墨を流したような夜空に、月は見えなかった。
 空には鈍色の雲が広がり、星だけがかすかな光を放つ。忍び逢いにはぴったりの夜だった。
 珀元(はくげん)国の広大な王城、午門(せいもん)をくぐり、(レンガ)の敷き詰められた大路の先の奥の奥——高く張り巡らされた(かき)の向こうに、後宮はある。皇帝の血を保存するための壺中の天。当然、皇帝以外は男子禁制で、国中から選りすぐられた美女たちが百花と咲き乱れる。
 そのうち、妃嬪の住む宮殿の一つ、永寿宮の房室(へや)で、小卓を挟んで男女が向かい合っていた。小卓の上で男と女の手は繋がれている。
(りゅう)淑妃、あなたは大きな不安を抱えていますね。特に夜、そのことを考えてしまう」
 男が柔らかな、けれど確信を込めた口調で言う。男は夜闇に溶け込む黒色の袍にやはり同色の袴を履き、細い腰を太帯でぎゅっと締めている。かそけき星影に浮かぶ横顔はまだ若く、少年といってもいい年頃だったが、夢見るような独特の眼差しが、彼に不思議な威容を与えていた。
 その向かい側で、柳淑妃と呼ばれた女が目を見開く。彼女は淑妃の身分にふさわしく、翠色の絹の襦裙(じゅくん)をまとい、肩から紗の被帛(ひはく)をかけていた。長い黒髪を結い上げた頭には輝石のきらめく(かんざし)をいくつも挿している。
 紅の塗られた唇を大きく開けて、
(えん)さま、さすがになんでもお見通しなのですね。そうなのです。最近、眠っていると外から赤子の泣き声が聞こえてきて……。きっと、亡くしてしまった私の娘たちが呼んでいるんだわ」
 美しい顔を泣きそうに歪めた。
 燕、と呼ばれた男はゆったりと頷いてみせる。
「鬼月に還ってきた魂が、まだ現世に留まっているのでしょう。朝起きたら、祠へ行って掃除をなさってください。すると公主たちの魂が帰り道を見つけますから、泣き声も聞こえなくなるでしょう」
「まあ、あの古い祠に? でも……そうね。燕さまがそう仰るならやってみますわ」
 淑妃は忙しく首を振った。それでは、と立ち上がりかける燕の手を嫋やかに引いて制し、ぐっと顔を近づける。
「お待ちくださいな。良い酒をご用意しておりますのよ。一杯だけでもお付き合い願えません?」
 笑みをかたどる唇に滴るような媚態が溢れる。だが、燕はやけにきっぱりとした笑顔で言った。
「魅力的なお誘いですが、私は仙の道を求める身。酒精は絶っているのです」
「もう、つれないひと」
 淑妃が口を尖らす。燕はその頭で傾いた釵をちょいと指で直してやりながら、低い声で囁いた。
「どうかご機嫌を直してください。また来ます」
「まあ、思わせぶりなことを言って。天眼を持つというあなたには、未来も見えているのかしら?」
「まさか。純然たる私の望みですよ」
 耳元に吹き込まれた言葉に、淑妃の頬が夜目にもわかるほど赤く染まった。
 名残惜しそうな淑妃に見送られて永寿宮をあとにした燕は、墻の陰でうーんと大きく伸びをした。
 雲に覆われた空を見上げ、心の中で独りごつ。
(そりゃだいたいの人間は、夜に不安なことを考えるものよね。当たって良かった(・・・・・・・・)。それにしても、柳淑妃は本当にお綺麗で、女の私でも(・・・・・)ドキドキしちゃったわ)
 秋の始めの涼しい風が吹いて、袍の裾を揺らす。男にしては細い体がふらりとよろめいた。
(ただの少女の(しゅ)春燕(しゅんえん)が、謎の男占い師、燕なんてものになりきれるなんて。秘めたる才能が開花してしまったわね!)
