「佐伯、なんでもいい。知っていることを話してくれないか?」
こんなに力なく話す先生も初めてだ。
「昨日、放課後に結花とご両親が来ました。体がきついので、お休みではなく退学させて欲しいと言ってました」
そう。昨日の放課後にあったこと。応接室の前でそのやりとりを聞いてしまったあたしは、そこから動けなくなってしまった。
「誰かに虐められたとか、嫌がらせとかは言わなかったのか?」
「それはなかったです。先生だって知ってるでしょう? あの結花が誰かを責めたことありますか?」
一番近くで、結花を見ていたのは先生だもん。
いつの頃からか、結花が自分で言うようになった。自分を支えてくれるのはあたしと先生の二人だと。
「そうだよな。あいつは絶対に言わない。全部自分で抱え込んじまう。もっと言っていいんだといつも言ってきたのに」
そうだよ。それが結花の生き方だもん。それでも何とかここまで頑張ってきたのに。
「結花、誰もいない教室で窓の外を見ていました。ごめんなさいって一人で謝ってました」
最初、誰に対して謝っているのか分からなかった。
でも、それは本当なら先生を前に言おうとしていたのだと思う。でも、それが耐えられないから、わざと先生が出張で校内にいない日を選んで不測の事態を避けたのだと。
その時の姿はとても声を掛けられるものじゃなかった。だから、あたしが結花と言葉を交わしたのはそれよりもずっと後のことだ。
「そうか……。あいつらしい」
「中卒でもよければ愚痴りに来てって。ずっと一緒に高校まで入学できたのに、卒業できなくてごめんって……」
あたしはそこまで言って、もう止められなくなって、先生の胸をたたいた。
「結花、本当に寂しそうでした。先生、結花を見捨てないでください! あんなに優しくて頑張り屋は他にいません。結花の初恋、ほんの少しでもいいです。先生だけが結花を笑顔にできるんです!」
分かっていた。結花が淡い想いを覚えた。
先生というあたしたち学生には禁断の相手だったとしても、あたしの知る限り初めてのはず。失恋と退学という大きな傷をどう手当てしていけばいいんだろう。
「もちろん、そうしてやりたい。ただ……」
「ただ、何ですか?」
「原田が、俺の前に再び来てくれればの話だが……。こんな俺でもよければな……」
あたしは、同じように泣きそうになっている先生を見上げた。
自分の部屋に戻って結花にメールを入れたけど、返事は返ってこなかった。いろいろ調べてみたけれど、SNSや通信アプリのアカウントも削除されていた。
唯一の救いは電話番号やメールのアドレスが消えたり変更されていないこと。あたしからの着信も拒否されていない。今はここに賭けるしかなかった。
確かに、今年度に入っての4月の調子は決して良くはなかったと思う。
表向きは元気そうにして、授業にも出ていた。でも、通学時の顔色はどこか疲れ切っていた。
『大丈夫だよ。心配いらないよ』
「まったく、全然大丈夫じゃないじゃん」
もっと早く気づいて手を打てなかったか。さっきの小島先生と同じだ。先生の方がダメージはさらに深いだろう。1年間、結花を支え続けて、初めてあの子の気持ちを受け取ったこともある。
落ち着いた頃に好きなお菓子でも持って行ってあげよう。願わくば、それまで少なくとも無事でいてくれればいい。
あたしと結花の再出発の1日目はこんなスタートだった。
<高校3年・初夏>
1学期の期末試験も終わった土曜日、あたしは駅でその時間を待っていた。
「待たせてごめんね……」
後ろから聞こえた小さな声。でも聞き逃すなんて絶対にない。
「結花ぁっ!」
久しぶりに見た親友。心配していたほど大きく変わってはいなかった。
セーラー襟のついた、サックスカラーのワンピースに、細い麦藁の編み込みに白いサテンリボンを巻いてあるカンカン帽の下には懐かしい結花の髪が肩の下まで伸びていた。そう、長い後ろ髪で結花だと一目でわかったあの部分を再び伸ばし始めてくれている。
