【外伝】あなたが教えてくれたこと(改稿版)




 転校生のあたしが数日で結花とコンビを作ったことは、クラスではよほど意外に映ったらしい。

 特に結花のことを呼びつけては難癖を付けたり、用事を言いつけていた(やから)としては、あたしがいることでやり(にく)くなったらしい。

「ちぃちゃん、いつもありがとう」

「なんもしてないって」

 実際に友達として付き合いだしてみると、結花は想像以上にいい子……、いや本当にお嬢さまだった。

 誰に対しても優しいし、普段の教室では見ることが出来ない笑顔は、同性のあたしが見ても可愛い。

 目も二重でぱっちりしているし、髪の毛も背中まで伸ばして、リボンで留めている。

 性格だって、洋服と同じように本当に同級生かと思うくらい中身は大人びている。きっと、これまでに受けた仕打ちで悟ってしまったこともあるのかもしれない。

 それでも結花は、決して特筆するべく目立つ子ではない。勉強は秀才とまでは行かないそこそこのライン。体育は見た目どおりに不得意科目。

 そして何よりも友達作りが苦手だった。大きくなってからの表現で言えば、生きることに不器用とでも言うのだろうか。

 それでも、学級委員という役目を精いっぱい果たしている。


 そんな結花の学校生活サポートにあたしが入った。

 結花が自分では言い返せないことを代弁してやる。わざと高い枝に引っ掛けたボールだって、あたしが木登りして取ってきた。

 その積み重ねが、その時に結花に向けられてしまうなんて……。あたしは今でも許していない。

 卒業を間近に控えた時期。授業でドッジボールをしていた時間のこと。

 当然のように真っ先に狙われてしまう結花。あたしの後ろに回るように打ち合わせてあったのだけど、どうしても庇いきれないこともある。

 あたしがボールを相手方に投げ返したとき、勢い余って足をもつらせて転んでしまったときだ。

「しまった!」

「ちぃちゃん大丈夫?」

「原田を狙え!」

「結花逃げて! 来ちゃダメ!」

 とっさに、あたしに手を差し出した結花に声を掛ける。

 あの瞬間のことはこれだけ時間が経ってもあたしの頭で再生できる。

 完全に無防備となった結花の背中に、至近距離から力任せに投げられたボールが直撃して、上に跳ね上がったそれは、バランスを崩して顎が持ち上がった彼女の後頭部に当たった。

 受け身を取ることもできないまま、顔面から音を立てて地面にたたきつけられた。

 動かない……。いつだって何をされても立ち上がる結花が動かない。

 目を閉じたまま、唇の端から赤い血が細く垂れている。

「結花!」

「原田! 救急車を呼べ!」

 先生の声がする。

「結花、しっかりして。起きて結花!」

 突然の状況にだんだん騒然としてくる。養護の先生も飛び出してきた。

 その後の授業のことなんか知らない。

 初めて乗った救急車は、ずっと結花の手を握っていた。

 顔の傷を手当てしてもらって、頭の検査に回されるのを、あたしは病院の廊下で見ていることしかできなかった。

「先生、結花が……」

「大丈夫。大丈夫だから」

 落ち着かせてくれて、話してくれたんだ。

 今回のことは、事の取り方によっては傷害事件になると。

「あの近さで、原田さんが倒れるほどの力を入れて投げる必要はないわ。鈴木さんが原田さんを怪我させたという事実は変わらない。原田さんのお母さんは確か弁護士さんよ……。これまで見て見ぬ振りをしていた職員室も同罪だわ」

 そういえば、救急車だけでなくてパトカーも来ていた。校庭を写している防犯カメラを見に来たって。



 顔にガーゼを当てられ、頭には包帯も巻かれている。その白いすき間から結花の瞳に光が戻ったのは、夕方になってから……。

「結花ぁ!」

「ちぃちゃん……」

 ずっと握っていた結花の手に力が戻って握り返してくれた。

「よかったよぉ、ずっとこのままだったらと思って……」

 ずっと夢の中にいたようだったと話してくれた。

 救急車の音と、あたしの声はずっと聞こえていたけれど、返事をどうやってすればいいか分からなくなっていて、申し訳ないと思っていたことも。

 それ以来、あたしは心に決めた。

 『結花を守ろう』と。

 あの瞬間、結花は自分が犠牲になることを十分に分かった上で、あたしに怪我がないかを心配して来てくれた。

 結果、大事(おおごと)になってはしまったけれど、あたしに最後までボールは当たっていない。ドッジボールのルールで言えば、あたしは最後まで内野の枠の中。

 結花はそれが出来るんだ。本当の意味で「強い」というのはそういうことなんじゃないか。

 この一件で、授業時間でのドッジボールは当面自粛となった。

 同時に、最後にあのボールを至近距離で投げつけた鈴木とその取り巻きは、警察の事情聴取だけでなく、これまでの数々の問題行為が表に出されて、厳重処分を受けることになった。




