【外伝】あなたが教えてくれたこと(改稿版)

<やっぱり…親友っていい!>



 春休みの夕方、あたしは電車を降りるといつものユーフォリアに走った。

 和人は先に着いているとの連絡が入っている。

 慣れないヒールはやっぱり走りにくい。こんなことなら途中で着替えてくるべきだったと後悔しながら、お店の外階段を駆け上がった。

「間に合ったな。まだセーフだ」

「よかったぁ!」

「もう、無茶して。怪我でもしたらそれこそ結花ちゃんは自分を責めちゃうよ?」

「ですよね」

 菜都実さんが出してくれたお水を一気飲みしてしまう。

「もうすぐ着くって連絡あったよ。結花ちゃんも千佳ちゃんがそんな格好だと驚くだろうから、早く着替えちゃいな」

 菜都実さんには、ここで普段着に着替えてから結花と会うことを連絡しておいた。

 お店の奥の部屋を借りて、スーツから普段着に着替える。

 なぜって、本当ならこの日には何も予定を入れていなかったし、結花にも「この日は終日フリー」と答えてあったから。

 就職説明会が学校の別キャンパスで行われることを教わって、それに出てからお店に向かうことを決めたのが数日前。その変更は結花には伝えなかった。

 それを話せば、きっと結花のことだ。せっかくの今日の予定がキャンセルになってしまうかもしれない。

 今回は完全帰国だと聞いている。これからはいつでも会えることは分かっているけれど、空港から実家に戻る途中の最初のタイミングで顔を合わせておきたかったのはあたしの方だったから。


 あの夜が終わってから、あたしも焦らずにいろいろな情報を集めるようになった。一つの業界でなく、いろいろ目を向けてみると、あたしがやれそうな仕事はどこにでも潜んでいることも分かったし、逆にこの福祉分野はこれからの産業とあって人手不足だ。

 でも、簡単には決めないでいこう。和人を安心させられるように、それが今のあたしに出来る精一杯だし、彼もあたしの動きを理解してくれている。



「ただいま戻りました」

 お店のドアが開いて、二人の人影が入ってきた。

「お帰りなさい。お勤めお疲れさまでした」

 菜都実さんとご主人の保紀さんも出てきて、『先生』に声をかけた。

「結花、コート脱いじゃいなよ」

「うん」

 そのたった一声を聞いた瞬間、あたしの涙腺が堪えきれなくなって全開になった。

「結花ぁ!」

「ちぃちゃん、ただいまぁ」

 3年前と全然変わらなかった。もともとが同級生なのだから、歳も同じだし見た目も変わらないというのは当たり前だとは思う。

 でも、どこなんだろう。その空気というか何かが違う。結花の表面上の雰囲気そのものは全く変わっていない。それでもこの落ち着きは大学生のあたしとは比較にならないような気がした。

 外国で3年間を生活するというのは、時として人の人生すら変えてしまうだけの経験を得ることも可能な時間の流れだ。

 きっと、たくさんの苦労を重ねたんだろう。

 あの優しくて芯の強い結花に、さらに苦労をして得た人生経験が加わったら、本当にこの子はあたしが逆立ちをしても敵わないほどの女性になったのではないか。

「もう、行かないでいいの?」

「そうだよ。先生もむこうのお部屋を引き上げて、一緒に帰ってきたよ」

「おかえり……結花……」

「ただいま。ちぃちゃんには心配かけてごめんね」

「ばかぁ……、そんなこと気にしないの!」

 昔とは逆だ。あたしは結花の広げた腕の中に顔を埋めた。




 あの日から2週間後、あたしは結花と横浜市内の駅で待ち合わせた。

 そこからバスに乗って終点にある団地が結花たちの新しい住まいだという。

「ここからなら、先生もバスで1本だからね。実家からも1時間あれば来られる範囲だし」

 団地というと、あたしにはよくテレビなどでニュースになる老朽化した建物を想像してしまうけど、ここは違っていた。

 全面リフォームされていて、住民も若い世帯が多いように思えた。

 公園の遊具も新しくされているようで住みやすそうな街づくりになっている。

 後で聞いて分かったのは、リニューアルのモデルケースとして大規模に再開発をされた一画だということ。

 子育て世代に優しい地区としての実験的住宅街ということだ。子育て世代をベースにしておけば全世代に応用が利くということなのだろう。

「一昨日ようやく全部の家電とか家具が揃ったんだよ。むこうに行くときに、私はまだ実家だったし、先生の荷物もみんな処分しちゃったからね」

 鍵を開けて部屋に入ると、まだ新品の匂いがした。

 注文は帰国したあとにすぐお店に行ったけれど、それが全て整うまでしばらくかかったと。それまでは、先生はこの部屋で暮らして、結花は先週までは横須賀の実家で過ごしていたんだって。

