ホテルの部屋に戻り、茜音はオートロックだけでなく、内側からの鍵もかけた。
ベッドサイドの灯りだけの薄暗い部屋。カーテンを二人で閉めて再び唇からひとつに溶け合う。
「健ちゃん……」
「茜音ちゃん……」
呼びかけに応えるように、背中に回していた手を徐々にずらしていく。
菜都実と一緒に買いに行った上下セットアップのセーラーワンピース。膝丈のスカートを吊っているサスペンダーを肩から外し、ホックを外して床に落とす。
七分袖ブラウスのボタンを外してこれも立ったまま腕から外した。
自分のポロシャツとジーンズを脱ぎ、茜音を抱きしめたままベッドに倒れ込んだ。
「ごめん、痛かった?」
「ううん。今日の健ちゃん、積極的だね……ぁぅ」
言い終わる前に今日何度目か分からないキスをする。
これまでだって、お互いに一線を超えようと思ったことは何度もあって、いつもは話だけに終わってしまった。
昨年夏、10年ぶりの再会の直後から、ファーストキスを渡せた茜音には、先の覚悟もあった。その時は自分が倒れてしまい、健にも心配をかけたことから先送りになったけれど。
元からプロポーションのいい菜都実にも、高校の間に急成長した佳織にもかなわない自分の体型。
自分ではそれでもいいと思っていたし、友人たちからも茜音らしいと言われたけど、健から魅力がないことを理由に断られても仕方ないと思っていた。
「ごめんね、まだ子供体型だから……」
彼の両腕の中にすっぽりと収まって、背中を丸める
これまで、自分の意識とは無関係に身体を弄ばれた時とは明らかに違った。
自分でも分かる。呼吸が荒くなり、心臓の鼓動も経験したことが無いほど早鐘を打っている。
「茜音ちゃん……?」
健も茜音の変化を見逃さなかった。
「いや……、やめないで……」
「そ、そう? 辛そうじゃない?」
「違うの……。いろいろ思い出しちゃって……」
前の年、10年ぶりに茜音のもとにたどり着いたとき、彼女は川の中で冷え切っていた。
夢中で抱き起こして息をしているのを確かめて全身から力が抜けた。温泉での介抱は友人たちに任せたが、そのあとにバスタオルのみで布団に寝かされた茜音の手を握り続けた。
「起きてくれ」何度も呟いた。「絶対に失いたくない」。自分との約束のために来てくれた彼女。それが時間を経て「彼女を他の誰にも渡したくない」という感情だと確信するのに時間はかからなかった。
薄暗い部屋の中、茜音が確かに生きている証。呼吸とともに微かに上下している緩やかなカーブの胸元。決してグラビアに載るようなものではないけれど、自分を男として揺さぶるには十分だった。
その後も何度か着替えさせたり一緒に入浴もあった。それでも無理に急いで悲しませたくない。自分とひとつになることを許してくれるまではとこらえ続けた。
茜音がそれを許してくれた今、一回の仕切り直しくらい、これまでの時間を考えればなんて事はない。
「ごめんね、落ちついたぁ」
「茜音ちゃん……、愛してる」
「あうぅ、ずるぅぃ……。反則だよぉ」
目尻から涙がこぼれ落ちながら、茜音は笑顔を作る。
それには答えずに、健は穏やかに微笑んで茜音の頭をなでた。
「もう、辛いこと忘れていいんだよ。よく頑張ったね」
「うん……、もう……いいんだよね。これ……、ほどいてくれる……?」
「茜音ちゃん……」
茜音が差し出した、彼女の両サイドにある三つ編み。一番下で留めてあるヘアゴムとリボンに手をかけた時、彼女がギュッと目をつぶる。
二人とも分かっている。この2本の三つ編みは茜音が幼い頃、母親から施してもらった最後の髪型。
そして、健との10年間を忘れないために変えることはなかった。言わば彼女のアイデンティティそのものだ。
嬉しいことも辛いことも一緒に乗り越えてきた。特にこの留めている部分は彼女以外、あの二人の親友や健でも外させたことはない。茜音の心の鍵でもある。
「健ちゃん、いいよ。外して……」
ゆっくりと丁寧に、リボンを解いてから最後に下留めしてあるヘアゴムを外した。
両方の作業が終わると、恥ずかしそうに頭を振る。ストッパーがなくなった艶のある黒髪は順にほどけていく。
「ありがとうね。もう、わたし、隠しているものないよ。体も心も全部、健ちゃんに渡せる」
全ての防御を解いた茜音を両腕で抱き締める。直に密着している胸元から、茜音の心臓が早鐘を打っているのを感じた。
「緊張してる?」