「じゃあ、あたし片付けとお風呂に入って寝るね」

「おぅ、じゃあ俺はレポートでもやるかぁ」

 食事も終わって、あたしは食器の片づけと洗濯に取りかかる。

 概ね2週間に一度、和人は実験レポートを抱えるので、その週の金曜日はこの時間から部屋にこもることが多い。

 そこで調べたりないものがあると土曜日に図書館での調べ物に行ってしまう。

「冷えるから、風邪ひかないでね」

「千佳もな」

「うん、ありがとう」

 邪魔をしないように、リビングのテレビと照明を消してキッチンだけの明かりにした。

 和人の部屋でパソコンを立ち上げる音がする。この部屋を借りたとき、唯一の問題だったのが、古い物件だったために十分なインターネット環境が入っていなかったこと。

 この部屋を契約したときに、電話は携帯が2台あることから固定電話は見送ったし、学生二人というまだ半人前のあたしたちが電話や光ケーブルなどの工事契約をするわけにもいかない。

 そうかと言ってスマートフォンで全てをこなすわけにはいかない。そんなときには流石に理系の和人だった。

 窓際に固定式のWi-Fiルーターを置いてくれて、この問題をあっという間に解決してくれた。マンションの1部屋で、特に動画を毎日観ることもないあたしたちの使い方なら十分に用が足りる。

 二人分の部屋代を半分近くに減らすことが出来ていたから、その費用も賄えた。

 お皿を洗いながら去年の春を思い出す。

 お互いの両親から二人で同居の許可をもらった後のことだ。お部屋を決めて、和人の名前で契約もしてもらった。

 いざ荷物を運ぼうとそれぞれの持ち物を確認したときに、和人の部屋からは机と本棚、小さなコタツくらいしか荷物がなかった。

「もー、どういう生活していたのよ?」

「だって必要ないし?」

 彼が借りていた部屋が1口コンロに小型冷蔵庫付きの物件だったこと。目の前にコンビニやコインランドリーなどの便利な設備があったから、何も買う必要がなかったという。テレビだってパソコンで補っていたし。