 その間に先生は生活の準備をしながらも、冷蔵庫がない不便な生活を強いられてしまったのは少々気の毒な話だ。

 それを心配した結花に、近所のドラッグストアがお総菜なども扱ってくれているので助かると話していたらしい。

 それでも、あたしが小学6年で横須賀に転校するまで過ごしていた団地よりは段違いに過ごしやすそうだ。

「結花、この部屋って入るの難しかったんじゃんじゃない?」

「うん、条件あったけど、たまたまそれに当たってたから」

 そうだ、この地区は子育て支援地区。それが前提だから、子どもがいなければならない。

 そのとき、あたしは先日から気になっていたことを確かめたくなった。

「結花、ごめんちょっと立ってくれる?」

「うん?」

 結花が立ち上がる。今日は丸襟のブラウスに、ライトグレーのジャンパースカートをゆったりと着ている。

 昔からワンピース姿が多かった結花だったけれど、その時以上に服のラインがゆったりしていた。

 アメリカでの生活で太ったわけではなさそうだ。それなら、顔や腕を見れば分かる。

 胸も3年前に比べれば少し大きくなっているようだし。

 探るようなあたしの表情を結花は優しく笑ってくれた。

「ちぃちゃん……」

 あたしの右手をそっと取って、結花は自分のお腹にそっと当ててくれた。

「結花……、やっぱり? ほんとに?」

 やっぱり間違いない。先日の再会のときに結花のお腹が少しだけど膨らんでいたのに気づいた。新しい命が育っている証だといいなと密かに思っていた。

 結花はテーブルの上に置いてあったトートバッグから、薄い本を取り出した。母子手帳と印刷された表紙をめくった最初のページには、父親に小島陽人、母親には小島結花と書いてある。

「頑張ったねぇ、結花ぁ……!」

 あたしも自分のことのように嬉しい。

 高校生の時に、卵巣の片方を摘出する病に患った結花は、もしかしたら子どもは厳しいかも知れないと覚悟していたのをみんな知っているから。


 それに、結花はあたしの知らないところで悲しみから再び立ち上がっていたんだもの。




 結花が帰ってくると喜んだ2カ月前、偶然に結花のお母さんに会うことがあった。

 その時に、彼女のお母さんは、「今度こそ無事に生まれてくれるといいね」と言ってきたんだ。

 あたしがきょとんとしていると、少しばつが悪そうに、「千佳ちゃんだから、話しても結花も許してくれるわよね」と場所を移して小声で打ち明けてくれたんだ。

 結花は前年の春先に流産を経験してしまったのだと。

「そんな……」

 アメリカに行って、もうすぐ2年となるときに、結花が妊娠したと実家に伝えられた。初孫妊娠の報告に両家の実家とも大喜びだったそうだ。

 しかし、それはしばらくして悲報に変わった。わずか3カ月目で流産の診断を受けてしまった。

 病院で処置を受けて退院した結花は、食事も会話すらできないほど落ち込んでいたという。

 旦那さんでもある小島先生は、そんな結花を実家で休ませるために一時帰国をさせることにしたらしい。

 成田空港の到着ロビーで結花を出迎えたご両親に、結花はその場で泣き崩れて謝ったという。

「そんな! 結花に落ち度なんてないですよ!」

「そう。あの子に落ち度なんてないのよ。謝ることなんてないって」

 妊娠3カ月頃の流産は珍しいことではない。結花の体を検査しても、赤ちゃんにも見た目には異常は無かったそうだ。

 原因が分からないけれど、その子は空に帰ることを選んでしまった。

 約1ヶ月の最初の内、結花は毎晩泣きながら過ごしたと聞いた。

 赤ちゃんを守れなかった、母親失格だと自分を責めていたと。

「結花……、なんでも自分が悪いって……。昔からひとりで背負い込むから……」

「さすが千佳ちゃんね。そう、あの子はそういう子だから……。妊娠は本当にどの時期にもリスクがあるわ。結花自身も早産だったし、生まれる前に何度も危ないときがあった。それを教えてこなかった私たちにも責任はあるのだけれどね」

