「お願いがあります」
僕はぺこりと頭を下げる。
その相手は、風花のお父さん。
「風花の一日を、僕にください」
僕は部長と話しているときに、思いついた。
風花を喜ばせることができる方法を。
「何をしたいんだ?」
お父さんは訝しげに僕を見る。
「ーーーに連れて行きたいんです」
「……!」
お父さんの動きが止まる。
そりゃあそうだ。娘の憧れの場所を、父親が知らないはずないだろうから。
「僕が決して風花の側を離れません。一日で帰って来ますし、変なことも絶対しません」
最高の思い出を作ってあげたい。
彼女が立つことを憧れた、あの地で。
「……風花は、車いすだ」
お父さんはぽつりぽつりと話し出した。
「君は……それに耐えられるかい?」
「はい」
だから、お願いします。そう言って僕はもう一度深く頭を下げる。
「分かったから顔を上げて」
言われたままに顔を上げると、お父さんは困ったような嬉しいような、そんな複雑な顔をしていた。
「風花は、恵まれてるな」
「……?」
首を傾げると、ふふふっと笑われる。
「病院側には私が話をつけるよ。君は、“そっち”の方をやっておいて」
「……!はい。ありがとうございます!」
よし。これで大丈夫だろう。
僕の口角は不思議と上がった。気がした。

それから梅雨が明け、六月下旬。
明日は、前々から準備して来ていたサプライズの日だ。
「風花」
明日は甲子園前、最後の休みだ。
僕はその日を、風花のために使う。
「明日、出かけようか」
「……ん?」
唐突過ぎて分かりにくかったかもしれない。
僕は向き直って言った。
「明日、外出許可が出たんだ。だから、僕と一緒に出かけてくれないかなー、なんて」
僕はちらりと風花を見て、驚いた。
彼女の目から、大粒の涙が溢れ出ていたから。
「……え、ごめん。嫌ならいいよ」
「違う……嬉しくて……ありがとう、颯人。思い出を作ろうとしてくれたんでしょ?」
僕はこくり、と頷く。
「あぁ、死にたくないなぁ」
ぽつりと呟いたその言葉は、今まで隠し続けて来た風花の本心だった。
僕はそれに対して、何も言うことができない。
「明日?」
「うん」
「どこに?」
「秘密」
サプライズなのだから、場所はついてのお楽しみだ。
その旨を伝えると、風花は頬を膨らましながらも了承してくれた。
「私、外に出るの久しぶりかも」
「そうだね」
「でもさ、外出許可取るの大変じゃなかったの?」
僕は笑って誤魔化した。
風花のお父さんに任せようかと思ったけれど、そう上手くはいかず、粘って粘って一日だけ許してもらえた外出許可。
ギリギリ明日の休みに間に合って良かったと思う。
「……ありがと、颯人」
「…………ゼリー食べる?」
気恥ずかしくなって、僕は話を逸らす。
「食べる!……ありがと、颯人」
結局、その日はお礼を言われ続けた。

そして、約束の日。
小雨が降っていたけれど、目的地は晴天らしい。あの場所には晴天が似合うから、良かった。
朝早く病室に向かうと、中から楽しそうな声が聞こえた。
「ねねね、陽菜ちゃん!こっちがあっち、どっちがいいかな?」
「えー、白い方じゃない?」
「やっぱりそうだよね!」
どうやら陽菜さんと今日の服を決めているらしい。
流石に僕が入っていったら殺されそうなので、また、外の椅子で待つことにした。
「おはよう」
「!おはようございます」
と、お父さんが病室に来る。
「ありがとうございました」
もう一度頭を下げると、くしゃくしゃっと撫でられた。
「頼んだぞ、風花を」
そんな会話をしていると、唐突にドアが開いた。
「はーい!今日の主役の登場ー!」
部屋から出て来たのは、気恥ずかしそうに顔を真っ赤にする風花と、とびきりの笑顔の陽菜さんだった。
「もー、風花ちゃん?これに決めたんだから自信持ってよ」
風花は自信なさそうにしているけれど、正直に言って今日の服は風花のために存在しているのかと聞きたくなるほど似合っていた。
風花が昔から好んで着る、スポーティーな格好にキャップ。
僕は風花がおしゃれしているのも、好きだった。
