ーあぁ、死のうかな。
私がそう思ったのは、窓の外に気持ちの良い初夏の風が吹く、そんな頃だった。
嫌だった。こんな生活が。こんな自分が。
私だって最初は、もう一度あの青い空の下を歩けるかもしれない。余命が一日でも延びるかもしれない。そう思っていた。
けれど、目の当たりにした現実は、残酷だった。
余命は、当初宣告されたものの半分以下に縮まっていたのだ。
その瞬間、ずっと頑張ってきた私の中の何かが、ぷつりと音を立てて切れた気がした。
どうして、私だけがこんな目に遭わされているの?
どうして、私だけ好きな人の隣で笑えないの?
病院内を歩きながら、私は心の中でそう問いかける。
そうだ。私は一階のカフェへと向かい、ずっと溜めていた思いを、全てノートに吐き出す。
久しぶりに何かに夢中になったから、心臓がバクバク動いていた。この弱い心臓め。
ただ、これで体調を崩してはどうにもならない。病室に戻ろう。
そう思って、机から立ち上がると、さっきまで書いていたノートが床に落ちた。
「あっ……」
拾おうとすると、誰か知らない人の手が当たる。
「すみません。ありがとうございます」
お辞儀をすると、頭の上から声が降ってきた。
「えっ……?風花?」
幾度となく夢に出てきて、ずっと待ち焦がれていた、大好きな君の声が。

***

「えっ……?風花?」
思わず僕は、声を出していた。
先輩の見舞いの帰り道。コーヒーでも飲んで帰ろうかと思って寄ったカフェでの出来事だった。
「は……やと?」
風花は、隣の家に住んでいた幼なじみだ。二年前の冬、風花が志望していた高校の合格が決まったすぐ後、引っ越してしまった。
だから会うのは、その時以来になる。
「ノート、ありがと」
そう言われてやっとノートの存在を思い出し、僕は拾ったノートに視線を落とした。
【x月x日 余命宣告された。私は、心臓の病気で、もう一年も持たないみたい】
「……心臓?病気?余命?」
心臓がどくんどくんと大きく脈を打つ。
風花は、無表情を貫いていた。
「うん。私、もうすぐ死ぬんだ」
さっぱりそう言われて、僕はショックとか、悔しいとか、そんな感情ではなく、素直に『寂しい』と感じた。
風花が無表情な時は、隠しごとをしているときだから。
風花にとって、僕がそこまでの存在だったことが、どうしても寂しく感じた。
「……見舞いー」
「今日は無理。部屋片付けるから明日来て。南棟四〇一号室ね」
「南棟、四〇一号室……」
「そう」
じゃ、と言って風花は僕のの手にあったノートを取り、病室に帰って行った。
十何年も一緒にいたのに、心を開いてくれなかったことが、どうしようもなく寂しかった。

結論、僕は昨日、南棟四〇一号室のドアの前まで行った。
けれど、『ただの』幼なじみがそこまで干渉していいのかという気持ちもあり、なかなか入れなかった。そんな時。
「あれー?風花ちゃんに用事?」
患者用の服を着た女の子に声をかけられた。
僕より年下、なのだろうか。入院しているとは思えないほど明るく、笑顔の女の子。
「あ、私は風花ちゃんの友達の陽菜です!中学三年の」
「僕は颯人です。元々隣の家に住んでいた」
「あぁ、知ってます!風花ちゃんがこの前話してたんです!」
風花が僕の知らないところで僕の話をしているという嬉しさ。そして、昨日感じた変な距離感からくる寂しさ。
僕の中で感情がごちゃ混ぜになる。
「風花ちゃん、呼びましょうか?」
「……いいよ。明日って言われたのに、勝手に来たのは僕の方だから」
その瞬間、陽菜さんがふんわりと笑った。
女子特有の何か暗号を秘めたきらめきをのせた視線を僕に向けながら。
「あーぁ、私も彼氏つーくろっと」
そしてにっこりと口角を上げて言い放った。
「颯人さんの方が分かってると思うけど、風花ちゃんって寂しがり屋だからさ。ちゃんと明日来てくださいよ?」
「うん、分かった。ありがとう」
そして僕は約束通り、もう一度風花の病室の前に来ていた。
次こそ、ちゃんと見舞いをするために。
ドアに『東雲(しののめ)風花』と書かれているのを確認し、コンコン、と控えめにドアを叩く。すると中から「はーい」と柔らかな声が聞こえた。
「失礼します」
中は、病室というより、何度も入った、風花の部屋のようだった。
「風花……えっと」
「昨日ぶりだね!颯人。今日は部活なかったの?」
やっぱり風花が僕に壁を作っているように感じる。
けれどもその不安を受け流して、話を続ける。
「うん。まあね」
本当は今日も部活があったのだけれど、僕はそれを休んだ。
「烏城高校、だっけ?」
「あぁ」
「ポジションは?」
「ピッチャー」
「夢叶ってるじゃん」
あぁ、久しぶりだな。この感覚。
壁を感じても、距離があっても、風花と話す時のこの軽快さは、変わらないんだ。
でも、風花は自分の話をしないように誘導しているようにも感じた。
「颯人、ずっと言ってたもんね。烏城高校行きたいって」
「父さんとの約束だったからさ」
僕の父さんは、野球に詳しくない人でもわかる、元プロ野球選手だ。
『元』というのは、俺が小学六年生の頃、事故で亡くなった。それは、父さんが夢だった三冠王を叶えたシーズンが終わった、次の日だった。
「……お父さん、絶対喜んでるよ」
風花は、僕にそう笑いかける。
父さんと風花のお父さんは幼なじみらしく昔から仲が良かった。そのおかげで風花とも今の関係に至るのだ。
「風花……ちゃんと、教えて」
「言ったじゃん昨日。私はもうすぐ死ぬって。日記に書いてた通り心臓の病気なの」
なんだろう。ずっと感じる違和感は。
風花は昔から泣き虫で、嘘をつくのが下手で、僕にいつも助けを求めてー。
「なんで」
僕が知っている風花なら、こんな状況に置かれたら絶対泣いているはずなのに。
今の風花は、もう全て諦め切ったような、乾いた笑みを浮かべている。
「何がなんで、なの?」
「……風花にとっての僕は、それほどの存在だったんだ」
無駄な優しさが、苦しい。
気心の知れた幼なじみだと思っていたのに。
二人の間に隠しごとはないと思っていたのに。
そう思っていたのはー。
「僕だけだったんだ」
ガタン。
思わず僕は椅子から立ち上がる。
「……僕の知ってる風花は、こんなんじゃない。なんで、僕にまで隠しごとするの?」
風花は、何も言わずに、やっぱり笑みを浮かべていた。
「諦めた?」
「……」
「嫌になった?」
「……」
「悔しかった?」
「…………いい加減にしてよ!」
ドン、と僕は風花に殴られた。
でも、その力は昔ほど力強くない。
「颯人に、颯人に私の気持ちがわかるわけない!帰って!もう二度と来ないで!」
これは、完全に僕の責任だ。
「……さよなら、風花」
帰り際、ちらりと背後を見ると、静かに涙を流す風花の姿が目に入った。
あぁ、なんでこんなことになってしまったんだろう。

