集中治療室の前。いくつか並べられた椅子に座る僕と、風花のお父さん。
その間には、気まずい沈黙が流れていた。
かれこれ二時間以上、風花はあの部屋から出てこない。
何度も、「帰っていいよ」と言われたけれど、この状況で帰れるほど、僕は薄情な人ではない。
「あの……お父さん」
『お父さん』は父さんの親友だ。父さんが亡くなった後は、何度も僕の家を訪れてくれた、第二の父のような存在。
「なんだい?」
父さんとは違い、紳士的な印象を与えるお父さんは、いつも言葉遣いが丁寧だ。
「風花は……あと、何年生きられるんですか?」
「六ヶ月」
「え…………」
絶句。その言葉が、今の僕に一番似合う気がする。
まさか、まさかそんな短いなんて。
「でも、今回倒れたことで、余命は短くなっているのは確実だと思う」
お父さんは事実を淡々と話し続けた。
風花の病気が発覚したのは、中三の冬で、僕にそのことを知られたくないから引っ越したこと。それから一度も病院を出ていないこと。昔は気丈に振る舞っていたが、最近はあまり体調も優れないということ。
そして。
「颯人くんと会ってから、よく笑うようになったんだ」
「……え」
その瞬間、パチンッと集中治療室の光が消えた。
麻酔をしているのか、気を失ったままの風花や看護師、医師がゾロゾロと出て来る。
「渡良瀬先生!」
お父さんはその中のいかにも医師という印象の男性に声をかけた。担当医師なのだろうか。
「君は、颯人さん、かな」
先生は、まず僕の方を向いた。
優しい雰囲気もあるが、目が真剣だ。
「はい。八神颯人です」
先生はその瞬間、何か眩しいものを見たかのように目を細めた。そして、さっきの締まった表情に戻り、言う。
「今回は、命に別状はありません。ただ、今回のことで、倒れるリスクは限りなく大きくなっています」
安堵と不安が一気に流れ込んでくる。
「あと、どれぐらいなんですか?」
僕は思わず聞いてしまった。
「……はっきりと断定できませんが、前よりは短くなっていると言えます」
それを聞いた僕はー逃げ出してしまった。
なんだよ。僕は、僕はやっと風花の気持ちに気づけたのに、なのに。
風花は、もう長くないなんて。
悔しい。悔しい。悔しい。
風がふわっと吹く。もうすぐ梅雨が来る、雨の匂いを含んだ風だな、と感じた。
幸い、風花の手術に立ち会った日は土曜日だったので、僕は寝ないまま練習に行かずに済んだ。
この時期、日曜日は十時から十七時まで、七時間にわたって練習をする。それは甲子園を目指すものにとっては当たり前で、別に苦痛と感じたことはなかった。
部長も部活に参加し、いろいろアドバイスをしてくれる。
「なんか疲れてるな、颯人」
「まぁ、ね」
理玖には告白のことは話したが、手術したことや余命のことまで話していない。
「なんでも相談しろよ、親友だろ?」
「そうだよな……って」
笑いながらネットの外を見ると、見覚えのある少女がひとり。
「おー、陽菜!」
理玖はパタパタと陽菜さんの方へ走っていく。今は休憩中だが、練習中にこれをしていたら監督はブチギレていただろう。
「理玖くん!練習ファイト」
「サンキュー。頑張れる気がする!」
「そこは頑張るって言ってよね」
他の部員も、まじまじと二人が話す姿を見ていた。
あの距離感に、妹や友達と感じる人はいないだろう。
「おいそこ!何やってる!」
監督が帰って来た。
「じゃあな!陽菜」
「うん!またね」
理玖は走りながらこっちに戻って来た。
そして向けられる、羨望の眼差し。
「風間。色恋沙汰にうつつ抜かしてんじゃねぇよ」
監督は分かりやすく顔を顰める。
「すみません」
理玖は反省しているようには見えない。
だから僕は、理玖に問いかけた。
「陽菜さんって、退院したんだな」
少し迷って、核心から少し離れたことを。
「あぁ。烏城高校進学するとか言ってくれたんだぜ?すっげぇ嬉しい」
幸せそうな照れ笑い。
聞かずとも分かったけれど、一応聞いておこう。
「お前、陽菜さんと付き合ってんの?」
「あぁ!」
後輩が、「いいなぁ」と呟いた。
野球部員はサッカー部員に比べてやはりモテない。羨ましく思うのは当然かもしれない。
ただ僕は、違うことに対していいな、と感じた。
好きな人と、恋人と一緒にいられて。
未来の話を笑顔でできて。普通の青春を送れて。
「そう言えば陽菜が言ったぜ?風花ちゃんを頼みましたーって」
「誰に?」
「お前以外だれがいんだよ」
はははっ、と理玖は愉快そうに笑う。