 燕——いや、春燕はぎゅっと拳を握り、少年とも少女とも取れる顔でニヤリと笑った。
 そう、春燕は女の身でありながら男のふりをし、夜な夜な後宮に忍び込んでは妃嬪や女官相手に占いをしてみせているのだった。その言葉は心を読んでいるかのようと言われ、今では天眼であまねく世を見通す男占い師として密かに噂になっている。
 だが、春燕は天眼など持っていない。彼女の手にあるのは、彼女が育った賭場で覚えた話術と観察法であり、相手の様子を見てそれらしいことを言っているにすぎない。
 彼女が本当に秘めているのは——。
(とはいえ、柳淑妃の話は気になるわね)
 春燕はすっと目を細め、辺りに視線を走らせた。柳淑妃は産んだばかりの公主を亡くしている。しかしそれは数年前のこと。鬼がいるとして、なぜ今さら赤子の泣き声が聞こえるのか。
 永寿宮の周りをぐるりと歩き、淑妃の寝房のそばで立ち止まる。寝房の花窓の下に女官がうずくまっていた。
「こんばんは」
 優しく話しかけると細い背中がびくりと揺れた。女官が勢いよくこちらを振り仰ぎ、手にしたものを胸元に抱きしめる。女官の腕の中で、丸っこい毛玉がもふりと動いた。
 春燕は微笑む。
「可愛い猫ですね。雌ですか? 繁殖期は大変でしょう」
 女官の顔がみるみるうちにこわばっていく。それでもなお美しい容貌に、さすが後宮、女官も美人揃いねと呑気に思う。
 女官の腕から毛玉がぴょこりと顔を出した。つぶらな瞳を瞬かせ、にゃあん、と発情期特有の人間の赤子めいた鳴き声をあげる。
 女官が声をうわずらせて言った。
「ち、違うんです! 柳淑妃を困らせるつもりではなく……ただ、外から迷い込んでしまったようだったから、少しだけ世話をしていただけなんです!」
「本当ですか?」
 妙に乾いた声色だった。ざわり、と辺りを囲む木々がざわめく。星の散る夜空の下、春燕の黒い瞳が不穏な光を宿した。
「あなたは先帝のお手つきだった。一夜だけだったのに子供まで孕んだのですね。けれど、それを妬んだ柳淑妃に堕胎させられた……。もうすぐあなたは退官する。だから今、仕返しをしようと猫をつれてきた。発情期の猫の、赤子に似た鳴き声を利用して、娘を亡くした柳淑妃を怯えさせるために」
「ど、どうしてそこまで……」
 女官が唇をわななかせる。春燕は微笑みを崩さず、宣託を告げるように言い切った。
「私は天眼を持っているのですよ。なんでもわかります」
 もちろん嘘である。
 春燕は永寿宮に忍び込んだときに、この女官の目つきが妙に暗いのが気になった。よくよく見ると、襦裙の袖に獣の毛がついていた。そこまでは観察。
 そうして、よろめいたふりをして女官に触れ——その魂に憑依した。
 それこそが春燕の持つ本当の異能。我が身に魂を下ろす巫の技。相手に触れることで他人の魂と同化して、その記憶や思考を読み取ることができる。触れるだけで相手の魂に近寄ってしまうため、普段はできるだけ肌を覆い、誰にも触らないようにしている。
 謎の男占い師、燕の天眼の秘密はここにあった。観察や話法では補いきれない過去や感情を読み、もっともらしく言い当ててみせるのだ。
(人の心を勝手に覗くなんて良い気分ではないのだけれど)
 女官がどんどん青ざめていく。春燕はうっそりと微笑したまま、一歩、女官に近づいた。女官がその場をざっと退る。
 春燕は膝をつき、猫に手を伸ばした。猫がくんくんと鼻先をうごめかせ、シャッと威嚇する。春燕はおとなしく手を引っ込めた。
「この子の行くあてはあるのですか?」
「は……?」
「あなたの憎悪はあなたのもの。やめろなんて言う権利は私にはない。ただ、人間に利用されて捨てられる猫を見逃すことはできませんから」
「……責任を持って、私が実家に連れて帰ります」
「ならば、よろしい」
 春燕は立ち上がり、今度はさっぱりした笑みを浮かべた。まだ震えている女官の顎を、甘えるように猫が舐める。