「昨日は、部活を休んですみませんでした」
僕はぺこりと頭を下げる。その先には、いつも柔らかな物腰をする部長と、怒りを隠し切れない監督の姿が。
「お前なぁー」
「監督」
部長はスマートに部長を制止し、僕に向き直る。
「事情は理玖から大まかに聞いた。でもちゃんと話してくれ」
理玖、と言うのは中学の時からずっと仲の良い、僕の親友だ。
昨日部活を休む時、監督や部長に説明をしてくれと頼んだら、快く受け入れてくれた。
「幼なじみが……」
そう言う唇が震える。
風花は、幼なじみ、なのだろうか。
あんなに嫌われて。もう来るなと言われて。
すると監督が、にやりと笑った。
「お前、好きな人いたのか」
「……え」
あまりにも驚きすぎて、普段出ないような間抜けな声が出る。
「まあいい。今回は彼女に免じて許してやる。次やったら」
「分かってます。ありがとうございます」
もう一度深く頭を下げ、僕は練習へと戻る。
なんとなく分かっていたことだが、すぐに理玖に捕まった。
「どうだった?東雲」
風花とは中学も同じだったので、理玖ももちろんその存在を知っている。
「うん…………まぁ」
「よし!今日部活終わったら、ちょっと付き合ってくんね?」
「えぇ」
「良いだろ別に。俺、貸し一つ持ってるし」
あぁ、忘れていたけど理玖はこういう奴だ。
お調子者で、貸し借りにはうるさい。でも、誰にも負けないくらい友達思いで。
「分かった」
練習始めるぞー、と叫ぶ監督の声が響いた。

