【外伝】あなたが教えてくれたこと(改稿版)




「結花、お散歩に行かない?」

 数日が経った晴れの日。お洗濯ものを干し終わったお母さんが私に声をかけてくれた。

「今日は暖かいから、厚手のコートはいらないね」

 私が昔着ていたワンピースに、ニットのカーディガンをあわせてくれて、同じように残してあった学校時代のローファーを用意してくれた。

「こんなに残して置いてくれたんだね」

「ばかね。ここは結花の家なんだから、いつ帰ってきてもいいの。そのくらいの準備はいつでもすぐできるから」

 私がみんなに送り出してもらってから、まだ2年ほど。何も変わらない。

 そう、変わってしまったのは私の方だ。

「毎日陽人さんからは連絡あるの?」

「うん」

 こちらに着いたと報告をしてから、陽人さんは毎日私に連絡をくれた。

 電話だったりメールだったり、いろいろ形は違うけれど、毎日欠かすことなく送ってくれる。

「結花、あなたはお母さんの自慢の娘よ」

 海沿いの公園。平日の午前中だから、他には誰もいなくて、潮騒の聞こえるベンチに二人で腰を下ろした。

「ううん。やっぱり、私は出来ない子なんだよ。これまでに運を使い切っちゃったんだよ。陽人さんにも本当に申し訳なかった。赤ちゃん欲しいなんて贅沢なこと言ったから、神様が怒ったんだよ……」

「そうかしら? 結花、あなたは頑張れたじゃない。妊娠すら厳しいかもって言われていたのに、できたじゃない?」

「えっ……」

 隣のお母さんを見上げる。お母さんの頬に光る筋があった。

「結花の体が弱いのはお母さんのせい。あなたをもっと元気な子に産んであげられればよかった。だから、あの当時の病気も、子どもを作れないのも、孫を抱けないのも、お母さんの責任だってずっと思っていた。それなのに、結花は電話をくれた。『赤ちゃんがおなかにいるよ』って。それだけでお母さん本当に嬉しかった。今は結花が無事に帰ってきてくれたことで十分。陽人さんにも何度もお礼したよ」

 お母さんの手が私の髪の毛を解してくれた。

「3ヶ月、ちゃんと母親を務めたんだもの。もう、立派なお母さんなのよ、結花は。大丈夫、結花には出来る。お母さん信じてる。お父さんも孫を抱くまで頑張るって言ってるんだから。でも焦らせるつもりはない。結花が自分で決めていいの。あなたの気持ちでいいんだから」

「私に……また……できるのかな……」

 お母さんは立ち上がって、私に手を差し出してくれた。

「結花には出来ないかもって、お母さんたちが諦めていたことを、あなたは何度も乗り越えてきたのよ。それに、あなたは天使ママになったの。誰よりも強い味方があなたにはついている。だから、出来る。お母さんは、結花の力を信じてる」

 天使ママ……。

 優しい響きの言葉だけど、この悲しみを経験したことがある人しか名乗ることができない。

 私はお母さんの手を取って立ち上がった。

「よし、立てたね。そう、結花は何度も立ち上がった。誰かの手を借りたっていいの。また歩ければ、それでいいのよ……」

 お母さんは私の手をいつまでも握ったままだった。




 お母さんと手を繋いで、久しぶりのユーフォリアに連れてきてもらった。

「いらっしゃい。うん、顔色よくなってきたね」

 菜都実さんは、私が仕事でお世話になっていた頃と同じ。

 きっと、事情も分かっていてくれている。なにも聞かず、そっと優しく話しかけてくれた。

「菜都実、二人分お願いね」

「うん。少し待ってて」

 メニューも見ずに、お母さんは注文をして、お店の中でも一番奥の席に座った。

「この席覚えてる?」

「うん、私ってあちこちで泣いてばっかり」

 もう2年半前になる。陽人さんとお付き合いができるようになって、喜んでいたのもつかの間。

 お仕事で離ればなれになってしまうことから、私は陽人さんに酷いことを言って飛び出した。結局、お母さんに誤解だと諭されたのはいいけれど、夜の街を陽人さんを探し回った。

