墨を流したような夜空に、月は見えなかった。
 空には鈍色の雲が広がり、星だけがかすかな光を放つ。忍び逢いにはぴったりの夜だった。
 珀元(はくげん)国の広大な王城、午門(せいもん)をくぐり、(レンガ)の敷き詰められた大路の先の奥の奥——高く張り巡らされた(かき)の向こうに、後宮はある。皇帝の血を保存するための壺中の天。当然、皇帝以外は男子禁制で、国中から選りすぐられた美女たちが百花と咲き乱れる。
 そのうち、妃嬪の住む宮殿の一つ、永寿宮の房室(へや)で、小卓を挟んで男女が向かい合っていた。小卓の上で男と女の手は繋がれている。
(りゅう)淑妃、あなたは大きな不安を抱えていますね。特に夜、そのことを考えてしまう」
 男が柔らかな、けれど確信を込めた口調で言う。男は夜闇に溶け込む黒色の袍にやはり同色の袴を履き、細い腰を太帯でぎゅっと締めている。かそけき星影に浮かぶ横顔はまだ若く、少年といってもいい年頃だったが、夢見るような独特の眼差しが、彼に不思議な威容を与えていた。
 その向かい側で、柳淑妃と呼ばれた女が目を見開く。彼女は淑妃の身分にふさわしく、翠色の絹の襦裙(じゅくん)をまとい、肩から紗の被帛(ひはく)をかけていた。長い黒髪を結い上げた頭には輝石のきらめく(かんざし)をいくつも挿している。
 紅の塗られた唇を大きく開けて、
(えん)さま、さすがになんでもお見通しなのですね。そうなのです。最近、眠っていると外から赤子の泣き声が聞こえてきて……。きっと、亡くしてしまった私の娘たちが呼んでいるんだわ」
 美しい顔を泣きそうに歪めた。
 燕、と呼ばれた男はゆったりと頷いてみせる。
「鬼月に還ってきた魂が、まだ現世に留まっているのでしょう。朝起きたら、祠へ行って掃除をなさってください。すると公主たちの魂が帰り道を見つけますから、泣き声も聞こえなくなるでしょう」
「まあ、あの古い祠に? でも……そうね。燕さまがそう仰るならやってみますわ」
 淑妃は忙しく首を振った。それでは、と立ち上がりかける燕の手を嫋やかに引いて制し、ぐっと顔を近づける。
「お待ちくださいな。良い酒をご用意しておりますのよ。一杯だけでもお付き合い願えません?」
 笑みをかたどる唇に滴るような媚態が溢れる。だが、燕はやけにきっぱりとした笑顔で言った。
「魅力的なお誘いですが、私は仙の道を求める身。酒精は絶っているのです」
「もう、つれないひと」
 淑妃が口を尖らす。燕はその頭で傾いた釵をちょいと指で直してやりながら、低い声で囁いた。
「どうかご機嫌を直してください。また来ます」
「まあ、思わせぶりなことを言って。天眼を持つというあなたには、未来も見えているのかしら?」
「まさか。純然たる私の望みですよ」
 耳元に吹き込まれた言葉に、淑妃の頬が夜目にもわかるほど赤く染まった。