備品の座いすを借りてきた。
そこまで終わらせると、部屋に入ってクローゼットを開ける。
ハンガーにかけてあった洋服は、数日前からこの日にと決めてあったものだから……。
「うん、分かった。大丈夫、こっちは準備終わるよ」
和人から電話で結花と先生が駅に到着したと知らせてきた。
そこからなら、この部屋まで結花に合わせてゆっくり歩いても10分ほどで着く。
ポットでお湯を沸かして、ちょうどできあがった頃に、外に声がした。
「千佳、先生たち来たよ」
「いらっしゃい」
和人が玄関の扉を開けて二人が入ってくる。
「忙しいところすみません」
テーブルに先生と和人にはコーヒー、結花とあたしはカフェインレスの紅茶を用意した。
「ちぃちゃん、そのくらい大丈夫だよ。気にしてたらなにも飲めないし」
結花は笑っていたけど、食事にもこれまで以上に気を遣っていると聞いていた。やっぱり今度こそ失敗したくないという思いが伝わってくる。
「なんだか、この二人を見ていると、高校生に戻ったように見えるな」
先生があたしと結花を見て笑う。
仕方ないよ、二人で申し合わせてそういう服装にしたんだもの。
結花はネイビーにクリーム色セーラー襟のワンピース。本来はウェストを調整するベルトがあるんだけど、お腹があるので、それをリボンのように結んで飾りにしていた。
あたしはさらに幼く見える。丸襟にレースのついた白ブラウスとライトグレーのベスト。赤チェックの膝丈スカート、フリルとリボンの付いた白いニーソックスというコーディネート。
それを見たときに、和人と結花が息を飲んだのにも気付いた。
「せっかくなので、数年前に戻りました」
「そうか。それじゃあ、四者面談を始めるか。この時間は当時に戻って原田と呼ぶことにする」
「久しぶりですね。そう呼んでもらうの」
嬉しそうに頷く結花を座椅子に座らせて、他のメンバーもそれぞれに腰を下ろす。
「二人とも元気そうでよかった。最後の半年は見てやれなかったから、申し訳なかった」
「小島先生、それはもうなしです。事情も分かってます。原田さんを助けられたのは先生しかいませんでしたから」
この場のメンバーなら、それは全員分かっている。あの当時の結花と彼女を支える先生の絆を知っていれば、二人がとった道というのはやむを得ないことなのだと。
現役の高校生では理解できなくても、大学生になった今ならできる。
同じように、学生の間での将来を模索し、別の進路をとるべきか悩んだ同級生を何人か知っていたからだ。
でも、その全てが成功したというわけではないとも聞いた。
それだけ結花たちがあの当時に難しい大人の判断を悩みながら下して、それを守りきったから今がある。
「そうは言っても、原田さんは別格ですよね?」
「そう言いたいところなんだが、この間、あそこの先生と久しぶりに飲んだ時に聞いたところによると、高校卒業して1年以内に結婚したのは他にもいたそうだ。だから、原田が19歳の誕生日で入籍したのは残念ながらトップじゃなかったんだなぁ」
結花の誕生日は早生まれの3月25日。だから、同じ19歳となればもっと早い子がいたんだ。
「へぇ、それじゃ赤ちゃんは?」
「それも聞いたら、もう子持ちもいるそうだ。このまま行けば原田の出産は22歳だから、学年で言えば大学4年だろう? 一般的な女性の体から考えれば早すぎると言うこともない。まぁ、最近の風潮からすればそれでも十分に早いほうに入るんだろうけどな」
それも聞いていなかった。あの高校で、卒業生の8割が進学、残りの2割が就職となっている。その就職組の中で、早くに人生の伴侶を見つけて家庭を持つという進路を選んだ同級生が他にもいたということだ。
「先生、あたし、どうすればいいか本当に分からなくなってきたんです……」
ここまできて、あたしは先生に自分の不安を吐き出した。
和人と5年間一緒に過ごしてきたこと。彼のことを思う気持ちは今も全く変わっていないし、去年からはこうして一緒に暮らしていると言うこと。