それが分かっただけでも、もう涙が出てきちゃいそう。
「心配かけてごめんね……」
「ううん。とにかく、ここじゃなくて行こうよ」
このまま何時間でも立ち話をしてしまいそうだ。それじゃ勿体ないし、誰かに見られてしまう可能性もある。
電車とバスを乗り継いで、結花もよく一人で来るという江ノ島にある水族館に到着した。
平日は幼稚園や小学生が遠足でよく訪れる施設でもあるけれど、今日は家族連れの姿が多い。
「私も久しぶりなんだよ」
「そうなんだ。もっと来ていたのかと思った」
「ううん」
意外にも水槽の前で首を横に振る。
「この3ヶ月ね、病院でいろんなリハビリした。体力をつけるものもあったし、精神的なものもあったよ。学校辞めた頃は、本当に外で人に会うのが恐くなっちゃってた……。そういう克服のリハビリもいっぱいやったよ」
そうか、表向きには体調が戻らないとしか説明がなかったけれど、その原因はやはりあの学年の環境にあったのは間違いなかったのだろう。
「ごめん。あたしからもっと早く話しかければよかった。どうしていいか分からなくて……」
「いいんだよ。ちぃちゃんがくれたメールをずっとロックしてあって。外に出られるようになったら最初に報告するって自分の目標にしてたんだ……」
「強いんだね……。あたしを守ってくれたあの時と変わらないね」
よかった。やっぱり完全には負けていなかったんだ。少しずつでも立ち上がってくれていた。
「どうするの? これからどこか転校でもするの?」
「ううん。高校は義務教育じゃないからね。私の学生時代はあそこでおしまい。この先はまだ決めてない……」
外に出て、イワトビペンギンのプールの手すりから中を見ている結花。その横顔にはまだ迷いも残っているように見えた。
「中卒だから、お仕事も探すの大変だと思う。でもその前にちゃんと社会復帰しなくちゃね」
「そんなに焦らなくても大丈夫だよ。もし、大変そうならうちの親にも聞いてみるし」
そうだよ、まだ完全復活じゃないんだ。しっかり傷を治してからでも構わない。
「うん。まずは夏休み中に、お母さんの知り合いのところで、お手伝いから始めてみることになったの」
「そっか。もう始めるんだ」
聞けば、市の施設で夏休みの子どもたちの宿題をみたり、一緒に遊んだりという内容だというから、仕事の第一歩としてはちょうどいいのかもしれない。
「9月からはまだ決まっていないんだけどね」
「大丈夫だよ。結花のこと分かってくれる人はいっぱいいる。だから、あたしは心配しない」
「もぉ、そんなに強くないよ私?」
「いや、どっちかといえば、心配なのは小島先生の方でね……」
「えっ? 先生に何かあったの?」
こちらを見て心配そうな顔をする。言うべきじゃなかったかもしれない。
「う、うん……」
でもダメだ。こんな顔で見つめられてはそのまま素通りなんてできない。
「小島先生ね、1学期で学校辞めるんだよ」
「そんな……!」
結花の顔が真っ青になる。
あたしも昨日知ったばかりだ。それも一般生徒はまだ知らない速報だから……。
小島先生が学校を辞めるという衝撃な話はまだ校内の生徒で知っているのはあたしだけのこと。
昨日の放課後、あの指導室で教材のプリントを整理しているとき、ぼそっと教えてくれたんだ。『俺は1学期で辞める』と。
「理由は何か言ってた?」
「ううん。でも、結花がいなくなってから、ずっと元気がなかったんだよね。今年は担任も持っていないし、それなら迷惑をかけることも少ないって」
「私のせいだ……。私が約束を守れなくて学校辞めたから、先生その責任感じて……」
ベンチに座り込んだ結花が顔を押さえてしまう。
「結花に会ったら言ってくれって。『先生が自分で決めたことだって。原田が責任を感じないようにって』 そのあとに、『でもあいつが知ったら無理だろうな』って笑ってた……」