「ずいぶんあなたに懐いているようです。小さな獣の信頼を裏切らないように」
 女官は温もりを確かめるように腕に力をこめた。にゃおん、と小さく猫が鳴いた。
 憑き物が落ちたような女官と別れ春燕は小路を急いでいた。巡邏の宦官に見つからぬよう時折方向を変えながら重いため息をつく。
(私がしたことは……正しかったのかしら)
 女官はしばらくすれば退官する。いずれにせよ柳淑妃の悩みは解決したのだ。燕さまの言う通りにしたら上手くいったと、彼女はますます燕に傾倒するだろう。
 それに異能を他人に知られれば、どう利用されるかわからない。言い当てすぎてもいけないのだ。
 ぎゅ、と袍の胸元を掴む。軋むほど奥歯を噛みしめた。
(でも私は決めたんだ。ここで……後宮で、必ず)
「そこにいるのは誰だ?」
 突如低い声が響いて、春燕はひゅっと息を呑んだ。振り向く暇もあらばこそ、腕を掴まれ足払いをかけられて固い磚の上にひっくり返る。したたかに腰を打ちつけて呻き声が漏れた。
「な……っ」
 とっさに上半身を起こし、素早く頭を上げる。春燕を打ちのめした相手はずいぶん長身で、体つきは鍛えているのか逞しい——まるで、男のように。
 強く風が吹きつける。雲が流れる。月が現れて、銀の光が辺りに降り注いだ。
 月影に照らし出されるのは、世にも美しい白磁のかんばせ。切れ長の瞳は鋭く、すっと通った鼻筋に、形の良い薄い唇が引き結ばれている。恐ろしいほどの美丈夫だった。
 身にまとうのは紫色の長袍、深紅の袴、腰帯に下がる玉佩は翡翠。
 射干玉の髪は一部だけ結われ、残りは背に流されている。前髪の幾筋か目元に垂れ落ちて、妙に﨟たけて見えた。その奥で、底光りする瞳が春燕をとらえた。
 ぞく、と背筋が震える。
 間違いない。こんな装いが許される人間はこの世に一人しかいない。そもそも後宮は男子禁制で、もちろん春燕のように忍びこむ輩もいるけれど——。
 勝手に震え出す体を懸命に押さえ、春燕は呆然と呟いた。
「こ、皇帝陛下……」
 (はく)瑞薛(ずいせつ)。暴虐を振るう父帝を殺し、若くして珀元国の皇帝の座についた男。外朝ではその辣腕で腐敗した宮廷を一掃しているという。情け容赦のないやり方に、ついた二つ名は〈冷徹帝〉。
 瑞薛の眉が持ち上がる。愉快そうに唇の端を吊り上げた。
「さすがに俺の顔は知っていると見える。天眼とやらは教えてくれなかったのか? 後宮に入りこんだ男がどのような末路を辿るのか。なあ、いかさま占い師の燕」
 バレている——。
 春燕は目を閉じる。万事休す。ここから巻き返す方法がわからない。
 瞼の裏に、一人の少女の顔が浮かぶ。灰色の雪景色の中、墨を一雫垂らしたように鮮やかな美貌。春燕より少し年上の、たった一人の親友。
(ごめん、ごめんね、(せつ)。私、あなたの力になりたかったのに。ここまでみたい)
 慕わしい少女の紅唇が動く。最後に会ったとき、彼女はなんと言ったのだったか。可憐な容貌に相反して、凛とした声だった。
『春燕、必ず、あいにきて』
 瑞薛がふっと笑った。慈悲深げな声音で、撫でるように問う。
「お前の行く末を決める前に、一つだけ聞いてやろう。——なぜ、ここにきた?」
 目を開ける。目尻に涙が滲むのを振り払う。思考を巡らせ、なんとかこの場を切り抜ける道を見つけようとする。嘘か? はったりか? 異能か? なんでもいい。助かるためならなんだって使ってやる。
 そう決めてキッと視線を上げ、瑞薛と目があった。彼はずっと春燕を見つめていた。断罪するというよりは、春燕の答えを見守るような眼差しだった。
 とたん、体から力が抜けていく。その瞳に見据えられると、なぜだか虚勢がぽろぽろと剥がれていった。どこか懐かしいような気もして、嘘をつこうと思えなかった。なんでも使うと誓ったのに、口からこぼれたのはただ一つの真実だった。
「——友人に、あいにきたのです。私の大切な、雪という名の女の子に」
