葵は夜勤明けの帰り道を歩いていた。真昼の青白い空には、細い筆をすっと流したような雲がかかっている。葵は澄んだ空を苦い気持ちで見上げた。
結局あの後急患に追われ、星羅と話をすることはできなかった。葵は星羅を追いかけることすらできなかった。
星羅の悔しさの滲んだあの瞳が忘れられない。星羅は今、誰より葵を憎んでいる。たったひとりの親友を死なせた医者だ。無理もない。
「成長してないな……」
ななは、悪性脳腫瘍――グリオーマを患っていた。化学療法、二度の手術、放射線治療。ななは必死に病気と戦ってくれた。けれど、亡くなった。
人間はいつか死ぬ。それは、不変の事実だ。医師は、ただその命を少し引き延ばすだけ。それでも葵は医師になった。
永遠は望まない。ただ、ここにいる子供たちが、一分でも一秒でもいいから、楽しい時間を、生きててよかったと思える時間を過ごせるように、できることはすべてやりたい。
特に、星羅には、どうしても――。
「……はぁ」
葵のため息は、夏の抜けるような青空に消えていく。
葵は今日、幼い彼女に生きるか死ぬかの選択を突き付けた。
父親がいない彼女は、いつも一人だった。母親も仕事が忙しく、ほとんど見舞いに来なかった。院内学級にも入ろうとせず、いつも一人ベッドの上で窓の外を眺めていた。そんな彼女の小さな肩を見るたび、葵はいつも堪らない気持ちになった。
そんな彼女に、ある日救世主のような子が現れた。それが、ななだった。最初はななを疎んでいた星羅も、彼女の底抜けの明るさに、徐々に絆されていくようだった。
ななという理解者ができて、星羅はほんの少し明るくなった。
けれど。
神様は、どこまでも残酷だった。
ようやく前を向き治療に望み始めた矢先に、支えとなっていたななが死んだ。
今度こそ、彼女は絶望してしまった。彼女はなにも分からない子供ではないけれど、理屈を言って納得できるほどの大人でもない。
葵の首元を、透明な雫が流れた。日差しは強く、ゆっくり歩いているだけでも汗ばんでくる。葵の身体は、健康そのものだった。星羅のように歩くだけで息切れすることもなければ、視界が霞むこともない。鼓動に不快感を感じたこともないし、眠るときに恐怖を感じたこともない。
今の葵に、星羅の気持ちを理解してやることは、どうしたってできない。
鼻につくのは、着替えても消えない薬液と血液の匂い。そして、無力な自分への怒りと、努力が身を結ばない世界に身を置くことへの寂寥感が胸を支配する。
空の真ん中から燦々と街を照らす太陽の下、葵はやはり顔を上げることができずに歩いた。
どこからともなく、吹奏楽の壮大な音色が耳をつく。懐かしさに顔を上げると、目の前には、さらに懐かしい建物が建っていた。
見えない糸に導かれるように足が向いたその場所は、葵のかつての学び舎・私立言ノ葉学園高等部。
進学校であるにもかかわらず、吹奏楽部は夏のコンクールに向けて授業を二の次に練習しているのだろう。部活動に力を入れている言ノ葉学園らしい奔放さは、葵がいた頃と変わっていないようだ。
葵は立ち止まり、しばらくその音色に耳を傾けていた。
「あれ? 君……」
フェンス越しに聞き覚えのある声がして、目を開く。
「やっぱり。君、夏目か?」
「え……弓座先生?」
葵に声をかけてきたのは、在学当時の担任教師・弓座衛だった。
「こんなところでなにしてるんだ?」
「あ……えっと、仕事帰りで」
まさかまだこの学園に勤めていたとは知らず、葵は動揺しながらも頭を下げた。
衛とは、かれこれ十年以上会っていない。けれど、彼の容姿は白髪こそ増えたものの、当時の面影を残したままだった。あの頃と変わらない衛の目尻の皺を見つけ、葵はホッとした。
「時間があるなら、少し話さないか」
ぼんやりとした葵になにかを察したのか、衛が優しく微笑む。
「……はい」
葵は、甘くて苦い記憶の扉を開けるように、その場所へと足を踏み入れた。
衛に通されたのは、来客用の応接室だった。初めて入るその場所に、葵はもう自分が生徒ではなく、この学園にとって部外者なのだと思い知る。