「何があったか知らねぇけどさ。溜め込みすぎんなよ」
青い空の下、監督の声が響いた。
この日も風花の見舞いに行き、面会時間ギリギリまで話し、家に帰った。玄関には、いつも働いていていないはずの母さんの靴と、自由奔放であまり家に帰ってこない姉ちゃんの靴が。
嫌な予感を覚えた僕は、物音を立てないように自分の部屋に行こうとする、が。
階段の前で待っていた母さんに捕まった。
「あんたこんな遅くまで何してたの」
「……勉強」
あまり風花のことは話したくない。
「嘘おっしゃい!隣の家のおじさんがね、糖尿病で作楽病院に入院してるんだけど、あんたを見たって言ってたのよ?」
しかし、僕の嘘はいとも簡単に見破られた。
隣のおじさんに会った記憶はないが、あれだけ大きな病院だから見られていたとしても仕方がない。
「颯人ー、おかえりー」
二階から姉ちゃんが降りて来た。
母さんの声を聞いて僕が怒られるところを見に来たのだろうか。いや、姉ちゃんのことだから水を飲みに来ただけだ。
「お見舞いに行くんならねぇ、私に言ってくれる?どうせ碌なもん渡してないんでしょう?」
元々アナウンサーをしていた母さんの声はめちゃくちゃ通る。
キッチンから出て来た姉ちゃんは、楽しそうにこの状況を見ていた。
「誰のお見舞いに行ってるの?」
「…………風花」
諦めて名前を出すと、母さんは優しく微笑んだ。
「それならそうと早く言ってよ。心配してたんだよね」
「えー、風花ちゃんに会ってたの?ずるいよ颯人」
そうか。別に隠すことはなかったんだ。
風花の家とは、家族ぐるみの付き合いをしていた。だから、母さんたちも心配していたんだ。風花のこと。風花の家のこと。
「もー、いつも何持ってってたの?」
「風花が好きなコンビニゼリー」
終わってる、と姉ちゃんに呟かれた。
女性二人の視線が痛い。
「はい、お金。風花ちゃん以外に使ったら怒るからね」
そう言う母さんは、笑っていた。
「好きな子だもんねー、そりゃあ毎日行くわけだ」
「はぁ⁈」
どうやら僕の気持ちは母さんにバレてたらしい。
母親はやはり侮れない。
僕は階段を登り、自分の部屋に帰ろうとした。
と、母さんが背中を叩く。
「風花ちゃんを、守ってあげるんだよ」
僕は無言で頷いた。
だが、その次の日。
部活も終わり、いつものように病室に向かった。すると、部屋の中から風花以外の声が聞こえて来た。
「久しぶりー」
「元気だった?陽菜ちゃん」
どうやら相手は陽菜さんのようだ。僕は女子トークの間に割って入っていくほど勇者ではない。なので廊下に並べられた椅子に座って待つことにした。
部屋の中の声は、案外聞こえるんだな、なんて思いながら。
「彼氏できたのー!夢だったから嬉し」
「そうなの?あ、風間くんか」
「うん!理玖くんめっちゃいい彼氏なんだよー!」
その言葉を聞いて不安になる。
僕はいい彼氏なんだろうか。
「そっちはどう?」
「うーん……いい彼氏だよ?」
その前の変な間が気になる。
「じゃあなんで疑問形なの?」
陽菜さんが僕の言いたいことを代弁してくれた。
ドア越しだと、今、風花が、どんな表情を浮かべているのかが分からない。
「私がね、邪魔してるんじゃないかなって」
「邪魔?」
なんの?僕も思わず呟く。
「うん。私がいなかったら、颯人は普通の青春を送れてたんだよ?」
また、風花に突き放された。僕のことばっかり考えて、本当に欲しいものを我慢する風花に。
「でも、颯人さんはー」
「私が病気じゃなきゃ、良かったのに」
「風花ちゃん……」
陽菜さんが、あからさまに困っているような声を出した。
でも僕は、ドアの向こうに立ち入ることができない。
「私はね、本気なの。本気で颯人が好きで、本気で颯人に甲子園で優勝してほしいの」
その声色は、どこか寂しい。
「だから、私のところに毎日来てくれるのがね……嬉しいんだけど、罪悪感がっ……」
ー泣いている。
それが分かった瞬間、僕はドアを乱暴に開けた。
風花は分かりやすく驚き、陽菜さんは驚きつつも安心したように笑った。
「風花ちゃん、ちゃんと話し合いなよ。じゃ、私今からデートだからまたね」
「え、ちょっ」
「大丈夫。彼氏なんでしょ?」
そう言って陽菜さんは病室から出て行ってしまった。
僕らの間に流れる、気まずい沈黙。
それを破ったのは、ほかでもない、風花の声だった。
「いつから聞いてたの?」
「……ほぼ最初から」
「そっか」
また途切れる会話。気まずい。
僕は、なんのために二人の間に割って入ったんだ?