 瑞薛の目がわずかに瞠られる。その変化に春燕が眉を寄せる前に、彼の顔には冷え冷えとした翳が被さった。
「ほう?」
 いかにも冷徹な皇帝らしい、重々しい口調で言う。
「ならば、お前には利用価値がある。来い」
 春燕が雪に出会ったのは、まだ八歳の冬だった。
 その頃春燕は、家族とともに山深い(むら)に住んでいた。山肌に張りつくようにして建てられた城砦。そこに春燕たちは——朱一族は飼われていた。
 飼い主は時の皇帝だ。朱一族は皆、大なり小なり異能を持って生まれる。それを独占して利用するため、皇帝は多大な庇護と引き換えに一族を自由に使った。政敵の暗殺、要人の警護、敵国への諜報。人ならざる力を使えばなんでもできた。
 春燕が雪に引き合わされたのもそのためだ。
 花びらのような雪が舞うある日、きらびやかな襦裙をまとった少女が春燕の前に現れた。立派な長袍姿の従者が、彼女を雪と紹介した。
 春燕はぽかんと口を開けて、雪に見惚れた。名に違わぬ真っ白な肌に真っ直ぐ伸びた濡羽色の髪が鮮やかで、いつまでも目が離せない。見たことのないほどの美少女ぶりに、宮城の公主だろうと合点した。
 春燕の父は雪に向かって恭しく拱手(きょうしゅ)し、呆ける春燕に告げた。
「この方を命に代えてもお守りしろ。いざとなれば身代わりにお前が死ね」
 春燕の幼い心は浮き立った。春燕の異能は一族の中では軽んじられていた。大した強さでもない、触れなければ発動できないなんて役立たず、と馬鹿にされる日々。そんな中で自分に任された大役に奮い立った。
 もちろん、と大きく頷こうとしたところで、強い声がその場を圧した。
「こんな幼子に、命を賭けさせる必要があるのか」
 それが雪の唇から発されたものと知って、春燕は驚いた。鈴の鳴るような可憐なものと想像していたのに、少し掠れて颯然とした響きだった。
 おろおろとする父を尻目に春燕は雪を見上げる。雪の方が年上なのか、頭一つ分彼女の方が背が高い。
 濡れたような黒い瞳の下には、隠しようもなく隈が浮いている。青ざめた頬が削げていた。ここにたどり着くまでにどれほどの苦労があったのか春燕にはわからない。けれどその中で身代わりとなる子供を気遣うような心根が春燕には嬉しかった。
「雪さま、いいのです。私たちは皇帝陛下の影。いかように使われようと、それが一族の喜びなのです」
 雪の顔が痛ましいものを見たようにしかめられる。ふ、と春燕から目を背け「……勝手にしろ」と呟いた。
 それから春燕はずっと雪のそばにいた。雪の後ろをちょろちょろ追って、あれこれ話しかける。雪は押し黙っていたが、ついてくるなとは決して言わなかった。
 そんなあるとき、雪が怪我をした。竹藪に入りこみ、尖った葉の先で手の甲を切りつけてしまったのだ。春燕は大いに慌てた。雪は平気そうに「こんなもの、放っておけば治る」などと雑に手巾を巻きつけようとしたが、春燕が止めた。
「お待ちください。今こそ私の出番なのです」
「……ふうん? 春燕が手当てしてくれるの?」
 雪が興味を持ってくれたのが嬉しくて、春燕は張り切って彼女の手に触れ異能を使った。
 目を閉じて魂へ憑依する。同化を深くする。切れ切れに過ぎる雪の記憶はなるべく見ないようにして、ただ雪の魂に寄り添う。
 やがて春燕の手の甲に、全く同じ切り傷が浮かんだ。入れ替わるように雪の傷が消えていく。
 雪が息を呑む。ぐらぐらする頭を押さえて春燕はにっこり笑った。
 懸命に異能を強化した成果だった。単に魂に憑依するだけでなく、深く同化することで物理的な傷を自分の体に移す。まだ浅い傷しか移せないが練習すればもっとひどい傷でも移せるようになるだろう。
 春燕は得意満面で雪を見上げた。きっと褒めてくれるだろう。とても役に立つね、と優しく言ってもらえるだろうと。
 けれど雪は強く春燕の手を掴むと、
「馬鹿っ」
 焦ったように言って手巾で春燕の傷を塞いだ。
 きょとんとする春燕に雪は眉尻を下げて言い含める。
