「ただいまより、第○○回、全国高等学校野球選手権神奈川大会を開催いたします」
真っ青な空の下。
待ちに待った県大会が、始まった。
今年は二百校近く集まり、過去最難関とも言われる神奈川地区。
「行くぞー、烏城!」
「おぅっ!」
ケガのため参加を断念した部長たちも応援に駆けつけてくれた。
僕と理玖は目を見合わせ、こくりと頷く。
「絶対勝つぞ!」
試合は光のように過ぎ去り、初戦は見事快勝した。
「颯人はちょっと力んでたな。途中からの修正力は良かった」
「はい。分かりました」
そして始まる、監督のダメ出し。
最高学年になると、自分の分だけではなく、後輩みんなの分も覚えるんだ、と部長が言っていた。
「理玖はあれだ。彼女のこと見過ぎだ。集中しろ、試合に」
「はい、すみません」
「次エラーしたら、彼女の応援禁止にする」
「えぇ」
思わずくすりと笑ってしまう。
理玖と陽菜さんの仲も順調なようで、最近は毎日練習にも顔を出してくれていた。
「よし、明日も試合だからな。気を抜かずに今日はしっかり休め」
「……」
「返事は⁈」
「はい!」
それから僕は、自転車を漕いで病院へと向かった。
理玖は陽菜さんと一緒に帰るとかで相変わらず普通の恋人として生活している。
でも別に、今はそれがいいなとは思わない。
いろいろな恋人の形があると思うから。
「風花」
風花はあの小旅行以来、体調を崩しやすくなっている。
先生やお父さんの言うことには、別に甲子園に行ったことは関係ないらしいが、心配でならない。
「初戦勝ったよ。また明日も試合だからすぐに帰るけど、力みすぎって言われたよ」
寝たままの風花に、目を覚ます気配はない。
「……好きだよ」
届かない告白が、空間に虚しく響いた。
夏本番が来ると言うのに、病室の中だけはやけに冷たかった。
そして烏城高校は順調に勝ち上がり、とうとう、決勝が翌日という日まで迫って来ていた。
「おはよう、風花」
「んんー、颯人ー?」
お父さん情報だが、風花は病気を治すための治療ではなく、命を延ばすための治療に切り替えたらしい。
それは、風花自身が望んだことで、ある特定の日までは必ず生きたいんだ、と力強く話していたと言っていた。
「体調はどう?」
「目覚めに颯人がいるって最高」
ふふふ、と控えめに笑う。
最近の風花は、立ち上がることもできず、いつもベッドの上で笑っている。
「明日は決勝だよね?」
「うん」
「向田?」
「まあね」
決勝戦の相手は、前評判通り、烏城高校対向田高校になった。
奇しくも去年と同じカードとなり、僕らは因縁の相手にリベンジができるのである。
「強いだろうね」
「あぁ。でも勝つ」
「そう言う強気なとこ好き」
風花は最近、思ったことをよく言うようになった。
本人曰く、後悔したくないから、らしい。
「風花にも見に来て欲しかったな」
「ははは。ごめんね。画面越しで応援してる」
どこからでも、風花の応援があるなら、勝てるような気がした。
「終わったら来るから」
「祝賀会だね。風間くんや陽菜ちゃんも連れて来てよ」
「分かった」
風花を見つめる。
あざができた、太陽の光を浴びていない真っ白な肌。荒れた唇。生気を失った瞳。そして、以前の艶をなくした髪。
僕が見ても分かるほど、衰弱していた。
「あーぁ、もうちょっとだけ、生きてたいなぁ」
「……余命は教えてくれないよね」
風花は自分から余命を話そうとしない。しかも、お父さんや先生たちにも口止めを指示しているようで、誰に聞いても教えてくれない。
だから僕だけが、いつ来るか分からない終わりを待っている状態になっていた。
「言ったら颯人は泣くもん」
「風花の中の僕って何歳なんだよ……」
また、控えめに笑われた。
「ごめん、ちょっと疲れたから寝るね」
「あ、のさ……風花」
僕は今日の朝、理玖に言われたことを思い出す。
「女子って死ぬまでにやりたいこと、ひとつはあるんだよな」
「まぁ、誰にでもあるでしょ?」
「ーキス、とか?」
真っ白な風花の頰が、赤く染まる。
「誰に言われたのそんなこと」
「理玖……陽菜さんが、言ってたらしいけど」
