どこにも行くあてが無くなってしまったから、指示されていたように結花の部屋に行く。
ドアにカードを差し込んでロックが解除されたのを確認して、先生たちはこんな便利な物を持っているんだと妙に感心してしまった。
確かに2年2組の女子生徒は奇数。だから結花が最初から一人部屋を望んだのだろう。
相変わらずの手際のよさだ。明日の日程で着る服がもうセットしてある。デニムの膝丈スカートに開襟の白ブラウス。レースのソックスにネイビー色の布スニーカー。日差し除けに桜色の薄手パーカー。
あの小学生の頃から大きく変わっていない。当時は年上に見えたけれど、今は実際より年下に見えるかもしれない。
テーブルの上には日焼け止めと化粧水だけが用意されている。
結花はこの歳でもほとんどメイクをしない。
前にそんな話になって、肌が弱くて化粧品を塗るとあとで苦労してしまうと言っていたっけ。
今はそういう敏感肌用の製品もあるし、実のところ何だかんだ言ってもコスメの一式は持っているのも知っている。
きっと理由があってしていないのだろうけど、化粧水で整えてリップ1本と日焼け止めで終わりというのは、ある意味羨ましい。
「佐伯、戻ってるか?」
ドアのノックと先生の声があって、あたしが扉を開けると、右腕を先生の肩に回された結花がいた。二人とも雨に打たれて全身びしょびしょだ。
「どこにいたんですが?」
バスルームからタオルを持ってきて二人を拭き上げていく。
「海岸に座ってた。茂みでなくてよかったよ。こういう場所ではあるけれど、沖縄はハブがいるからな」
濡れてもいいように、浴室から椅子を持ってきて座らせた。
「結花、大丈夫?」
「ちぃちゃん……ごめんね……」
「いいの、あたしは全然。こういうのも慣れてるし。先生、結花をお風呂に入れて着替えさせます。あたしの部屋の子に戻りが遅くなると伝えてもらえますか?」
このまま濡れた制服姿じゃ風邪をひいてしまう。
「分かった。佐伯、悪いが頼んでいいか?」
「任せてください」
借りていたカードキーを先生に返して見送ると、扉のロックをかける。
「結花、お風呂に入ろう?」
まだ少しうつむき加減の結花に声をかけながら、濡れた制服を脱がせていく。
この強い雨の中、上から靴の中までずぶ濡れだ。
これはあとで軽く濯いで脱水しなきゃダメだな。シンクに濡れた服と、クローゼットから取り出したパイル生地のバスローブを仮り置きして、あたしもとりあえず服を脱ぎ捨てて、結花を抱っこしてバスルームに連れて行く。
バスタブにお湯を張る間、熱めのシャワーで結花を温めることにした。
「ちぃちゃん、ごめん……私……」
「いいじゃん、結花と一緒にお風呂に入るの久しぶりだね」
たっぷりボディソープを泡立てて結花の体を洗っていく。皮膚が弱いというのは本当なんだろうな。あたしに比べて本当に白い。
前側は結花に声をかけて自分で洗ってもらった。その代わりに長い髪にシャンプーをつけて解していく。
「結花はこんな綺麗な髪でいいなぁ。あたしがやったらボサボサだよ」
「なかなか切る時間なくて……」
「そっか」
でもあたしも女の端くれだ。毛先はちゃんと枝毛もなくカットしてあるし、前髪もサイドもきちんと手入れされているのくらい分かる。しかも、そろえた部分を見れば、ここ数日以内に美容院に行っているはず。
『もしかして、結花が恋をした?』
学校行事としての修学旅行を結花が楽しみにしているわけではないことを小・中学と一緒に過ごしてきたあたしは知っている。
こういう団体行動の時には学級委員の結花は仕事が増えるからだ。
さっきのように気を抜いて楽しむことも許されない状況では、旅行会社の社員ではないのだから楽しめるという状況じゃない。
それでも、切るほどでもなかった結花が美容院に行ったとなると、特別な日と認識していたことになる。
『誰だ……』
馴染ませたコンディショナーを流して、タオルで巻いてあげる。
なんだかんだと一緒にプールにも行くし、お互いの家でお泊まりをしたこともあるから、結花の洗う順番も分かっている。
バスタブに二人で向かい合って座り、ようやく結花の顔色が戻ってきたのを見てホッとした。
「よかった。顔色が戻ってきたみたい。寒くない?」
「ありがとうね。私、情けないなぁ……」
いくら暖かい季節だと言っても、あれだけの雨に濡れれば冷えちゃうのは当然だよ。