「こんな方法で助けられても、嬉しくもなんともない! もっと自分を大切にして。春燕が傷つく方がよっぽど辛いよ」
「でも、お役に立ちたくて……」
 しょんぼり肩を落とす。どうしたら雪に喜んでもらえるかわからなかったから、春燕が持っている一番価値あるものを渡そうと思ったのに。
 雪は嘆息してぎゅっと春燕の肩を掴んだ。
「それなら、その力を使うのは、私だけにして。誰にでも使ってはだめ」
 肩を掴む力は痛いほどだった。けれどちっとも嫌ではなかった。雪の震える手から、心配してくれているのだと伝わってきた。
「は、はいっ」
 それから二人の距離は縮まって、親友となった。雪と過ごしながら春燕はいつも密かに願っていた。
 ——どうか、いつまでもこのままで。
 それは叶うはずのない願い。春燕は知っていた。雪には本当の居場所があることを。彼女を待っている人が、邑の外にはたくさんいることを。
 そして別れは訪れる。
 ある冬の夜、雪道を従者が歩いてきて、雪を王城へ連れていくと宣言した。
 春燕はべしょべしょに泣いた。王城のことは噂に聞いていた。今の皇帝はとんでもない暴君で、困窮する民は見て見ぬふり、自分は後宮で美女と戯れ、気に入りの家臣に惜しみなく金銀財宝を与えるのだと。
 雪の襦裙の袖にすがって春燕は叫んだ。
「雪みたいに綺麗な女の子が王城に行ったら、きっと後宮で酷い目に遭わされるよ!」
 行かないで、と咽ぶ春燕の頭を、雪の手が優しく撫でた。
 その温かさにおそるおそる顔を上げる。雪は微笑んで、そっと春燕の手を握った。
 そうして春燕の手の甲に、花びらみたいな唇を押し当てる。
 柔らかな感触に春燕はぽかっと口を開けた。初めて触れる雪の唇は熱をまとってこちらの心臓まで焦がすようだった。
 のぼせた春燕の瞳を、雪が覗き込む。ひどく真剣な顔つきだった。
「だったら約束して。春燕、必ず、あいにきて」
「ぜ、ぜ、絶対いく!」
 それを最後に、雪と別れたのだ。
 そのあと朱一族は先帝への反逆罪で邑ごと焼かれ、運良く生き残った春燕は人里を転々として賭場の下働きとして身を落ち着け、なんとかここまで過ごしてきたのだが。
 春燕が引っ立てられたのは、後宮の中央に位置する皇帝の正寝だった。
 豪奢な紫檀の椅子に座る瑞薛の前で頭を垂れ、春燕はぼそぼそと過去を話す。女であることは伏せて、異能については全ていかさまで、生まれ育ったのはただの山奥の邑だったことにした。手札を全て晒すことはない、というせめてもの抵抗だ。
 春燕の邑の末路を聞いて、瑞薛が唇を噛んだ。
「……反逆罪で焼かれたなら、その邑は俺のために犠牲になった。当時、皇子であった俺を践祚させようと協力してくれた者たちがいた。その中の一つだろう。お前の苦労の一端は俺に責任がある。謝罪はしない。もう一度時が戻っても、迷わず同じことをする。だが、彼らの献身を忘れたことはない」
 春燕は床を見つめたまま目を瞬かせた。そうか、と思う。
 瑞薛は、暴虐を極めた先帝である父を弑して玉座についた。それには多かれ少なかれ朱一族の暗躍があったのだろう。朱一族は今上帝への絶対忠誠を破り、そして滅ぼされた。
 心臓がちくりと痛む。両親にとりたてて可愛がられた記憶はないが、血の繋がった家族なのは確かで、夢に出てきた両親の面影に泣いた夜もある。でもそれは遠い過去の話で、すでに春燕の手の及ばない事象だった。それよりも、春燕には大切なことがある。
 だから、ゆっくりと首を横に振った。
「いえ、雪に会わせていただき、命を助けていただければ、他には何も望みません」
「結構図太いな」
 瑞薛が呆れたように鼻を鳴らす。春燕は内心だらだら冷や汗をかいていた。
(陛下は私に利用価値があると言った。だからすぐに首を刎ねられることはない、はず。最初に大きな望みを言って断られたあとに、本当の要求をした方が通りやすいのだけれど、言い過ぎかしら⁉︎)
