――病院に併設されたカフェは、入院患者や病院関係者、見舞い客で賑わっていた。
 目の前に置かれたクリームたっぷりのフラペチーノに、星羅は心を弾ませた。
 普段は通り過ぎるだけのカフェ。たとえ院内でも、星羅にとってはいつもの日常から切り離された異空間だ。
「あの、本当にいいんですか?」
「もちろん、じゃんじゃん飲んで」
 美月はにこりと笑って、テーブルに置かれた巾着を撫でた。その視線は陽だまりのように優しく、温かい。
 星羅は迷いながらも、思い切って美月に訊ねた。
「……それって、母子手帳かなにかが入ってるんですか?」
 美月は一瞬きょとんとしたものの、すぐに星羅の視線に気付き、微笑んだ。
「ううん。これはアルバム。高校時代の親友とお互いに撮った写真をここに入れて、思い出の共有をしてたんだ」
 美月はそう言って、巾着から一冊のアルバムを取り出した。
「思い出の共有……素敵ですね」
 アルバムを見つめる美月の眼差しはとても優しく、同時に少しだけ寂しそうに見えた。
「星羅ちゃんは、親友っている?」
 美月の問いに星羅は一瞬目を泳がせ、小さく呟いた。
「……いました」
 過去形で呟いた星羅の言葉に、美月は小首を傾げた。星羅は手をぎゅっと握り込む。
「……先週、亡くなりました」
 美月が小さく息を呑む。
 死というものは、唐突に来る。そんなことは、心臓に爆弾を抱える星羅だって、重々分かっている。だから、きっと近いうちにそのときがくる。そう、覚悟していたつもりだった。でもそれはいざ目の前にやってくると、覚悟していたものよりもずっとずっと恐ろしくて、悲しいものだった。
 喉の奥で、なにかが詰まる。

 星羅の唯一の親友だったなな。
 彼女は悪性脳腫瘍を患っていた。ななは、いつだって明るくて朗らかで、星羅を照らしてくれる太陽そのものだった。星羅にとって、唯一無二のかけがえのない親友。ななとの別れは突然だった。さよならを言う間もなく、生涯一度も病院を出ることなく、彼女は天国へ旅立った。
 星羅は突然、ひとりぼっちになってしまったのだ。
「……ごめん。軽々しく聞くことじゃなかったね」
 申し訳なさそうに謝る美月に、星羅は小さく首を横に振る。
「いえ」
「星羅ちゃん、いくつ?」
「中三です」
「そっか。それじゃあ、来年卒業なんだね」
「……どうだっていいです。卒業なんて」
「あら、どうして?」
 美月は眉を下げ、困ったように笑いながら、星羅に訊ねた。
「ななと約束してたんです。一緒に卒業するために、お互い闘病頑張ろうって。でも、ななはダメだった。私も手術しないと卒業式には出られないって、さっき先生に言われたし。だからもう、どうでもいい」
 美月は僅かに目を瞠った。
「……でも、手術したら治るんでしょう?」
「手術したって助かるとは限らない。何度も手術して、痛い治療を我慢して、それでもダメだった子をたくさん見てきた。私、そこまでして生きたいなんて思わない。今さら学校に行ったって友達なんてひとりもいないし、勉強だってついていけない。きっと、周りの子よりご飯も食べられないし、運動もできない。結局私の居場所はここにしかなくて、ここで死ぬ運命なんです」
「そんなこと……」
 星羅の話を聞きながら、美月は悲しげに目を伏せた。
「……私、きっと生きる資格ないの。性格悪いから」
「性格が悪い子は、落とし物を渡すために診察が終わるまで待っていたりしないと思うよ」
「……でも私、先生に八つ当たりしちゃった」
 美月はなにも言わず、ただ優しい顔で星羅の言葉に頷いている。