どちらの両親からも交際は反対されておらず、将来的には二人が結婚することも視野に入れてくれていること。
「なるほど。聞く限りは順調に来ているのに、佐伯は何が不安になったんだ? それと佐伯の気持ちは分かったが、斉藤はどうなんだろう?」
先生は、あたしに頷いて和人の方を見た。
「俺は、千佳のことが誰よりも大事です」
「そうか」
先生はそう言い切った和人に目を細めた。
「では斉藤。もし佐伯が今のように元気な体ではなくなってしまったとき、佐伯を支える覚悟はできているか?」
結花が顔を上げる。
「先生、私のは特別ですよ……」
先生は頷いて穏やかに答えた。
「確かに、原田の一件はこの歳を考えればイレギュラーに思えるかも知れない。でもな、原田がいつも必死で頑張っている姿を見て、例えあのまま寝たきりになったとしても、俺は原田を支えようと決めていた。それは原田から例の手紙をもらう前からの話だ。しかし、当時は俺も原田も許させる関係ではなかった。本当にどうしようか悩んだよ」
「じゃあ、私を追って学校を辞められたのは本当だったんですか?」
「表向きにそんなことを言えば大騒ぎになる。前にも言ったかもしれないが、原田の退学を知った日から、本当に自分に力が入らなくなった。支えを失うというのはこういうことを言うのだと思ったよ。生徒に支えられてるんじゃ、それこそ教師失格だ。ただな、原田のせいじゃない。俺がまだ学生時代のことにけりが付いていなかったからだ」
先生は笑っていた。もう認めちゃったと同じ。結花の存在がすでに特別なものになっていたわけだから。
それに結花はもちろん先生も学校にはいない。それを今から蒸し返してとやかく言われることもない。そのために二人は「生徒と教師」という関係を人生をかけて断ち切ったのだから。
「俺は、千佳がどうなったとしても、一緒にいてもらいたいんです。もちろん、お金の問題とか、きれい事だけじゃ済まないことも分かってます。苦労させちゃうかも知れないけれど、どんなに金持ちになっても、千佳がいなければ意味がありません。ですから、大学を出たら就職します」
「そうか」
小島先生は今度はあたしの方に向き直った。
「斉藤はこう言ってくれている。今度は佐伯だ。男性よりも女性の方がいろいろな道があるのは確かだ。この原田だって、ここまで来るのは何度も悩んだし、二人で何度も喧嘩もした」
先生は変わっていなかった。あたしの個人面談の時、同じようにいろんな話をしながら一緒に答えを探してくれたから。
「先生、あたし、いろいろ迷ってます」
「ほう?」
「あたしのことを大切に思ってくれている和人と結婚したい、でも和人だけに苦労させたくない。だから働こうとも思ってる。でも、結花が結婚して赤ちゃんまで産もうとしているのに、あたしは女としてなんにも出来ていない。どれを取ればいいんだろう?」
「そうか。悩むよな……」
俯いたあたしの肩を先生はたたいてくれた。
「佐伯、お前は考えすぎだ。この原田だって、退学ギリギリの高3の4月まで進学希望だったんだぞ? 知らなかっただろ?」
「えっ?」
知らなかった。あの病気になってから、結花は進学を諦めたと言っていたのに。
「ごめんね。諦めたというより、限界だったの……。このまま進学してもやりたいことも見つからないって。だから考えるのを終わりにしようと思ったのがあの連休だったんだよ。もちろん寂しかったし、先生との約束を果たせなくなって負けちゃった自分に情けなかったし悔しかった。どっちかと言えば、行く先が見つからなくて自棄になってた……」
そこで語られたのは全員が初めて聞いた信じられない話。結花が自宅で飛び降り未遂を起こしていたなんて……。
「原田……」
先生にもそれは伝えていなかったみたい。
「そうか、もっと早く言え。水臭いぞ」
「誰も怪我をしなかったので。でも、それで学校を辞める決心がつきました。終われないなら少しずつ治していくしかないって……」