「あんなの相手にしてたら疲れるよ。仕事しに来ているみたいだもん。明日はゆっくり出来るんでしょ?」
明日の自由行動は、時間の管理も各々に任されるから、もし誰かが遅刻をしたとしても結花の責任とはならない。それはちゃんと修学旅行のしおりにも書かれている。
「うん、終日自由だからね。一人で水族館行ってくるよ」
「そっか。ごめんね一緒に行けなくて」
「ううん。クラス違うし、さっきのこともあるから、私はひとりの方がいいと思う。ちぃちゃん、私のことは気にしなくていいよ。彼氏さんに悪いから」
「へっ!?」
もう、この場面でそれを言う? 心配しなきゃならないのは結花の方なのに。
あたしに交際相手がいることはクラスの誰も知らない、結花だけには話したけれど、この親友は状況を察して誰にも口外しないでいてくれている。
「ずっと私のこと気にしてくれてありがとうね。私は大丈夫。ちぃちゃんが幸せになっていくなら、私はそれを見送っているから」
「まったく、そんなこと言って、強くなったのかと思ったけれど、結花だって好きな人が出来たんでしょ?」
「えっ? 私は……、でも……ただ……」
顔を真っ赤にして慌てる結花は、妹のように接しているあたしから見ても可愛かった。
「うぅ……、でも、好きってどういうことなのか分からない。きっと、私のこと見てくれる人なんていないよ。高校になっても初恋まだなんて知ったら、みんな引いちゃうもん。でも、どうしたら好きになったっていうのかな、恋ってどうすれば出来るのかな……」
「結花……」
顔が赤いのは恥ずかしいのか、熱いお湯で少しのぼせてきてしまったせいなのか。
急いでお風呂を切り上げて、エアコンを効かせた部屋のベッドに寝かせ、濡れタオルを額に乗せてあげた。
「ありがとうちぃちゃん……。迷惑ばっかりかけちゃってるよ……。こんな私、愛想尽かされちゃって当たり前だったんだよね……」
寝やすいように薄暗くした部屋、あたしは結花の制服を濯いでいた。確かランドリーがあったから、そこで脱水をかければ大丈夫だろう。
「中学生の時にね、何回か男の子に声をかけて貰ったことがあったよ……。でも私ね、喜んで貰うことが出来なかった。みんな離れていっちゃった。女の子たちの恋の話も分からなくて……」
「結花、今のあんたはちゃんと恋してる。誰のことだかあたしには分からないけど、その人と一緒にいたいって思うんだったら、立派な恋だよ。進め方なんて教科書は無いから。結花のその気持ち、大事にすることから始めればいいんだよ」
「うん……」
気持ちも体力も疲れていたのだろう。結花はとろんとした目であたしを見上げていた。
「結花、制服はあたしの部屋で乾かしておくから、明日の夜届けに来るよ。明日は私服の楽しみの日なんだから、ゆっくりしておいでよ」
明日は誰からも制約を受けることが無い。結花が提出していた計画は、水族館で終日を過ごすと書いてあった。
「ありがとう……、お姉ちゃんみたいだぁ……」
「あたしも結花みたいな妹がいたら、もう少しマシな女の子になれたかな?」
答えが無くて、すでに結花は寝息になっていた。
彼女の額に乗せた濡れタオルをもう一度交換して、そっとドアを閉めた。
結花の部屋のドアをそっと閉め、濡れた制服を持って地下のコインランドリー室に向かった。
「先生! 寒くはないですか?」
さっきと服は違っている。先生もあれだけ濡れていたから着替えたのだろう。
「佐伯か。原田はもう落ち着いたか?」
小島先生が、ランドリー前のソファに座っている。
でも、あたしが声をかけるまで、心はここにあらずというくらい。普段の先生の顔とは別人のように見えた。
あたしが先生に事を報告したとき、生徒の前ではどんなときも取り乱すことのない小島先生が、結花の名前を出したとたん、顔を真っ青に変えて雨の中に飛び出していったこと。
今だって、シャワーを浴びた後だと思うけれど、髪の毛も乾かし切っていなくて、髪型も乱れたままだ。先生もこの場所と時間なら他の生徒に見られることはないと思っていたのか……。いや、多分そうじゃない。
「はい。もう寝ています。砂で制服が汚れてしまっていたので、洗って脱水機をかけに来ました」
「そうか、さっきは悪かったな。さすがに自分が女子を着替えさせるわけにはいかなくてな。風呂に入れるならなおさらだろ……?」