「もぉ、わたしも初めてなんだからぁ……」
安心したように微笑んで閉じられた茜音の瞼から光るものが溢れていた。
「大丈夫? 落ち着いた?」
「うん。ごめんね。びっくりさせちゃって。……はずかしぃ」
入浴を済ませて、再びベッドに二人で潜り込む。
健も茜音の破瓜の傷を気にしたけれど、どうやらその心配はなさそうだ。
この傷が塞がることはない。初めてのキスと同じで、彼女の決意の現れは健に伝わっていた。
「茜音ちゃんが元気になってくれてよかった」
「菜都実の詳しい話は聞いたことないけど、健ちゃんは上手だったんじゃないかな。あんなに優しくしてくれたんだもん」
今はパジャマを通してだけど、茜音の体温を感じる。この温もりを一生感じていきたい。
14年前、初めて彼女と出会ったとき、それまで周囲がだれも信じられなかった幼い自分の中に、何かが突き刺さった。
この子をもっと知りたい。ときわ園の職員たちが言葉が話せない茜音への接し方を探っている中、思い切ってスケッチブックとクレヨンを渡した。
『ありがとう』。今から思えば、まだ下手で小さな字だったけど、初めて笑ってくれた。それには園中の先生たちが驚いた。一番の問題児だった健があっさりと堅く閉ざされた少女の心を開いた。
その夜、健は園長室に呼ばれた。「茜音ちゃんを頼む」と。言われなくたって決めていた。「茜音ちゃんは自分が守るんだ」と。
園の中で唯一、男女で一緒に眠ることも許された。暗がりに怯える茜音の手を握って並んで寝た。
「健ちゃん……。ひとつ聞いてもいい?」
「うん?」
「ときわ園の最後のとき、わたしたち、駆け落ちしたでしょ? どうしてわたしを誘ってくれたの?」
「決まってるよ。もう、茜音ちゃんが好きだったんだ。離れたくなかった。でも、茜音ちゃんには本当に迷惑かけたって思ってたよ。本当にごめんね」
「ううん、わたしも同じだった。あれがあったから、今日まで頑張ってこられた。こんなわたしのことを好きで必要としてくれている人がいる。その人のために生きていこうって。健ちゃんがわたしをずっと支えてくれたんだよ。命の恩人なの。だから、これからも……、健ちゃんが嫌じゃなかったら、一緒にいさせて……くれたら、嬉しいな……」
鼻をすすりながら絞り出す茜音を抱き寄せる。
「一緒に、生きていこう。大変なこともいっぱいあるかも知れない。でも、僕も茜音ちゃんじゃなくちゃ嫌なんだ」
「未来ちゃんがいても?」
「あの子はもう僕から離れても大丈夫。でも、茜音ちゃんはそうじゃない。一番近くで見ていないと。手をつないでいないと、茜音ちゃんはきっと立ち止まっちゃう。だからね……」
頬に流れた涙を吸い取り、そのまま柔らかい唇も優しく吸った。
「ずっと一緒にいよう」
「うん、お願いするよ。……ただいま……」
「おかえり」
幼い頃と同じように、健の胸元に顔を埋める。いろんな事があった。あの頃とはいろいろ変わってしまった部分もある。
それでも、ここは自分が唯一全てを許せる人の腕の中だと。変わらない彼の匂いと、鼓動を感じながら茜音は意識を手放した。
「あ、来た来た」
「おそぉい」
宮古空港のロビーで、茜音たち三人は今回の旅の主役を待っていた。
「ごめんごめん。遅刻はしなかったでしょ?」
復路も那覇空港を経由しての長旅。ゴールデンウィークの帰りのピークには1日早い。
「菜都実、スッキリ出来た?」
チェックインを済ませて、2階の出発ロビーで案内を待つ。
「うん。今出来ることを精一杯やる。やすはこれまでどおり修行するし、あたしも学校ちゃんと卒業する。そのあとできちんとけじめをつけるよ。今度は順番が逆って言われないようにね」
往路で茜音に渡された両親からの手紙。それを将来を誓った二人で恐る恐る開けてみた。
菜都実は双子の妹や自分の子を失って傷ついていること。本来ならずっと手元に置いておきたい愛娘であること。それでも相手が保紀であるならば、次こそは娘を幸せにして欲しい。そして、今度こそ元気な赤ちゃんを抱かせて欲しいと綴られていた。二人はその場で横須賀に電話をかけて、次を約束した。
「本当は帰るの寂しい。でもここまで頑張った。ゴールはあたしたちでつくるから」
「強くなったね。来てよかったぁ。あのお地蔵さまにもいい報告できるね」
「うん。あれは続けるよ。気持ちが全然違ってくるとは思うけど」