「どうりで、いつもあたしの部屋に遊びに来ていたわけだねぇ」

「何もない割には散らかっていたからな」

 さすがに女のあたしが下着までコインランドリーというわけにいかないし、食費の節約のためには自炊が一番効くから、洗濯機や少し大きめの冷蔵庫やレンジも買ってあった。

 狭い部屋に勉強机を持って来ることも出来なかったから、リサイクルショップで買ったあたしの部屋の二人用のダイニングテーブルを食卓兼用にして転用した。

 テレビも今の部屋は端子がリビングにしかなかったから、あたしが持っていた物を提供した。

 その前に和人が持ってきたコタツを座卓兼用で置いた。こんな感じで、それぞれが持っていたものを持ち寄ったから、新しく買い足した出費は大きくなかった。

 あたしがこの部屋に来て買ったのは、自分の部屋に置く折りたたみテーブルと座椅子くらいだ。

「もう1年経っちゃうんだなぁ」

 食器を片付けて、テーブルの上を拭く。ダイニングの明かりも消してパジャマを取りに自分の部屋に戻って衣装ケースをあけた。




 かごの中に入っている二人分の洗濯物を確認しながら洗濯機に入れていく。

 当然和人の物もある。最初に下着などを見たときにドキドキしてしまったのもずいぶん昔のことだ。それは彼だって同じだったと思う。

 ボディーソープとシャンプーをシャワーで洗い流してバスタブに浸かった。

 ファミリー向けの部屋だから、追い焚き保温の機能も付いている。比較的長いバスタイムのあたしには有り難い。

 お湯の中で体をストレッチしてみる。一応、体のラインもチェックはしている。

 相変わらず胸のサイズは変わらないのに、少し気を抜くと他のところに余分なお肉が付いてしまうなんて失敗は何度もしているからだ。

 みんなの前で大きな声では言えないけど、和人と一緒にお風呂に入ることもある。

 狭いバスタブに二人は厳しい。その代わりにどちらかが体を洗っている間に、もう一人が温まっているというやり方で、その間に交わされる他愛ない会話が好きだから。

 そうでなくても、これだけ近くで暮らして1年。お互いに一人暮らしをしていたときは何とかごまかせた変化だって、今ではすぐに分かってしまう。

 どちらの親だって分かっていると思う。大学生にもなって一緒に暮らしているあたしたちに『何もない』はずがないということくらい。

 当時に知られていたら怒られたかもしれないけど、彼と初めての経験をしたのは高校3年生の1学期だ……。


 そう、あの当時、あたしは少し荒れていたんだ。

 突っ張っていたわけじゃない。

 原因は大親友を救えなかったこと。

 悲しくて情けなくて……。

「結花……」

 あんな辛い思いはしたくないし、あの子にさせちゃいけなかったのに。



 いけない。涙が溢れそうになって、それを拭き取った。

 パジャマに着替えてバスタオルと洗剤を洗濯機に入れてタイマーをセットした。これで明日の朝に起きたときには干すだけになっているはず。

 最後に、扉の隙間から光が漏れている和人の部屋をノックして覗いてみる。

「もぉ、風邪ひいちゃうよ」

 パソコンはつけっぱなしで、その横にノートと専門書を開いたまま、机に突っ伏して寝ている。

 毛布を背中からそっとかける。きっと夜中に起きてから続きをやるんだろうな。


 「大学生は遊んでいられる」。誰かしら言う人もいるだろう。

 実際にそういう子たちがいるのも事実かもしれない。でも和人を見ている限り、それが全てでないことはあたしが十分に知っている。

 あたし自身だって、介護関係のコースを選んでいるけれど、授業を真面目に受けて課題を処理していれば1日はあっという間に終わってしまう。

 理系で実験レポートを抱える和人はもっときついはずだ。

 だから和人は定期のアルバイトを持っていない。少ない仕送りの中から部屋代を出してくれているお礼に、光熱費や食費はあたしの仕送りとアルバイト代から賄っている。

 それでも二部屋よりは安くなるし、将来に向けた貯金もしようと一緒に住み始めたんだ。

 残っていたごはんをおにぎりにしてラップでくるんだ。それを栄養ドリンクと一緒に置いて、『無理しないでね』とメモを残す。

「おやすみなさい」

 そっとドアを閉めて自分の部屋に戻り、マットレスと布団を敷いて時計をみる。

 10時半か。結花はもう起きたかな。

 机の上に2枚入りのフォトスタンドを置いてある。1枚は和人とデートで撮ってもらったもの。そして、もう一枚は……。

 真っ青な空と、白壁のチャペルの前。純白のドレスの花嫁とその隣に立つ花婿の二人を囲んだ写真。あたしも和人もその中にいる。

 もう3年前に写したものだ。

「結花ぁ、春休みじゃ遅いよ。早く帰ってきてよぉ……」

 写真のなか、あたしの隣で幸せそうに微笑むウェディングドレスの親友に声をかける。

 あたしの漠然とした不安も、彼女なら昔と変わらず柔らかく受け止めてくれるだろう。

 彼女の笑顔は、想像を絶するほどの絶望感と、何度となく枯れるほどの涙の日々を諦めずに一歩一歩進み続けたからこそのもの。

 結花自身が最後に取り戻せたものだから……。

<高校2年・修学旅行>



 高校2年生の初日、あたしと結花はいつものように待ち合わせて学校に向かった。

 あの小学校の出会いから、中学生、そして高校まで一緒に進んでこられた。やっぱり、あの当時に思った「ふつうの友達では終わらない」の直感は当たっていた。

 高校1年生の時には同じクラスで、結局年間を通じてクラス委員も結花と一緒に勤め上げて、なんだかんだと充実した年だったけれど。

「あー、残念だぁ。離れちゃったよ」

「えー、でもいいじゃん。小島先生が担任だって。羨ましい」

 小島(こじま)陽人(はると)先生は今年3年目の数学担当。

 すらっとした長身にクールな見た目が人気だ。しかも、ポリシーで生徒からのプレゼントなどはバレンタインデーすら受け取らないという徹底ぶり。

 今年の春もあえなく玉砕したという報告もたくさん聞いた。

 特定の彼女がいる訳でもなさそうだと言うところまではつかんでいる。

「まぁ、結花にとっては関係ないかも知れないけどね」

 中学もずっと一緒だった結花を一人にしてしまうことには不安だった。初日のホームルームの後に学級委員をやることになったと報告してきたときには、昨年と同様に押し付けられて、また背負い込んでしまったのかとも思った。