「罪悪感って、何」
僕は聞いた。風花の不安をなくすために。
「僕は、選んでここに来てる。僕だって本気で風花が好きで、本気で甲子園優勝を目指してる」
遊びなんかじゃない。気のせい、でもなんとなく、でもない。
「だから、風花は僕の青春を邪魔してない」
僕は言葉を紡ぐ。
この泣き虫な少女の、最高の笑顔を守るために。
「僕の青春には、風花が必要なんだ」
風花は、また泣いて頷いた。
「……そっか…………そうだよね」
僕はベットの上の風花を抱きしめる。
窓の外では、雨が降っていた。
梅雨に入って、一週間が経った。
梅雨、それは僕らにとって、甲子園が近づいていること、そして外で練習ができなくなることを意味する。
部屋の中でトレーニングをしたり、廊下を走ったり、邪魔にならないところでバッティング練習をしたり。そうやっているうちに、いつも通り時間は過ぎていく。
これ以上もどかしい時期はない。
「……甲子園」
練習が終わり、部室のカレンダーを見つめながら僕はそう呟いていた。
父さんが踏めなかった甲子園の地を、僕が代わりに踏む。そのために今日まで突っ走って来た。だけど。
「風花……」
最近は違う。風花が叶えられない夢を叶えたいという思いの方が強いのだ。
「お前の知り合い、風花って名前なんだな」
唐突にそう言われて、後ろを振り返る。
そこには、練習着のままの部長がいた。
「えぇ、まぁ」
部長は僕の隣に立ってカレンダーを見つめる。
「あと一ヶ月で県大会か」
「……ですね」
強豪ぞろいの神奈川県。だけど勝ち残るしか甲子園の地を踏む方法はない。
「いい関係なんだな」
ありがとうございます、と言いながら僕は思う。
どうして部長はこれだけ優しいのだろう。
「あの……部長ってなんで野球を始めたんですか?ってすみません、失礼ですよね」
聞いた後に恥ずかしくなって目を伏せる。
先輩相手にこれだけ失礼なことはないだろう。
でも部長は、爽やかに笑って答えた。
「俺な、お前の父さんのファンなんだ」
やっぱり父さんは人気だなぁ、と思う。
あの事故から何年経っても、憧れの選手としてその名を挙げるものは多い。
「俺、父さんがめちゃくちゃプロ野球ファンで、毎日見てたんだけどさ。あんまり興味なくて」
部長は遠い目をしながら話した。
「でも、あの日。八神選手が五十号ホームランを打った日。ただただすげぇ、って思ってプロ野球選手に憧れた」
その試合は、僕もよく覚えている。
父さんの最後のシーズンの、ホーム最終戦。
三点ビハインドの展開で、九回表、満塁の場面で、三冠王をほぼ確定させていた父さんの打順に回って来た。
相手は、その年セーブ王を獲得した好投手。
しかし父さんは、その人のストレートを一瞬で弾き返し、バックスクリーンへと吸い込まれていった。
「でもまぁ、その後まさか事故で亡くなるなんて思ってなくて……それからは、勝手に八神選手の代わりに甲子園を目指して来たんだ」
部長の顔は、晴れ晴れしていた。
「だから息子であるお前がこの部に入って来てくれて、八神選手にそっくりなフォームを見せてくれて、嬉しかった」
こっちに向き直られて、僕も部長の方を向く。
「改めて、甲子園、目指そうぜ」
「……はい!」
父さん。父さんの広げた野球の輪は、こんなにも広がってるよ。
昔言ってたよね。野球という最高のスポーツをもっともっとメジャーにしたいって。叶ってるよ、その夢は。
「よしっ、帰るぞ」
そのとき、僕の中で、ひとつ。必ず風花を喜ばせることができるサプライズを思いついた。
その間には、気まずい沈黙が流れていた。
かれこれ二時間以上、風花はあの部屋から出てこない。
何度も、「帰っていいよ」と言われたけれど、この状況で帰れるほど、僕は薄情な人ではない。
「あの……お父さん」
『お父さん』は父さんの親友だ。父さんが亡くなった後は、何度も僕の家を訪れてくれた、第二の父のような存在。
「なんだい?」
父さんとは違い、紳士的な印象を与えるお父さんは、いつも言葉遣いが丁寧だ。
「風花は……あと、何年生きられるんですか?」
「六ヶ月」
「え…………」
絶句。その言葉が、今の僕に一番似合う気がする。