あたしが脱水機に制服をセットすると、先生がジュースを自販機で買って渡してくれた。
「今日のお礼だ」
「先生に買収されちゃいました」
「まったく……。そうだな、原田のプライベートは表向き佐伯に頼むしかない。担任なのにあいつの力になってやれない……。せっかくの修学旅行で、他の生徒は旅行気分にも関わらず、あいつだけは朝から働きっぱなしだ……」
「先生……」
「あんなに真面目で素直なのにな。職員室でも原田の評判は決して悪くないんだ。ただ……、人付き合いが苦手なんだよな。それだけで……、貧乏くじばかり引かされて……。なんとかしてやりたいのに……」
結花のことが職員室では評価されていてよかった。同時に、親友のことをこんなに悩んでくれた先生はこれまでの学生生活を通じて見たことがない。
「先生?」
「なんだ?」
あたしは、思い切って一つの質問をすることにした。これはあたしにしか出来ない結花に関する質問だから。
「先生は、結花の笑った顔を知ってますか? もうひとつ、泣いたところもです」
いきなり聞かれたら変な質問かも知れない。でも、あの子は完全に心を許さないとこの両方を見せることはしない。
特に泣き顔はどんなに悲しくても、外ではぐっと我慢する子だから、他人のいる前ではまず涙を見せることはしない。
「原田の顔か……。教師としては問題発言だろうが、あいつ笑うと可愛いよな。普段からメイクをしてないから余計に幼く見える。反対は、さっき俺にしがみついて大泣きしていた……。佐伯にみっともないところを見せてしまったと。よほど悔しかったんだろうな……」
「先生……」
「どうした……?」
あたしは、一つの答えを出しつつあった。
「結花のこと、そこまで見てくれた先生は初めてです。結花も先生のこと、それだけ信頼してるんです。笑った顔と泣き顔の両方を知っている男の人、他にあたしは知りません」
「そうなのか?」
「先生、いろいろ迷惑をかけてすみません。あたしも気を付けますけど、不器用な親友をお願いします」
「なんだか、原田の身内から頼まれているみたいだな。分かった。今日の埋め合わせは俺に任せておけ。明日は早いから佐伯も早く寝ろよ?」
「はい、帰ってすぐに寝ます」
先生に見送られて、あたしは自分の部屋に戻るためのエレベーターに乗った。
『結花、あんたはちゃんと両想いの恋してるじゃない』
その予感は翌日に確信に変わることになった。
翌朝、結花は食事の時間に姿を見せなかった。
「小島先生、原田さんは?」
あたしは一人で食事をしていた小島先生に小声で聞いてみた。
「少し熱っぽいそうだ。それに、カードキーが開かなくなっちまったらしい。どっちも昨日の雨で濡れたせいだろう。ドアは俺が頼むし、体調は少し様子をみる。確か原田はもともと1日単独行動だ。誰にも迷惑はかけん」
先生が2組の生徒に今日の注意事項を伝えて、解散させた。
「先生……」
「佐伯、おまえも行け。バスに間に合わなくなるし、他の奴の足を引っ張るな。原田のことは俺に任せろ」
「お願いします」
「佐伯、せっかくの沖縄だ。楽しんでこい。原田は任せろ」
先生はあたしの肩を叩いてロビーを送り出してくれた。
その日の夕方、あたしは乾いた制服を届けに結花の部屋に向かった。
「結花、いる?」
「うん」
外は涼しい風が吹いていて、全開にした窓のそばの椅子に座っていた。
意外だったのは、昨日の夜に用意してあった服に着替えていたこと。1日部屋の中で寝ていたなら、パジャマやジャージでもよかったはずなのに。
「体調、大丈夫?」
「心配かけてごめんね。もう大丈夫だよ」
夕食の時に誰に聞いても、どこのバスも結花は乗っていなかったらしい。
せっかく楽しみにしていた1日をホテルの中で過ごすことになってしまったのか。
「どこも行けなかったね……」
「……ちぃちゃん。誰にも話さないでいてくれる?」
「分かった。約束するよ」
結花の話を聞いて、確かにこれは誰にも話せないほどの大事件だ。
小島先生は起床の時間に結花の部屋に内線電話をしていたんだ。微熱があるというのはその場のお芝居だったと。
みんなが出発した後、結花に朝食を食べさせている間にカードキーを交換して、先生が車を運転して結花が楽しみにしていた水族館に連れていってくれたというじゃない!