あたしも分かっている。先生はそう言っているけれど、やっぱり結花が学校を辞めてからの様子を見ていると、影響がないとは思えなかった。
「大丈夫だよ。教え方うまい小島先生じゃん。すぐに再就職できるよ」
「うん、でも……。そうなったら、もう相談しに行けない……」
「そっか……、そういうことか……」
結花に言わせれば、学校を辞めたとしても、先生が残っていればいろいろ相談に乗ってもらうことも出来ると。確かにそのとおりだ。
「大丈夫だよ。結花のことをあんなに大切にしてくれた先生でしょ? ちゃんとまた会えるって。だから、それまでに結花が元気になって今度は堂々とお付き合いできるようになっていればいいんじゃない?」
「お付き合いって……」
動揺してしまう結花。でも、もういいと思う。二人の思いをお互いにぶつけ合っても許されるはずだから。
「だって、先生も結花も『教師と生徒』だったから、一生懸命に自粛してたんじゃない。それがなくなれば全然問題なくなるわけでしょ?」
結花が驚いたように顔を上げてあたしを見つめた。
「ちぃちゃん、スゴいこと考えるんだね」
「だって、結花も先生も、あたしからすれば両想いなんだもん」
「そうだったのかなぁ」
「そう『だった』じゃなくて、今でもそうなんだってば!」
目をぱちくりさせる結花、あたしはそのまま続ける。
「あたし、思ってたよ。結花が卒業したら、先生は間違いなく結花にアタックするって」
もうそれは、女の勘を越えたあたしの確信だった。
結花が気持ちを振り絞ったバレンタイン以来、小島先生の態度は明らかに変わったからだ。
それまでの、誤解されたら困るという理由で受け付けないのとは違う。
先生にとって大事な人がいる。その人を傷つけたくない。その人への気持ちを温めたいという理由に変わったからだ。
結花のすがってくるような表情に、あたしは先生と病院からの帰り道に「教職を選んだことを後悔している」発言を話した。
「先生は、今の関係じゃ結花に気持ちを言えないって分かっているからだよ。結花が学生でなくなったのだから、先生も教師じゃなくなって、条件を整えているようにしかあたしには見えない」
「ちぃちゃん……」
驚いている結花。それはあたしがこれまで積み重ねてきた情報を整理すると間違いないと断言できた。
それを確信したのは、ゴールデンウイークのあと元気がなくなった小島先生のことを、失恋したと勘違いした何人かの女子がアタックしたときの情報を掴んでからのこと。
「先生、これまでと違ってはっきり言ったそうよ。『間に合わないかもしれないけど、もうこれ以上傷つけたくないんだ』って。それからがもぉ大変。学校中が蜂の巣をつついたような大騒ぎ」
それまで交際相手が不在だったはずの小島先生に持ち上がった恋愛疑惑。相手は誰なんだということで当然持ちきりになる。
「私、先生に迷惑かけちゃったかもだね……」
「逆だよ。先生はちゃんと結花の気持ちに応えようとしているんだよ。だから、お互いに学校から関係がなくなれば、誰からも文句は言われなくなるから」
当然ながら小島先生の交際相手として筆頭として上がっていたのは結花だった。
入院中の病院に通っていたことはあたし以外にも何人かは知っていたはず。
先生の変化は結花が退学してから顕著になっていたから。ただでさえ身の回りの恋愛事情に敏感になっている年頃だ。あたしと和人との交際だって本当に隠し通すには大変だ。
小島先生が結花の退学の後を追うように学校を去る。少なからず悪い噂も立つとは思うけれど、二人の痛みを知っているあたしは知らないと通す決心をしている。
「結花?」
「うん?」
「結花が一生懸命に立ち上がってくれたこと、あたしは本当に嬉しい。本当に安心したよ。先生もそう決心したんだよ。一回リセットするんだよ。だから、次に出会えたときに、ちゃんと気持ちを伝えられるように準備を始めていいんだよ」