まさか、まさかそんな短いなんて。
「でも、今回倒れたことで、余命は短くなっているのは確実だと思う」
お父さんは事実を淡々と話し続けた。
風花の病気が発覚したのは、中三の冬で、僕にそのことを知られたくないから引っ越したこと。それから一度も病院を出ていないこと。昔は気丈に振る舞っていたが、最近はあまり体調も優れないということ。
そして。
「颯人くんと会ってから、よく笑うようになったんだ」
「……え」
その瞬間、パチンッと集中治療室の光が消えた。
麻酔をしているのか、気を失ったままの風花や看護師、医師がゾロゾロと出て来る。
「渡良瀬先生!」
お父さんはその中のいかにも医師という印象の男性に声をかけた。担当医師なのだろうか。
「君は、颯人さん、かな」
先生は、まず僕の方を向いた。
優しい雰囲気もあるが、目が真剣だ。
「はい。八神颯人です」
先生はその瞬間、何か眩しいものを見たかのように目を細めた。そして、さっきの締まった表情に戻り、言う。
「今回は、命に別状はありません。ただ、今回のことで、倒れるリスクは限りなく大きくなっています」
安堵と不安が一気に流れ込んでくる。
「あと、どれぐらいなんですか?」
僕は思わず聞いてしまった。
「……はっきりと断定できませんが、前よりは短くなっていると言えます」
それを聞いた僕はー逃げ出してしまった。
なんだよ。僕は、僕はやっと風花の気持ちに気づけたのに、なのに。
風花は、もう長くないなんて。
悔しい。悔しい。悔しい。
風がふわっと吹く。もうすぐ梅雨が来る、雨の匂いを含んだ風だな、と感じた。
幸い、風花の手術に立ち会った日は土曜日だったので、僕は寝ないまま練習に行かずに済んだ。
この時期、日曜日は十時から十七時まで、七時間にわたって練習をする。それは甲子園を目指すものにとっては当たり前で、別に苦痛と感じたことはなかった。
部長も部活に参加し、いろいろアドバイスをしてくれる。
「なんか疲れてるな、颯人」
「まぁ、ね」
理玖には告白のことは話したが、手術したことや余命のことまで話していない。
「なんでも相談しろよ、親友だろ?」
「そうだよな……って」
笑いながらネットの外を見ると、見覚えのある少女がひとり。
「おー、陽菜!」
理玖はパタパタと陽菜さんの方へ走っていく。今は休憩中だが、練習中にこれをしていたら監督はブチギレていただろう。
「理玖くん!練習ファイト」
「サンキュー。頑張れる気がする!」
「そこは頑張るって言ってよね」
他の部員も、まじまじと二人が話す姿を見ていた。
あの距離感に、妹や友達と感じる人はいないだろう。
「おいそこ!何やってる!」
監督が帰って来た。
「じゃあな!陽菜」
「うん!またね」
理玖は走りながらこっちに戻って来た。
そして向けられる、羨望の眼差し。
「風間。色恋沙汰にうつつ抜かしてんじゃねぇよ」
監督は分かりやすく顔を顰める。
「すみません」
理玖は反省しているようには見えない。
だから僕は、理玖に問いかけた。
「陽菜さんって、退院したんだな」
少し迷って、核心から少し離れたことを。
「あぁ。烏城高校進学するとか言ってくれたんだぜ?すっげぇ嬉しい」
幸せそうな照れ笑い。
聞かずとも分かったけれど、一応聞いておこう。
「お前、陽菜さんと付き合ってんの?」
「あぁ!」
後輩が、「いいなぁ」と呟いた。
野球部員はサッカー部員に比べてやはりモテない。羨ましく思うのは当然かもしれない。
ただ僕は、違うことに対していいな、と感じた。
好きな人と、恋人と一緒にいられて。
未来の話を笑顔でできて。普通の青春を送れて。
「そう言えば陽菜が言ったぜ?風花ちゃんを頼みましたーって」
「誰に?」
「お前以外だれがいんだよ」
はははっ、と理玖は愉快そうに笑う。
「何があったか知らねぇけどさ。溜め込みすぎんなよ」
青い空の下、監督の声が響いた。
この日も風花の見舞いに行き、面会時間ギリギリまで話し、家に帰った。玄関には、いつも働いていていないはずの母さんの靴と、自由奔放であまり家に帰ってこない姉ちゃんの靴が。
嫌な予感を覚えた僕は、物音を立てないように自分の部屋に行こうとする、が。