「そうだったのか……」
もちろんあたしも知らなかった。
時間をかけて体制を立て直した結花は、少しずつ仕事をしながら自分の道を見つけ出していったんだ。
「いきなりの事件発覚で話がずれたが、俺も原田も、佐伯が進みたいような就職先の候補はいくつも知っている。佐伯の気持ちをきちんと整理して、自分の進みたい道を考えてくれ。そのための手伝いなら手間を惜しむつもりはない」
結花も教えてくれた。結花が仕事をしていた児童施設でもやはり人手が足りない。一般企業では条件が厳しくても、いろいろと目を向けてみれば、あたしでも役に立てる仕事は見つけられる。あとはあたしの決心なんだって。
「ちぃちゃんなら、勉強しているし、きちんとやっていけると思う。私も今はこんな体だけど、昔のお仕事したところに連絡したら、仕事はいくらでもあるから是非また来て欲しいと言ってくれたし。だからね、体調をみながら少しずつ復帰するよ」
結花はそう言って、もし希望であればあたしのことも職場に話してくれると約束してくれた。
「ありがとうございます。なんだか、悩んでいたのがスッと軽くなりました」
遅くなってしまった昼食を結花と作る。
やはり数年間だとしても先輩主婦は手際が違うと感じた。
「結花、ありがとうね」
「うん? 私は大人の先生がいてくれたし。他の生き方は出来なかったからなぁ。ちぃちゃんの方が悩むと思うんだよねぇ」
「結花はそれで後悔してない?」
「ううん全然。逆にこれしか私には道がなかった。いろんな人の力は借りていいんだよ。あとで恩返しはいくらでも出来るから」
「結花……」
強くなったんだね。凄いや……。
あたしの就職の件も先生と結花に相談することにして、二人は帰っていった。
「なんか、一日疲れたなぁ」
「そうだね。でも、いろいろ嬉しかったよ」
壁に背中を付けて並んで座る。
「和人の気持ち、嬉しかった。あたし、邪魔じゃなかったんだって」
本当にそれが聞けただけでも、あたしの今日一日は大収穫だった。就職も心配だけど、あたしの居場所がどこになるかが全てのベースだから。
「冗談じゃない。千佳がいるから俺だって頑張れる。千佳さえよければこのままずっと二人で生きていきたい」
「もぉ、そういう大事なセリフは、もっと大事な時に使ってよね」
彼の唇にそっと合わせる。
あたしたちは人生の約束をどこで交わすのだろう。
あの結花と先生の話にはとても敵わない。
いろんなプロポーズも話だけは聞くけど、和人に言われれば、どんなシーンだってその場でOKしちゃうとは思うから。
「それより、千佳、この服……」
和人と結花が部屋に入ってきたとき、二人の顔が驚きに変わったんだ。
「うん、結花も高校の頃のワンピ着てくるって言うし、あたしもと思ったんだけど、これが一番可愛かったし。それにもう和人がいるんだもん。大丈夫」
和人と交際を始めるきっかけになったあの夜に着ていたもの。
あの当時は汚されたことに悔しくて、またその当時をフラッシュバックしてしまって、この服を着ることは出来なかった。
あの当時、結花と一緒に買いに行った思い出がある。そして、あたしに似合うと選んでくれた一着。
だから、今日は髪形もいつものボブではなく、左右の両上でシュシュを使って短いツインテールにしてみた。
結花くらいの長髪だと髪型も自由自在だけど、これはあたしの中で一番幼く見える髪型かもしれない。これもあの子が最初にあたしの髪を結ってくれたのが始まり。
そんな二人にもう大丈夫だと伝えたくて。和人が気付いたくらいだから、結花にも伝わっただろう。
「似合わなかったかな……」
「いや……、その逆で……」
顔が赤い。もう、先生たちがいる時じゃなくてよかった。分かってるよ、あたしだってこの先に起こるだろう展開は想定していた。
「そんなに可愛い格好されたら、俺も抑えきれなくなっちまうかも……」
そうだよね。普段の生活では、どうしても着回しができるようなシンプルなのが多いから、おしゃれ着あまり着ないもんね。