 動けなくなっていたところを最後に菜都実さんに連れてこられたのがこの席。手足を怪我して、声も出なくなって、ボロボロの浴衣姿の私を陽人さんは抱きしめて許してくれた。

「結花は、一見遠回りをしているようにみえて、でも実は先回りして進んでいることも多いよね」

 確かに結婚や、その先の妊娠の経験など、あの高校生時代のクラスメイトに同じところまできた子がそうたくさんいるようには思えない。

「大学、行かなかったし。でも、それは私が決めたことだった……」

「そうね。あれは結花が自分で決めた。学業よりもあなたは自分が幸せになれる道を選んだ。そのことは、お母さんたち誰も間違っているなんて言わない」

 そこで菜都実さんがお料理を持ってきてくれた。

「ごめんね、ありがとう菜都実」

「いいって。結花ちゃん、いつもより少なめにしてあるから、足りなかったら言ってね」

 シチューのお皿に、オムライスを入れて、その上からビーフシチューをかけてくれている。よくお店のまかない料理で作ってもらったメニューだ。だから、オムライスの中は普通のチキンライスではなくて、バターライスになっている。きっと菜都実さんには「私の好物を」とお願いしてあったのだろう。

「懐かしいでしょ?」

「おいしいね……」

 会話を止めて、お料理を口に運んだ。

「よかった。食べてくれるようになった。やっぱりプロにはかなわないかぁ」

 お母さんが笑ってくれた。

 考えてみれば、あの日から食事も満足に食べていない気がする。昨日何を口にしたかも覚えていない。

「お母さん、心配かけてごめんなさい。また、頑張るよ。何度も泣いちゃうかもしれないけど……」

「そうね。恥ずかしいことじゃない。実家なのだからいくらでも泣いていいのよ」

 食事を終えて、ゆっくり歩いて帰る。

「結花、今日は無理に外に連れ出してごめんなさいね」

「大丈夫。ありがとう。陽人さんが言ったとおり。お母さんに甘えておいでって言われて」

 陽人さんが私に言ってくれたんだ。私が頑張りすぎたから、たまには甘えてゆっくりしておいでと。

「陽人さんがお詫びの連絡をくれてたのよ。一人で行かせて本当に申し訳ないと。でもお仕事をするのは結花を支えて二人で暮らしていくためなのだから。だから陽人さんを責めちゃダメ。結花を迎えに行くタイミングをずっと待っているんでしょう」

 そうなんだ。立ち上がるだけじゃなくて、前を向いて再び歩き出せるようになるのを待っていてくれる人がいる。

 それはとても幸せなことなんだよ。でも、今の私に、どうしたらそれができるのだろう……。




 お家に戻ると、お母さんは私に客間の座卓の席に待つように言った。

「結花、これからのことは、本当はあなたにお話しすることではないと思っていた。今回のことでお父さんと相談して、結花にもその資格があると思ったから話すことにしたわ」

 お母さんの横に、ブリキの四角い缶が置かれていた。

「前にも話したけれど、結花にはお兄ちゃんがいたことは覚えてる?」

「うん……、あっ……」

 そうだ。お母さんは私の前に経験している。お母さんも天使ママなんだ。

「そうね。あの当時そんな呼び方はまだ無かったけれどね。でも、その時の病院の看護師さんや、葬儀屋さんの皆さんにずいぶん助けてもらった」

 私の時と同じ。それまで順調だと思っていたのに、眠っているのかと思ったら、突然の非情な宣告を受けてしまったって。

 それが妊娠8か月にもなってしまうと、私と違って、「悲しいお産」をしなければならない。

「本当にあんなことはもうしたくないわ。でもね、結花と同じ。生まれてきてくれた男の子はまだ小さかったけれどすごく可愛かった。本当に眠っているようだったよ。看護師さんたちは、ちゃんと産湯につけてくれて、おくるみに包んでくれて抱かせてくれたよ」