階段の前で待っていた母さんに捕まった。
「あんたこんな遅くまで何してたの」
「……勉強」
あまり風花のことは話したくない。
「嘘おっしゃい!隣の家のおじさんがね、糖尿病で作楽病院に入院してるんだけど、あんたを見たって言ってたのよ?」
しかし、僕の嘘はいとも簡単に見破られた。
隣のおじさんに会った記憶はないが、あれだけ大きな病院だから見られていたとしても仕方がない。
「颯人ー、おかえりー」
二階から姉ちゃんが降りて来た。
母さんの声を聞いて僕が怒られるところを見に来たのだろうか。いや、姉ちゃんのことだから水を飲みに来ただけだ。
「お見舞いに行くんならねぇ、私に言ってくれる?どうせ碌なもん渡してないんでしょう?」
元々アナウンサーをしていた母さんの声はめちゃくちゃ通る。
キッチンから出て来た姉ちゃんは、楽しそうにこの状況を見ていた。
「誰のお見舞いに行ってるの?」
「…………風花」
諦めて名前を出すと、母さんは優しく微笑んだ。
「それならそうと早く言ってよ。心配してたんだよね」
「えー、風花ちゃんに会ってたの?ずるいよ颯人」
そうか。別に隠すことはなかったんだ。
風花の家とは、家族ぐるみの付き合いをしていた。だから、母さんたちも心配していたんだ。風花のこと。風花の家のこと。
「もー、いつも何持ってってたの?」
「風花が好きなコンビニゼリー」
終わってる、と姉ちゃんに呟かれた。
女性二人の視線が痛い。
「はい、お金。風花ちゃん以外に使ったら怒るからね」
そう言う母さんは、笑っていた。
「好きな子だもんねー、そりゃあ毎日行くわけだ」
「はぁ⁈」
どうやら僕の気持ちは母さんにバレてたらしい。
母親はやはり侮れない。
僕は階段を登り、自分の部屋に帰ろうとした。
と、母さんが背中を叩く。
「風花ちゃんを、守ってあげるんだよ」
僕は無言で頷いた。
だが、その次の日。
部活も終わり、いつものように病室に向かった。すると、部屋の中から風花以外の声が聞こえて来た。
「久しぶりー」
「元気だった?陽菜ちゃん」
どうやら相手は陽菜さんのようだ。僕は女子トークの間に割って入っていくほど勇者ではない。なので廊下に並べられた椅子に座って待つことにした。
部屋の中の声は、案外聞こえるんだな、なんて思いながら。
「彼氏できたのー!夢だったから嬉し」
「そうなの?あ、風間くんか」
「うん!理玖くんめっちゃいい彼氏なんだよー!」
その言葉を聞いて不安になる。
僕はいい彼氏なんだろうか。
「そっちはどう?」
「うーん……いい彼氏だよ?」
その前の変な間が気になる。
「じゃあなんで疑問形なの?」
陽菜さんが僕の言いたいことを代弁してくれた。
ドア越しだと、今、風花が、どんな表情を浮かべているのかが分からない。
「私がね、邪魔してるんじゃないかなって」
「邪魔?」
なんの?僕も思わず呟く。
「うん。私がいなかったら、颯人は普通の青春を送れてたんだよ?」
また、風花に突き放された。僕のことばっかり考えて、本当に欲しいものを我慢する風花に。
「でも、颯人さんはー」
「私が病気じゃなきゃ、良かったのに」
「風花ちゃん……」
陽菜さんが、あからさまに困っているような声を出した。
でも僕は、ドアの向こうに立ち入ることができない。
「私はね、本気なの。本気で颯人が好きで、本気で颯人に甲子園で優勝してほしいの」
その声色は、どこか寂しい。
「だから、私のところに毎日来てくれるのがね……嬉しいんだけど、罪悪感がっ……」
ー泣いている。
それが分かった瞬間、僕はドアを乱暴に開けた。
風花は分かりやすく驚き、陽菜さんは驚きつつも安心したように笑った。
「風花ちゃん、ちゃんと話し合いなよ。じゃ、私今からデートだからまたね」
「え、ちょっ」
「大丈夫。彼氏なんでしょ?」
そう言って陽菜さんは病室から出て行ってしまった。
僕らの間に流れる、気まずい沈黙。
それを破ったのは、ほかでもない、風花の声だった。
「いつから聞いてたの?」
「……ほぼ最初から」
「そっか」
また途切れる会話。気まずい。
僕は、なんのために二人の間に割って入ったんだ?