「でもね、ここまできたら、それでもいいのかなって。私が内申点上げるにはそれくらいしか材料ないし」

 そんな結花の表情がこれまでと少しだけ変わったことは気づいたけれど、その時は原因までは知らなかった。



 そんな高校2年生1学期の6月、修学旅行での出来事だった。

「原田さん、他のクラスの子と話してないで、明日のスケジュール教えてよね!」

「えっ? さっき言ったのに……」

 食後の自由時間、あたしと結花が話しているとき、昔を思い出すような光景がまた繰り広げられた。

「聞こえなかったよ、小さい声じゃ」

 こいつは若林とか言っていたっけ。昨年も同じクラスだったから覚えている。

 今年はあたしがついていないから周りも言いたい放題なんだろう。これじゃ小学生時代と変わらない。

「ごめん、明日は自由行動だから、方面別のバスに乗り遅れないようにロビーに集まってください」

「あっそう」

 これが他人にものを頼んでおいての反応か。あたしの中で久しぶりにスイッチが入ってしまった。

「ちょっと待って、結花はあんたの召使いじゃないのよ?!」

「学級委員は仕事してもらって当然でしょ?」

「あんたねぇ……」

「いい、いいよぉちぃちゃん……」

 飛び出しそうなあたしを結花は止めてきた。

「私の言い方がわかりにくかったらごめん……。でも、私のお友だちには迷惑かけないでよ……」

 結花はそこまで言い切ると、顔を押さえて外に飛び出していった。

「結花!」

 あたしもすぐに後を追ったけれど、もう結花の姿は見えなかった。

 この広いホテルの敷地、しかも雨も降る暗闇の中で結花を探すのは一人では無理だ。

「小島先生!!」

 あたしは急いで先生の部屋に走ってドアをノックした。

「どうした佐伯?」

「先生……結花が……、原田さんが……」

「落ち着け、原田がどうした?」

「一人で……外に……」

「外はこの雨だろ!?」

 先生もすぐに階段に走った。エレベーターを待つ暇は無いという気迫だ。

「佐伯は館内を探せ。俺は外を見てくる。一通り見終わったら原田の部屋に来い。あいつは一人部屋だ。そこで待たせてもらえ」

 先生はあたしに先生たち用のマスターキーカードを渡してくれた。

 あたしはそれを受け取ってホテルの中を探して歩いた。フロントで聞くと、屋上などの立ち入り禁止の場所のドアが開けば警備室経由ですぐに分かるという。

 それに、常識的にはあたしよりずっとしっかりしている結花が、一般の宿泊客に怪しまれるような場所に、しかも制服姿で潜んでいるとは思えない。

 レストランやコインランドリーを覗いてもその姿は見つからない。そもそも外に飛び出していったのだから、外にいる可能性の方が高い。

 でも、この土砂降りの雨の中、どこに居られるというのだろう。

 屋内をひととおり探し回ってみても、結花の姿を見つけることはできなかった。




 どこにも行くあてが無くなってしまったから、指示されていたように結花の部屋に行く。

 ドアにカードを差し込んでロックが解除されたのを確認して、先生たちはこんな便利な物を持っているんだと妙に感心してしまった。

 確かに2年2組の女子生徒は奇数。だから結花が最初から一人部屋を望んだのだろう。

 相変わらずの手際のよさだ。明日の日程で着る服がもうセットしてある。デニムの膝丈スカートに開襟の白ブラウス。レースのソックスにネイビー色の布スニーカー。日差し除けに桜色の薄手パーカー。