 そうだったんだ。結花にも本当は上にお兄さんがいて、でも生まれてくることができなかったと初めて知った。結花から聞いたこともない。

 ご両親と一緒に、そのお兄さんを(とむら)ったお墓にお参りしたそうだ。

「結花……」

「『お兄ちゃんに会いたい』って聞いたときは、正直ヒヤリとしたわ……」

 それ以上は言葉を濁したけれど、あたしは直感で、結花が自分で命を絶とうとしたことがあると悟った。

「そのとおりよ……。時期は違うけどね。まだ小島先生にも話していない。でも今回その心配は無用だった。妹から空のお兄さんに、自分の娘を導いてくれるようにお願いをしていたの。いつの間にかあんなに強い子になっていたのね……」

 その次の日から結花は心配をかけたと周囲にお詫びをしながら立ち直ったという。

 きっと、無理をしていた部分もたくさんあったのではないかとお母さんは当時を振りかえっていた。

 そして、休日を利用してアメリカから迎えに来た先生と一緒に出国していった。

『次は頑張るよ』と泣きそうな笑顔で最後に言い残して手を振りながら……。

「千佳ちゃん、もし結花の様子が変だと思ったら、すぐに私たちにも連絡をしてくれる?」

「分かりました」

 お母さんはあたしの手を握って頭を下げたんだ。

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※はじめに
この15話では「天使ママ」の話題を取り扱います。残酷描写はありませんが、お気持ち的に辛い方は飛ばして16話までお進みくださっても大丈夫です。物語の流れは保てるように編成してあります。
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<消えることのない3か月>