「似合ってる。可愛いよ」
僕の言葉に、もっと顔を赤くする風花。
そんな風花を引き連れて、僕は病院を出た。

「外だー!」
「空がたかぁぁぁい!」
「見て見て!あの服すっごい可愛くない?」
外に一歩出た瞬間、風花は目をキラキラ輝かせた。
ゆっくりと車いすを押しながら、僕の心はどくどく跳ねる。
「ねー、どこ行くの?颯人」
「秘密」
「そればっかり」
あはは、と風花は楽しそうに笑った。
そして新幹線に乗る。
「うわぁ、何気に人生初新幹線かも」
「中学の修学旅行はバスだったもんな」
「颯人がめちゃめちゃ車酔いしたやつね!」
「嬉しそうに言うなよ……」
横浜駅で買った駅弁を口いっぱいに頬張りながら、僕らはそう笑い合う。
梅雨明けの日曜日は、やはり人々の移動も活発で、新幹線もそれなりに混んでいた。
そして大阪駅で降車し、乗り換えを行う。
「ねぇ、どこ行くの?」
「もうすぐ着くよ」
しばらくすると、車内アナウンスが流れる。
「本日は阪神電車をご利用いただき、ありがとうございます」
「初めて乗る電鉄?の車内アナウンスって面白いよねー」
風花は興味津々な様子でアナウンスを聞いている。
「この電車は、山陽姫路行き、直通特急です。停車駅のご案内をします」
まずい。行き先がバレてしまう。
「この先、尼崎、甲子園、西宮ー」
あぁ、という僕の嘆きと、えぇ!という風花の喜びが同時に響く。
「もしかして、颯人、甲子園に連れてってくれるの?」
身体をよじらせて僕の表情を見ようとする風花は、にっこりと笑ってから首を傾げた。
その仕草が可愛らしくて、思わず微笑んでしまう。
「え、ちょ、なに?」
「ごめんごめん。可愛いなって思って」
「照れるんだけど」
そう言いながらまた顔を真っ赤にさせる風花。そんな表情の一つ一つが可愛くて、愛おしい。
そんなことをしているうちに、目的地に到着した。
「うわぁ、つた、いっぱい」
風花が甲子園を見た第一声が、それだった。
「もっといい感想ないの?」
僕は思わず吹き出す。
「だってー」
言い訳をする風花を押しながら、僕は女性の影を探す。いた。
「八神です」
ぺこりと頭を下げると、担当らしき眼鏡をかけた女性も頭を下げる。
風花だけが、この状況を理解していなくて、困惑した顔をしていた。
「この度は、本当にありがとうございます」
「いえ」
そろそろ困惑する風花が可哀想なので、僕は適当に説明をし、風花を車いすから持ち上げる。
「え、待って待って恥ずかしい」
おんぶとか抱っことか、色々考えた。けれど理玖や陽菜さんと相談した結果。
「なんでお姫様抱っこなの⁈」
車いすが入れないところは、お姫様抱っこをするということになった。
部活で鍛えて来た筋肉が、こんなときに生かされるとは。
「まあまあ」
腕の中の風花を宥めつつ、僕は女性の後を追う。
そして。
目の前に広がったのは、野球をやっている人なら誰しも憧れるー甲子園のグラウンド。
「なんで⁈もしかして颯人ってどっかの財閥の息子?」
風花は喜ぶよりも驚きの方が勝っているらしい。
「では。三十分後に、また」
「はい。ありがとうございます」
女性はそう言ってその場を後にした。
「なんで貸し切りなの⁈」
「僕らの努力」
ははは、と笑うと、風花はまた困惑した顔をした。
実は、風花を甲子園のグラウンドに立たせたい、という叶いもしない願望を理玖に相談したところ、部長にまで広がった。そして理玖や監督、部長に風花のお父さんまで交えた会議が開かれ、球場を少しでいいから貸し出してくれないかと頼んだのだ。
球場側も最初は渋っていたが、余命幾許もない少女がいること、その少女が甲子園に立つことを憧れていたことを話すと、三十分だけ、貸し出してくれることになった。
「えぇ」
最初は困惑しきっていた風花だったが、やっと現実だと理解したようだ。
「ここが……私たちの聖地なんだね」
「あぁ」
「ここに……颯人も立つんだね」
「絶対な」
「うわぁ」
腕の中の風花は、清々しい表情をしていた。
久しぶりに見る、楽しそうな風花の表情だった。