 箱の中から取り出されたのは、その時の品物。足形や本当は取り付ける予定だった名前タグ。

結弦(ゆづる)って名前だったの?」

「そう。男の子だって早くから分かっていたからね。お父さんがつけたの」

 すぐ気が付く。私の名前はお兄ちゃんから一文字を受け継いでいること。

 名前まで決まっていたのに。お母さんたちは私以上に落ち込んだに違いない。

 菜都実さんから、私の名前はお母さんがつけてくれたと聞いていた。先に読みを『ゆか』と決めていたとしても、他に漢字はいくらでもある。

 そんなことがあったお兄ちゃんと同じ字を使うのは勇気がいる決断だと思う。その分も私の名前には思いが込められているんだ……。

 お兄ちゃんがいてくれたら、私の道も今とは全く違ったものだったに違いない。

 呼んでみたかった……。

「結弦お兄ちゃん……」

「結花……。だから、お葬式も全部名前をつけてやってもらえた。葬儀屋さんにも、お葬式まで三日あるって教えてもらえて。家族三人でお家に帰って、誕生祝いもしたし、あの当時は遠かった海に日帰り旅行も行ったし、折り紙でつくったお人形とかお友だちもたくさん用意できた……。ほんと、棺の中は結弦よりも、お友だちとか、三人で撮った写真とか、お花やお菓子とか、おみやげのほうが多かったくらい」

 薄い写真屋さんの簡易アルバム。そこに写っていたのは、本当に見た目には分からない。幸せそうな家族写真。病院で抱っこされて、お家や外でのスナップも。

 それでも、最後のページは、たくさんのおみやげに囲まれた中で眠っていた。

「最後まで、結弦は笑ってくれていた。お母さんもお父さんも、最後まで泣かなかった。あの子のおかげで頑張れた。結弦も頑張った。だからね、本当に少しだけどお骨も残ったの。だから、それはちゃんとお寺に持っていって、今もお墓で私たちを待っていてくれるのよ」

「すごい……。ねぇ、お母さん……」

 私はひとつのお願いを思いついた。

「私、お兄ちゃんに会ってもいいのかな?」

「結花……。ええ、結花のお兄さんだもの。喜んで会ってくれるわよ」

 その夜、私はニューヨークの陽人さんに急ぎのメールを飛ばした。




 次の土曜日。お父さんとお母さん、私の三人で東京の郊外にある公園墓地に向かった。

 空は春霞のかかった淡い青。今年は春が早いかも知れないとニュースでは言っていた。

「結花、本当に大丈夫なのか?」

 お父さんが心配そうに聞いてくれた。

「うん」

 大丈夫。気持ちを落ち着けて次に進むため、私自身で乗り越えなくちゃならないんだ。

 原田家のお墓にはこれまで何度もお墓参りで来ていた。おじいちゃんおばあちゃんたちが眠っていると。でも毎回、一つだけお菓子が置いてあったことを思い出して、ようやくその意味が分かった。