「また、会えるかな……?」
「結花と先生が、そういう運命の糸に繋がれているなら絶対に会える。もし、そうでなかったとしても、結花はもう3ヶ月前より魅力的な子になってる。このまま想い続ければ素敵な結果が待ってるから」
「そう……だといいな……」
正直、この時のあたしに結花が先生以外の男性と交際しているシーンは思いつかなかった。
この子を支えるには同級生じゃ無理だ。結花の笑顔だけでなく心の傷まで全てを包みこめて癒していくには大きな包容力が必要だから。少なくとも年上、そしてお互いが惹かれ合っていなくてはならない。
「今日のこと、先生に話しておいた方がいい?」
「ううん。先生も大変なんだもん。私のことで心配させることはできないよ」
その日、結花とはいろいろなことを話した。あたしと和人との交際のこと。この先の進路のこと。
結花は昔と変わらずに、うなずきながら聞いてくれた。
初めて会ったときから、結花は自分の意見を押しつけないと前に言ったとおり。
あたしが自分で話し込んでいるうちに、ふっと自分で答えが見えてくる。そして、最後にそっと背中を押してくれる。
こんなことができる人は結花しか会ったことがない。
これまでそんな親友に何度も勇気づけてもらった。今度はあたしが恩返しをする番だと思っているんだ。
「ねぇ結花、夕ご飯どうする?」
「うん? 決まってない。食べていくなら連絡すればいいだけだよ」
夕方、地元の駅から海岸沿いを歩く。時計は5時を指していたけれど、一番日が長い今どきはまだ十分に明るい。
「久しぶりだし、一緒に食べていこうか?」
「うん、いいよ」
帰り道の途中にあるユーフォリアというカフェレストラン。
こぢんまりとしているけれど、アットホームで、放課後にスイーツを食べに何度かお世話になっていたこともある。
「はい、いらっしゃいませ」
メニューを持ってきてくれるのは、このお店の奥さん。あたしたちの両親とほぼ同い年だと思う。だから、自然になんとなくホッとしてしまう。
「ミートドリアをお願いします」
「じゃあ、あたしはカルボナーラにしよぉ。あと、取り分けでミックスピザを追加で」
「はい。少し待っててね」
昼間は来たこともあったけれど、夜の時間は初めてだったかもしれない。ガラッと雰囲気も変わって大人っぽくなるんだね。
この時間になると、高校生二人ってのはなかなか珍しい部類になってしまうのかも。
「本当に、今日はありがとうね」
沈んでいく夕陽に照らされた結花。
3か月前の、あの誰もいない夕方の教室で見た時は、やつれきった顔に声をかけることができなかった。
でも、今は違う。元気いっぱいの頃とはまだ違うけれど、悩みながらも一生懸命に立ち上がって再び歩き出そうと力をつける練習をしているように見えていたから。
「結花、もうあたしのために自分を犠牲になんかしないでね。結花も幸せになっていいんだからさ」
「うん……?」
あの小学生時代の決心からずいぶん時間も経つ。いつも一緒にきたけれど、結局は結花にいつも助けられていた。
辛い病気になって、それだけでも十分すぎるのに、それがうつるなんて嘘を流されたときも、誰を責めることもしなかった。
体をゆっくり十分に治すことも出来ず、それなのに最後にはあたしをその話題から守るために二人の間を離そうとさえしてくれた。
小島先生のことだって、もっと素直に甘えてもよかったはずなんだ。それでも先生に迷惑がかかるといつもじっと我慢していたんだから。
もう、いいんだと思う。好きなように結花が幸せになれる道を歩いていいんだよ。
「はい、お待たせ」
テーブルの上には、出来たての料理が並ぶ。
「あと、これはサービスね」
「えっ?」
特に飲み物は頼んでいなかったのに、クリームソーダが二つ置かれていた。