「結花、少し落ち着いて休もう」

「う……、 うん……」

 そのときも、私は何も考えられず、空っぽの心のままで窓の外を眺めていた。

 ううん、眺めていたというのも正確な表現ではない。私の心の中に瞳を通した風景は届いていなかったから。

 もうあの日から1週間が経つ。もう体を動かしても問題ないとは言われていた。


 でも、私にはその力が戻ってこなかった。


 たった3ヶ月だったけれど、それは私にとって忘れられない日々だった。

 海外赴任してもうすぐ2年。生活が落ち着いてきたこともあって、私と陽人さんはいつか家族を増やそうと約束した。

 数年前、右の卵巣に癌を患った私は自分の子供を抱くことは難しいかもしれないと言われていた。

 幸い切除していない左側には影響はないという。毎月の生理現象はきちんと来ていたけれど、排卵が伴っていたかは自分の体ですら分からない。

 それはコウノトリに任せよう。私たちは今の自分たちに出来ることをする。そう私と陽人さんは互いに全ての愛を受け渡した。

「お帰りなさい、陽人さん……」

「ただいま。どうした?」

 あの日、帰宅した陽人さんに飛びついて報告をしたことを、今でも昨日のことのように覚えている。

「私でも、できたんだ……」

 お医者さんのエコーでも、それが間違いないと確認した。今度の秋には家族が一人増える。

 日本の両親にも連絡をした。みんな初孫の話題に喜んでくれた。

 陽人さんも私の体調を第一に考えてくれたけれど、職場への報告はしていなかった。安定期になって、日取りが見えるようになったら報告しようなんて話をしていた。


 でも、先週の検診のときに、いつもより長い時間をかけてから、私にそっと打ち明けられた内容は、私が高校生で自分の病を告げられたときよりも心に突き刺さった。

「残念です……」

 先生は、その瞬間に看護師さんなどを全て診察室から出し、二人だけの静かな場所にしてくれた。

「そんな……」

 私のすすり泣きだけが響く部屋で、先生はわざと事務的に書類を書いてくれていた。分かっている。

 私がこんな体だとも知っていて、いろいろ妊娠に向けたアドバイスもくれた。心拍を初めて確認してくれたのもこの先生だから。

 仕事をしながらも目を赤くして喜んでくれたことも、私も陽人さんもはっきり覚えている。

 この週数での悲報は決して珍しいことではない。原因は先天性の染色体異常であったり、その他の理由はほとんど不明だとも知っている。

「結花さん。辛いかもしれませんが、今はお母さんの体を大切にしましょう。このままではお母さんが倒れてしまいますから……」

 このとき、先生が私の手を握って『お母さん』と呼んでくれたことに本当に救われた。




 数日後、私は手術室のライトを見ていた。高校2年の冬から数えて2回目の風景だ。

 あの日、お家に帰ってから、悲しい知らせを日本に伝えた。

『赤ちゃんね……、お空に帰っちゃったんだ……』

 そう絞り出すのが精一杯だった。あとはもう言葉に出来ず、泣き声だけだったと思う。

 途中から陽人さんが通話を代わってくれた。もうひとつの連絡先である陽人さんのご両親には陽人さんが電話をしてくれた。

 この子をお腹の中に留めておくことはできない。私の体が血液を浄化しきれなくなってしまうから、お別れをしなければならない。
 
 あと1日、私がこの子にしてあげられることはなんだろう。手を当てて話しかけたり、絵本を読み聞かせたりした。

 もちろん、それが意味を持たないかもしれないことは分かっているの……。

 でも、まだ私のお腹の中にいてくれる……。

 最後の瞬間まで出来ること……。食事も忘れて私は声がかれるまで絵本を読み聞かせていた。



 手術室の中は、モニターの音と器具のカチャカチャという音だけ。部分麻酔もかけられている私の頭の中は思考が止まっていた。

 約1時間ほどでそれは終わった。

「どうぞ」

 病室のドアがノックされ、先生がスライドドアを開けて来てくれた。

「ありがとうございました」

 先生は私のことをご自分の娘のように優しく接してくれた。聞けば同年代のお嬢さんがいるそうだ。

「いい子でしたよ。お母さんの負担にならないところにいてくれました。きれいに出してあげることができましたよ。よろしければ面会されますか?」

「本当ですか?」

 思いがけなかった。この週数ではまだ体も小さくて柔らかいし、会うことも出来ないとインターネット上にあった体験報告も読んでいたから。

「結花……」

「お願いです。会わせてください!」

 心配そうな陽人さんに頷いて、私が自分でお願いした。先生は一度部屋を出て、小さなトレイを大切に抱えて持ってきてくれた。

 先生は時間をかけて、そっと取り出してくれたんだ。柔らかいガーゼの上、膜に包まれた羊水の中に、その子はいてくれた。ちゃんと手足もある。目も分かる。へその緒も。まだ不完全だけど、どんなに小さくても私の赤ちゃんだ。