保紀も自分の子と認めてくれたし、もう先が見えない話ではない。準備ができたら戻っておいでと告げることが出来る。数年後には温かい家庭が作られるに違いない。
「ところで茜音。あんたはどうだったの?」
菜都実の準備をしていて、健に自分のことを親友二人が健に頼み込んでいたなんて知らされていなかった。
「菜都実、大丈夫。茜音も健君も頑張ったよ」
「えっ? 隣まで聞こえちゃった……?」
真っ赤になる茜音に佳織は首を横に振る。
「菜都実の電話がかかってきたら急いで戻るつもりだったけど、お店で夜までお世話になって、ホテルに戻ったのは日が変わった頃だったし。朝ご飯で顔を合わせたときに分かったの。茜音も大人になれたんだなって。幸せそうないい顔してたよ」
「そっかぁ。それ見たかったなぁ。いい初経験だった?」
「こ、声大きいよぉ」
慌てているところも、見ていればやはり可愛らしい。
前日の疲れと、これまでの緊張の解放から、時間に遅れそうになって急いでシャワーを浴びたりと慌てながら部屋を飛び出していったのも、佳織からそう見えた原因だったのかも知れない。
「うん……。優しくしてくれたよ」
「よかった。頼んだかいがあったな」
笑っていると、四人の乗る那覇行きのアナウンスが入った。
「やす、本当にありがとう」
「こっちこそ。元気で頑張れよ? オフになったら遊びに行くよ」
「うん、待ってる。あたしも遊びに来るよ。ちょっとごめんね」
他の面々が荷物に気を向けた瞬間、保紀にキスをした菜都実。その頬には一筋光るものがあった。
「ここまで頑張ったんだろ。必ず迎えに行くよ」
「うん。じゃぁ、またねっ」
保紀の指で涙を拭かれると、笑顔で手を振りながら検査場に消えていった。
「ねえ菜都実?」
往路と同じく、窓側の席で外を眺めていた菜都実。
離陸のあと、海上にでたことを確認して茜音は問いかけた。
「うん?」
「さっき、保紀君は菜都実のこと迎えに行くって言ってたけど、本当にこっちに引っ越しちゃうの?」
「うーん、どうかな。まだその辺は全くの白紙。将来やすと結婚するってのはたぶん決まりだけど、その後どっちに住むとか、お店をどうするかはこれから。またみんなにも相談するよ」
「うん、いいお話になるといいね」
「でもさぁ、佳織には悪いことしたなぁ。せっかく来てもらったのにねぇ」
「え? 全然。面白かったよ。菜都実はめちゃ女の子になっちゃうし、茜音だって大人の階段上っちゃうし。見ていると参考になるわぁ」
通路の反対側からの佳織に嘘はなさそうだ。彼女にも地元に帰りを待つ人がいる。
「みんな結婚しても、時にはこうやって遊ぶのもいいのかもね」
「その前にみんなまず卒業しなくちゃ」
「はーい。でもあと2日はバイトだね」
全員が一歩ずつ大人に近づいていく。本当は良いことなのに、一方ではこんなふうに三人で笑っていられる時間をもっと大事にしたい。
「茜音ちゃん、疲れた?」
隣を歩いてくれる健の影。幼い頃、川の土手を並んで歩きながらときわ園に帰っていた頃と重なる。明日から仕事に戻る健は今夜まで一緒にいてくれるから、そのときと同じように手をつないだ。
「うん、ちょっとね。ねぇ健ちゃん、大人になるって難しいこともたくさんあるんだね」
「そうだね。僕たちも菜都実さんのところに負けないように頑張らなくちゃ」
「うん。頼りにしてるよぉ」
得られるものもたくさんあったけれど、大人になることへの複雑な葛藤もこれまで以上に噛み締めながら、夕焼けの家路を急いだ。
【茜音 短大1年 冬】
「ありがとうございましたぁ」
最後の客をドアで見送り、表の看板をしまう。
「茜音、サンキュ!」
「うん。マスター大変だもんね」
「ドジだよねぇ。年甲斐もなくはしゃぐから、足痛めちゃうなんてさぁ」
片岡茜音《あかね》と親友の上村菜都実《なつみ》の二人で、彼女の実家でもある喫茶店ウィンディの後片付けをしていた。
高校生時代、幼い頃からの約束を果たす旅費を工面するという口実のもと、菜都実の協力でもう一人の友人、近藤佳織《かおり》と共にアルバイトを始めた茜音。
三人娘の登場により、メニューや内装を変えたり、時間を区切ってジャズ喫茶のように生演奏を取り入れたりと、それまでよりも広い客層の開拓に成功していた。
その演奏でメインを務めていた茜音が、彼女の目標を達成したあと、その去就が常連客からも注目されていたが、短大生になった今でも週末などに日にちを減らしつつも継続してくれたことで、お店の賑わいは変わらずに済んでいる。