「……だって、ななのベッド、なんにもなくなっちゃったんです。ぬいぐるみとか制服とかたくさんあったのに。死んだら全部消えちゃうんだって思ったら、悲しくて悔しくて……。それなのに、回診にくる先生はいつもとなんにも変わらない。私が死んでも、きっと先生はその日も笑顔で他の子達を診るんだなって思ったら、なんか……急に先生が知らない人に見えて……」
 星羅の瞳に、じわりと涙が滲んだ。
 まっさらで皺ひとつない寒々しいシーツ。そこに、昨日までいた女の子はいない。その女の子は、もうこの世のどこにもいないのだ。
 星羅の白い頬を、大粒の涙がぽろりと流れた。落ちた雫は、時が経てば乾いて消える。きっと自分もそんなふうに消えてなくなるのだろう。
「星羅ちゃん……」
 美月は立ち上がると、震える星羅を優しく抱き締めた。
 とん、とんと、まるで幼い子供をあやすように、美月は星羅の背中を優しく叩いた。春の海のような温かい手のひらが、星羅を包む。
「手術しなきゃいけないのは分かってるの。でも怖いんだもん。だって胸を開くんですよ。絶対痛いし、もし先生が失敗したら……」
「星羅ちゃん。それってつまり、生きたいってことよね?」
「え……」
「失敗が怖いっていうのは、生きたいっていうことの裏返しよ。……私の親友もね、病気でただ死ぬのを待つしかない子だった。その子はそれでも必死で生きてたよ。部活をして、恋愛をして、いつも笑ってた。ななちゃんは、どうだった?」
「……ななも、頑張って生きてた」
 ななはいつも明るくて、花のような可愛らしい子だった。すぐに後ろ向きになる星羅を、ななはいつも励ましてくれた。
 星羅は今ひどく落ち込んでいる。けれど、星羅を助けてくれるななは、もういない。
 星羅の目尻をそっと指の腹で拭いながら、美月は微笑んだ。
「ねぇ、星羅ちゃん。ななちゃんはもういないかもしれないけれど、星羅ちゃんの周りには、ちゃんと星羅ちゃんを思ってくれてる人がいると思うの」
「……そんな人、いないよ」
「先生も、悲しんでないわけじゃないと思うな」
「え?」
「お医者さんって、星羅ちゃんからしたらすごい人って思えるかもしれないけど……でも、先生も星羅ちゃんと同じ人間だよ。悲しくないわけない。なにより、星羅ちゃんたちの病気を治すために毎日頑張ってるんだから」
「……でも」
 脳裏を、葵の困ったような笑顔が過ぎる。
 葵は、星羅のことなんてきっと嫌いだ。だって、迷惑ばっかりかけている。治療だって嫌々だし、顔を合わせれば文句や不満しか言っていない。
「星羅ちゃんの前ではいい先生でいたくて、かっこつけているだけかもしれないよ?」
「……なにそれ」
 そうなのだろうか。考えてみるけれど、星羅にはよく分からない。美月は無邪気な少女のような顔で笑う。しかし、それはほんの一瞬で。
 すぐに憂い顔になると、
「星羅ちゃんは強いね」
「弱音吐いてるのに?」
「強いよ。だって、正直な気持ちを言えるんだもん。それってすごいことだと思う」
 美月はそう言って、手に持っていたアルバムを差し出した。
「私はずっと本音が言えなかった。親友にも、好きな人にも」
「……どうして?」
「イメージを裏切って、嫌われるのが怖くて」と、美月は自嘲気味に笑う。
「人生一度きり。今日笑い合った子が、明日もまた隣で笑ってるとは限らない。だから、後悔のないように生きようよ」
 星羅は、渡されたアルバムのページを捲った。視界には、たくさんの写真たち。裏にはメッセージが書かれていた。
 一枚目は、青空の真ん中で細い指がピースサインをしている写真だった。
『二〇十四年、八月二日。
 美月へ。
 今日は窓の外から吹部の音が聞こえてきて心が弾んだ。そういえば夏のコンクール、もうすぐだね。頑張ってね!