「友達と外出できるぐらい元気になったんだね。そのお祝い」
結花が見上げると、奥さんはにっこり笑って戻っていった。
「結花、ここって常連?」
「昔からお母さんのお友だちなんだって。きっと、いろんな人に迷惑をかけていたんだよ……」
「大丈夫。迷惑だったらこんなおまけしてくれないって」
あたしだけじゃない。結花が立ち直ることを待っている人がいっぱいいるんだ。しかも、それは頼りになりそうな大人がチームを組んで支えてくれているのだと分かる。
「ごちそうさまでした」
「結花ちゃん、いつでもおいで。今日の食事代は快気祝いだからね。お友達ももちろんOKよ?」
「そんな……。ありがとう……ございます……」
二人でお礼を言ってお店を出た。
「ちぃちゃんも、私と同じ失敗しちゃダメだからね」
最後にそうあたしに優しく言ってくれた結花は懐かしい笑顔だった。
<今回は和人と二人で>
土曜日の夜、あたしと和人は実家の地元の駅にやってきていた。
和人は予定どおりに朝から図書館に出かけていたし、あたしも児童センターでのアルバイトを夕方5時までで終わらせて、途中の駅で待ち合わせた。
仕事は児童センターの遊具の管理や図書スペースで小さい子への読み聞かせも担当する。
センター自体が夜8時まで開いているので、両親が共働きの利用者で学童がない日などは、比較的閉館時間まで忙しい。
決して時給は高くないけれど、市の施設ということもあり、求人倍率は高かった。
大学1年生の頃から、平日も授業が終わって、和人との時間がそろわない日に担当させてもらっている。
家庭の主婦が多いこのサポートスタッフのメンバー。家に帰らなくてはならず人数が減るうえ、忙しくなる夕方5時からの時間を担当させてもらっていたので、3年生の今となってはずいぶん融通を効かせてもらっている。
今日は、週末だから早く上がっても他の人がカバーしてくれることになって、バスと電車を乗り継いだ。
「まだ寒いから、エアコン効いているセンターに集まっちゃうんだよねぇ」
「図書館だって半分は暖房で寝てるんだから困ったもんだ」
高校生まではよく使っていた地元の駅の改札を抜けて、歩きなれた道を海岸線に向けて進んだ。
「まさか、お店休みじゃないよな?」
「うん、午後電話しておいたよ。時間外でも開けるからいらっしゃいって返事だった」
「そんならいいや」
少し急ぎ足で夕方の道をそのお店に着いた。
「こんばんはー」
「いらっしゃい! あ、千佳ちゃんと和人君ね。待ってたよ」
結花と来ていたユーフォリアは、今ではあたしと和人が常連のように使わせてもらうようになった。
ご主人の秋田保紀さんと、奧さんの菜都実さんのお二人で切り盛りしている。
昔は高校生のお客でしかなかったのに、結花と来るようになってから変わった。
そもそも、菜都実さんが結花のお母さんの友達だと言うこと。そしてもっと大事なことは、結花が3年前までこのお店でリハビリを兼ねたアルバイトをしていたということ。
高校を辞めた結花と、彼女の行方を追っていた小島先生が再び出会って、最後には婚姻届に名前を入れて、夫婦としての道を歩き出した場所でもある。
結花にもあたしにもこの空間はものすごく大事なものだ。
もっと言えば、今の姿に改装される前の先代の時でも、恋愛成就の伝説が残るお店だから。
その原因はこの菜都実さんたちに関係していたものだと言うけれど。
「菜都実さん、昨日結花にメールをもらったんです」
「へぇ、結花ちゃんから? 元気だって?」
注文を厨房に伝えて、菜都実さんがカトラリーを持ってきてくれたときに、今日の本題を伝えた。
「今度の春休みに、先生と二人で帰ってくるって話でした」
菜都実さんの手が止まった。
「そっか。それで佳織あんなに機嫌良かったんだ」
佳織さんというのは結花のお母さんの名前。菜都実さんとは中学生時代からの付き合いだというし、今のあたしたちと同じ年齢の頃には、一緒に先代のお店で働いていたという。