 瑞薛は何かを考えるように宙空に視線を彷徨わせる。そうして、ふむ、と頷いた。
「幼い頃に会ったきりの友人のためにそこまでするのか。さてはその女に惚れているな?」
「ほ……っ」
 春燕は絶句した。女同士で何を、と反駁しかけ、今の自分が男だったことを思い出す。
「悪いですか? それに雪とは手紙のやり取りをしていました。後宮に忍び入ったのもそれと関係があります」
 思わず顔を上げた春燕を咎めることもせず、瑞薛は椅子にもたれかかる。
「手紙になんの意味がある。文ばかり寄越して会えるわけでもない。涙を拭うことも、抱きしめてやることもできない。そんな奴は見限って、さっさと忘れても誰も咎めないと思うが」
「そんなことはありません!」
 春燕の大声が四方の壁に響き渡った。瑞薛が驚いたように目を丸くする。自分の立場も忘れて、春燕は言い募った。
「実際に何をしてくれるかなんて関係ありません。私を心に留めてくれる人がいる。ただそれだけの事実がどれほど慰めになったか……」
 春燕だって、会えるなら会いたかった。また一緒に話したかった。でもそれが叶わぬ望みだと知っている。雪の手紙にはいつだって春燕への労りが満ちていた。風邪を引いていないか、お腹を空かしていないか、寂しくないか。賭場の下働きで、孤児の春燕を気にかけてくれる人はいない。それでもあの美しい雪だけは自分を忘れないでいてくれるのだと思うと、なんだか救われたような気持ちになるのだった。
「あと、ときどき雪は食べ物も一緒に届けてくれたので助かりましたし」
「……なら、よかったが」
 気圧されたように瑞薛が頷くので、春燕は荒らげた息を整えた。
 瑞薛が「それで」と言葉を継ぐ。
「その手紙と後宮でいかさま占い師をやっているのはなんの関係があるんだ」
「……私の、十八歳の誕生日に、手紙をもらいました」
 春燕はわくわくと料紙を広げた。雪の手紙はいつも男の従者が持ってきて、春燕が読んだあとに従者が回収していく。きっと春燕を厄介ごとに巻き込まないためなのだろう。雪と従者の関係は知らないが、手紙を読む間中、従者は春燕をやけに凝視してくるので少し苦手だった。常に披風(マント)を目深に被っていて得体も知れない。
「誕生日のお祝いの言葉とともに、これでもうやり取りはやめようと。二度と手紙も送らないし、会いに来なくていい。約束は反故にすると。そう書かれていました」
 俯く春燕を、瑞薛がじっと見つめる。
「……会いに来るな、と言われたのだろう。大人しくしておけ」
「しかし、突然そんなことを言うなんて変です。雪の周りで何か困ったことが起きたんじゃないでしょうか。だから心配で、力になりたくて、ここまで来ました。王朝交代でごたついていて、監視の目が緩かったんです。高墻深院、門戸厳重の後宮に入れるのは今しかないと思ったら居ても立っても居られませんでした」
 しばらく、正寝には沈黙が落ちた。漏窓の外で吐息のような葉擦れの音が響く。
 雨粒が地を打つように、瑞薛が言葉を落とした。
「……十八、か」
 春燕は目線を上げた。瑞薛はしみじみとした口調で、
「結婚だって考える歳だろう。雪という女は、お前を自分から解放したかったんじゃないか」
「本人の口からそう聞けたら帰ります。言う通りに、その辺のおと……女の子と結婚して前向きな人生を歩みます」
「へえ、あてがあるのか?」
 瑞薛の闇色の瞳がひたと春燕に据えられる。胸底にざわつきを感じながら、春燕は頷いた。
「両手に余るくらいには」
 燕は妃嬪や女官になかなか人気だ。結婚のあてがないという答えはふさわしくないだろう。春燕自体は今まで男性から口説かれたこともないが、それはそれだ。
「……なるほどな?」
 それが妙に恐ろしげな響きで、春燕はぶるりと体を震わせる。急に室の温度が下がったような気さえする。瑞薛は肘をつき、眉間に深い皺を刻んでいた。
(な、なぜ不機嫌そうなの? 陛下ならよりどりみどりでは?)