「今日ね、和人の気持ち知れた。もう恐くない。和人の気持ち、抑えなくてもいいよ?」
腰に回されていた和人の腕をそっと一度外してもらう。
「和人、あたしのこと……放さないでいてくれる?」
「もちろん! それでもいい?」
あたしは軽く笑顔になって、ベストを脱いでから襟のリボンを解いて、ブラウスの第2ボタンまでを外した。横に座っている彼からは、下着とその下の膨らみだって直に見えてしまうと思う。でも、それでいい。
「あとは、和人やって? あたしも和人と一緒に歩いていくから」
「千佳……」
「うん。これからも守ってくれなきゃ、怒っちゃうぞ?」
テーブルの上にあった照明のリモコンで部屋の明かりを落として、あたしは和人の瞳に頷いた。
<夏休みと就職活動>
「そうかぁ、ちぃちゃんが私の代わりになってくれるんだぁ」
「うん、昨日決まった。茜音さんが結花にもよろしくって」
「そうかぁ。なら安心かな。でも、戻った頃に私の居場所ないかもなぁ」
「大丈夫、その頃にはあたしもきっと妊婦になっちゃうかも」
「そんなにタイミング良くなっちゃう?」
二人で笑うと、テーブルの上のグラスから氷がコロンと鳴った。
季節は回って、夏休みに入っていた。
実は夏休みに入ってから、アルバイト先の児童園には顔を出せていない。
その代わり、あたしは時間があるときは、こうやって結花と一緒に過ごしている。
結花のお腹の赤ちゃんは順調に大きくなって、今ではもうすっかり臨月だ。
いつ生まれても問題ないところまで来た。赤ちゃんも元気な女の子だと知らされていた。
でも、夏休みは旦那さんである小島先生も夏期講習の真っ只中。
アメリカから帰国した先生は、それまでの経歴や頑張りを評価されて、夏休みの午前中は大きなクラスの授業、午後は夜まで個人クラスの予定がギッシリの大人気講師になっている。
本当はこういう時、実家に帰省するのも一つの手だと思う。でも、結花は先生を一人にするのを嫌がったし、ご両親を横須賀から呼び寄せるのもお互いに気を使ってしまうと考えたみたい。
そこで、結花に何かあったときのために、平日の話し相手として目を付けられたのがあたしで、先生から結花のそばにいてあげて欲しいと頼まれた。
交通費だけじゃなく「バイト代より少なくて申し訳ない」と日当もくれている。
でもね、相手をしてくれるのが他の誰でもない結花だし、体を動かしにくくなってしまった結花と家事を分担したり、一緒に散歩したりの毎日。
通院も臨月になると1週間ごとになるから、夏場の外出は大変だ。そんなときも「二人で行けば楽しい散歩」と言ってくれる。
それだけじゃなく、結花から料理とか家事のコツまで教わっている。
あたしが結花に「プレ花嫁レッスン」とでも題して授業料を払わなくちゃならないほどの裏技満載の内容盛りだくさん。
本当にこの実態でお金を貰っていいのかと思うほどだよ。
「私も一人だといろいろ考えちゃう。ちぃちゃんが一緒にいてくれるから心強いんだぁ」
それだけじゃなく、ちゃんと二人は「その時の」用意もちゃんとしてあって、入院の用意だけじゃなく、タクシーや先生の連絡先なども全て大きく書き出してある。
「結花には、本当に世話になりっぱなしだよね。あんなに就職活動に悩んだり苦労していたのが嘘みたいだった」
「ううん、私はただ頑張っている子がいるから、会ってお話を聞いて欲しいと言っただけ。ちぃちゃんが頑張ったんだよ。何か困ったことがあったら、すぐに連絡してね。私からすぐにお願いできることになっているから」
さすがにこの時期になると、結花も少し動くと足が浮腫んでしまう。先生に教わったり、結花に言われるとおりに揉んであげると、気持ちよさそうに目を細めている。
顔写真だけ見れば、彼女は今でも十分に女子高生で通りそう。
こんなお母さんから生まれてくる女の子は、きっと可愛いんだろうな。
「今日も暑くなりそうだねぇ……」
結花がカーテンを開けて、外に広がる抜けるような青空を見上げた。