 あの小学生の頃から大きく変わっていない。当時は年上に見えたけれど、今は実際より年下に見えるかもしれない。

 テーブルの上には日焼け止めと化粧水だけが用意されている。

 結花はこの歳でもほとんどメイクをしない。

 前にそんな話になって、肌が弱くて化粧品を塗るとあとで苦労してしまうと言っていたっけ。

 今はそういう敏感肌用の製品もあるし、実のところ何だかんだ言ってもコスメの一式は持っているのも知っている。

 きっと理由があってしていないのだろうけど、化粧水で整えてリップ1本と日焼け止めで終わりというのは、ある意味羨ましい。

「佐伯、戻ってるか?」

 ドアのノックと先生の声があって、あたしが扉を開けると、右腕を先生の肩に回された結花がいた。二人とも雨に打たれて全身びしょびしょだ。

「どこにいたんですが?」

 バスルームからタオルを持ってきて二人を拭き上げていく。

「海岸に座ってた。茂みでなくてよかったよ。こういう場所ではあるけれど、沖縄はハブがいるからな」

 濡れてもいいように、浴室から椅子を持ってきて座らせた。

「結花、大丈夫?」

「ちぃちゃん……ごめんね……」

「いいの、あたしは全然。こういうのも慣れてるし。先生、結花をお風呂に入れて着替えさせます。あたしの部屋の子に戻りが遅くなると伝えてもらえますか?」

 このまま濡れた制服姿じゃ風邪をひいてしまう。

「分かった。佐伯、悪いが頼んでいいか?」

「任せてください」

 借りていたカードキーを先生に返して見送ると、扉のロックをかける。

「結花、お風呂に入ろう?」

 まだ少しうつむき加減の結花に声をかけながら、濡れた制服を脱がせていく。

 この強い雨の中、上から靴の中までずぶ濡れだ。

 これはあとで軽く濯いで脱水しなきゃダメだな。シンクに濡れた服と、クローゼットから取り出したパイル生地のバスローブを仮り置きして、あたしもとりあえず服を脱ぎ捨てて、結花を抱っこしてバスルームに連れて行く。

 バスタブにお湯を張る間、熱めのシャワーで結花を温めることにした。

「ちぃちゃん、ごめん……私……」

「いいじゃん、結花と一緒にお風呂に入るの久しぶりだね」

 たっぷりボディソープを泡立てて結花の体を洗っていく。皮膚が弱いというのは本当なんだろうな。あたしに比べて本当に白い。

 前側は結花に声をかけて自分で洗ってもらった。その代わりに長い髪にシャンプーをつけて(ほぐ)していく。

「結花はこんな綺麗な髪でいいなぁ。あたしがやったらボサボサだよ」

「なかなか切る時間なくて……」

「そっか」

 でもあたしも女の端くれだ。毛先はちゃんと枝毛もなくカットしてあるし、前髪もサイドもきちんと手入れされているのくらい分かる。しかも、そろえた部分を見れば、ここ数日以内に美容院に行っているはず。

『もしかして、結花が恋をした?』

 学校行事としての修学旅行を結花が楽しみにしているわけではないことを小・中学と一緒に過ごしてきたあたしは知っている。

 こういう団体行動の時には学級委員の結花は仕事が増えるからだ。

 さっきのように気を抜いて楽しむことも許されない状況では、旅行会社の社員ではないのだから楽しめるという状況じゃない。

 それでも、切るほどでもなかった結花が美容院に行ったとなると、特別な日と認識していたことになる。

『誰だ……』 

 馴染ませたコンディショナーを流して、タオルで巻いてあげる。

 なんだかんだと一緒にプールにも行くし、お互いの家でお泊まりをしたこともあるから、結花の洗う順番も分かっている。

 バスタブに二人で向かい合って座り、ようやく結花の顔色が戻ってきたのを見てホッとした。




「よかった。顔色が戻ってきたみたい。寒くない?」

「ありがとうね。私、情けないなぁ……」

 いくら暖かい季節だと言っても、あれだけの雨に濡れれば冷えちゃうのは当然だよ。

「あんなの相手にしてたら疲れるよ。仕事しに来ているみたいだもん。明日はゆっくり出来るんでしょ?」

 明日の自由行動は、時間の管理も各々に任されるから、もし誰かが遅刻をしたとしても結花の責任とはならない。それはちゃんと修学旅行のしおりにも書かれている。

「うん、終日自由だからね。一人で水族館行ってくるよ」

「そっか。ごめんね一緒に行けなくて」

「ううん。クラス違うし、さっきのこともあるから、私はひとりの方がいいと思う。ちぃちゃん、私のことは気にしなくていいよ。彼氏さんに悪いから」

「へっ!?」

 もう、この場面でそれを言う? 心配しなきゃならないのは結花の方なのに。

 あたしに交際相手がいることはクラスの誰も知らない、結花だけには話したけれど、この親友は状況を察して誰にも口外しないでいてくれている。

「ずっと私のこと気にしてくれてありがとうね。私は大丈夫。ちぃちゃんが幸せになっていくなら、私はそれを見送っているから」

「まったく、そんなこと言って、強くなったのかと思ったけれど、結花だって好きな人が出来たんでしょ?」

「えっ? 私は……、でも……ただ……」

 顔を真っ赤にして慌てる結花は、妹のように接しているあたしから見ても可愛かった。

「うぅ……、でも、好きってどういうことなのか分からない。きっと、私のこと見てくれる人なんていないよ。高校になっても初恋まだなんて知ったら、みんな引いちゃうもん。でも、どうしたら好きになったっていうのかな、恋ってどうすれば出来るのかな……」