 そう。ここには私が生まれる前に空に帰ってしまったお兄ちゃんがいる。

 公園の管理事務所に着いて、私から事情を話させてもらった。

 一緒に連れてきた、ほんの少しの灰。

 あの葬儀場の人たちは、丁寧にゆっくりと荼毘に付してくれて、普通なら処理してしまうお骨でない僅かな灰も集めて渡してくれた。

 これを納めさせて欲しい。

 本当なら埋葬許可がないといけない。だけど、出生届も死亡届もない。書類上は存在しない私の赤ちゃん……。

 事情を聞いてくれた事務所の人たちは分かってくれた。

 本当なら小島家のお墓に納めるのが正しいのかもしれない。でも、母親の私が一緒に行けないのなら、知らない人より実のお兄ちゃんに頼みたい。

 お兄ちゃんからすれば、この子は姪にあたる。迷わないように連れていってとお願いできるのは私だけだ。

「分かりました。お名前はありますか?」

「はい、……(しおり)です。女の子です」

「栞ちゃんですね。みんなで送りましょう」

「ありがとうございます」

 陽人さんへの連絡で、私の体を心配して念のために胎盤などを調べてもらっていた結果、あの子は女の子だったと。

 この計画を陽人さんに打ち明けて許しをもらい、オンラインで顔を見合わせながら名前を考えた。

 私たちはこの子を絶対に忘れない。そのためには心のページに挿む栞になるんだと。いつか会えたときに名前を呼べるように。

「……結弦(ゆづる)お兄ちゃん。こう挨拶するのは初めてですよね。……妹の結花です。本当なら一緒に遊びたかったね」

「結花……」

 お父さんもお母さんも心配そうに私を見ている。

 大丈夫。このお願いはお空のお兄ちゃんにしかできない。それを頼むのは妹の私がするのが一番いい。

「結弦お兄ちゃん、私の娘の栞をお願いします。私が行くまで代わりに一緒に遊んであげていてください」

 お墓の蓋を少し開けて、小さな瀬戸物の器をお兄ちゃんの隣に置いてもらった。

「わがままを聞いてくださって、ありがとうございました」

 その夜、私は夢を見た。一面の菜の花畑の中、仲のいい兄妹のような幼い二人が笑いながら手を繋いでまっすぐに走ってくる。私に気づいた二人のうち、女の子が立ち止まった。

「行くよ」

「うん!」

 男の子の方が、私にちらっと目配せをする。

「バイバイ」

「えぇ、バイバイ……」

 手を振ってきた女の子に、そう答えることしかできなかった。でもその子たちは満足そうに笑って、また走っていった……。

 ハッとして飛び起きた。真っ暗な寝室だ。横に寝ていたお母さんが気が付いて手を握ってくれる。

「結花……、大丈夫?」

 あの二人は……。

「うん……」

 涙が頬を伝う。でも、これまでと違う温かい涙だった。

「結弦お兄ちゃん……、ありがとう……。お願いします」

 もう大丈夫。私も泣いてばかりじゃいられない。

「栞……、ばいばい……またね」





 次の日から、少しずつ外を歩くようにした。

 かなり体力も落ちていたんだな。これじゃお仕事をしている陽人さんに顔向けできない。

 お仕事を休んでもらっていたお母さんにもお礼を言って仕事に復帰してもらった。

 私が体を治すためにと学校を辞めた当時と同じように、家事も引き受けた。

 ユーフォリアで菜都実さんとも話した。菜都実さんも同じように天使ママの経験があるからだ。

「結花ちゃん、あなたは本当に強いね。大丈夫よ。また赤ちゃんは降りてきてくれるから」

「はい。本当にご心配をかけてしまいました」

 もう大丈夫だよ。自分で陽人さんに連絡もした。旦那さんに心配ばかりかけては本当に奥さん失格になってしまう。

「陽人くん、結花を頼む」

「結花、いつ帰って休んでもいいのだから。連絡しなさいよ?」

 空港まで見送りに来てくれた両親の前、精一杯の笑顔を作った。

「ありがとう。また頑張るよ……」

 私は手を振りながら、迎えに来てくれた陽人さんと二人で歩いていった。

<卒業後の迷い>



「栞、今ごろみんなと遊んでもらっているといいなぁ……」

 海外でのことだから、日本のように母子手帳などもない。病院のカルテでしか結花の妊娠を記録したものはないんだって。

「結花の心にいる(しおり)ちゃん……。そっか……、だから菜都実さんも最初に大喜びというより心配そうだったわけか」

 菜都実さんのお店での様子に、当時の結花の話を重ねると納得がいった。

「あの時は、ちぃちゃんにも連絡できなくてごめんね」

「仕方ないよそんなの。もし結花に会えても、あたしには言葉をかけられなかったかもしれないし」

 正直に白状すればそのとおり。

 もし、あたしが当時の結花に会って事の次第を教わったとしても、そこにかけられる言葉が見つからなかったと思う。

 あたしの周りで妊娠や出産はもちろん、ましてや悲しい経験をした人など聞いたこともない。

 あたしたちの年代、それも学生の目線に埋もれてしまうと、自分たちとは別の世界のようでもある。

 それにたとえおめでたい話だったとしても、「学生なのに」とか「早すぎ」だなんて、きっと軽蔑の目で見られてしまうのがオチかもしれないんだ。

 でも結花を見ていると、とてもそんなふうには見えない。前回からの不安はどこかに残っているかもしれないけれど、お腹の中の新しい命との対面を楽しみにしている。

 大人になるって、こういうことなんだなとしみじみ実感した。



 結花たちの帰国理由が彼女の妊娠だとなれば、当時の事情を知る人たちには、次こその無事を祈らずにはいられなかったはずだ。

「だからね、この子は私と陽人さんの二人目なの。今度こそは抱きしめてあげたい。だから、陽人さんにも言ったよ。私と赤ちゃんを選択しなくちゃならなくなったら、赤ちゃんを取ってって」

