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 それから数日後、小鈴と夕飯を食べ終えた蘭玲のところへ呼び出しがかかった。
 景旬殿の庭に集められた衛士たちに向かって隊長の浩然が訓示を与えた。
「今宵、皇帝陛下が後宮へお運びになると伝達があった。くれぐれも油断のないように目を配るのだ。良いな!」
「ははっ!」
 一斉に駆け出す衛士たちに続いて蘭玲も持ち場につこうとすると、浩然に呼び止められた。
「おい、嵐雲」
「はい、何でしょうか」
「陛下がお通りの際は顔を見てはならないぞ。警護の目を緩めてはいかんが、顔を向けてはならぬからな」
「分かりました」
 街中でも玉座でも玄龍の顔を見ているので今さらだが、なにも話を複雑にすることでもない。
 顔色を読まれるのも面倒だから素直に受け止めておくのが一番だ。
「いやしかし、久しぶりで緊張するな」と、浩然が肩を回す。「どういう風の吹き回しなんだろうな」
「皇帝は後宮にあまり来ないんですか」
「馬鹿野郎!」と、いきなり怒鳴られる。「恐れ多い言葉を口にするな。陛下である。気をつけろ」
「はあ……」
「陛下は即位されて以来、政治的課題を優先させておられるせいで、ほとんど後宮へお越しになることがないのだ」
「そうなんですか」
「あまり大きな声では言えないが、色事に溺れて世を乱れさせた先帝の跡継ぎとは思えぬほど立派な御方だ。俺は陛下のためなら命など惜しくはない。立派な主君に仕えてこそ、武人の誉れというものよ」
 蘭玲が四合院の大人たちから聞かされていた話とはなんだか違うようだ。
 街中で見かけた玄龍の態度といい、少なくとも政治に無関心な愚帝ではないらしい。
「おい、こら、おつとめ中にぼんやりするなよ」
 蘭玲が考え事をしていると、いきなり浩然が肩に手を回してきて鎖骨のあたりを撫で回してきた。
「なんだかおぬし良い香りがするのう」
 くんかくんかと鼻まで鳴らす。
「ちょっ、やめてくださいよ」
「ははは、冗談だ、冗談」
 蘭玲の尻をはたいて浩然が去っていく。
 ――あの野郎。
 時を止めて、三尖両刃刀であいつのケツを刺してやろうかと構えた時だった。
「おい、おまえ」
「なんだ?」
 呼ばれて振り向いた蘭玲は放心して武器を構えたまま固まってしまった。
 外縁廊下に立っているのは皇帝陛下――玄龍――その人だった。
 しかもなぜかお付きの者を一人も連れていない。
 街中で出会った時と同じ質素な姿だった。
「おい、武器を俺に向けるな」
「あっ、申し訳ありま……」
 とっさに背中に回そうとして、太い柄が側頭部にあたってしまい、ふらついてしまった。
「おっと、大丈夫か」
 武器を取り落としよろめく蘭玲を支えようと、玄龍はとっさに廊下の階段を駆け下りた。
 線が細い印象だったが、筋肉質な腕に強く抱かれる。
 男の腕に身を委ねた蘭玲は涼やかな目に引き込まれていた。
 玄龍は蘭玲を抱きかかえたまま階段を上がって、景旬殿の一室へと入った。
 寝台に腰掛け、痛みが落ち着くまで二人はしばらく見つめ合っていた。
 格子戸から月明かりが漏れる。
 ――なんだろう。
 ずっとこのままでいたい気がする。
 こんなふうに誰かに抱き留めてもらえることなんてなかった。
 物心ついた時から心許せる人などいなかったし、食い物にしようとする男たちから自分や妹を守らなければならなかった。
 ――ああ、本当は私……。
 こんなふうに、身も心も委ねたかったんだ。
「あの……、ありがとうございます」
「声が女だな」
 ――しまった。
 だが、玄龍はとがめずに蘭玲の頬を指先で拭った。
 知らないうちに涙が流れていた。
「つらかったか?」
 蘭玲は目を閉じ、下唇を噛んで何度もうなずいた。
「もう偽らなくても良い」
 世の中の男たちはずっと敵だと思ってきた。
 でも、今、自分を抱きしめる男の言葉が胸の奥までしみこんでくる。
「最初から女だと分かっていたんですか?」
 玄龍は笑みを浮かべてうなずく。
「饅頭売りとして荒くれ男どもをたたきのめしていたときに、俺はそなたが時を止めるのを見ておった」
 そんな、まさか。
 能力を見破られていたなんて。
 しかし、能力を買われたからこそ宮廷に呼ばれたとすれば、むしろ筋が通る。
「そなたは見られていないと思っておったようだが、俺はそのときにそなたが女であることにも気づいておったぞ」
「な、なぜですか。ま、まさか体に触っていたとか」
「いや、そなたが奴らに向かって思いっきり脚を振り上げておったであろう」
 ――あ、あのとき……。
「あれだけ脚を振り上げておれば裾がめくれて、見たくなくても女の証が目に入る」
 庶民は下履きなど身につけてはいない。
 蘭玲は思わず裾をかき寄せた。
 今さら無駄と分かっていても羞恥心で体が沸騰しそうだ。
「ひ、卑怯者。のぞきなんて最低です」
「まわりの者には早業としか思えなかったであろうから、心配するな」
 そういう問題じゃないでしょうよ。
 涼やかな目で冷静に言われても、恥ずかしさが増すばかりだ。
「でもならば、陛下にもわたくしのような能力が?」
 そうでなければ見破れるはずがない。
「いや、俺ではない。それだ」と、玄龍は蘭玲の指にはまっている物を指さした。
 ――碧玉の指輪?