「今回は一時帰国なのかしら?」
「雰囲気的に完全に帰ってくるみたいな感じです。もう心配させなくて済むと書いてありましたし」
あの授業中に届いた報告の後、結花と何度かメッセージを交換していたけれど、時期は未定ながら、最終的には二人とも帰ってくるという方向ではあるようだ。
一緒になるか、結花が少し先に帰ってくるかというレベルらしい。
「そっか、二人とも帰ってくるんじゃ、どこかで部屋を借りるのかしらね」
きっとそういうことだろう。まだ日程が確定できないというのは、そういったことが決まっていないからだと思われた。
「その辺も聞いてみますよ」
「その辺は佳織に探りを入れればいいか。本当に、結花ちゃんも小島先生も頑張ったんだから、次は千佳ちゃんたちの番ね」
菜都実さんは、お料理を持ってきてくれながら、あたしと和人を見て頷いた。
「え、そうなんですか、やっぱり?」
「当たり前じゃない。千佳ちゃんも結花ちゃんも、和人くんもあたしたちの大事な子どもたち。ちゃんと見届けるのがオバサンになったあたしたちの役目というか楽しみだなぁ」
菜都実さんは豪快に笑った。
「ねぇ和人……?」
「うん?」
いつもどおりに食事を終えて、お店を後にしたのは、夜8時を回っていた。
この時間は結花が仕事をしていたときに、いつも先生が夕飯を食べ終えて、二人が一緒に帰っていた時間と教わってからの名残でもある。
特にユーフォリアに限らず、学校の他の集まりなどでも、あたしは二次会などは遠慮させてもらう。大体この時間で切り上げてプライベートな時間にさせてもらうことが多い。
大学生にもなるともっと遅くまではしゃいでしまう同期もいる。それはそれで楽しいという人もいる。あたしはそういった目的のない時間の浪費は苦手なタイプだから。バスの時間がなくなってしまうとかの理由を付けて上がってしまう。
人付き合いが悪いと陰口を叩かれることもあるけれど、大体はあたしに和人という相手がいることを知っているから、なにも言わずにいてくれる。
それだって例外はある。
高校生の時は、定期試験明けは結花……、そう、結花の部屋にお邪魔して一晩中、テーマのないお喋りが途切れなかったこともあった。
やっぱり、あたしにも彼女が特別なんだ……。
海岸線をゆっくり駅の方に歩いていく。もうすぐ2月だというのに、今夜は風もなくて体感温度は暖かく感じられた。
「次は、あたしたちだって……」
「そう言ってたね」
和人はあたしの手をそっと握った。
「なんか、初めて付き合った時みたいね。思い出さない?」
「もちろん忘れないさ……」
あたしは手に力を入れて、その温もりを逃がさないようにした。
「もう、5年も、こんなあたしと一緒にいてくれた。それだけで嬉しい……」
「俺も、千佳には昔からいろいろ世話になってるしな」
「うん……。でも、あたしは高3のときに手もつけられないほど荒れたし。離れていった人がたくさんいることも知ってた。親御さんからつき合うのをやめるように言われた子がいたことも分かってたよ」
「俺も最初は驚いたけど、あの話を聞けば理解はできるよ。その後でちゃんと元に戻ったじゃないか。誰だっていつも平坦ってわけじゃない。それこそ感情をずっと隠していて、いつか爆発する方が俺は嫌だったな」
いつだったか、和人は中学生時代に「告白されて交際を始めたけれど、理由も言われずに別れを突きつけられた」という経験を話してくれた。
お互いに我慢しているところが多いほど、その歪みが大きくなって、いつか一線を超えてしまう。
それなら、あたしの一番惨めな姿を曝した時期に一緒にいてくれた和人以外の相手はあたしには考えられない。
「ありがとう……。いろいろ無茶を言ったり、苦労させちゃったよね。ごめんなさい」
「そんな事で謝るなよ。もう過ぎた話じゃんか?」