「先生、なんか言った?」

 結花は複雑そうな顔で首を横に振った。

「結花、それが先生だよ。結花のことあれだけ必死に愛してるんだもん。結花だってまだ先生とやり残していることあるでしょ?」

 当たり前だ。先生だってそんなお願いにやすやすとOKするとは思えない。万一のことがあれば、間違いなく結花を助けることになるだろう。

「だから、本当に二人目は慎重だった。安定期に入るまで帰国を延ばしたし、みんなもいる日本で産んだほうがいいってお医者さんも勧めてくれた」

 そうか、だから突然の話になったように見えたんだ。

「でも結花、さっきエレベーターも使わないで階段だったじゃん? お腹は大丈夫なの?」

 4階の部屋に上がってくるために、あたしとおしゃべりをしながら階段を上がってきたはず。

「まだ臨月じゃないし、私の方が体力付けなきゃならないから、運動していいってことになってるよ。私は本当にヒールの高い靴とは縁が無いなぁ」

 もともとヒールが低い靴が多かった結花だ。妊婦ともなれば転倒しないように足元が安定する靴を履くことになる。あまりにも自然だったから見落としたけれど、バス停まで迎えに来てくれた彼女の足には薄桃色の柔らかそうなスニーカーだったよ。

 なかなか自分の足に合う靴がないとこぼしていた学生時代。

 後に小島先生はそんな結花の足の事情を知ってから、ずっと彼女専属のシューフィッターなんだって。

 中期以降の妊婦さんだと足の浮腫(むくみ)も出やすいからとても気を使うと教えてくれた。

 そうなったときに、合わない靴だと痛くなって歩けなくなってしまうけど、先生に選んでもらったものだと自宅まで帰ってこられるからありがたいって。

 そこまで自分の奥さんの体のことを分かってくれている旦那さんって、本当に羨ましいくらいだよ。




「ちぃちゃん、迷ってるんだってね。和人くんから聞いたよ」

 話題を変えて、結花はあたしの手を再び握った。

「うん……。なにやりたいのか分からなくなっちゃってね。就職だって何をどうすればいいのかが分からなくなって……」

「そっか……」

 変わらない。結花と話しているとこんなに落ち着くのかと改めて思った。

 たったこれだけの会話。それもあたしが一方的に吐き出してきているだけなのに、結花の温もりがあたしの中に一気に流れ込んできた気がした。

「今度、ちぃちゃんと和人くんのお部屋に行くよ。二人の気持ちが知りたいの。ちぃちゃんと和人くんのそれぞれの気持ち。だから、今は答えは言わないね。だからお願い。ちぃちゃんも和人くんも凄く大事な時期に来ているから、お互い別々の考えでもいい。ちぃちゃんが和人くんとどうなりたいのか、和人くんがちぃちゃんとどうしたいのか。それまで考えておいて欲しいの」

 結花は立ち上がってスケジュールが書き込まれたカレンダーを確認している。

「来週の日曜日、二人とも空いているかな?」

 あたしもスマートフォンのスケジュールを見る。大丈夫、二人とも事前の予定は何もない。

「陽人さんも行ける日だから、お願いするつもりなんだ」

「えっ? お休みなのに悪いよ」

 結花は笑った。

「『小島先生』だって、私だけじゃなくて、ちぃちゃんも和人くんも教え子だもん。ちゃんと相談に乗ってくれるよ」

 夕方、結花はあたしをバス停まで送ってくれた。今回はあたしが率先してエレベーターを使った。

 お腹が張ってないから大丈夫だよと結花は笑っていたけれど。

「また来週ね」

 見送ってくれる結花に手を振って、バスは停留所を離れた。



「そうか……、結花がお母さんになるんだ……」

 何度も泣きながらも必死に立ち上がってきたこれまでの結花の努力には脱帽するしかない。それを支えた周囲だって間違いなく拍手ものだ。


「でも……、あたしは……」

 乗り換えた電車の中で、ふと考え込んでしまう。

 出会った頃から小学生・中学生の頃の結花はどこかいつも儚くて、二人でいるときは、あたしの陰に隠れて身を守っていることもあったし、あたしも結花の防波堤という自負を持っていた。