陽菜ちゃんかー、と風花は分かりやすくうなだれるふりをする。
「で、それなら叶えられるかな、って」
「颯人。キスは宣言して言うもんじゃないよ」
それから風花は、ゆっくりと目を閉じた。
ファーストキスはレモンの味がするとか言うけれど、そんな味は全然しない。
シーツの消毒液の匂いが鼻を掠めた。
***
夢を見た。
真っ青な空の下。
甲子園のグラウンドに、颯人たちが、大優勝旗を持って涙を流していて。
私はその光景を、ベンチで見ている。
そんな、もうありえない、夢をーーー。
「……風花」
目を覚ました。
そこは、消毒の匂いがする室内で。
「お父さん……?」
横には、お父さんが不安そうな表情をして座っていた。
「もう、無理しなくてもいいんだよ」
お父さんはきっと、私が延命治療をしていることをあまりよく思っていないのだろう。
私はただ生きたいのではない。
「私が言ったからこの治療してるの。大丈夫。無理はしてないよ」
七月二十八日ー颯人の十七回目の誕生日の日を、お祝いしたいのだ。
「絶対生きる」
その日は県大会の決勝でもあるから、きっと颯人は疲れているだろう。けれど、祝賀会の約束もしたから予定通りだ。
そんな私を見て、お父さんは笑った。
そしてふと、思う。
「お父さんは、強いね」
今更だけれど、お父さんの味わった苦悩は計り知れない。妻を病気で亡くし、二十年来の親友も事故で亡くし、娘も病気にかかっている。
なのにお父さんは、私の前で弱音を吐かない。
「……大切な人との別れが、お父さんをもう一段、もう二段、強くしてくれたんだ」
「そっかぁ……」
それなら颯人も今以上に強くなるのかな。
私が死んだら、颯人は泣くかな。泣かないでほしいな。
「風花も十分強い。今までよく頑張ったよ」
ーあぁ、死ぬ直前なのかな。
お父さんとゆっくり話すのは、これが最後になるような気がした。
「お父さん……お願いがあるんだけど」
私はベッドの横に備え付けられた棚の中から手紙を取り出す。
「私が死んだら、颯人に渡して」
託すのは、お父さんがいいと思った。
「……分かった」
お父さんは、寂しそうに笑った。
***
バクン、バクンと心臓が高鳴る。
県大会決勝戦が始まった。
「烏城行くぞ!」
「おぅ!」
やるしかない。頑張るしかない。
ドンっと胸を叩き、俺は懸命に腕を振る。
試合は予想通り、零対零のまま、延長戦に突入した。
「まだ諦めるな!」
「はい!」
試合時間はどんどん長引いていく。
でも一ミリも、長いとは思わない。光のように早く過ぎ去っていく。
ーあぁ、楽しいな。きっともっと甲子園は楽しいんだろうな。
しかし、延長十二回裏。三点ビハインドの場面。
烏城高校に、今日最大のチャンスが訪れる。
ツーアウトから、理玖がフォアボールで塁に出た。
そして続くバッターもヒットを連発し、満塁という大チャンスで僕の打席に回ってきた。
ーいける。大丈夫。
と、相手ピッチャーの纏う空気が変わった気がした。
投げた、と思った瞬間にキャッチャーのグローブにボールが突き刺さる音。
ーやばい。
ギアを上げられた。このピッチャーはプロ入りもできると言われているほどの能力を持っている。
でも俺は必死にしがみついていく。
そして、フルカウントになった、八球目。
相手ピッチャーがボールを投げた。僕はバットを振った。ボールはバットに当たった。
ーそこまでだった。
僕が打ち返したボールは、バットを掠めただけで、セカンドの真正面へ飛んでいった。
「しゃー!」
グラウンドが相手ナインの歓声で包まれる。
その中で、僕のヘッドスライディングの音が虚しく響いていた。
ー終わった。終わって、しまった。
立ち上がれない。
僕は何をしたのだろう。風花に見せたかったんじゃないのか、甲子園に立つ姿を。
馬鹿だ。遅い後悔が胸に溢れてくる。
「っ……うぅっ」
目から勝手に涙が溢れてきた。
ポンっと肩に手を当てられる。
涙ぐんだ理玖が、くいっと顎を動かす。
「ありがとうございました」
「ありがとうございましたっ!」
ー悔しい。僕のせいで、烏城の、僕の夢を。