「ごめんね。あなたを抱きたかった……。今はお空に帰ってしまうかもしれないけど、またいつか会おうね……」

 私はその子をトレイごと抱きしめた。

 原因の調査を行うか聞かれたけれど、せっかく綺麗な姿で私に会いに来てくれたんだもの。このままそっとお空と大地に帰そうと思って首を振った。

 先生と陽人さんも賛成してくれて、保冷の箱に丁寧に入れて退院する私に抱かせてくれた。

 陽人さんが車を運転して、先生が予約してくれていた火葬場に二人で向かう。

 この子ではお骨を残すこともできない。だから、せめてもと読み聞かせた絵本と、私たち夫婦の写真、お花をいっぱい小さな棺に一緒に入れた。

「ママが天国に行けたら、今度は一緒に遊ぼうね……」

 棺の蓋を閉じるように促されても、私は時間いっぱいまでその姿を目に焼き付けていた。




「結花、提案があるんだ」

「はい?」

 陽人さんが横に座って、私の手を握りながら目をのぞき込んできた。

「少し、ご両親のところで休んだ方がいいんじゃないかと思って、勝手だったけれど相談させてもらった。お義母さんも是非と言ってくれた」

「どうして? 私ここに居ちゃいけない……?」

 どうして……。いまこうやって座っているだけでも精一杯なのに。

 でも、頭の中でもう一人の私が囁く。今の自分では陽人さんに迷惑をかけるだけだと。

 それに、赤ちゃんを満足に産めない私に落胆してしまったのかもしれない……。

「俺は仕事もある。昼間に一人結花を家に残しておくのが心配でたまらない。それなら、結花も一番安心できるところで休んだ方がいいだろう」

「でも陽人さん、そのまま離ればなれにされちゃう? ひとりだったら自由だもん。私より健康でいい子たくさんいるよ……」

「結花っ!」

 ビクっとして言葉をとめた。陽人さんが手を振り上げている。

 初めて殴られると思って、目をぎゅっとつぶった。でも、いつまでもその時は来なかった。

 恐る恐る目を開けると、陽人さんが目の前で泣きながら拳を床にたたきつけていた。

「バカ、結花の大バカやろう! そんなことを考えるくらいなら、俺があの子の代わりになってた。結花と離れて暮らした半年だって、どれだけ辛かったか忘れたのか?」

 忘れるはずもない。入籍の半年前に、私たちが海を挟んだ時間を乗り越えたこと。

 寂しかったし、陽人さんの温もりを求めて何度も涙した。それでも、迎えに来てくれるという約束を(よりどころ)にして待ち続けた。

「本当なら、結花が元気になるまで離れずについていてやりたい。やれるものならとっくにやってる。結花がこのまま折れてしまうのを黙って見ているなんて俺には絶対に出来ない。だったら、結花を一度、この家と同じ、結花の全てを受け入れてくれる実家で休ませた方がいいと考えた」

「うん……」



 JFK空港の出発ロビー、私はいつまでも陽人さんの手を離せなかった。

「必ず迎えにいく。だから結花も安心して休むんだ。いいね?」

 指切りをして、私の涙をその指で拭うと、私の唇をそっと陽人さんの唇で塞いで嗚咽を飲み込んでくれた。

 日本までの機内、私は睡眠薬を使ってひたすら眠り続けていた。起きていることで、頭の中に渦巻く不安がまた私を泣かせてしまうと分かっていた。

 チェックインのとき、陽人さんがカウンターで事情を話してくれ事もあったのだと思う。

 搭乗ゲートからキャビンアテンダントさんがついてくれて、座席もありがたいことに機内後部の両隣に誰もいない静かな区画に移してくれた。

 成田空港の到着ロビーには小さなバック一つで降り立った。大きな荷物は無理だし、実家なので服はいくらでも工面できると言ってくれたらしい。

「結花……」

 両親の前に辿り着いたとき、もう我慢できなくなった。

 私はその腕の中に倒れ込んで声を上げた。

「おかぁさん……。ごめんなさい。わ……たし……、できなかった……」

「うん、頑張ったね。よく頑張ったのよ」

 車いすを借りてくれて、駐車場に向かう。

 後部座席の隣にお母さんが座って、お父さんの運転で久しぶりの実家。こんな形での里帰りになるなんて思ってもいなかった。

 その夜のことはあまり覚えていない。私はただ泣き続けて、お母さんはそんな私をずっと抱きしめていてくれた。




「結花、お散歩に行かない?」

 数日が経った晴れの日。お洗濯ものを干し終わったお母さんが私に声をかけてくれた。

「今日は暖かいから、厚手のコートはいらないね」

 私が昔着ていたワンピースに、ニットのカーディガンをあわせてくれて、同じように残してあった学校時代のローファーを用意してくれた。

「こんなに残して置いてくれたんだね」

「ばかね。ここは結花の家なんだから、いつ帰ってきてもいいの。そのくらいの準備はいつでもすぐできるから」

 私がみんなに送り出してもらってから、まだ2年ほど。何も変わらない。

 そう、変わってしまったのは私の方だ。

「毎日陽人さんからは連絡あるの?」

「うん」

 こちらに着いたと報告をしてから、陽人さんは毎日私に連絡をくれた。

 電話だったりメールだったり、いろいろ形は違うけれど、毎日欠かすことなく送ってくれる。

「結花、あなたはお母さんの自慢の娘よ」

 海沿いの公園。平日の午前中だから、他には誰もいなくて、潮騒の聞こえるベンチに二人で腰を下ろした。

「ううん。やっぱり、私は出来ない子なんだよ。これまでに運を使い切っちゃったんだよ。陽人さんにも本当に申し訳なかった。赤ちゃん欲しいなんて贅沢なこと言ったから、神様が怒ったんだよ……」