「みんなが帰る時間までに戻る条件付きだったけどね」
それなら、外出用に着替えていたことにも納得がいく。
「誰かに見つからなかった?」
「バスの時間も関係ないし、見つかっても先生が一緒だからね」
凄い。昨日の様子で分かったのは、小島先生が本気で結花のことを気にかけてくれている。
結花も涙を見せることが出来る相手だということ。
そして、結花が恋をしているという状況証拠。
「結花……、よかったね」
「うん、先生にはお世話になっちゃった」
「ただ連れていってくれただけ? むこうで別行動?」
「ううん、ずっと一緒に回ってくれた。お昼も食べさせてもらったよ」
もし他の生徒に見られていたら既に話題になっていただろう。他の生徒たちの行動やバスの時間を把握している先生だからこそできる裏技だ。
「それは誰にも言えないね。でも、結花が元気になってくれたなら、それでよかった。明日の朝ごはん、一緒に食べに行こうよ」
そう約束をして、昨日と同じランドリー前に向かった。
「佐伯か、どうしたんだ?」
先生も今日は洗濯物ではないらしい。
このフロア自体が地下にあるし、時間的にも落ち着くから休みに来たのだろう。
「先生、ありがとうございます。結花、本当に嬉しそうでした」
誰が見ているか分からないから、他の誰にも聞こえないように低い声で囁いた。
「そうか、佐伯ならな。原田は本当に水族館が好きなんだな。笑ったり泣きそうになったり、本当に子どもみたいで純粋なのはよく分かったよ」
「今日のコーディネートも結花らしかったと思います。あたしにあの服は似合いませんから」
先生は笑いながら頷いた。
「確かに、同じような高校生を見つけろというのは本当に難しいかもしれん。せっかく楽しみにしていたんだ、いつも面倒なことを押しつけてしまっている原田への罪滅ぼしだ。あいつにとっても一度しかない高校の修学旅行なんだから」
大丈夫、先生。その気持ち、結花はちゃんと受け取ってるから。
「先生、結花のこと、よろしくお願いしますね。失礼します。お休みなさい」
「お、おぉ」
あたしはエレベーターを待たずに、階段で駆け上がっていった。
本当に芽生えたばかりの小さな気持をこれから見守っていこうと決心した。
<高校2年・冬>
あの修学旅行や夏休みも遙か昔、秋の運動会も終わり、もうすぐクリスマスの足音が聞こえてくる時期。
一足早いCMやテーマパークなどのポスターにはそんな話題もちらほら見かけるようになってきた。
期末テストもようやく一息ついた朝、登校してきたあたしの前に小島先生が寄ってきた。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう。悪いが佐伯、放課後に時間あるか?」
「はい。大丈夫ですよ?」
「じゃぁ頼む。後で俺のところに来てくれ」
「分かりました」
なんだろう、先生の元気がなかった。結花との間に何かあったのだろうか。
そう言えば、先々週に結花が風邪で休んでから、あまり元気がないことも気になる。
これまで、先生と結花が互いを想い合っているというのは、あたしだけしか気付いていないし、二人とも表には出していない。
もともと小島先生は誰かに贔屓することはしない人だ。
結花も公私をきっちり分ける子だから、学校ではそんな身振りも見せない。
そんな先生があんな顔をしてあたしを呼んだと言うことは、やはり結花のことなのか。
朝からこの状態では授業もあまり身に入らない。
放課後になって職員室に入ると、先生はあたしのことを待っていてくれた。
「ここじゃ大きな声で話せない。進路指導室に移動するな」
通称「お説教部屋」ともあたしたちの間では呼ばれている。結花はいろいろ手伝いやら仕事で中に入ったことは何度もあるらしいけど。
中には教室に置いてある机と椅子が6セット。三つずつを向かい合わせにしてある味気ない部屋だ。