「結花……」

 顔が赤いのは恥ずかしいのか、熱いお湯で少しのぼせてきてしまったせいなのか。

 急いでお風呂を切り上げて、エアコンを効かせた部屋のベッドに寝かせ、濡れタオルを額に乗せてあげた。

「ありがとうちぃちゃん……。迷惑ばっかりかけちゃってるよ……。こんな私、愛想尽かされちゃって当たり前だったんだよね……」

 寝やすいように薄暗くした部屋、あたしは結花の制服を(ゆす)いでいた。確かランドリーがあったから、そこで脱水をかければ大丈夫だろう。

「中学生の時にね、何回か男の子に声をかけて貰ったことがあったよ……。でも私ね、喜んで貰うことが出来なかった。みんな離れていっちゃった。女の子たちの恋の話も分からなくて……」

「結花、今のあんたはちゃんと恋してる。誰のことだかあたしには分からないけど、その人と一緒にいたいって思うんだったら、立派な恋だよ。進め方なんて教科書は無いから。結花のその気持ち、大事にすることから始めればいいんだよ」

「うん……」

 気持ちも体力も疲れていたのだろう。結花はとろんとした目であたしを見上げていた。

「結花、制服はあたしの部屋で乾かしておくから、明日の夜届けに来るよ。明日は私服の楽しみの日なんだから、ゆっくりしておいでよ」

 明日は誰からも制約を受けることが無い。結花が提出していた計画は、水族館で終日を過ごすと書いてあった。

「ありがとう……、お姉ちゃんみたいだぁ……」

「あたしも結花みたいな妹がいたら、もう少しマシな女の子になれたかな?」

 答えが無くて、すでに結花は寝息になっていた。

 彼女の額に乗せた濡れタオルをもう一度交換して、そっとドアを閉めた。




 結花の部屋のドアをそっと閉め、濡れた制服を持って地下のコインランドリー室に向かった。

「先生! 寒くはないですか?」

 さっきと服は違っている。先生もあれだけ濡れていたから着替えたのだろう。

「佐伯か。原田はもう落ち着いたか?」

 小島先生が、ランドリー前のソファに座っている。

 でも、あたしが声をかけるまで、心はここにあらずというくらい。普段の先生の顔とは別人のように見えた。

 あたしが先生に事を報告したとき、生徒の前ではどんなときも取り乱すことのない小島先生が、結花の名前を出したとたん、顔を真っ青に変えて雨の中に飛び出していったこと。

 今だって、シャワーを浴びた後だと思うけれど、髪の毛も乾かし切っていなくて、髪型も乱れたままだ。先生もこの場所と時間なら他の生徒に見られることはないと思っていたのか……。いや、多分そうじゃない。

「はい。もう寝ています。砂で制服が汚れてしまっていたので、洗って脱水機をかけに来ました」

「そうか、さっきは悪かったな。さすがに自分が女子を着替えさせるわけにはいかなくてな。風呂に入れるならなおさらだろ……?」

 あたしが脱水機に制服をセットすると、先生がジュースを自販機で買って渡してくれた。

「今日のお礼だ」

「先生に買収されちゃいました」

「まったく……。そうだな、原田のプライベートは表向き佐伯に頼むしかない。担任なのにあいつの力になってやれない……。せっかくの修学旅行で、他の生徒は旅行気分にも関わらず、あいつだけは朝から働きっぱなしだ……」

「先生……」

「あんなに真面目で素直なのにな。職員室でも原田の評判は決して悪くないんだ。ただ……、人付き合いが苦手なんだよな。それだけで……、貧乏くじばかり引かされて……。なんとかしてやりたいのに……」

 結花のことが職員室では評価されていてよかった。同時に、親友のことをこんなに悩んでくれた先生はこれまでの学生生活を通じて見たことがない。

「先生?」

「なんだ?」

 あたしは、思い切って一つの質問をすることにした。これはあたしにしか出来ない結花に関する質問だから。

「先生は、結花の笑った顔を知ってますか? もうひとつ、泣いたところもです」

 いきなり聞かれたら変な質問かも知れない。でも、あの子は完全に心を許さないとこの両方を見せることはしない。

 特に泣き顔はどんなに悲しくても、外ではぐっと我慢する子だから、他人のいる前ではまず涙を見せることはしない。

「原田の顔か……。教師としては問題発言だろうが、あいつ笑うと可愛いよな。普段からメイクをしてないから余計に幼く見える。反対は、さっき俺にしがみついて大泣きしていた……。佐伯にみっともないところを見せてしまったと。よほど悔しかったんだろうな……」