「ばーか、そんなの『見舞いに来て』の裏返しだろ?」
「はぁ?」
部活終わり。僕らは高校の近くの公園で、僕が奢った缶ジュースを飲んでいた。
そこでこれまでの経緯を話したら、こう言われてしまったのだ。
「来るなって言われたんだぞ?」
「分かってないなぁ、女子は言うことが裏返しなんだよ」
彼女いたことないくせに、と僕は呟く。
理玖はそれを聞こえていないふりをして、話を続けた。
「ってかお前ら、付き合ってたんだと思ってた」
「ずっと否定してたけど」
「照れ隠しかなーって」
どこまで自由なんだ、この男は。
でも、帰りが遅くなるのに、僕の悩みにこうやって向き合ってくれていることには、感謝している。
「でもさ、颯人。大事な人にはちゃんと思いを伝えとかなきゃいけねぇぞ」
「分かってる、んだけど……ぶっちゃけ、僕って風花のことどう思ってんだろ」
そこが自分でも分からないのだ。
家族でもない。恋人でもない。でも友達なんて簡単な言葉で片付けられる関係でもない。
「大事な人、じゃねぇの」
「……!それかも」
大事な人、という言葉がやけに胸に響いた。
かけがえのない、失いたくない、大事な人。
だから、だからこそ、冷たい態度を取られたとき、寂しかった。悲しかった。
そうか、そうだったんだ。
「じゃ、お前は東雲のことが好きなんだな」
「……え」
今日二度目の間抜けな声。最悪だ。
「大事な人っていうのは、好きな人って意味なんだよ」
「聞いたことない」
「そりゃ。俺が今作ったもん」
おいおい、とツッコみたくなるところだが、そこは我慢する。
「でも、颯人は東雲のこと失いたくないんだろ?」
「うん」
鈍感、と理玖は呟き、笑う。
「じゃあ早く会いに行けよ。こんなんで失うわけにはいかねぇだろ。相手が余命わずかなら、尚更」
「でも……」
そこまで背中を押されても、僕の足はすくむ。
大事な人だからこそ、拒絶されるのがどうしようもなく怖いから。
「じゃあ明日!俺もついてってやる」
「はぁ?」
「病室の前まで。中には入らないって約束する」
「え……でも」
「『でも』禁止。お前は度胸がないんだよ。この鈍感男め」
それから五分以上争い結局。
明日、部活も休みなので、二人で見舞いに行くことになった。

「あー、颯人さん!」
放課後。僕と理玖は病院へと向かった。
お察しの通り僕はまたもやドアの前でうじうじしていた。すると陽菜さんに出会ったのだ。
「陽菜さん!」
「お久しぶりです!横の方は?」
「あぁ理玖?親友」
「はじめまして、理玖さん!」
隣を見ると、完全に理玖は落ちていた。
「え、あ、陽菜さん?」
理玖が女子に興味を持つなんて、こんなに言葉を詰まらせるなんて珍しい。
「かっこいい名前だね、理玖って」
「陽菜さんこそ、似合ってると、思います」
なんでカタコトー?と陽菜さんは笑う。
中三に地味に押されているのが面白くて、僕も笑ってしまった。
「あ、颯人さん!なんでお見舞い来てくれないんですか?」
「いや……風花が来るなって」
「そんなわけないでしょ!昨日風花ちゃん泣いてたよ!絶対颯人さんのせい!」
泣かせて、しまった。
泣き虫の風花を、放っておいてしまった。
いくら来るなと言われたとしても、僕は昨日、来るべきだったんだ。
横の理玖は、ドンッと僕の背中を押した。
「早く行けよ」
さっきアワアワしてたのは誰なのか。
すっかりいつも通りの理玖に戻っている。
「うん」
二人に見守られながら、僕はドアを開ける。
そこには、目を真っ赤に腫らした、風花の姿があった。
「……遅い」
もしかしてずっと外の会話を聞いていたのだろうか。
風花は、僕のことを、どう思っている……?
「ごめん」
「……ううん。悪いのは私だよね、ごめん」
目が合った。二人で笑った。
そうか。最初から、こうやって寄り添う努力をすれば良かったんだ。
大丈夫なふりをして、僕は風花が病気であることが、かなりショックだったんだ。
「颯人。私のお母さんのこと、覚えてる?」
風花はゆっくりと、いつもの温度を持って話し出した。
「うん……綺麗な人だったな」
風花のお母さんは記憶の片隅に、少しだけ残っている。
まだ僕らが小学生に上がったか上がってないかの頃に、心臓の病気で亡くなった。
お母さんはお世辞でもなく本当に綺麗な人でー風花に、とてもよく似ていたことを覚えている。
「私、お母さんと同じ病気なの。あの病気ね、遺伝生が高いんだって……噂には聞いてたけど、まさか、私がね」
「そうだったんだ……ごめん」
「なんで颯人が謝るの?」
勝手に勘違いして怒ったから、なんて僕の幼稚さがバレるから言えない。
「ごめん」
もう一度謝っておくと、風花はいつもの、花のような柔らかで優しい笑みを浮かべた。
その瞬間、心臓がどくんっ、と跳ね上がる。
なんだ、この感覚。
「で?今日は風間くんと来たの?」
風間、というのは理玖の苗字だ。
「あぁ。あいつも同じ高校だからさ」
「へぇ。昔から二人で甲子園甲子園うるさかったもんねー!」
砕けた口調。病室に響き渡る明るい声。
これこそが、僕の知っている風花だ。
「そんな言ってなかっただろ?まぁ、甲子園は行くけど」
おどけて答えると、ふふふ、と笑われた。
「さっすが、自信満々だね……私も、颯人が甲子園に立つ姿、見れるように頑張る」
聞きたいことは、たくさんあった。
病気の詳細や余命のこと、そして急に引っ越したこと。でも、今は聞かないことにした。
風花は、心の整理がついたときに、きっと僕に全て、話してくれるはずだから。
日が沈みかけ、辺りは薄暗くなってきていた。
「じゃあ、また明日」
「毎日来なくていいよ」 
「……いや、来るから。また」
「ばいばい」
病室から出る前に、また、ちらりと後ろを見る。
風花は、寂しげに夕日を見ていた。