だから、僕はずっと聴きたかったことを、聞くことにした。
「なぁ、風花……今、幸せ?」
風花は即答した。
「うん!すっごく幸せ」
あえてそれには何も言わず、僕は質問を続ける。
「じゃあさ……生きるって、なんだろうな」
その問いかけは、余命幾許もない少女に向けるものとしては、残酷すぎたのかもしれない。
風花は珍しく、うーん、と言葉を詰まらせた。
「僕さ……ずっと考えてた。父さんが死んでから、ずっと」
もう十年ほど前になるけれど、この疑問が消えることはない。
「もしあの時、トラックに轢かれてなかったら。もしあの時、父さんが立ってた位置が一ミリでもずれてたら。あの時、救急車が一秒でも早く、来ていたら」
僕の中の後悔は、絶えなかった。
そもそもあれは、僕が急に食べたいと言い出したコンビニのアイスを買いに行ってくれた、帰りに起きたことだったから。
「……生きること、かぁ」
この後悔から解放されたい、もちろんその思いもあったと思う。けれど僕は、未来だけを真っ直ぐ見据える風花を、見たいんだ。
「心を忙しなく動かすこと」
ー心を、動かすー
何も響いてこなかった僕の心に、すとんっと落ちて来た。
「私はね、死にたかった……いや、死んでた」
ぽつりぽつりと語り出す風花。
その声色は、何よりも儚く感じる。
「神様を憎んだ。世界を憎んだ。病気を憎んだ。そうしたらね、いつしか心は死んでいたんだ」
ふわぁっと、グラウンドに風が吹く。
夏の気配を感じさせる、爽やかな風だった。
「でも、私は今生きてる。なんでか分かる?」
僕は首を横に振る。
「颯人が、私を見つけてくれたからだよ」
唐突に出て来た名前に、心臓が跳ねる。
あぁ、生きるって、こういうことなんだ。
「私は、生きたい。すっごくすっごく生きたい。颯人は、もう一度私に、そう思わせてくれた」
ふと風花を見る。
目が合った。
「颯人、私が叶えられなかった夢、託していい?」
そんな、終わりに向けて、みたいなことを言わないでほしい。風花には、いつまでも明るく笑っていてほしい。
けれど。けれど風花の命のタイムリミットは刻一刻と近づいて来ている。
その風花が、僕に夢を託したいと言ってくれた。
それなら僕の、やるべきことはー。
「いいよ。全部叶える」
風花の代わりに、夢を叶えること。
風花は、そんな僕の気持ちに気づいたのか、申し訳なさそうな顔をしてから、告げた。
「甲子園で、優勝したい」
「うん」
「プロ野球関連の仕事に、就きたい」
「……うん」
「長生き、したい」
それから風花は、たくさんの夢を言った。
世界一幸せになりたい。世紀の大恋愛をしたい。運命の人と結婚したい。子どもを愛情いっぱいに育てたい。大きな家に住みたいー。
そんな風花の星屑みたいな希望を、僕は忘れないよう、心に刻んでいく。
そして、最後に言い放った。
「生まれ変わったら、風になりたい」
やけに明るい声で。
「……風?」
今までと毛色が違って、思わず聞き返す。
と、またグラウンドに風が吹いた。
「風になって、自由に空を駆け回りたいの。花を育てたり、潮の匂いを纏わせたり、時には人の心をほぐしたり。そんな人々の生活に何気なく存在する、風になりたいの」
どこまでも優しく、誰よりも自由を求めた、風花らしい大きな夢だった。
「でも、甲子園のシーズンはここにやって来て、六甲おろしになるね」
「僕の打球をホームランにしてくれる?」
「もっちろん!」
あははっ、と二人で笑い合った。
そして風花は、言った。
「颯人、大好き!」
「……世紀の大恋愛、もうしてるんじゃないの」
「確かに!」
また笑う。僕らの間には、やっぱり涙は似合わない。
そうしているうちに三十分は光のように過ぎ去り、僕らは甲子園を後にした。
帰り道、近くの神社で風花は僕にお守りを買ってくれた。
「私がいなくても優勝できるようにね」
と、寂しいことを言いながら。
そして、新幹線を乗り継ぎ、ちゃんと約束通り、当日中に病院へ帰った。
お父さんも先生も、安心したような表情を浮かべていた。
その日だけは、その日だけは、自由だった。