駅に着いて電車に乗る。土曜日の夜ということで、やっぱりお酒の入った人も多いみたいだ。
「千佳、こっちに」
和人があたしの腕を引いて、ドア横のすき間に入れた。そして、あたしの前に立って落ち着かせてくれた。
「ありがとう……。いつまでも……、ごめんね……」
「千佳が謝る必要ないんだ。あんな経験しているんだから」
「うん、ありがと……」
和人の胸に寄りかかって、あたしは涙を隠すために目を閉じた。
<夜の事件とあたしのはじまり>
あれは高校1年で夏休みが終わったばかりのころだったと思う。
あたしは一人、都内の親戚の家から戻る途中のことだった。
その日は金曜日の夜で、あたしは座れていたけれど、車内は比較的混雑していた。
横浜を過ぎて、だんだんとお客さんの数が少なくなってきたときだ。
座席に座っていたあたしの左足に触れる感触に気づいた。
最初は偶然か無意識のものだと思っていた。
でも偶然だとしたら、指の腹があたしの方を向いているのはおかしい。それにだんだんと太ももから膝の方に動いている。
たまの外出だからと、ミニスカートにしたのが失敗だったか。
隣の人物は酒臭い息をしながら、何食わぬ顔であたしの左足に右手をかけている。
痴漢だ……。でもこういうとき、どうすればいいんだろう。
声を上げろとはよく言われている。そのとき誰も助けてくれなかったら、もっと恐い……。こんなときに結花がいてくれれば、いくらでも反撃するのに。
男の手があたしのスカートの中に入ってきた。ゆっくりと手前に戻ってきている。
もうすぐ下着に手がかけられちゃう……。
怖くて、情けなくて、涙がこぼれたときだった。
「おぃおっさん、俺の彼女に痴漢してんなよ!」
目の前の頭の上から声がした。
車内の目が一斉に集まる中、彼はあたしの足からその手を掴み上げてくれた。
それが斉藤和人君だった。
あまりクラスの中でも普段目立つことはない。委員会も落ち着いている雰囲気のとおりで図書委員だったはず。
そんな彼が見たこともないほど怒りを露わにしていた。
「ちぃちゃん大丈夫?」
「結花……ぁ」
驚いたことに、あたしの隣には結花がいてくれた。
「お、お前たち何を言って……」
「残念だけどな、バッチリ証拠は押さえさせてもらった。警察行こうぜ」
斉藤君は掴んだ手を離さなかったし、結花も現場を押さえた写真をスマートフォンで撮影していた。
男は何とかその手を振り切ろうとしていたけれど、あとで斉藤君が合気道の経験者だと知ることになる。
まだ斉藤君が本気を出していないだけだ。暴れても自分が痛いだけだろう。
到着した駅で駅員さんに申告すると、すぐにお巡りさんも来てくれた。
電車に乗ったときからの状況を聞かれて、そこに結花が撮影した証拠の画像を提出する。
あとはお巡りさんの仕事だった。証拠写真まで撮られてしまっては、逃げることも出来ないと。
あたしがお巡りさんに教わりながら被害届を書くと、あとで連絡すると、あたしたち三人の連絡先を聞かれて、その場は解放された。
「二人ともありがとう……。助かったよ」
「間に合ってよかったぁ。ごめんね。もう少し早く気づけばよかったよ」
申し訳なさそうな結花。
違う、ちゃんと助けてくれたもん。まさか、自分がこんな被害に遭うなんて思ってもいなかったけれど、本当に助けてもらったことに何度もお礼を言った。
「私たちも偶然だったから」
二人が乗り合わせてくれたのは、予備校帰りの斉藤君と、買い物帰りの結花が、地元の一番階段に近い車両に乗ってくれていた偶然のおかげだった。
「じゃぁ斉藤君、ちぃちゃんをお願いするね」
途中まで三人で歩いて、結花が先に別れる。
あたしは彼と二人で歩みを進めた。
「本当に、今日はありがとう。凄く嬉しかったよ」
「佐伯も無防備なんだから。気をつけろよ?」
「うん、ホントだよ。あたしなんかモテないのになぁ……」