「そうかしら? 結花、あなたは頑張れたじゃない。妊娠すら厳しいかもって言われていたのに、できたじゃない?」

「えっ……」

 隣のお母さんを見上げる。お母さんの頬に光る筋があった。

「結花の体が弱いのはお母さんのせい。あなたをもっと元気な子に産んであげられればよかった。だから、あの当時の病気も、子どもを作れないのも、孫を抱けないのも、お母さんの責任だってずっと思っていた。それなのに、結花は電話をくれた。『赤ちゃんがおなかにいるよ』って。それだけでお母さん本当に嬉しかった。今は結花が無事に帰ってきてくれたことで十分。陽人さんにも何度もお礼したよ」

 お母さんの手が私の髪の毛を解してくれた。

「3ヶ月、ちゃんと母親を務めたんだもの。もう、立派なお母さんなのよ、結花は。大丈夫、結花には出来る。お母さん信じてる。お父さんも孫を抱くまで頑張るって言ってるんだから。でも焦らせるつもりはない。結花が自分で決めていいの。あなたの気持ちでいいんだから」

「私に……また……できるのかな……」

 お母さんは立ち上がって、私に手を差し出してくれた。

「結花には出来ないかもって、お母さんたちが諦めていたことを、あなたは何度も乗り越えてきたのよ。それに、あなたは天使ママになったの。誰よりも強い味方があなたにはついている。だから、出来る。お母さんは、結花の力を信じてる」

 天使ママ……。

 優しい響きの言葉だけど、この悲しみを経験したことがある人しか名乗ることができない。

 私はお母さんの手を取って立ち上がった。

「よし、立てたね。そう、結花は何度も立ち上がった。誰かの手を借りたっていいの。また歩ければ、それでいいのよ……」

 お母さんは私の手をいつまでも握ったままだった。




 お母さんと手を繋いで、久しぶりのユーフォリアに連れてきてもらった。

「いらっしゃい。うん、顔色よくなってきたね」

 菜都実さんは、私が仕事でお世話になっていた頃と同じ。

 きっと、事情も分かっていてくれている。なにも聞かず、そっと優しく話しかけてくれた。

「菜都実、二人分お願いね」

「うん。少し待ってて」

 メニューも見ずに、お母さんは注文をして、お店の中でも一番奥の席に座った。

「この席覚えてる?」

「うん、私ってあちこちで泣いてばっかり」

 もう2年半前になる。陽人さんとお付き合いができるようになって、喜んでいたのもつかの間。

 お仕事で離ればなれになってしまうことから、私は陽人さんに酷いことを言って飛び出した。結局、お母さんに誤解だと諭されたのはいいけれど、夜の街を陽人さんを探し回った。

 動けなくなっていたところを最後に菜都実さんに連れてこられたのがこの席。手足を怪我して、声も出なくなって、ボロボロの浴衣姿の私を陽人さんは抱きしめて許してくれた。

「結花は、一見遠回りをしているようにみえて、でも実は先回りして進んでいることも多いよね」

 確かに結婚や、その先の妊娠の経験など、あの高校生時代のクラスメイトに同じところまできた子がそうたくさんいるようには思えない。

「大学、行かなかったし。でも、それは私が決めたことだった……」

「そうね。あれは結花が自分で決めた。学業よりもあなたは自分が幸せになれる道を選んだ。そのことは、お母さんたち誰も間違っているなんて言わない」

 そこで菜都実さんがお料理を持ってきてくれた。

「ごめんね、ありがとう菜都実」

「いいって。結花ちゃん、いつもより少なめにしてあるから、足りなかったら言ってね」

 シチューのお皿に、オムライスを入れて、その上からビーフシチューをかけてくれている。よくお店のまかない料理で作ってもらったメニューだ。だから、オムライスの中は普通のチキンライスではなくて、バターライスになっている。きっと菜都実さんには「私の好物を」とお願いしてあったのだろう。

「懐かしいでしょ?」

「おいしいね……」

 会話を止めて、お料理を口に運んだ。

「よかった。食べてくれるようになった。やっぱりプロにはかなわないかぁ」

 お母さんが笑ってくれた。

 考えてみれば、あの日から食事も満足に食べていない気がする。昨日何を口にしたかも覚えていない。

「お母さん、心配かけてごめんなさい。また、頑張るよ。何度も泣いちゃうかもしれないけど……」

「そうね。恥ずかしいことじゃない。実家なのだからいくらでも泣いていいのよ」

 食事を終えて、ゆっくり歩いて帰る。

「結花、今日は無理に外に連れ出してごめんなさいね」

「大丈夫。ありがとう。陽人さんが言ったとおり。お母さんに甘えておいでって言われて」

 陽人さんが私に言ってくれたんだ。私が頑張りすぎたから、たまには甘えてゆっくりしておいでと。

「陽人さんがお詫びの連絡をくれてたのよ。一人で行かせて本当に申し訳ないと。でもお仕事をするのは結花を支えて二人で暮らしていくためなのだから。だから陽人さんを責めちゃダメ。結花を迎えに行くタイミングをずっと待っているんでしょう」