「悪かったな。呼び出しなんかして」
「いえ。何か結花のことであったんですか?」
普段の人前では「原田さん」と言うけれど、小島先生だけの前ではすっかり例外になっていた。
「佐伯は気付いていたか? 原田の体調のこと」
「いえ、なんだか風邪をひいてから治りが遅いとぼやいていましたけど」
あたしが聞いているのはそのくらいだ。
「そうか……。昨日の放下後、原田のお母さんが学校に来た。その時に原田は俺に告げたんだ。手遅れになると大変なことになると」
「えっ……?」
あたしのお父さんは製薬会社の勤めだ。あたし自身はあまり現場に連れていってもらったことはないけれど、難病に立ち向かう人のために新薬の開発は大変だと聞いている。
「間もなく学校を休んで入院するそうだ。今ならまだ間に合うと。転移する前に摘出すると言っていた」
「結花……まさか……」
手遅れ、転移と摘出……。そのキーワードだけで分かる。元気がなくて当たり前だ。どれだけ絶望したんだろう。
こんな今も、結花は恐ろしい病魔と戦っていることになる。
「あたしは聞いていませんでした」
「そうか、病名は自分で言うと聞かなかったそうだ」
「先生、信頼されているんですよ。あたしよりも先に先生に報告しているんですから」
間違いない。あたしにも相談せずに、結花は一番大切に思っている人に勇気を振り絞って告げたんだ。
「必ず帰ってこいと言った。原田も必ず戻ると約束した。佐伯にもいろいろ頼んでしまうかもしれない。これは他の奴には頼めない。悪いが原田の力になってやってくれないか? 俺も出来る限りのことはする」
「もちろんです。やらせてください!」
先生の言うとおり、これはあたしにしかできないことだ。頼まれるまでもなく、あたしは協力を申し出た。
結花が入院し、手術を受けたという話を聞いた。
先生が当日にも顔を出して、幸いにも転移はなかったようで、今後は投薬をしながらリハビリに入るという。
でも、結花にどういう顔をしたらいいのだろう。
女性として生まれたあたしたちには、人生を一緒に歩いてくれる人との新しい命を育むことも未来の選択肢に大きなピースとしてある。
そのために必要な卵巣の片方を失った。これが何故今なんだろう。
家でお父さんに聞けば、片方あれば十分に子どもを授かることはできるというけれど、しばらくは体のホルモンバランスを調整しながらの生活を強いられるとのことだ。
それ以上に精神的なショックも相当に受けてしまっているだろう。
親友の結花がこの事態に陥ったと打ち明けたとき、あたしの両親は彼女の力になるようにと逆にあたしを送り出してくれた。
先生と定期的に情報を交換していると、最近は結花の病室に見舞いに行くクラスメイトも減ったそうだ。
「佐伯、今日の原田へのプリント頼んでいいか?」
「はい。任せてください」
「あとで、仕事が終わったら俺も行くから」
小島先生はあたしだけに聞こえる小さな声で言った。
結花の病室に行くのは初めてだった。本当はもっと早く行くつもりだったけれど、なんて声をかけていいか分からなかったのと、2年2組の人たちがいる中では、結花も気をつかってしまうだろうと考えた。
病棟入り口で手続きをして、病室に向かう。
先生に教えてもらった部屋は六人部屋だけど、半分はまだ空いている状態だと言っていたっけ。
結花は一番窓側のベッドを半分ほど起こし、ぼんやり外を見ていた。腕に点滴のチューブを付けていたから、輸液が落ち終わるのを待っているのだろう。
「結花……」
「ちぃちゃん?」
お互いの目から涙がこぼれ落ちる。
気が付いたときには、あたしは力いっぱい結花を抱きしめていた。
「遅くなってごめん。辛かったよね。もっと早く来ていれば……」
「ううん。いいんだぁ。頑張ったよ私……」
「うん、頑張った。結花は強いよ、偉いよぅ」
それは、一目で理解できた。
入院前の結花は後ろ髪を腰近くまで伸ばしていた。