斉藤君が足を止める。すべり台とブランコだけの小さな児童広場のベンチに腰を下ろした。
「佐伯って、誰とも付き合ってないの?」
「うん……。ずっと誰もいない。クラスに可愛い子たくさんいるし。あたしなんか見向きもされない。本当はさっきの結花だって凄く可愛いんだよ? あたしは高校時代は諦めてる感じ」
斉藤君が緊張してつばを飲みこんだのが分かった。
「さっき、電車の中で俺の彼女って言ってくれたとこ、本当に格好良かったよ。セリフだったとしても嬉しかった」
そこで、あれは冗談だと笑ってくれると思った。
でも……。
「佐伯、あのセリフ、本当にしてもいいかな?」
「えっ……?」
斉藤君の顔がうす暗い中でも分かるくらいに赤くなっている。
「佐伯さえよかったら、彼女として付き合ってくれないか?!」
「え? あたしでいいの……?」
思わず、右手の人差し指で自分の顔を指してしまう。
「ずっと見てたんだけど、佐伯にはもう誰かいるのか聞けなくて……」
「ううん。本当に誰もいない。でも、本当に……?」
信じられなかった。中学でも声をかけてくるのは後輩の女の子ばかりだったし、高校に入って1年目の今はそれすらもない。それはそれで構わないかとも思っていた。
「もし佐伯が迷惑だったら、この話はなかったことにしてもいい」
「もしあたしが迷惑だと言ったとして、斉藤君はそれで納得できるの?」
「い、いや……。たぶん難しいかもしれないけど……」
俯いてしまった彼の前に立った。
「変なこと言ってごめんなさい。あのね……、嬉しい……」
変だな。涙がつぅと頬を流れた。
「佐伯……」
「いいよ……。あたしでよかったら、斉藤君の彼女にしてくれる? もし付き合ってみて、無理そうだったら言って?」
「絶対に無理なんて言わない。俺が佐伯を好きなんだから」
「うん……、ありがとう……」
学校では二人の関係は秘密だった。斉藤君はそもそもあまりそういう話題に以前から加わらなかったし、周りに騒がれてあたしが困ることも無いように黙っていてくれた。
だから、教室の中でもこれまでと変わらない。ごく普通のクラスメイトとして接していた。
ただ、一人を除いて……。
「結花、帰るよ?」
「ごめんちぃちゃん、ちょっと用事出来ちゃって」
「えっ?」
結花は笑うと、誰にも聞こえないようにあたしに耳打ちした。
「斉藤君が図書室で待ってるよ」
「結花……」
自分でも顔が赤くなってしまうのが分かる。
「誰か他に知ってるの? あたしたちのこと……」
「ううん。待ってるなんて斉藤君も言ってないよ。でも、私たち長い付き合いだよぉ?」
結花に肩をぽんぽん叩かれて、あたしはカバンを持った。
「結花、あとでお礼するから」
「そんなのいいから、頑張って」
図書室の扉を開けると、彼が驚いた顔していた。
『校門のところで待ってるね』
カウンターにあった申請用紙にメモを書いて渡すと、彼も頷いてくれて、あたしは一足先に校舎を出た。
「結花!」
一人で歩いていた親友を見つけて声をかける。
「ちぃちゃん、いいの?」
「門のところで待ち合わせ」
「そっか」
二人で正門のところに立っていても、結花と二人だから好奇の目もない。逆にそれがありがたかった。
「佐伯お疲れ。原田も一緒だったの?」
そこに彼が走ってくる。結花を見て一瞬迷ったみたいだけど、そこはまだ他の目がある場所だから流してくれた。
「もぉ、結花はどうして分かったの?」
三人で帰りながら、あたしは結花にぶつけてみる。
「えー? だって斉藤君、私にちぃちゃんのこといろいろ聞いてくるんだもん。私だってそこまで鈍くないよ」
「なんだぁ」
それなら、感性の鋭い結花のことだ。すぐに察してしまっただろう。
彼女もあたしたちのことは誰にも口外しないことを約束してくれた。
この三人の約束は本当に高校を卒業するまでクラスメイトはもちろん、それぞれの親も知らなかったほどだったんだ。