「先生……」

「どうした……?」

 あたしは、一つの答えを出しつつあった。

「結花のこと、そこまで見てくれた先生は初めてです。結花も先生のこと、それだけ信頼してるんです。笑った顔と泣き顔の両方を知っている男の人、他にあたしは知りません」

「そうなのか?」

「先生、いろいろ迷惑をかけてすみません。あたしも気を付けますけど、不器用な親友をお願いします」

「なんだか、原田の身内から頼まれているみたいだな。分かった。今日の埋め合わせは俺に任せておけ。明日は早いから佐伯も早く寝ろよ?」

「はい、帰ってすぐに寝ます」

 先生に見送られて、あたしは自分の部屋に戻るためのエレベーターに乗った。

『結花、あんたはちゃんと両想いの恋してるじゃない』

 その予感は翌日に確信に変わることになった。




 翌朝、結花は食事の時間に姿を見せなかった。

「小島先生、原田さんは?」

 あたしは一人で食事をしていた小島先生に小声で聞いてみた。

「少し熱っぽいそうだ。それに、カードキーが開かなくなっちまったらしい。どっちも昨日の雨で濡れたせいだろう。ドアは俺が頼むし、体調は少し様子をみる。確か原田はもともと1日単独行動だ。誰にも迷惑はかけん」

 先生が2組の生徒に今日の注意事項を伝えて、解散させた。

「先生……」

「佐伯、おまえも行け。バスに間に合わなくなるし、他の奴の足を引っ張るな。原田のことは俺に任せろ」

「お願いします」

「佐伯、せっかくの沖縄だ。楽しんでこい。原田は任せろ」

 先生はあたしの肩を叩いてロビーを送り出してくれた。




 その日の夕方、あたしは乾いた制服を届けに結花の部屋に向かった。

「結花、いる?」

「うん」

 外は涼しい風が吹いていて、全開にした窓のそばの椅子に座っていた。

 意外だったのは、昨日の夜に用意してあった服に着替えていたこと。1日部屋の中で寝ていたなら、パジャマやジャージでもよかったはずなのに。

「体調、大丈夫?」

「心配かけてごめんね。もう大丈夫だよ」

 夕食の時に誰に聞いても、どこのバスも結花は乗っていなかったらしい。

 せっかく楽しみにしていた1日をホテルの中で過ごすことになってしまったのか。

「どこも行けなかったね……」

「……ちぃちゃん。誰にも話さないでいてくれる?」

「分かった。約束するよ」

 結花の話を聞いて、確かにこれは誰にも話せないほどの大事件だ。

 小島先生は起床の時間に結花の部屋に内線電話をしていたんだ。微熱があるというのはその場のお芝居だったと。

 みんなが出発した後、結花に朝食を食べさせている間にカードキーを交換して、先生が車を運転して結花が楽しみにしていた水族館に連れていってくれたというじゃない!