それをバッサリと切り落として、強いてヘアスタイルで言えば…、「おかっぱ」まで短くしている。
中にはどうせ薬の副作用で抜け落ちてしまうのだからとバリカンまで使ってしまう人もいるそうだけど、結花の精いっぱいの抵抗なのだろう。
陽が落ちて、暗くなってから小島先生がやってきた。
教科書とプリントで、前の日に結花が質問をしていた部分を説明していた。驚いたのは担当の数学以外でも説明していることだった。
そうか、時々それぞれの担当の先生に聞きに行っていたのはそういうことだったのか。自分の授業を持ちながらそれを実行するってすごく大変だと思う。
「原田を落第させるわけにはいかないからな。それは俺のプライドにも関わる」
この日、シャワーを浴びるというので、先生とあたしはそこで病院を出た。
「先生、2組の生徒はもう来ない感じですか?」
「なんとも言えないが、毎日ではもうないだろう。あれだけ髪を切った意味が解らない歳じゃない。だから、俺も自分で持ってくるようにした」
「そうですか……。あたしなら毎日でも来るのに……」
これまで来られなかったことを詫びて、毎日でも顔を出すと約束した。
「佐伯も無理をするなよ? こんなに遅くなればご両親も心配する」
それは心配いらない。結花の病室に寄ると家には連絡してある。そのことに限れば門限はなかった。
「佐伯には辛い思いをさせちまっているな。それは本当に申し訳ない」
「いいんです。結花が元気になってくれるなら、あたしも頑張れます」
「そうだ、そうだよな……」
普通ならそこまでだ。でも結花と先生は違う。
まだ公にはできないけれど、特別な気持ちで結ばれつつある二人だもん。病気になんて負けないでほしいから。
冬休み、あたしは塾の講習に通いながら、その帰りがてら結花の部屋に面会に行く毎日を過ごしていた。
ある日、結花が部屋にいなくて看護師さんに聞いてみたら、院内の美容院に行っているというし、そのまま待っているようにと言付けを預かっていたと教えてくれた。
「ちぃちゃん、待たせてごめんね」
「結花……、かわいい……」
「へっ?」
「だって……、そこまで短くした結花って初めてかも」
以前に切ったときは、とにかく手術前ということもあって、髪型もなにもなく「切り落とした」というのが正しい表現だった。
今回はまだ長さはともかく、今後伸ばしても平気なように、後ろ髪の長さを揃えてくれていた。そのうち、またアクセサリーが付けられるようになっていくのだろう。
「お薬が変わってね、もう髪の毛が抜ける心配もないって」
「本当!? よかったぁ……」
薬にもいろんな種類があって、髪の毛が抜けてしまうと言われる抗がん剤もそのうちの一部だ。全ての治療にそれを使うわけではなく、お医者さんが病状や本人との希望によって使う物は変わる。
強い薬を使わないでいけるという判断なら歓迎する話だ。結花の体にもそれだけ余裕が出てくる。
自宅に帰ってからお父さんに聞くと、検査で腫瘍マーカーの数値が下がったまま安定して、新しい箇所への転移がないということなのだろうと教えてくれた。
その言葉を待って、結花も復帰に向けた一歩を踏み出したということなんだ。
「ちぃちゃん、クリスマスはいいからね。彼氏さんと楽しまないとだよ」
薬を変えたと言っても、まだ投薬治療が年内は続くと言うことから、年内の一時帰宅は出来ないと話していた。
「原田のクリスマスか……。何か考えなくちゃならんな」
冬休みに入る直前、すっかりおなじみになってしまった、小島先生とあたしの指導室会議での話題。
教科書やプリントを机の上に広げているから、誰かが入ってきても全然問題ないし、先生も結花の補講の準備だと言ってあるようで、職員室で誰かに後ろ指をさされることもないんだって。
「まだ退院していないから、ケーキってわけにもいかないしな」