グラウンドに、夏の風が吹いた。
それから反省会を終え、風花にどんな顔を見せようか、と思いながらスマホを開く。
そこには、お父さんからのメールが届いていた。
【風花の容態が急変した。試合が終わり次第、病院に来てほしい】
「嘘だろ……っ!」
早い。早すぎるよ風花。
僕は自転車を最大限に飛ばして、病院へと向かう。
病院の受付には、顔見知りの看護師が立っていた。
「八神さん」
看護師は、何かを決意したような顔をしていた。
そしてパタパタパタ、と静かに走り、風花の病室に入る。
「風花…………!」
そこには、いつも笑っていたベッドの上で、たくさんのチューブに繋がれた風花がいた。
そして室内に定期的に電子音が響く。
全てを悟った。
これは、おわりの瞬間なのだと。
「風花」
僕はゆっくりと風花に近づき、彼女の手を握る。握り返す力は弱い。
「ごめんな……甲子園、無理だった」
言葉は返してくれない。けれど心電図の波がぐわんと大きく唸る。
まるで、「何してんのよ」と怒られたようだ。
「来年こそ絶対行くから、見に来てくれる?」
波が、どんどん小さくなっていく。
先生たちも、ただ、立っていた。
「…………は、やと」
え、と全員が目を見開く。
風花は、ゆっくりと瞼を開け、その唇を振るわせた。
「誕生日、おめで……とう。だいす、き……だ、よ」
ピーーーッと機械から一際大きな音が鳴った。
それが、最期の合図だった。
「風花っ……!風花ぁ……っ」
彼女、東雲風花は、十六年の短い生涯の幕を、笑顔で閉じた。
風花がこの世界から消えてから、数時間が経った。
彼女の身体はもうこの病室に存在せず、病室から風花の色が消えていた。
「……あと一時間ぐらいで掃除が来るそうだ」
振り返ると、お父さんがドア付近に立っていた。
「そうなんですね」
この世からどんどん風花がいた痕跡がなくなってしまう。それが寂しく感じた。
「颯人くん」
名前を呼ばれる。
僕の恋人は、もうこの名前を呼んでくれない。
「風花から手紙を預かってる」
お父さんは僕に手紙を手渡した。
そして気を使ったのか、部屋から出てくれる。
【颯人へ】
何度も見た、風花の字。
今の僕は、これを開けていいのだろうか。
耐えられるのだろうか。この現実に。
ーでも。
これは、風花が何を考えていたのか、僕に何を思っていたのか、それを知る唯一の方法だ。
ーよし。読もう。
僕はゆっくりと手紙の封を開けた。
【颯人は文字が嫌いだと思うので、短めに終わらせたいなと思います。
私が伝えたいのは、ひとつだけ。
颯人、ありがとう。
私を見つけてくれて。
死んでた私に、もう少し生きたいと思わせてくれて。
私は颯人のことが、だいすきです。
何にも代え難いほど、あなたのことを愛おしく思っています。
だから、だからこそ。前を向いて歩いてください。
私は、夢に向かって真っ直ぐなあなたに憧れてたし、だいすきなの。
私が死んだからって言って、泣いたり、挫けたりしないこと。この手紙を読んでるはずの颯人。ほら、口角を上げて】
無茶苦茶じゃないか。
ー好きな人が死んだのに、笑えって。
でもそれが、風花らしいなと思って、僕は無理に口角を上げる。
【颯人。ずっとずっと、ありがとう。
この恩をいつか返したいと思ったけれど、時間が全然足りなかったの。ごめんね。
先に旅立つことを、許してください。
私はずっとあなたのそばにいます。
託した夢を、お願いします】
「うっ……っ……」
本当に、風花は分からない。
笑顔の裏に涙を隠して。言葉の裏に本音を隠してー僕を困らせてばっかりで。
でもそれが、どうしようもなく、愛おしくて。好きで好きで、たまらなくて。
「風花ぁっ……」
好きだよ、風花。何よりも。
僕の方こそ君に救われてきて、君にたくさんの『ありがとう』を言いたかった。
僕の方こそ、生きる希望に満ち溢れた君に憧れを抱いていた。
「馬鹿………………」
どれだけ求めても、どれだけ叫んでも、泣いても、笑ってもー風花は戻ってこない。
【追伸】
「……ぇ」
手紙の裏に見つけたそんな文字。
僕はそれに縋るように飛びつき、読む。