「罪悪感って、何」
僕は聞いた。風花の不安をなくすために。
「僕は、選んでここに来てる。僕だって本気で風花が好きで、本気で甲子園優勝を目指してる」
遊びなんかじゃない。気のせい、でもなんとなく、でもない。
「だから、風花は僕の青春を邪魔してない」
僕は言葉を紡ぐ。
この泣き虫な少女の、最高の笑顔を守るために。
「僕の青春には、風花が必要なんだ」
風花は、また泣いて頷いた。
「……そっか…………そうだよね」
僕はベットの上の風花を抱きしめる。
窓の外では、雨が降っていた。
梅雨に入って、一週間が経った。
梅雨、それは僕らにとって、甲子園が近づいていること、そして外で練習ができなくなることを意味する。
部屋の中でトレーニングをしたり、廊下を走ったり、邪魔にならないところでバッティング練習をしたり。そうやっているうちに、いつも通り時間は過ぎていく。
これ以上もどかしい時期はない。
「……甲子園」
練習が終わり、部室のカレンダーを見つめながら僕はそう呟いていた。
父さんが踏めなかった甲子園の地を、僕が代わりに踏む。そのために今日まで突っ走って来た。だけど。
「風花……」
最近は違う。風花が叶えられない夢を叶えたいという思いの方が強いのだ。
「お前の知り合い、風花って名前なんだな」
唐突にそう言われて、後ろを振り返る。
そこには、練習着のままの部長がいた。
「えぇ、まぁ」
部長は僕の隣に立ってカレンダーを見つめる。
「あと一ヶ月で県大会か」
「……ですね」
強豪ぞろいの神奈川県。だけど勝ち残るしか甲子園の地を踏む方法はない。
「いい関係なんだな」
ありがとうございます、と言いながら僕は思う。
どうして部長はこれだけ優しいのだろう。
「あの……部長ってなんで野球を始めたんですか?ってすみません、失礼ですよね」
聞いた後に恥ずかしくなって目を伏せる。
先輩相手にこれだけ失礼なことはないだろう。
でも部長は、爽やかに笑って答えた。
「俺な、お前の父さんのファンなんだ」
やっぱり父さんは人気だなぁ、と思う。
あの事故から何年経っても、憧れの選手としてその名を挙げるものは多い。
「俺、父さんがめちゃくちゃプロ野球ファンで、毎日見てたんだけどさ。あんまり興味なくて」
部長は遠い目をしながら話した。
「でも、あの日。八神選手が五十号ホームランを打った日。ただただすげぇ、って思ってプロ野球選手に憧れた」
その試合は、僕もよく覚えている。
父さんの最後のシーズンの、ホーム最終戦。
三点ビハインドの展開で、九回表、満塁の場面で、三冠王をほぼ確定させていた父さんの打順に回って来た。
相手は、その年セーブ王を獲得した好投手。
しかし父さんは、その人のストレートを一瞬で弾き返し、バックスクリーンへと吸い込まれていった。
「でもまぁ、その後まさか事故で亡くなるなんて思ってなくて……それからは、勝手に八神選手の代わりに甲子園を目指して来たんだ」
部長の顔は、晴れ晴れしていた。
「だから息子であるお前がこの部に入って来てくれて、八神選手にそっくりなフォームを見せてくれて、嬉しかった」
こっちに向き直られて、僕も部長の方を向く。
「改めて、甲子園、目指そうぜ」
「……はい!」
父さん。父さんの広げた野球の輪は、こんなにも広がってるよ。
昔言ってたよね。野球という最高のスポーツをもっともっとメジャーにしたいって。叶ってるよ、その夢は。
「よしっ、帰るぞ」
そのとき、僕の中で、ひとつ。必ず風花を喜ばせることができるサプライズを思いついた。