 瑞薛は黙り込み、話し出す様子もない。こほんと咳払いをして、春燕はいやに重い空気を打ち払った。
「それで、私の利用価値とはなんですか?」
 瑞薛の顔つきが引き締まる。春燕もすらりと背筋を伸ばす。そもそもそのために正寝へ連行されたのだ。
「まずは、これを見ろ」
 瑞薛がすっと右腕を伸ばした。左手で肘まで袖をまくりあげる。
 その手首から肘に向かって、蛇がまとわりつくように、黒々とした紋様が浮かんでいた。禍々しく皮膚に刻まれているように見える。
「これは……」
 春燕は呼吸を呑み込む。瑞薛が重々しく頷いた。
「呪いだ。王城の呪術師によれば、この呪紋が心臓に届いたときに俺は死ぬらしい」
 その言葉の意味に、春燕の喉の奥でヒュッと息が鳴った。
 ——誰かが皇帝を呪殺しようとしている。
 瑞薛は苦く笑いながら、
「呪術師でも解呪できないものだ。呪いをかけた張本人を探すしかない。外朝を探したが、下手人は発見できなかった。他に探していないのはここだけだ。今や俺のものだが、かつて先帝のために百花が集められた後宮。いくらでも容疑者はいると思わないか?」
 瑞薛の視線を受け、春燕はかすかに顎を引く。息をひそめ上目に瑞薛を見やった。
 彼の言うことは道理だろう。だが、自分が巻き込まれる意味がわからない。
 瑞薛が口を開く。
「そこで、燕の名声を利用させてもらう。天眼を持つ占い師が皇帝のために働くとなれば、下手人にも動きがあるだろう。そこを叩く」
 春燕はおずおずと訊ねた。
「具体的には?」
「俺のそばにいろ」
 間髪いれず返ってきた答えに、春燕はびくりと身をすくませた。瑞薛の強い視線が春燕を射抜く。その声も瞳も凄みを帯びて、逃がすまいと縛りつけるようだった。春燕の額に汗が浮かぶ。指先一つ動かせない。
 落ち着いて、と必死に自分に言い聞かせる。取り乱すのは燕には似合わない。大きく息を吸って、吐いて、こわばった目元を緩める。
 なるべく軽やかに、春燕は言った。
「陛下が後宮に御渡りになるときに側仕えをすればよいですか?」
「いや、それ以外もずっとだ」
「……へ?」
「朝起きてから、夜眠るときまで。俺から離れることは許さんぞ。できるな? 大切な友人のためなら」
「な……」
 愕然と言葉が途切れる。足から震えが立ち上り、思わずその場でよろめいた。女の身、後宮に侵入した罪、異能、いかさま、雪の横顔。色々なことが脳裏をぐるぐる回り、視界が眩む。
 瑞薛がにやりと唇の端を吊り上げた。
「見事犯人を捕らえたら、雪とやらに会わせてやろう。それに、褒美として後宮に忍び込んだ罪も取り消す。どうだ?」
「やります‼︎」
 拳を振り上げて即答しながら、春燕は頭の隅で冷静に考えていた。
(陛下は雪のことを知っている。もしかすると妃嬪にしようとしている?)
 雪はとても綺麗だったし、やんごとない身分だろう。ありうる話だ。それなら瑞薛の提案を信じてもいいかもしれない。
(それにしても、私は女であることを隠し通せるかしら。まあ大丈夫か。陛下はどうやら巨乳好きっぽいし!)
 そもそも春燕が男に扮して後宮にいるのは、女官になれなかったからなのだ。
 後宮を探るなら女官になるのが手っ取り早い。そう考えて女官を管理している官府(やくしょ)を訪ねたところ、そこにいた老婆はじろじろと春燕を見て、はん、と小馬鹿にしたように笑った。
 ——皇帝の命令でね、胸の豊かな娘しか後宮には入れんのさ。あんたじゃ無理だ。百年後に出直しな。
 そのときの憎たらしい老婆の顔を思い出すと、今でも胸がむかついてくる。老婆いわく俎より貧相な胸が。
(こんな男に嫁いで……雪は大丈夫かしら。いえ、絶対に私が守る!)
 春燕は密かに心に決め、けれどそんなことはおくびにも出さずに拱手した。
 春燕が室を退出したあと、瑞薛は背板にもたれて深々と息を吐いた。
 心臓が強く脈打っている。呪いに侵された右腕の痛みも気にならなかった。
 こんなに長く、あの愛おしい少女(・・)と話したのは実に十年ぶりだった。
(まさか『雪』のために、本当に後宮にやって来るとは。手紙で別れを告げたのに)
 かつて朱一族の邑で過ごした日々が蘇る。あのとき瑞薛は、皇子による放伐を疑った父帝に殺されそうになり、「雪」という少女になって王城を落ち延びたのだ。
 父帝によって滅ぼされる城市(まち)、困窮に喘ぐ民、父を討つには力の足りない自分。何もかもが苦しい中で、無邪気に自分に懐いて、くるくると表情を変える春燕は救いだった。ずっと一緒にいたい、と場違いな望みを抱いてしまうほどに。