そして涙を流した。これくらい見逃してほしい、と心の中で思いながら。
そして誓った。
絶対に僕の夢を叶えると。風花の夢を叶えると。
そしていつか風花に会ったときに、胸を張ってたくさんの思い出話ができるように。
この決意を、風花はどこかで聞いているのかな。
「……風花、だいすきだよ」
そのとき、窓の外で優しい夏の風が吹いた。
全国高等学校野球選手権大会、決勝。
兵庫県代表の茶原高校対、神奈川県代表の烏城高校。
茶原高校三点リードで迎えた延長十二回裏、烏城高校はこの日最大のチャンスを迎えていた。
ーよし。いける。
デジャヴを感じる。
あの悔しさしか残らなかった去年の県大会と、全く同じ展開。
「いけるぞ!颯人!」
三塁ベースにいた理玖が、そう口を動かしているような気がする。
ツーアウト満塁。
烏城高校が勝つ、最速の手段は、俺がこの場面でホームランを放つこと。
ー見ててよ、風花。
あの日は、きっと僕の人生の中で一番後悔が残る日になるんだと思う。
けれど、それと同時にいい日でもあった。
【追伸】
風花の追伸は、至ってシンプルで、でも僕の心を一番揺さぶった。
【私は颯人のそばに吹く風になるよ】
相手ピッチャーがボールを投げた。僕はバットを振った。ボールはバットに当たった。
ーボールは高々と打ち上がった。
四万七千人の観客の視線が、その一球に集まる。
「いけーっ!」
センターを守る選手が捕球体制に入る。
ーあぁ、足りなかったか。ごめん、風花。
そう思った、瞬間だった。
甲子園に強く、風が吹いた。
風はボールを乗せて、飛ばしてーバックスクリーンに、突っ込んだ。
「わぁぁぁぁっ!」
甲子園に響き渡る歓声。
笑ってしまう。いつか風花が言ってたじゃないか。
『甲子園のシーズンはここにやって来て、六甲おろしになるね』
『僕の打球をホームランにしてくれる?』
『もっちろん!』
ダイヤモンドを一周しながら、僕は呟いた。
「ありがとう、風花」
君は夢を叶えて、風になったんだね。
それに返事をするように、吸い込まれそうなほど青い空に、夏の爽やかな風が吹いた。
完
真っ青な空の下。
待ちに待った県大会が、始まった。
今年は二百校近く集まり、過去最難関とも言われる神奈川地区。
「行くぞー、烏城!」
「おぅっ!」
ケガのため参加を断念した部長たちも応援に駆けつけてくれた。
僕と理玖は目を見合わせ、こくりと頷く。
「絶対勝つぞ!」
試合は光のように過ぎ去り、初戦は見事快勝した。
「颯人はちょっと力んでたな。途中からの修正力は良かった」
「はい。分かりました」
そして始まる、監督のダメ出し。
最高学年になると、自分の分だけではなく、後輩みんなの分も覚えるんだ、と部長が言っていた。
「理玖はあれだ。彼女のこと見過ぎだ。集中しろ、試合に」
「はい、すみません」
「次エラーしたら、彼女の応援禁止にする」
「えぇ」
思わずくすりと笑ってしまう。
理玖と陽菜さんの仲も順調なようで、最近は毎日練習にも顔を出してくれていた。
「よし、明日も試合だからな。気を抜かずに今日はしっかり休め」
「……」
「返事は⁈」
「はい!」
それから僕は、自転車を漕いで病院へと向かった。
理玖は陽菜さんと一緒に帰るとかで相変わらず普通の恋人として生活している。
でも別に、今はそれがいいなとは思わない。
いろいろな恋人の形があると思うから。
「風花」
風花はあの小旅行以来、体調を崩しやすくなっている。
先生やお父さんの言うことには、別に甲子園に行ったことは関係ないらしいが、心配でならない。
「初戦勝ったよ。また明日も試合だからすぐに帰るけど、力みすぎって言われたよ」
寝たままの風花に、目を覚ます気配はない。
「……好きだよ」
届かない告白が、空間に虚しく響いた。
夏本番が来ると言うのに、病室の中だけはやけに冷たかった。
そして烏城高校は順調に勝ち上がり、とうとう、決勝が翌日という日まで迫って来ていた。
「おはよう、風花」
「んんー、颯人ー?」
お父さん情報だが、風花は病気を治すための治療ではなく、命を延ばすための治療に切り替えたらしい。
