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 手始めにおれは、治と最初に交わした約束を大胆にも破る。山の麓の里に下り、畑という畑をめちゃくちゃに踏み荒らした。

「なんだ!なんだ!」
「何事だ!」

 当然、住民達は大慌てで家から飛び出し、集まってくる。しかしそこで暴れ狂うは、身の丈八尺に及ぶ、白毛の恐ろしい化け物である。虎のように隆々に育ち、しかし風のように軽やかに身をくねらせる、鼬の物の怪である。ただの人間に、手を出す勇気があるものか。

「こら、何をしている!やめないか!」

 騒ぎを聞きつけた治が走ってやって来た。そしておれの姿を見るなり、自慢の怪腕を奮い、巨大な白鼬を軽々と投げ飛ばして見せたのだ。
 おれは「きゅん」と弱々しい声をひとつ上げ、一目散に山へと逃げ帰ってゆく。

 恐ろしい物の怪に臆さず立ち向かった治青年は、一躍里の英雄となった。
 腕っ節は勇猛な男子の証として讃えられ、もう以前のように、治を腫れ物のように遠ざける者はいなくなったのだ。
 そんな後日談を、山中の治の小屋で聞きながら、おれは大いに満足な心地になった。

「だから言ったろう。おれに任せたお陰で、すべて上手くいった。」

「ああ、本当にありがとう白雪。こんなに皆に頼られるのは生まれて初めてだから、なんだか気恥ずかしいやら嬉しいやら、忙しない心待ちだよ。」

 治は控えめに笑うが、おれの背中を撫でる手がいつもより力強い。心から喜んでいる。
 どうしたわけか、彼の喜びが伝わってくると、おれは得意げな気持ちとは別な思いに駆られた。喜んでいるのは治なのに、おれまでも一緒に嬉しくなってくるのだ。畑の野菜を掘り返した時も、家畜の鶏の羽を毟った時も、こんな気持ちにはならなかったというのに。

里長(さとおさ)が、里の中に僕の住処(すみか)を用意してくれるというんだ。仕事も与えてくれるという。」

「それは良いことか?」

「ああ。今よりも安定した暮らしが送れるんだ。いつもいつも、君の獲物を貰ってばかりは申し訳ないからね…。」

 冬の深い雪の中から野兎や野鳥を探すのは、人間には至難の業だ。だからこの時期は、おれが代わりに獲物を獲り、治に食わせてやっていた。たかが、そんなこと…

「おれは何とも思わない。仔鼬(こいたち)が一匹増えたようなものだ。」

「それでも、僕は君に依存しきりだったからね。それは申し訳ないのだよ。…ただ、人里に下りるということは、君に会う頻度が減ってしまうことだから、それだけは気がかりだ。」

 治の、おれを撫でる手が弱々しくなる。
 奴はどうやら背中を押してほしいらしい。人の輪の中での暮らしは、治の憧れだ。しかしそれを即断即決出来ない程度には、ただの一匹の白鼬への恩情もまた、治の中に強く根付いている。
 人里と山。どちらが、治が幸せに暮らせるか。そんなこと、考えるまでもないだろう。

「小僧、おれは誇り高い鼬だぞ。小便臭い人間の小僧の世話をしなくて済むなら、この上ない幸せだ。」

「ははは…君は冷たい男だ。荒っぽくて、ひどい奴だな。」

「おまえに好かれようとは思わない。」

「そうかい。僕は(しと)やかな(ひと)が好きなんだ。
…実は、僕に友達が出来そうなんだ。人の友達だ。里長の一人娘なんだが、とても礼儀正しくて、綺麗なひとなんだ。仲良くなれたら、白雪にも紹介させておくれ。」

「人間はもっと好かぬ。」

 治のおれを撫でる手が、再び力強くなったのを感じた。奴の心がどこにあるかなど、言うまでもない。
 おれは、その手が次いつ撫でてくれるか分からないものだから、憎まれ口を叩きながらも、決して身を(かわ)したりはしなかった。

 治が小屋を出たのは、それから程無くだった。

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