「みんなが帰る時間までに戻る条件付きだったけどね」

 それなら、外出用に着替えていたことにも納得がいく。

「誰かに見つからなかった?」

「バスの時間も関係ないし、見つかっても先生が一緒だからね」

 凄い。昨日の様子で分かったのは、小島先生が本気で結花のことを気にかけてくれている。

 結花も涙を見せることが出来る相手だということ。

 そして、結花が恋をしているという状況証拠。

「結花……、よかったね」

「うん、先生にはお世話になっちゃった」

「ただ連れていってくれただけ? むこうで別行動?」

「ううん、ずっと一緒に回ってくれた。お昼も食べさせてもらったよ」

 もし他の生徒に見られていたら既に話題になっていただろう。他の生徒たちの行動やバスの時間を把握している先生だからこそできる裏技だ。

「それは誰にも言えないね。でも、結花が元気になってくれたなら、それでよかった。明日の朝ごはん、一緒に食べに行こうよ」

 そう約束をして、昨日と同じランドリー前に向かった。

「佐伯か、どうしたんだ?」

 先生も今日は洗濯物ではないらしい。

 このフロア自体が地下にあるし、時間的にも落ち着くから休みに来たのだろう。

「先生、ありがとうございます。結花、本当に嬉しそうでした」

 誰が見ているか分からないから、他の誰にも聞こえないように低い声で囁いた。

「そうか、佐伯ならな。原田は本当に水族館が好きなんだな。笑ったり泣きそうになったり、本当に子どもみたいで純粋なのはよく分かったよ」

「今日のコーディネートも結花らしかったと思います。あたしにあの服は似合いませんから」

 先生は笑いながら頷いた。

「確かに、同じような高校生を見つけろというのは本当に難しいかもしれん。せっかく楽しみにしていたんだ、いつも面倒なことを押しつけてしまっている原田への罪滅ぼしだ。あいつにとっても一度しかない高校の修学旅行なんだから」

 大丈夫、先生。その気持ち、結花はちゃんと受け取ってるから。

「先生、結花のこと、よろしくお願いしますね。失礼します。お休みなさい」

「お、おぉ」

 あたしはエレベーターを待たずに、階段で駆け上がっていった。

 本当に芽生えたばかりの小さな気持をこれから見守っていこうと決心した。

<高校2年・冬>



 あの修学旅行や夏休みも遙か昔、秋の運動会も終わり、もうすぐクリスマスの足音が聞こえてくる時期。

 一足早いCMやテーマパークなどのポスターにはそんな話題もちらほら見かけるようになってきた。

 期末テストもようやく一息ついた朝、登校してきたあたしの前に小島先生が寄ってきた。

「おはようございます」

「あぁ、おはよう。悪いが佐伯、放課後に時間あるか?」

「はい。大丈夫ですよ?」

「じゃぁ頼む。後で俺のところに来てくれ」

「分かりました」

 なんだろう、先生の元気がなかった。結花との間に何かあったのだろうか。

 そう言えば、先々週に結花が風邪で休んでから、あまり元気がないことも気になる。

 これまで、先生と結花が互いを想い合っているというのは、あたしだけしか気付いていないし、二人とも表には出していない。

 もともと小島先生は誰かに贔屓(ひいき)することはしない人だ。

 結花も公私をきっちり分ける子だから、学校ではそんな身振りも見せない。

 そんな先生があんな顔をしてあたしを呼んだと言うことは、やはり結花のことなのか。

 朝からこの状態では授業もあまり身に入らない。



 放課後になって職員室に入ると、先生はあたしのことを待っていてくれた。

「ここじゃ大きな声で話せない。進路指導室に移動するな」

 通称「お説教部屋」ともあたしたちの間では呼ばれている。結花はいろいろ手伝いやら仕事で中に入ったことは何度もあるらしいけど。

 中には教室に置いてある机と椅子が6セット。三つずつを向かい合わせにしてある味気ない部屋だ。

「悪かったな。呼び出しなんかして」

「いえ。何か結花のことであったんですか?」

 普段の人前では「原田さん」と言うけれど、小島先生だけの前ではすっかり例外になっていた。

「佐伯は気付いていたか? 原田の体調のこと」

「いえ、なんだか風邪をひいてから治りが遅いとぼやいていましたけど」

 あたしが聞いているのはそのくらいだ。

「そうか……。昨日の放下後、原田のお母さんが学校に来た。その時に原田は俺に告げたんだ。手遅れになると大変なことになると」

「えっ……?」

 あたしのお父さんは製薬会社の勤めだ。あたし自身はあまり現場に連れていってもらったことはないけれど、難病に立ち向かう人のために新薬の開発は大変だと聞いている。

「間もなく学校を休んで入院するそうだ。今ならまだ間に合うと。転移する前に摘出すると言っていた」

「結花……まさか……」

 手遅れ、転移と摘出……。そのキーワードだけで分かる。元気がなくて当たり前だ。どれだけ絶望したんだろう。

 こんな今も、結花は恐ろしい病魔と戦っていることになる。

「あたしは聞いていませんでした」

「そうか、病名は自分で言うと聞かなかったそうだ」

「先生、信頼されているんですよ。あたしよりも先に先生に報告しているんですから」

 間違いない。あたしにも相談せずに、結花は一番大切に思っている人に勇気を振り絞って告げたんだ。

「必ず帰ってこいと言った。原田も必ず戻ると約束した。佐伯にもいろいろ頼んでしまうかもしれない。これは他の奴には頼めない。悪いが原田の力になってやってくれないか? 俺も出来る限りのことはする」

「もちろんです。やらせてください!」

 先生の言うとおり、これはあたしにしかできないことだ。頼まれるまでもなく、あたしは協力を申し出た。