それは、風花自身が望んだことで、ある特定の日までは必ず生きたいんだ、と力強く話していたと言っていた。
「体調はどう?」
「目覚めに颯人がいるって最高」
ふふふ、と控えめに笑う。
最近の風花は、立ち上がることもできず、いつもベッドの上で笑っている。
「明日は決勝だよね?」
「うん」
「向田?」
「まあね」
決勝戦の相手は、前評判通り、烏城高校対向田高校になった。
奇しくも去年と同じカードとなり、僕らは因縁の相手にリベンジができるのである。
「強いだろうね」
「あぁ。でも勝つ」
「そう言う強気なとこ好き」
風花は最近、思ったことをよく言うようになった。
本人曰く、後悔したくないから、らしい。
「風花にも見に来て欲しかったな」
「ははは。ごめんね。画面越しで応援してる」
どこからでも、風花の応援があるなら、勝てるような気がした。
「終わったら来るから」
「祝賀会だね。風間くんや陽菜ちゃんも連れて来てよ」
「分かった」
風花を見つめる。
あざができた、太陽の光を浴びていない真っ白な肌。荒れた唇。生気を失った瞳。そして、以前の艶をなくした髪。
僕が見ても分かるほど、衰弱していた。
「あーぁ、もうちょっとだけ、生きてたいなぁ」
「……余命は教えてくれないよね」
風花は自分から余命を話そうとしない。しかも、お父さんや先生たちにも口止めを指示しているようで、誰に聞いても教えてくれない。
だから僕だけが、いつ来るか分からない終わりを待っている状態になっていた。
「言ったら颯人は泣くもん」
「風花の中の僕って何歳なんだよ……」
また、控えめに笑われた。
「ごめん、ちょっと疲れたから寝るね」
「あ、のさ……風花」
僕は今日の朝、理玖に言われたことを思い出す。
「女子って死ぬまでにやりたいこと、ひとつはあるんだよな」
「まぁ、誰にでもあるでしょ?」
「ーキス、とか?」
真っ白な風花の頰が、赤く染まる。
「誰に言われたのそんなこと」
「理玖……陽菜さんが、言ってたらしいけど」
陽菜ちゃんかー、と風花は分かりやすくうなだれるふりをする。
「で、それなら叶えられるかな、って」
「颯人。キスは宣言して言うもんじゃないよ」
それから風花は、ゆっくりと目を閉じた。
ファーストキスはレモンの味がするとか言うけれど、そんな味は全然しない。
シーツの消毒液の匂いが鼻を掠めた。
***
夢を見た。
真っ青な空の下。
甲子園のグラウンドに、颯人たちが、大優勝旗を持って涙を流していて。
私はその光景を、ベンチで見ている。
そんな、もうありえない、夢をーーー。
「……風花」
目を覚ました。
そこは、消毒の匂いがする室内で。
「お父さん……?」
横には、お父さんが不安そうな表情をして座っていた。
「もう、無理しなくてもいいんだよ」
お父さんはきっと、私が延命治療をしていることをあまりよく思っていないのだろう。
私はただ生きたいのではない。
「私が言ったからこの治療してるの。大丈夫。無理はしてないよ」
七月二十八日ー颯人の十七回目の誕生日の日を、お祝いしたいのだ。
「絶対生きる」
その日は県大会の決勝でもあるから、きっと颯人は疲れているだろう。けれど、祝賀会の約束もしたから予定通りだ。
そんな私を見て、お父さんは笑った。
そしてふと、思う。
「お父さんは、強いね」
今更だけれど、お父さんの味わった苦悩は計り知れない。妻を病気で亡くし、二十年来の親友も事故で亡くし、娘も病気にかかっている。
なのにお父さんは、私の前で弱音を吐かない。
「……大切な人との別れが、お父さんをもう一段、もう二段、強くしてくれたんだ」
「そっかぁ……」
それなら颯人も今以上に強くなるのかな。
私が死んだら、颯人は泣くかな。泣かないでほしいな。
「風花も十分強い。今までよく頑張ったよ」
ーあぁ、死ぬ直前なのかな。
お父さんとゆっくり話すのは、これが最後になるような気がした。
「お父さん……お願いがあるんだけど」
私はベッドの横に備え付けられた棚の中から手紙を取り出す。
「私が死んだら、颯人に渡して」
託すのは、お父さんがいいと思った。
「……分かった」
