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 治と娘の祝言が挙げられた日を境に、月日は目まぐるしく過ぎていく。

 夫婦は子宝に恵まれ、誰もが理想とする幸せな家庭を築いた。畑仕事に精を出し、やがて出稼ぎのために治が里を離れた。
 転機が訪れたのは、その直後。

 治が留守にしている間に妻は流行病に罹り、看病も虚しく、子らに看取られながらこの世を去る。
 電報を受け、急ぎ帰った治が、どれだけ嘆き悲しんだか…。

 その後の治の家は、花が萎れるが如く、みるみる凋落(ちょうらく)していった。
 愛していた妻の死に囚われ続ける治。子らは皆逃げるように家を離れ、一人残された治もまた、心労が(たた)り体を壊す。
 日を追うごとに衰弱していき、緩やかに死へと向かっていく治。
 医者からも「手立て無し」と見放された彼は、(つい)の住処として、慣れ親しんだ山中のあの小屋を希望した。

「あれは、僕の思い出の場所なのです。ですからどうか、連れて行ってください…。どうか…。」

 病床に一人残された治は、昔山中の小屋に追いやられた頃の姿そのものであった。今や彼の身を案じる家族の姿もない。

「………白雪………。」

 最後の力を振り絞って書いた手紙を握りしめたまま、治は一人、孤独に逝ってしまった…ーーー。


 私は長らく遠目から、(おさむ)ら家族の様子を静観してきたが、あの小屋の中で静かになってしまった治を、どうしても一人ぼっちにしておけない。
 とうとう彼に見せることが叶わなかった“人間の女”の姿に化け、私は治の枕元に現れた。

 この数十年で、私はすっかり美しさに磨きをかけた。見目麗しさも、白髪の艶やかさも、細やかな所作も、…おまえが一目でも私を見れば、虜になってしまうような姿に仕上がっていた。

「ーーー治、久しぶりね。」

 だが、数十年来の友は、(とこ)に伏したまま、もう目覚めることはない。

 深い皺の刻まれた顔。かつては黒々としていた髪も、今や蚕の糸のように白く細くなってしまった。痩せた頬からは血の気が失せて、あのへらへらした笑顔の面影が感じ取れない。屈託の無いあのつぶらな目が、私を映してくれることは二度とないのだ…。

 私は、治の握り締めていた手紙を手にする。その宛名は、家を出た子どもらでも、亡くした妻でもない。

 「私」だった。「白雪」。彼が名付けてくれた私の名で、その手紙は始まっていた。

『白雪

大病を患ってからというもの、僕の頭に浮かぶのは、妻でも息子らでもない。君の美しい白毛だった。
僕の大切な友。叶うことなら最期にもう一度、君に(まみ)えたかった。

一縷の望みにかけて、この手紙を遺すことにした。もしこれを君が読んでくれたなら、どうか、後生ですから。お願いします。
僕の哀れな孫を、守り育ててやってください。

僕の息子らが非行に走り、我が子一人満足に育てられないような人間になってしまったのは、他でもない親の僕の責任である。心の弱いこの僕が招いた結果である。
その償いを、友である君に託すことの卑怯さも、重々承知している。
君は優しい男だから、僕と僕の家族のことを、陰ながらずっと見守っておられることだろう。』

「………。」

 まだ文の途中だというのに、私は一旦目を逸らさねばならなかった。経験したことのない暗く醜い感情が湧き上がってくる。胸が刺すように痛むのだ。目は瞬く間に霞み、頭の中で鈍重な鐘の音が鳴り響く。

 この数十年、私が姿を見せずとも、治ら家族のことを陰ながら見ていたことを、治は知っていたのだ。この手紙は一縷の望みなどでなく、意図的に私へ送られたものであった。

 人ですらない、ただの鼬だというのに。あろうことか、物の怪のこの私こそ、安心して身内を託せる存在だと、治は心に決めていたのである。
 治は、それほどまでに私を待っていた。私を信じていた。…それどころか、“私が女であるはずがない”ことも、少しも信じて疑わなかったのである。
 その純朴さが、その朴念仁(ぼくねんじん)ぶりが、…今の私にはひどく腹立たしく、そしてひどく愛おしかった。

 手紙は、こう締め括られる。

『その上でどうか、放任された幼い孫息子を、保護してほしいのです。
僕に頼れるものは他にありません。
僕の大切な身内を、大切な君に託したいのです。どうかお願いします。
お願いします。』

 手紙の震えた筆跡を目で追いながら、私は唇を噛んだ。血が滲み、口の中に鉄の味が広がる。

「…ああ、治。おまえは本当に、本当にひどい人だわ。なんて厚かましい人。大馬鹿者…。」

 私を一人ぼっちにしておきながら、おまえと同じ血が流れた子どもを、私に託すだなんて。
 この私が、おまえの住み慣れた町を離れられないことを。大切なおまえと同じ人間を憎みきれないことを、知らないでしょう。

 毎年雪が降ると、おまえと過ごしたささやかな日々を思い出してしまうことなど、ついぞ考えもしなかったでしょう…。
 おまえから離れがたくて、未だに心はこの小屋と、あの冬の思い出に囚われたままだということを、おまえが知ることはもう二度と無いのよ…。

「……大馬鹿者だわ…。」

 すっかり紫のゆかりに染められてしまった。大馬鹿者は私のほうだったのだ。とうの昔に。


「……良いわ、治。
おまえの大切な坊やは、私が守り育ててあげましょう。命に代えても。」

 こんなにも寂しく、こんなにも腹立たしいのに、大切な治の末期(まつご)の願いだけは、何としてでも果たさねばという使命感に駆られる。

「……ああ、そう。
これが…恋しいということなのね…。」

 皮肉だこと。
 あんなにおまえを嗤っていた私が今、同じ思いに苛まれているのだからね。
 いくらでも自覚する時間はあったというのに。伝えようと思えば伝えられたのに。おまえがいなくなってから、やっと後悔するなんて、私は本当に…なんて大馬鹿者かしら。

「治、きっとおまえは勘付いていなかったでしょうね。
優しいおまえのことだから、もし勘付いていたら、私を受け入れようとしてくれたはずだもの…。」

 そんな未来も、ひょっとするとあり得たかもしれない。

 しかし全ては過ぎたこと。
 おまえの言葉を借りるなら、前向きにならねばいけない頃合いね。いつまでも思い出に囚われず。

 手紙を握り締め、私は治の眠る小屋を後にした。彼のための黒の着物は偶然にも、通夜の別れにお(あつら)え向きの装いとなり、それが(かえ)って、彼との良い決別となった気がした。

 私は一人、山を下りる。変化し慣れた、淑やかな女の姿で。
 この先、私が元来た道を振り返ることも、あの小屋を再び訪れることもないでしょう。

 他でもない愛しいあの人が、この私に未来を託してくれたのだから。


〈了〉