 そうなんだ。立ち上がるだけじゃなくて、前を向いて再び歩き出せるようになるのを待っていてくれる人がいる。

 それはとても幸せなことなんだよ。でも、今の私に、どうしたらそれができるのだろう……。




 お家に戻ると、お母さんは私に客間の座卓の席に待つように言った。

「結花、これからのことは、本当はあなたにお話しすることではないと思っていた。今回のことでお父さんと相談して、結花にもその資格があると思ったから話すことにしたわ」

 お母さんの横に、ブリキの四角い缶が置かれていた。

「前にも話したけれど、結花にはお兄ちゃんがいたことは覚えてる?」

「うん……、あっ……」

 そうだ。お母さんは私の前に経験している。お母さんも天使ママなんだ。

「そうね。あの当時そんな呼び方はまだ無かったけれどね。でも、その時の病院の看護師さんや、葬儀屋さんの皆さんにずいぶん助けてもらった」

 私の時と同じ。それまで順調だと思っていたのに、眠っているのかと思ったら、突然の非情な宣告を受けてしまったって。

 それが妊娠8か月にもなってしまうと、私と違って、「悲しいお産」をしなければならない。

「本当にあんなことはもうしたくないわ。でもね、結花と同じ。生まれてきてくれた男の子はまだ小さかったけれどすごく可愛かった。本当に眠っているようだったよ。看護師さんたちは、ちゃんと産湯につけてくれて、おくるみに包んでくれて抱かせてくれたよ」

 箱の中から取り出されたのは、その時の品物。足形や本当は取り付ける予定だった名前タグ。

結弦(ゆづる)って名前だったの?」

「そう。男の子だって早くから分かっていたからね。お父さんがつけたの」

 すぐ気が付く。私の名前はお兄ちゃんから一文字を受け継いでいること。

 名前まで決まっていたのに。お母さんたちは私以上に落ち込んだに違いない。

 菜都実さんから、私の名前はお母さんがつけてくれたと聞いていた。先に読みを『ゆか』と決めていたとしても、他に漢字はいくらでもある。

 そんなことがあったお兄ちゃんと同じ字を使うのは勇気がいる決断だと思う。その分も私の名前には思いが込められているんだ……。

 お兄ちゃんがいてくれたら、私の道も今とは全く違ったものだったに違いない。

 呼んでみたかった……。

「結弦お兄ちゃん……」

「結花……。だから、お葬式も全部名前をつけてやってもらえた。葬儀屋さんにも、お葬式まで三日あるって教えてもらえて。家族三人でお家に帰って、誕生祝いもしたし、あの当時は遠かった海に日帰り旅行も行ったし、折り紙でつくったお人形とかお友だちもたくさん用意できた……。ほんと、棺の中は結弦よりも、お友だちとか、三人で撮った写真とか、お花やお菓子とか、おみやげのほうが多かったくらい」

 薄い写真屋さんの簡易アルバム。そこに写っていたのは、本当に見た目には分からない。幸せそうな家族写真。病院で抱っこされて、お家や外でのスナップも。

 それでも、最後のページは、たくさんのおみやげに囲まれた中で眠っていた。

「最後まで、結弦は笑ってくれていた。お母さんもお父さんも、最後まで泣かなかった。あの子のおかげで頑張れた。結弦も頑張った。だからね、本当に少しだけどお骨も残ったの。だから、それはちゃんとお寺に持っていって、今もお墓で私たちを待っていてくれるのよ」

「すごい……。ねぇ、お母さん……」

 私はひとつのお願いを思いついた。

「私、お兄ちゃんに会ってもいいのかな?」

「結花……。ええ、結花のお兄さんだもの。喜んで会ってくれるわよ」

 その夜、私はニューヨークの陽人さんに急ぎのメールを飛ばした。