お父さんは、寂しそうに笑った。
***
バクン、バクンと心臓が高鳴る。
県大会決勝戦が始まった。
「烏城行くぞ!」
「おぅ!」
やるしかない。頑張るしかない。
ドンっと胸を叩き、俺は懸命に腕を振る。
試合は予想通り、零対零のまま、延長戦に突入した。
「まだ諦めるな!」
「はい!」
試合時間はどんどん長引いていく。
でも一ミリも、長いとは思わない。光のように早く過ぎ去っていく。
ーあぁ、楽しいな。きっともっと甲子園は楽しいんだろうな。
しかし、延長十二回裏。三点ビハインドの場面。
烏城高校に、今日最大のチャンスが訪れる。
ツーアウトから、理玖がフォアボールで塁に出た。
そして続くバッターもヒットを連発し、満塁という大チャンスで僕の打席に回ってきた。
ーいける。大丈夫。
と、相手ピッチャーの纏う空気が変わった気がした。
投げた、と思った瞬間にキャッチャーのグローブにボールが突き刺さる音。
ーやばい。
ギアを上げられた。このピッチャーはプロ入りもできると言われているほどの能力を持っている。
でも俺は必死にしがみついていく。
そして、フルカウントになった、八球目。
相手ピッチャーがボールを投げた。僕はバットを振った。ボールはバットに当たった。
ーそこまでだった。
僕が打ち返したボールは、バットを掠めただけで、セカンドの真正面へ飛んでいった。
「しゃー!」
グラウンドが相手ナインの歓声で包まれる。
その中で、僕のヘッドスライディングの音が虚しく響いていた。
ー終わった。終わって、しまった。
立ち上がれない。
僕は何をしたのだろう。風花に見せたかったんじゃないのか、甲子園に立つ姿を。
馬鹿だ。遅い後悔が胸に溢れてくる。
「っ……うぅっ」
目から勝手に涙が溢れてきた。
ポンっと肩に手を当てられる。
涙ぐんだ理玖が、くいっと顎を動かす。
「ありがとうございました」
「ありがとうございましたっ!」
ー悔しい。僕のせいで、烏城の、僕の夢を。
グラウンドに、夏の風が吹いた。
それから反省会を終え、風花にどんな顔を見せようか、と思いながらスマホを開く。
そこには、お父さんからのメールが届いていた。
【風花の容態が急変した。試合が終わり次第、病院に来てほしい】
「嘘だろ……っ!」
早い。早すぎるよ風花。
僕は自転車を最大限に飛ばして、病院へと向かう。
病院の受付には、顔見知りの看護師が立っていた。
「八神さん」
看護師は、何かを決意したような顔をしていた。
そしてパタパタパタ、と静かに走り、風花の病室に入る。
「風花…………!」
そこには、いつも笑っていたベッドの上で、たくさんのチューブに繋がれた風花がいた。
そして室内に定期的に電子音が響く。
全てを悟った。
これは、おわりの瞬間なのだと。
「風花」
僕はゆっくりと風花に近づき、彼女の手を握る。握り返す力は弱い。
「ごめんな……甲子園、無理だった」
言葉は返してくれない。けれど心電図の波がぐわんと大きく唸る。
まるで、「何してんのよ」と怒られたようだ。
「来年こそ絶対行くから、見に来てくれる?」
波が、どんどん小さくなっていく。
先生たちも、ただ、立っていた。
「…………は、やと」
え、と全員が目を見開く。
風花は、ゆっくりと瞼を開け、その唇を振るわせた。
「誕生日、おめで……とう。だいす、き……だ、よ」
ピーーーッと機械から一際大きな音が鳴った。
それが、最期の合図だった。
「風花っ……!風花ぁ……っ」
彼女、東雲風花は、十六年の短い生涯の幕を、笑顔で閉じた。
風花がこの世界から消えてから、数時間が経った。
彼女の身体はもうこの病室に存在せず、病室から風花の色が消えていた。
「……あと一時間ぐらいで掃除が来るそうだ」
振り返ると、お父さんがドア付近に立っていた。
「そうなんですね」
この世からどんどん風花がいた痕跡がなくなってしまう。それが寂しく感じた。
「颯人くん」
名前を呼ばれる。
僕の恋人は、もうこの名前を呼んでくれない。
「風花から手紙を預かってる」
お父さんは僕に手紙を手渡した。
そして気を使ったのか、部屋から出てくれる。