 千花』
 千花から美月に送られたメッセージはどれも素直で、弾むような元気のいい文字だった。きっと千花という少女はまっすぐで誠実で、底抜けに明るい子だったのだろう。会ったことなど一度もないのに、彼女の性格が写真から伝わってくるようだった。
 その下にあるのは、水たまりに映る少女の写真。写真を撮るのが慣れていないのか、少しぼやけている。それでも、撮った人物の心をそのまま切り取ったような、澄んだ美しい写真だった。
『二〇十四年、八月七日。
 千花へ。
 今日はあいにくの雨。今日はライバル校が不祥事で不参加という報せが入って、部員の士気が落ちちゃってまとめるのが大変でした。私にとっては高校最後のコンクール、頑張ってくるね。
 美月』
 裏返してメッセージを読むと、それは美月から千花に宛てられた手紙だった。
 美月はテーブルに頬杖をつき、アルバムに視線を落とす星羅を柔らかい眼差しで見つめる。
 アルバムには、女の子らしい文字で綴られた青春時代の思い出が色褪せないまま、美しく閉じ込められている。
「楽しそう……」
 星羅の瞳が曇る。
 こんな青春を、星羅は知らない。想像もできない。星羅の世界はいつだって漂白され、除菌されたこの檻の中だけだ。生まれたときから、ずっと。
 アルバムを読み進めていた星羅は、とあるページで手を止めた。
 その写真は、窓枠に滝を作る雨空を切り取ったものだった。
『二〇十四年、八月十二日。
 美月へ。
 今日はあいにくの雨だね。窓の外を見て、小学校の遠足を思い出したんだ。私が山の上で迷子になって泣いてたら、二人が見つけてくれたんだよね。懐かしいなぁ。また三人であの場所に行きたいな。
 千花』
「三人ってことは、もう一人いたんですか?」
「うん。もう一人、男の子がね」
「それって」
 尋ねようとしたとき、視界に影が過ぎった。
「美月ってば、ここにいたの」
 ハッとして、声がした方に顔を向けると、五十代くらいの女性が星羅たちに駆け寄ってきていた。
「あ、お母さん」
 美月は立ち上がり、手を上げる。
「もう、連絡ないから探し回っちゃったじゃない」
 そして、女性は美月と同じテーブルにいた星羅へ視線を移すと、ぎょっと目を剥いた。
「えっ……千花ちゃん?」
 星羅は眉を寄せる。
「あの……千花って、このアルバムの子ですか?」
「ごめんね。千花に容姿がよく似ていたから、驚いちゃって」
 美月は苦笑混じりにそう説明すると、母親に向き直った。
「さっき、診察のときに落とし物を拾ってくれた子。お礼してたの」
「あら、そうだったの」
 母親は美月とよく似た顔でにっこりと微笑んだ。
「美月、そろそろ時間よ。行こう」
「あ、そうだよね。星羅ちゃん、今日は本当にありがとう。今度お見舞いに行ってもいいかな?」
「はい」
「じゃあ、またね」
 立ち上がり見送ろうとすると、美月がはっとしたように星羅を振り返った。
「そうだ! 星羅ちゃん。お礼にこれあげる」
 美月はトートバッグを漁ると、星羅に小さな機械を差し出した。レンズがついている。
「カメラ?」
「これ、チェキっていうんだけど、撮った写真がその場で現像されるの。よかったらこれで思い出を残していって」
「え、いいです。いいです」
 さすがにお土産までもらってしまうのは過剰だと、世間を知らない星羅でも分かる。
「フィルム越しに見ると、いろいろと見え方って違うものなのよ。人生楽しんで! それじゃあね」
 美月は星羅の手にしっかりとチェキを握らせると、ひらひらと手を振って去っていった。
 星羅は、手の中のカメラをじっと見つめる。
「……こんなの、なに撮ればいいか分かんないよ」
 星羅はぽつりと呟いた。