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 翌朝、承和殿の小部屋では、嵐雲姿のまま目覚めた蘭玲と小鈴の兄妹が粥を食べていた。
 四合院の家畜小屋ですすっていた薄いものとはまるで違う。
「おね……、お兄ちゃん、おいしいね」
 まだそれほどの量は食べられないものの、小鈴まで口のまわりにご飯粒をたくさんつけながら口に運んでいる。
「これならすぐに元気になりそうで良かったな」
「うん、ここはいいところだね」
 小鈴の笑顔を見ていると、蘭玲も肩の荷が下りたような気がしていた。
「薬も飲むんだぞ」
「苦いからやだ」
 弱気なことを言われるよりも、生意気なくらいがかえって安心だ。
 食事を終えて、衛士のお役目に出ようと準備をしていると、廊下が騒がしくなった。
「なんだ?」
 格子戸を開けて顔を出すと、角を曲がって先触れの女官が姿を現した。
 なにやら薄い箱を掲げ持った女官たちが後に続いてくるようだ。
「お妃様よりのお使い物であーる。みなの者ぉーぅ、お控えなされーい」
 前言撤回。
 つくづく後宮とは面倒なところだ。
 物に向かって頭を下げるなど、ばかばかしい。
 おつとめの支度ができたというのに、出られないのでは仕方がない。
 蘭玲は格子戸を閉めて関わらないことにした。
「おね……、お兄ちゃん、どうしたの?」
「偉い人のお使いが通るんだってさ。怒られるから引っ込んでいよう」
 と、部屋の前で行列が止まった。
 ――ん?
 なんだ、またかよ。
 昨日の出来事を思い出す。
「嵐雲とやら、開けませい」
 居留守を使うわけにもいかず、蘭玲はひざまずいて頭を下げながら格子戸を開けた。
 小鈴も袖で口をぬぐって姉の様子をまねている。
「そなたが嵐雲か」と、しわがれた女官の声が頭上から降りてくる。
「はい、わたくしでございます」
「して、そちらがそなたの妹であるか」
 顔を上げようとする小鈴の頭を手で押さえながら蘭玲は答えた。
「はい、さようでございます」
「ならばお邪魔しますよ」
 女官たちが狭い部屋の中へぞろぞろと入ってくる。
 侍女たちも続いたかと思うと、あっという間に食事の膳を取り下げて座布団まで敷いてしまった。
 小鈴がそこに飛び乗ろうとするのを、「違うぞ」と、蘭玲は慌てて抱き寄せた。
 女官たちは座布団に座り、飾り台を据えて紫色の布を敷くと、薄い箱を静かに置いた。
「妹とやら、名をなんと申す」
 仰々しさに怖じ気づいたのか、今度は頭を上げない小鈴の背中を撫でながら、蘭玲は名前を申し上げるようにうながした。
「小鈴です」
「お妃様からそなたに御着物が下げ渡される。謹んで頂戴するように」
 螺鈿細工の施された蓋が取られると、箱の中には見るからに軽そうな生地でできた豪華な衣装が収められていた。
「わあ、おねえちゃ……んごっ」
 なりふり構ってなんかいられない。
 蘭玲は小鈴に飛びついて口を塞ぎながら周囲に愛想笑いを振りまいた。
「申し訳ございません。あまりのうれしさに動揺してしまいました。本当にこのような物をいただいてもよろしいのでしょうか」
 女官たちは醒めた目で二人を見ていた。
「お妃様は慈愛に満ちあふれた御方であるゆえ、そなたたちにも目を掛けてくださったのであろう」
「お礼に伺った方がよろしいでしょうか」
 峰華のもくろみ通りになるかと思われたその時だった。
「お妃様にお目通りなど、その方どもに許されることではありませぬ」と、しわがれた声で一喝される。「しかも、その方、本来後宮におることも許されぬ男ではないか。今後ともこのご恩に報いておつとめに励むことが何よりのお礼となるのだと肝に銘じるがよい」
「かしこまりました。全身全霊をかけておつとめに励みます」
 峰華のねらいはむなしくも泡となって消え去ってしまった。
 女官が廊下へ声を掛ける。
「部屋付きの侍女はおるか」
「はい」と、春鈴がこわばった表情でにじり出た。
「では、そなたが着付けをしてやるが良い」
「かしこまりました」
 女官たちは一斉に立ち上がり、侍女たちを引き連れて廊下へ出ると、敬和宮へ去っていった。
 あっという間に静かになった小部屋に残された三人は顔を見合わせて、ふうとため息をついた。
「急にどうしたんだろうな」
「私もこんなことは初めてです」と、春鈴が首をかしげながら着物を取り出した。
「そうなのか?」
「実は私、昨日お妃様に呼び出されて嵐雲様のことを聞かれたんです」
「えっ、いったい何を?」
「それが、あちらの敬和宮からたまたま男の姿を見たので気になったとか。それで、小鈴さんのことも話したんです」
 いったん話を切って、春鈴が声を潜めた。
「ここだけの話ですけど、敬和宮の峰華様は気難しい御方で、私たちの間ではあそこに配属されるのは嫌だねって言ってたんですよ。おつきの方々も自分たちが偉くなったみたいに勘違いしてますし」
 先ほどの女官たちの態度を思い浮かべながら、蘭玲は首をかしげた。
「なんだかおかしな話だな」
 それでも、着付けを終えた小鈴の晴れ姿を見ると、そんな疑問はしぼんでしまった。
 肩にのせた披帛をひらひらと揺らしながら小鈴がくるりと回ってみせる。
「なんだか私、天女になったみたい。軽くてふわっふわなの」
 まだふらふらで倒れそうになる妹を抱き留めながら蘭玲は快活に笑った。
「ははは、ご飯粒をつけないようにしないとな」
 ――私だって着たことないんだけどな。
 生まれたときからつぎはぎだらけの服しか着たことがなかったし、男の格好をしていないと生きていくことも難しかった。
 ただ、小鈴にしてもまだ骨と皮ばかりの体で、天女どころか、本当に天に召されるのではないかという気がしてしまう。
 こうして元気づけてやれるのはありがたいことなのだ。
 夢のような贅沢に対する後ろめたさもあって、蘭玲の胸中は複雑であった。
「じゃあ、俺は仕事に行ってくるから、小鈴はしっかりと養生してるんだぞ」
「うん、おね……、お兄ちゃん、今度、この服を着てお出かけしようね」
 妹の口からこの先の希望を聞くことになるとは、つい昨日までは思いもよらぬことであった。
 いつになったら行けるのかは分からないが、そうなるときが来れば良いなと思いながら、蘭玲は雲嵐としてお役目に向かうのだった。