ここまで吹き込んでおけば、先生があとは考えてくれるだろう。
クリスマスの当日は、そんな結花の言葉に甘えさせてもらって、あたしたちの時間を作らせてもらった。
あたしが同じクラスになった和人と付き合っていることは誰にも公言していないし、そもそも気づいているのは結花だけだったから。
あたしが親友にしてあげられたのは、ありがとうの言葉を告げるだけだったけれど、彼女は嬉しそうに笑ってくれた。
そして教えてくれたんだ。小島先生が結花にプレゼントと称してイルミネーションを一緒に見に行った時間のことを。
「小島先生もやるなぁ。修学旅行の時もそうだったけどさぁ。やっぱり結花は特別なんだなぁ」
学校ではそんなそぶりも見せないのに、プライベートではしっかり大人のエスコートをしてくれている。
「あれじゃぁ、同学年じゃ相手にならないねぇ」
その時はそれでよかったのだけど、まさか先生と生徒という見えない距離が思わぬ事態に発展していくとは、その時のあたしには想像することができなかった。
<高校2年3学期>
年が明けて、結花があたしだけにこっそり教えてくれた。
結花の一時退院と、試験的な通学を計画しているという内容だった。
「ちぃちゃん、いつもありがとう」
久しぶりに見た結花の制服姿はやっぱり落ち着く。
体育などは見学だし、髪型も短いままだったけど、やっぱり戻ってきてくれたことは嬉しかった。
校門のところで小島先生が立っていて、表向きは他の生徒たちにも普通に挨拶をしていたけれど、内心は登校してくれたことにホッとしていたと思う。
でも、そんな平和な時間はすぐに終わってしまった。
それどころか、肝心なことをあたしだけじゃなく、先生にも伝えていなかったなんて知ったのはずっと後。
もし、それを知っていたら、この時間はあたしも先生も止めさせていたし、その後の結果も大きく変わっていたんじゃないかと思う。
結花が試験登校を始めてから数日後の体育の時間、女の子の日になってしまったあたしも見学で、結花とポツリポツリと話をした。
本格的な復帰はなかなか難しいかなと言っていた。
その時は、やはり1ヶ月以上のブランクだったり、体力的なものもあるのかと思ったから、少しずつリハビリしていけば大丈夫だよと答えた。
「ねぇ、佐伯さんも気をつけた方がいいよ?」
その体育の時間が終わってお昼休みに入ったとき、クラスの子からこんな声をかけられた。
「なにが?」
「2組の原田さんの病気、近くにいるとうつるって。だから近寄らない方がいいよって」
「なにそれ!? 誰が言ってるの?」
「2組はみんな知ってるみたい。1組でも佐伯さんだけだよ知らないの」
「そんなバカな!」
冗談じゃない。あたしは教室を飛び出して隣に向かった。
「遅かったか……」
すでに結花の姿は教室になかった。そして、あたしを見る視線。
間違いない。隣である1組ですら知っているのだから、2組で知らないわけがないんだ。
もう昼休みとか昼食はどうでもよかった。
結花を探さなくちゃ。中庭を見たけれどあの姿はない。
「戻るのが難しい」ってのはそういうことだったのか。
結花の病気は卵巣がん。がんという病気自体が基本的に自分の体の中だけで起きるものだから、生体移植などを受けるなどのよほどの特別なケースでない限り、ましてや学校生活で同じ教室にいる程度の普通の生活で他人に感染するなんてことは絶対にありえない。
もしそんな噂の情報が現実のものだとしたら、今や世界中大変なことになっているはずで、そんな患者が入院している部屋は面会謝絶の個室でなければならないことになる。
どうしてこういうばかげた情報ばっかり広がるんだろう。混同されやすいのがウイルスが原因となる子宮頸がんとかもあるけれど、それは直接うつるのではなくて、ウイルスに感染してから可能性が出るという程度の話だ。
インターネットのいい加減な情報を見分けることもできないのか!