「それは皇帝が受け継ぐ守護の指輪だ。俺がそれをはめていると他者の能力を吸収する効果が発揮される。だからあのとき、俺にはそなたの動きが止まっているように見えていたのだ」
「では、今は?」
「そなたが時を止めれば俺は無防備だ」と、玄龍は口元に笑みを浮かべた。「刺したければ刺せ。天下を取れるぞ」
 蘭玲は自分の手から指輪を抜き取って玄龍の指にはめ直した。
「これはお返しします」
「持っておれば良いものを。いや、むしろ俺とそなたとの証として持っていてほしい」
「私では役に立ちませんし、もうすでにお代以上に良くしていただきましたから」
「あの饅頭はうまかった」
 月の光が玄龍の顔を照らす。
 蘭玲は目をそらすことができなかった。
「そなたは役人が嫌いだと言っていただろう」
「ええ、まあ」
「即位して実際に街を見ておかねば政治もできないだろうと思って視察に出たのだが、その時だけ役人どもが庶民の活動を制限して街をきれいにしていては、本当の姿など分からぬものよ」
 玄龍は苦い草を噛んだような表情で続けた。
「だから、俺は一人で宮城を抜け出し、ああして街の様子を観察しておったというわけだ」
「あまりにも危険ではありませんか」
「一人で街を歩いて刺されたなら、それは政治、つまり上に立つ者が悪いからであろう」
「でも、それは陛下ご自身ではなく、前の皇帝が政治に向き合わなかったからでは……」
「そんなことは、庶民には関係のないことだろう。悪い政治を引き継いだ者は責任も引き受けるのは仕方のないことだ。そなたも最初は俺を嫌っていたではないか」
「あれは、正体を知らなかったからで……」
「まあ、それは良い。どちらにしろ、指輪が俺を守ってくれていたから、心配はいらなかったというわけだ」
 だから木刀を腰に差す余裕すらあったというわけか。
「わざと身軽な変装をしていたなんて、すっかりだまされました」
「そなたもだましてきただろうに」と、涼やかな目が蘭玲を見つめていた。「俺と違ってそうしなければ生きてこられなかったのであろうが、これからはなんの心配もいらぬ」
 蘭玲の目からまた涙がこぼれ落ちた。
 女の頭にそっと手を乗せた玄龍が髪を撫でて抱き寄せる。
「幸せというものは人の中にもあれば外にもある。そなたが感じ取るだけでなく、俺が与えてやれることもあるだろう」
「でも、なんだか怖くて」
「なにゆえだ」と、玄龍の腕に力がこもる。「俺はいつでもこうしているぞ」
 玄龍の胸を涙で濡らしながら女が声を震わせてつぶやく。
「幸せだったことがなくて、幸せというものが分からなくて、本当にそれでいいのかが分からなくて。何も分からないから怖いのです」
「そんなに自分を責めるな。そなたは何も悪くはない。世の中が理不尽なのであって、そなたは妹御も守らねばならなかった。だからといって、そなたが幸せになっていけないわけがなかろう」
 そして、静かにため息をついて蘭玲と向き合った玄龍は額にそっと口づけた。
「生まれ変われば良いではないか。男装を解き、本来の姿、ありのままの自分を楽しめば良い。俺にもそんなそなたの笑顔を見せてほしい」
 変われるのだろうか。
 どんなふうに変わればいいのだろうか。
 どうしたらいいのかまるで分からない。
 ふと、門前町で饅頭を食べていた玄龍の言葉を思い出す。
『世の中に変わってほしいなら、自分から動かねば何も変わるまい』
 この御方はいろいろな物を背負って生きているんだ。
 自分の責任でも、自分に全く関係のないことでも自分のせいにされる。
 だから、変えていかなければならないんだ。
 私はどうしたらいいのか分からない。
 だけど、この人と寄り添って生きていければ、その道が見えるのかもしれない。
 見せてくれるのかもしれない。
 蘭玲の心に火がともったような気がした。
 じんわりと胸が温まる。
 目を閉じればまぶたの裏に妹の顔が浮かんでくる。
 小鈴はもう寝たであろうか。
 嵐雲としてのおつとめのときは春鈴が付き添ってくれているから心配はないものの、やはり気になってしまう。
 後宮で養生すれば元気になるだろう。
 そうすれば小鈴は小鈴で生きていける。
 なんだか寂しいような気もするけど、そうなればそれがいいんだ。
 胸につかえていたものがすうっと楽になったような気がする。
 目を閉じていたせいか、眠ったと思われたらしい。
 蘭玲の体がそっと寝台に横たえられた。
 目を開けると、玄龍が覆い被さってくる。
 蘭玲はその背中に腕を回して彼を抱き寄せた。
 男は女の目を見つめた。
「逃げぬのか?」
「はい」
「指輪なら外してある」と、玄龍が月明かりに左手をかざした。「時を止めれば逃げられるぞ」
 蘭玲がまっすぐに男の目を見返す。
「いえ、もう、幸せからは逃げません」
 男はしっかりと抱きしめると、女の耳元でささやいた。
「俺ももう離さない。ずっとそなたのような女を探していた」
 重なり合う二人の影が闇の底に沈む。
「俺の蝶になれ。本当の姿を偽っていたこれまでの殻を脱ぎ捨てて羽を広げればいい。その美しい模様を俺だけに見せてくれ」
 女の体を隠していたさらしが寝台の下で渦を巻いている。
 露わになった肌のぬくもりを確かめ合いながら夜は更けていった。