【颯人へ】
何度も見た、風花の字。
今の僕は、これを開けていいのだろうか。
耐えられるのだろうか。この現実に。
ーでも。
これは、風花が何を考えていたのか、僕に何を思っていたのか、それを知る唯一の方法だ。
ーよし。読もう。
僕はゆっくりと手紙の封を開けた。
【颯人は文字が嫌いだと思うので、短めに終わらせたいなと思います。
私が伝えたいのは、ひとつだけ。
颯人、ありがとう。
私を見つけてくれて。
死んでた私に、もう少し生きたいと思わせてくれて。
私は颯人のことが、だいすきです。
何にも代え難いほど、あなたのことを愛おしく思っています。
だから、だからこそ。前を向いて歩いてください。
私は、夢に向かって真っ直ぐなあなたに憧れてたし、だいすきなの。
私が死んだからって言って、泣いたり、挫けたりしないこと。この手紙を読んでるはずの颯人。ほら、口角を上げて】
無茶苦茶じゃないか。
ー好きな人が死んだのに、笑えって。
でもそれが、風花らしいなと思って、僕は無理に口角を上げる。
【颯人。ずっとずっと、ありがとう。
この恩をいつか返したいと思ったけれど、時間が全然足りなかったの。ごめんね。
先に旅立つことを、許してください。
私はずっとあなたのそばにいます。
託した夢を、お願いします】
「うっ……っ……」
本当に、風花は分からない。
笑顔の裏に涙を隠して。言葉の裏に本音を隠してー僕を困らせてばっかりで。
でもそれが、どうしようもなく、愛おしくて。好きで好きで、たまらなくて。
「風花ぁっ……」
好きだよ、風花。何よりも。
僕の方こそ君に救われてきて、君にたくさんの『ありがとう』を言いたかった。
僕の方こそ、生きる希望に満ち溢れた君に憧れを抱いていた。
「馬鹿………………」
どれだけ求めても、どれだけ叫んでも、泣いても、笑ってもー風花は戻ってこない。
【追伸】
「……ぇ」
手紙の裏に見つけたそんな文字。
僕はそれに縋るように飛びつき、読む。
そして涙を流した。これくらい見逃してほしい、と心の中で思いながら。
そして誓った。
絶対に僕の夢を叶えると。風花の夢を叶えると。
そしていつか風花に会ったときに、胸を張ってたくさんの思い出話ができるように。
この決意を、風花はどこかで聞いているのかな。
「……風花、だいすきだよ」
そのとき、窓の外で優しい夏の風が吹いた。
全国高等学校野球選手権大会、決勝。
兵庫県代表の茶原高校対、神奈川県代表の烏城高校。
茶原高校三点リードで迎えた延長十二回裏、烏城高校はこの日最大のチャンスを迎えていた。
ーよし。いける。
デジャヴを感じる。
あの悔しさしか残らなかった去年の県大会と、全く同じ展開。
「いけるぞ!颯人!」
三塁ベースにいた理玖が、そう口を動かしているような気がする。
ツーアウト満塁。
烏城高校が勝つ、最速の手段は、俺がこの場面でホームランを放つこと。
ー見ててよ、風花。
あの日は、きっと僕の人生の中で一番後悔が残る日になるんだと思う。
けれど、それと同時にいい日でもあった。
【追伸】
風花の追伸は、至ってシンプルで、でも僕の心を一番揺さぶった。
【私は颯人のそばに吹く風になるよ】
相手ピッチャーがボールを投げた。僕はバットを振った。ボールはバットに当たった。
ーボールは高々と打ち上がった。
四万七千人の観客の視線が、その一球に集まる。
「いけーっ!」
センターを守る選手が捕球体制に入る。
ーあぁ、足りなかったか。ごめん、風花。
そう思った、瞬間だった。
甲子園に強く、風が吹いた。
風はボールを乗せて、飛ばしてーバックスクリーンに、突っ込んだ。
「わぁぁぁぁっ!」
甲子園に響き渡る歓声。
笑ってしまう。いつか風花が言ってたじゃないか。
『甲子園のシーズンはここにやって来て、六甲おろしになるね』
『僕の打球をホームランにしてくれる?』
『もっちろん!』
ダイヤモンドを一周しながら、僕は呟いた。
「ありがとう、風花」
君は夢を叶えて、風になったんだね。
それに返事をするように、吸い込まれそうなほど青い空に、夏の爽やかな風が吹いた。
完