だから、みんなうつりたくないって誰もお見舞いに来なくなったんだ。
「ふざけんな!! 結花が何をしたって言うの!!」
結花を探しながら、あたしの頭の中は怒りで煮えたぎっていた。
「小島先生!」
あたしは頭の中が沸騰した状態のまま職員室に駆け込んだ。
「どうした佐伯?」
隣のクラスの生徒であるあたしが、小島先生を目がけて飛び込んでくるなんて、他の理由はない。
「呑気に食べている場合じゃないです」
先生に事の顛末を耳打ちすると、顔を真っ赤にして怒り出した。
「まったく、おまえたち高校生は何を考えているんだかわからん!」
これでは半年前の修学旅行と変わらないし、もはや再び起きた悪質な事件だ。
あのときと同じく手分けをして探すことになる。
下駄箱を見て、まだ校内に居るらしいことは分かった。屋上や購買部などを回ってみる。部活には在籍していないから部室棟ではないだろう。
こう考えてみると、いくら勝手を知った校内でも一人を捜し出すのは大変だということだ。
『2年1組の佐伯さん、保健室に来てください』
そろそろ探す場所がなくなってきたとき、校内の呼び出しが入った。
階段を下りて、1階の保健室の前に走りこんだ。
「失礼します」
中には養護の先生と小島先生、そしてベッドに結花が寝かされていた。
「もぉ、心配させて……」
あたしも足の力が抜けて、椅子に座り込んでしまう。
聞けば、最初から何かあったときには保健室に来るように言い聞かせてあったって。そして、あの空気に耐えられなくなってしまった結花は、過呼吸をこらえながらここまで辿り着いて動けなくなってしまったという経緯だったという。
「佐伯、原田のそばにいてやってくれるか? 授業の方は俺から言っておく。この件は放置するわけにはいかない」
「ですが、小島先生。原田さんのプライバシーにも関わる問題ですよ。事を大きくしても別の問題になってしまいます」
そう、あたしたちは話してもらったから知っているけれど、結花の本当の病名を知っている関係者はごく一部なんだ。まして、テレビなどでも名前はよく聞くがんという病についても、まだこの歳では患う方がレアケースだ。
でも、髪を切り落として脱毛に備えたことは、芸能人でも時々報道されているし、どういう事態なのかはみんな知っている。
「原田……、どうする? 最後はおまえの気持ち次第だ」
先生の方が泣き出しそうだ。それはそう。どんなに忙しくても結花を守るために努力しているのに。
「犯人探しは……しなくていいです。教室のことは先生にお任せします。でも、きっと、みんな先生を見る目が変わってしまうかもしれません。それが私には辛いかもです」
「そうか……。ただ、正しい情報はきちんと1組にも2組にも話しておく必要はある。それだけは許してくれないか?」
「はい。みんながお互いにギクシャクする方が私には辛いです」
「本当に、直接聞かせてやりたいくらいだ……」
きっと、先生の中では絶対に許せないことなんだろう。でも、もしあまりにも結花に肩入れした話し方をしてしまえば、先生の立場に影響が出てしまいかねない。
昼休みが終わって、先生は午後の授業に出て行った。
あたしは結花のそばに座って話し相手をしていた。
「ごめんね。結局私ってこういう運命なんかなぁ」
「バカ言わないで。あたしは結花が戻ってきてくれて嬉しかったんだから」
「そう思ってくれた人もいてくれたんだよね。だめだなぁ……」
放課後、校内が静かになってから、小島先生はあたしたちを迎えに来てくれた。
「すまなかったな。残念だが発端の奴を探し出すことはできなかった」
「先生……。私は平気です。それよりも先生が変な目で見られてしまう方が心配ですよ」
その日を最後に、結花は再び病院に戻ってしまった。
そして、あたしは分かっていた。きっと結花は隣のクラスに戻ってくることはないだろうと。