 それが……、いつの頃からだろう。

 結花は本当にゆっくり、クラスだけじゃなく同学年の周囲とは違う、彼女だけの道を歩き始めていた気がする。

 小島先生に出会ってから、それはさらに加速したのではないか。

 もしあの病気の一件がなかったとしたも、結花は大学への進学はしなかったかもしれない。

 その証拠に、結花は退学した翌年の秋に高校卒業程度認定資格を取っているんだよね。

 進学を考えていたなら、そこから1年遅れでも願書を出すことが出来たはず。

 いつだったか、それをしない理由を聞いて驚いた。

 諦めたわけじゃないって。「小島先生の奥さん」として、中卒・高校中退の経歴のままでは先生に迷惑をかけてしまいかねないからだと。

 あたしは幸いにして目的を見つけて学校を選ぶことができたけれど、そうじゃない子の方が圧倒的に多かった。

 結花は違う。人生の設計図がちゃんと出来ていて、その流れをきちんと考えて、今は結花自身の進学は要らないと選択したんだ。

 プライベートにしたって同じだ。

 結花はそれまで、彼氏を作ったことがなかった。

 いじめをたくさん受けてしまっていたけれど、新しい環境になるとその儚いイメージ先行で告白されたことはたくさんあったという。

 でも、彼女の気持ちを丸ごと受け止めるのは、同い年の男子では力不足だとあたしはずっと思っていた。

 結花の相手は小島先生でなければならなかったんだと。

 そうでなくちゃ、あたしが納得できない。



「ただいま……」

「おかえり。どうした千佳?」

 部屋に帰ると、和人が夕飯を作っていてくれた。

「ううん、ありがとう和人……」

 そうだよ。あたしは和人との道を選んだ。

 こんな自分の彼氏になってくれて、まだ言葉にはきちんと交わせてはいないけれど、将来の結婚だってもう誰が見ても想定の範囲内だ。

  一人の部屋じゃない。二人の部屋で暮らす安心感をあたしも和人も知ってしまったから、また別々の部屋で過ごすことになるようには戻りたくない。

 でも、それを続けていくにはどうしたらいいのだろう……。




 いつものようにごはんを一緒に食べて、お風呂上がりに一緒にテレビを見ていた。

「今日、結花さんに会ったときになんかあった?」

「……ねぇ和人。もし、あたしが今から和人との赤ちゃんが欲しいと言ったら、引いちゃう?」

「えっ?」

 そうだよね。一瞬言葉に詰まった和人の反応がこの年代の普通なんだ。

 あたしの中に和人を迎え入れたこと、もう思い出せない数にはなっていると思う。だけど、これまで『間違い』を起こさないように必ず避妊してきた。

 でもね、『間違い』って何なんだろう。

 あたしと結花はもともと同級生だよ。

 結花の妊娠はみんな喜んでくれる。もし今のあたしが同じことを言ったら、きっとみんなは『早すぎ』とか『間違えたこと』と言ってくるだろう。

 この差はいったい何だろう。

 もちろん、結花はもう結婚して姓も変えて、正真正銘に認められた小島先生の奧さんで、あたしたちはまだ大学生の恋人同士に過ぎない。

 だけど、私と同い年の大親友であることは昔から変わらない。

 あたしだって、和人との子どもは欲しいと思っている。

 児童館というアルバイトの環境で見ていることも大きく影響を受けていることは間違いないと思うよ。

 それでも、あたしだって一人の女の子に生まれた。年頃になって好きな人との新しい命を育みたいと考えることは間違っているのだろうか?

「千佳、無理はしていないか?」

「ううん。聞いておきたい。あたしは和人が好きだし、結婚したいし、和人との子どもだって欲しいと思ってる。だけど、それが和人にとって重荷になってしまうのか分からない」

 そんなストレートな言葉を発したあたしを、和人は穏やかな顔で見てくれていた。

「ありがとう、千佳。俺のことそんなに考えていてくれたんだね。俺も千佳との家族は欲しい」

「本当に?」

「もちろん」

 あたしは、結花が妊娠していることを伝えた。それも、一度悲しい思いをして再び立ち直ってのことであることも。

「なるほど。そういうことなんだね」

 和人は笑い飛ばしたりしなかった。あたしの手をぎゅっと握って、続けてくれた。

「俺さ、千佳と付き合いだした頃から、絶対に千佳と結婚して、子どもも作って、なんてガキなりにいつも妄想してた。だから、こんな俺と結婚してくれるって、本当に嬉しいし、もう千佳以外に考えられない。だけど、今はまだもう少し待ちたい。焦れば千佳を悲しませてしまうような厳しい現実も待っていると思う。だから、千佳さえ許してくれるなら、卒業したら結婚しよう。俺も千佳を心配させないように、ちゃんと就職して、頑張って働く」