「立派になったね、夏目。当時の同級生から、医者になって城崎と結婚したと聞いたけど」
「……はい。近くの病院で、小児外科医をしています。結婚は、二年前に」
「そうか。本当に夢を叶えたんだな。すごいなぁ」
衛の目尻に、感動で込み上げた涙が滲む。衛は心から葵の成功を祝福してくれているようだった。
「……すごくなんてないです。俺は今も昔と同じで、なにもできてませんから」
葵の表情は暗い。
衛はなにも言わず、葵をじっと見つめた。
まるで、応接室が懺悔室になったかのようだった。葵の口からは、胸の奥に溜め込んでいた絶望の言葉たちが荒波のように次から次へと押し流されてくる。
「……俺は人殺しです。誰かを助けたくて医者になったはずなのに、まだたったの一人も助けられていない」
大切な娘を失った両親の悲痛な泣き叫ぶ声が耳の奥に燻ったまま、何度も何度も木霊する。
『最後まで娘を診てくれてありがとうございました』
『あの子も幸せだったと思います』
そして、その泣き声はいつしか葵への恨み言に変わるのだ。
『主治医がもっと腕のいい先生だったら』
『もっと設備が良ければ』
『人殺し』
それはまるで死を嘲笑う死神の声のようで。恐ろしい怨念となって、毎晩葵に悪夢を見せる。
静かに喚く葵を見て、衛はため息をつくように息を吐き、笑った。
「その理不尽さが誰よりよく分かってるから、君は医者になったんだろう?」
衛の言う通りだった。
「……俺はなにか勘違いしてたみたいです。俺が医者になったところで、彼女は戻ってこないのに」
葵は学生時代に、大切な幼馴染を失った。だからこそ寝食を惜しんで、死にものぐるいで勉強した。病で理不尽に失われる命を少しでもこの世に繋ぎ止めたくて医者になったはずだった。それなのに、掴んだはずの命は今日も砂になって葵の手をすり抜けていく。
医者になってからというもの、葵は崖から突き落とされるような毎日を送っていた。
今朝、星羅に突き付けられた言葉が頭から離れない。
「……先生は失敗しても次があるけど、私は、先生が失敗したら死ぬんだよ」
突然葵の口から飛び出した不穏な言葉に、衛は眉を寄せる。
「……今朝、十五歳の女の子に言われました。目が覚めましたよ。医師と患者では、どうしたって共有できない溝がある。どうしたって、同じ方を向くことはできないんだって」
衛は窓の外へ目をやると、おもむろに立ち上がった。
「……うん。ここだと思い出話も盛り上がらないな。教室にでも行こうか」
衛の後に続き、葵は廊下に出る。大人になってから歩く、青春時代を過ごした学び舎は少しだけ色褪せて、こころなしか狭く思えた。
「そういえばねぇ。私はあの頃、夏目と城崎が仲良かったなんて知らなかったんだよ」
衛は外に顔を向けたまま視線だけ動かし、葵を見た。
「いえ……仲良くなかったですよ。幼馴染でしたけど、高校入ってからはほとんど話していなかったので。まともに話したのは卒業式の日、千花が亡くなったときです」
葵は懐かしそうに目を細める衛に、小さく首を振る。
「……そうか。あの頃は、君と朝倉が付き合ってるもんだとばかり思ってたからなぁ」
「それも違います。そもそも俺は人気者の二人と違って冴えない生徒でしたし、今考え直しても、よく千花はこんな俺と一緒にいてくれたなって思います」
チョークが黒板を叩く音が耳をつく。
葵の視線を辿った衛が「懐かしいか」と訊ねると、葵は頷き目を閉じた。
校庭から聞こえるまだ大人になりきっていない生徒たちの笑い声とホイッスル。
体育館の床がキュッキュッと踏み鳴らされる音。
そして――ボールが弾んだ。
葵はハッとして、窓の先の体育館を見る。体育館では女子が体育の授業なのか、バスケをやっていた。
その光景に既視感を覚え、葵はゆっくりと窓際に歩いていく。
『葵っ! 早くしてよ』
彼女の声が聞こえた気がして、ハッと息を呑む。
『葵!』
軽やかな足音が響く。それはどんどん近付き、葵の隣を通り過ぎていく。
『葵』
彼女に呼ばれ、振り向いた瞬間。千花の幻影が、葵の横をすり抜けていった。
「千花……」
懐かしいその名前を口にした葵の瞳に、涙がじわりと溜まっていく。