 皇帝になってからも春燕のことを忘れられず、雪の従者のふりをして四季折々に手紙を送り、時折食糧を届けた。郷里を失った春燕が、賭場の下働きとして辛い生活を送っているのを知りながら、何もできないのがもどかしかった。それなのに春燕は雪からの手紙を嬉しそうに読み、宝物のように胸に抱きしめる。何度さらってしまいたいと思ったことか。
 だが、瑞薛には皇帝であることを捨てられない。それは恋や愛のために投げ捨てられるほど軽いものではない。
 だから十八歳になって、成人を迎えた春燕の手を離したのだ。もうこれ以上自分に縛りつけておくことはできなくて。
 瑞薛の口元に憫笑が浮かぶ。
(一度は逃がしてやろうと思ったのに)
 男占い師になるなんて誰が思いつくだろう。男装の春燕はすっきりとした美少年で、それが謎めいた雰囲気をまとわせているのだから、妃嬪や女官が騒ぐのも無理はなかった。
 唇を指先で撫でる。春燕が出ていった戸を鋭く見つめ、独りごちた。
(自ら俺の元にやってきたのは春燕の方だ。もう躊躇いはしない)
 そのとき、室の奥に隠された扉が開いて、二人の男が姿を現した。
「陛下。なんです、あの男は? 胡散臭いにもほどがあるでしょう。信用なさるのですか?」
 険しい声で言い立てるのは()浩宇(こうう)。きつい顔立ちの青年で、冢宰として瑞薛にも遠慮なくものを言う。
「まあまあ浩宇殿。陛下の決めたことですから。それに僕は、あまり悪い印象は受けませんでしたよ。占いの方法も面白いですし、好きな女の子のために頑張る健気な人じゃないですか」
 一方なだめるように言うのは(よう)仔空(しくう)。瑞薛の侍従で、垂れ目がちの目が柔和な雰囲気を漂わせている。
 二人は室の外に作られた隠し部屋で待機して、一部始終を聞いていたのだ。
 腕に抱えた銀盤を、仔空がそばの卓に置く。銀盤には薬湯がなみなみ満ちていて、つんとした香りが室に漂った。
「陛下、腕を失礼しますね」
 仔空が薬湯に手巾を浸し、瑞薛の腕に巻きつけていく。呪いの進行を抑えるための処置だった。
 それを見ながら浩宇が訊ねる。
「……呪いには、あとどれくらいの猶予があるのですか」
「一月ほどだろう、と呪術師は言っていたな」
「それなのに、あんな怪しい占い師にかかずりあっている場合ですか⁉︎ 後宮を虱潰しに探して片端から尋問すれば……」
「そのような分別のない方法は取らない。それに、騒ぎに乗じて逃げられても困る」
 ぐぬ、と浩宇が押し黙った。仔空がてきぱきと処置を進めながら、
「陛下のやり方も一理あるんじゃないですか? 呪いには呪いをぶつけるんですよ。呪詛返しを恐れた呪術師が尻尾を出す可能性も十分ありますし」
「だが、こんな不確実な……」
「二度言わすなよ、浩宇。それに俺のことを心配する必要はない。呪いが解けずとも、死なない方法はある」
 浩宇の顔が歪む。仔空もさっとおもてを俯けた。
「陛下、あのやり方を取るおつもりですか? 私は大いに反対ですよ」
 浩宇の言葉に、仔空も顔を上げる。
「僕もです。あれは最悪の手段です」
 二人の視線を受けて、瑞薛は肩をすくめた。
「この国はまだ落ち着いたとは言い難い。俺という皇帝が必要だろう? 簡単に死んでやるわけにはいかない。生き延びるためなら何だってするさ」
 そう語る声の底には烈しいものが流れていて、浩宇と仔空は何も言えずにただ頭を下げる。浩宇が口惜しそうに拳を握った。
「私は引き続き、後宮の人間の調査を進めます」
「僕は呪術について調べます。府庫の古文書にあたってみます」
「ああ、よろしく頼む」
 瑞薛は手を振って二人を下がらせた。
 しん、と室に静寂が広がる。右腕を上げて、手を閉じたり開いたりを繰り返した。仔空の処置のおかげでだいぶ痛みは軽減されていた。
 この呪いのことを、そう深刻にとらえたことはない。二人は大反対するが死なない方法はあるのだ。
 だが春燕の力を借りて解呪できるなら、瑞薛は一度に二つのものを手に入れられる。自分の命と、春燕とを。
 とはいえこれは危うい賭けだ。春燕の身を危険に晒しかねない。絶対に自分から離れるなと言いつけたのもそのためだ。いつでも守れるよう、目の届くところにいてもらいたい。
 それにしても、と瑞薛は目を上げた。
(なぜ春燕はわざわざ男になりすましたんだ。普通は女官でいいだろう)
 瑞薛は知らなかった。この後宮は徹頭徹尾父帝の好みで構成されていることを。彼は践祚してから一度も後宮に足を踏み入れたことはなかったし、興味もなかったのだ。
 春燕の誤解が解ける日は遠い。