「和人……」

 自然に涙がこぼれたよ。「結婚しよう」って言ってくれた。卒業まであと1年と少し。これまでの時間に比べたらあっという間だよね。

「子どものことも分かってる。けど、それは俺と千佳だけじゃない。その子の将来にも責任を持たなくちゃいけない。俺たちがちゃんと親になる準備が出来るまで」

「うん……」

 そうだ、結花も教えてくれた。準備ができたらまた降りて来て欲しいと願ったと。結婚をして夫婦になった二人でもそう思うんだ。

 今のあたしにはまだその準備が終わっていない。こんなこと、授業なんかで絶対に教われる事じゃない。

「これだけ一緒にいるんだぞ。千佳の体だって分かってる。ちゃんと考えてるよ。千佳を諦めるようなことはしたくない。結花さんに追いつくのは、それからでも遅くないと思う。結花さんだってそれで千佳を軽蔑するような人じゃないのは一番分かってるだろ?」

「うん。結花は絶対にしない」

「来週、先生たちに会うまで、いろんな事を考えてみようよ。なんか久しぶりだな。こういうのガチで相談できる機会ってなかなかないし」

 悩んでいたあたしとは反対で、和人は楽しそうだった。

 やっぱり和人は凄いな……。いつの間にかあたしとの先の道を少しずつ考えていてくれた。

 まだあたしの答えは出ていないけれど、この人と一緒にいれば大丈夫。

 あたしたちがこの夜にそれぞれの部屋に入って明かりが消えたのは、時計に表示されている日付が変わった後だった。

<数年ぶりの面談>



「和人は用意終わった?」

「俺はもう大丈夫だよ。千佳は?」

 もう、いいなぁ。男性はこういうときあっという間に身支度終わっちゃうんだもん。

「ごめん、あたしまだ終わってない。先生と結花を迎えに行ってくれる? お茶とか用意しておくから」

 あたしに至っては、まだ寝間着代わりのスエットだし、化粧だってまだしていない。

「分かった。行ってくる」

「結花は早く歩けないから、忘れないでよ!?」

 いつもの和人の歩調に、結花ならなにも言わずに合わせてしまうと思う。でも今の結花の身体は一人じゃない。

「あいよー」

 和人が部屋を出て行ってから、リビングのテーブルの上にお茶菓子を用意した。

 結花の体調を考えれば本当は椅子の方が楽だったはず。でもうちのダイニングは二人用。

 仕方ないから、バイト先にお願いして和室の備品の座いすを借りてきた。

 そこまで終わらせると、部屋に入ってクローゼットを開ける。

 ハンガーにかけてあった洋服は、数日前からこの日にと決めてあったものだから……。



「うん、分かった。大丈夫、こっちは準備終わるよ」

 和人から電話で結花と先生が駅に到着したと知らせてきた。

 そこからなら、この部屋まで結花に合わせてゆっくり歩いても10分ほどで着く。

 ポットでお湯を沸かして、ちょうどできあがった頃に、外に声がした。

「千佳、先生たち来たよ」

「いらっしゃい」

 和人が玄関の扉を開けて二人が入ってくる。

「忙しいところすみません」

 テーブルに先生と和人にはコーヒー、結花とあたしはカフェインレスの紅茶を用意した。

「ちぃちゃん、そのくらい大丈夫だよ。気にしてたらなにも飲めないし」

 結花は笑っていたけど、食事にもこれまで以上に気を遣っていると聞いていた。やっぱり今度こそ失敗したくないという思いが伝わってくる。

「なんだか、この二人を見ていると、高校生に戻ったように見えるな」

 先生があたしと結花を見て笑う。

 仕方ないよ、二人で申し合わせてそういう服装にしたんだもの。

 結花はネイビーにクリーム色セーラー襟のワンピース。本来はウェストを調整するベルトがあるんだけど、お腹があるので、それをリボンのように結んで飾りにしていた。

 あたしはさらに幼く見える。丸襟にレースのついた白ブラウスとライトグレーのベスト。赤チェックの膝丈スカート、フリルとリボンの付いた白いニーソックスというコーディネート。

 それを見たときに、和人と結花が息を飲んだのにも気付いた。

「せっかくなので、数年前に戻りました」
 
「そうか。それじゃあ、四者面談を始めるか。この時間は当時に戻って原田と呼ぶことにする」

「久しぶりですね。そう呼んでもらうの」

 嬉しそうに頷く結花を座椅子に座らせて、他のメンバーもそれぞれに腰を下ろす。

「二人とも元気そうでよかった。最後の半年は見てやれなかったから、申し訳なかった」

「小島先生、それはもうなしです。事情も分かってます。原田さんを助けられたのは先生しかいませんでしたから」

 この場のメンバーなら、それは全員分かっている。あの当時の結花と彼女を支える先生の絆を知っていれば、二人がとった道というのはやむを得ないことなのだと。



 現役の高校生では理解できなくても、大学生になった今ならできる。

 同じように、学生の間での将来を模索し、別の進路をとるべきか悩んだ同級生を何人か知っていたからだ。

 でも、その全てが成功したというわけではないとも聞いた。

 それだけ結花たちがあの当時に難しい大人の判断を悩みながら下して、それを守りきったから今がある。

「そうは言っても、原田さんは別格ですよね?」

「そう言いたいところなんだが、この間、あそこの先生と久しぶりに飲んだ時に聞いたところによると、高校卒業して1年以内に結婚したのは他にもいたそうだ。だから、原田が19歳の誕生日で入籍したのは残念ながらトップじゃなかったんだなぁ」

 結花の誕生日は早生まれの3月25日。だから、同じ19歳となればもっと早い子がいたんだ。

「へぇ、それじゃ赤ちゃんは?」

「それも聞いたら、もう子持ちもいるそうだ。このまま行けば原田の出産は22歳だから、学年で言えば大学4年だろう? 一般的な女性の体から考えれば早すぎると言うこともない。まぁ、最近の風潮からすればそれでも十分に早いほうに入るんだろうけどな」

 それも聞いていなかった。あの高校で、卒業生の8割が進学、残りの2割が就職となっている。その就職組の中で、早くに人生の伴侶を見つけて家庭を持つという進路を選んだ同級生が他にもいたということだ。

「先生、あたし、どうすればいいか本当に分からなくなってきたんです……」

 ここまできて、あたしは先生に自分の不安を吐き出した。

 和人と5年間一緒に過ごしてきたこと。彼のことを思う気持ちは今も全く変わっていないし、去年からはこうして一緒に暮らしていると言うこと。

 どちらの両親からも交際は反対されておらず、将来的には二人が結婚することも視野に入れてくれていること。

「なるほど。聞く限りは順調に来ているのに、佐伯は何が不安になったんだ? それと佐伯の気持ちは分かったが、斉藤はどうなんだろう?」

 先生は、あたしに頷いて和人の方を見た。

「俺は、千佳のことが誰よりも大事です」

「そうか」

 先生はそう言い切った和人に目を細めた。

「では斉藤。もし佐伯が今のように元気な体ではなくなってしまったとき、佐伯を支える覚悟はできているか?」

 結花が顔を上げる。

「先生、私のは特別ですよ……」

 先生は頷いて穏やかに答えた。

「確かに、原田の一件はこの歳を考えればイレギュラーに思えるかも知れない。でもな、原田がいつも必死で頑張っている姿を見て、例えあのまま寝たきりになったとしても、俺は原田を支えようと決めていた。それは原田から例の手紙をもらう前からの話だ。しかし、当時は俺も原田も許させる関係ではなかった。本当にどうしようか悩んだよ」

「じゃあ、私を追って学校を辞められたのは本当だったんですか?」

「表向きにそんなことを言えば大騒ぎになる。前にも言ったかもしれないが、原田の退学を知った日から、本当に自分に力が入らなくなった。支えを失うというのはこういうことを言うのだと思ったよ。生徒に支えられてるんじゃ、それこそ教師失格だ。ただな、原田のせいじゃない。俺がまだ学生時代のことに()()が付いていなかったからだ」

 先生は笑っていた。もう認めちゃったと同じ。結花の存在がすでに特別なものになっていたわけだから。

 それに結花はもちろん先生も学校にはいない。それを今から蒸し返してとやかく言われることもない。そのために二人は「生徒と教師」という関係を人生をかけて断ち切ったのだから。