そんなウィンディの菜都実から電話が入ったのが昨日の夜。
ウィンディのマスターでもある菜都実の父親が階段から滑り落ち、足腰を痛めてしまったという。
幸い大事には至らなかったが、数日間は安静と言うこと。普段の平日ならば、彼女の母親や菜都実だけでも切り盛りが出来るのだが、学校が冬休みに入ってしまったこの時期には少々厳しい。
茜音も佳織もその申し出に二つ返事で了解し、それぞれ休み中の空いている時間をこの店で過ごすようになったっと言うのがことの顛末だ。
「茜音も、こんな時期に仕事していてもいいの? 健君怒らない?」
「うん、健ちゃんもお仕事忙しいし、珠実園のみんなもいるから、わたしが独り占めは出来ないし」
幼い頃に無謀とも思える約束を茜音と交わし、それを無事に添い遂げた相手の松永健《けん》。
茜音も健もそれぞれ事情は異なるが、親と別れて児童福祉施設で育った。
茜音はその後、育ての親となる片岡夫妻の元に養子として迎えられて今に至る。
一方の健はそのまま施設で育ち、職員として働きながら夜間高校に通い、在学4年の期間の来春までは他の子どもたちとの共同生活を送ることになっている。
今では、二人を見守るほとんどがその関係を認めていたし、お互いの直球勝負のような素直な想いは幼いころから変わっていない。
「茜音はクリスマスどうするの?」
もちろん、菜都実だって二人を一番近くで見てきた一人だ。予定があるならば、絶対に引き留めてはいけないと思っていた。
ところが、そのあたりは良くも悪くも現実が見えてしまっている二人。
「そうだねぇ、イブは健ちゃんも私も、わたしは珠美園でのお手伝いだし。どっちも夕方までは大丈夫だよ」
「そっか……。なんだか悪いなぁ」
もともと自分の家で仕事という自分ならと菜都実が考えていたが、茜音にとっても一人きりにならずに済むのでそれはそれで楽しいと笑っていた。
「じゃぁ、また明日ねぇ」
「うん、サンキュ! 今日はこっちの家?」
「うん。学校もお休みだし」
「気をつけて帰ってな」
「うん」
短大に通い始めてからの茜音の住まいは、本当の両親が建てた横浜市にある彼女の生家が主になっている。
施設から茜音を引き取った片岡夫妻は家を含む彼女の財産を処分したりはせず、全てを彼女に返した。そのおかげで、進学にあたっての下宿などを考える必要もなかった分、さすがに戸建ての家を維持するのも大変なので、少しでもその足しになればと高校生時代からのウィンディのアルバイトを続けている。
そんな生活スタイルだから、長年過ごした横須賀の実家に泊まることも特別なことではなく、その日も普段通りに仕事を終えて自宅への道を歩いていた。
「あれ、お店に忘れ物したかなぁ」
いつものトートバックの中のスマートフォンが震えている。
「あ、健ちゃん。学校お疲れさま。どうしたの? もう遅いよぉ?」
時計を見ればもう深夜も11時になろうという時間だ。夜学の健もさすがに帰っている時間のはずだが。
『こんな遅くにごめん。茜音ちゃんは25日の夜って空いてる?』
電話の声からすると、彼も屋外にいるようだ。
「うん、そこはまだかなぁ。暇だったら菜都実のところでバイトを入れようかなぁってくらい」
『そうか。じゃぁ、良かったらその日に会わない?』
恐る恐る聞いてみたようだが、そもそも彼に会えると知った茜音に断る理由などない。
「もちろんいいよ!」
時間を聞いてみると、仕事が終わってからになってしまうという。
「うん。じゃぁ菜都実のお店でお仕事してるよ」
『遅くなって本当にごめん』
「ううん。ありがとうねぇ。明日は夕方行くねぇ」
明日のイブ。茜音はウィンディで昼間のアルバイトを済ませた後に、健の務める珠実園にクリスマス会の手伝いにいく。これは毎年の恒例行事だ。
「じゃぁ、また明日ぁ」
通話が終わる頃に、ちょうど実家のマンションの前に到着した。
「ただいまぁ」
こんなに遅くなってしまっても、茜音が帰ってくる日は、彼女の育ての両親は起きていてくれている。
「お帰りなさい。寒かったでしょう」
お風呂の前にと、暖かいココアを出してくれた。
「うん。急にごめんなさい」
「いいの。ここは茜音の家なんだし。帰ってきてくれて嬉しいから」
子供を産めない片岡家にとって、養子で迎えた茜音は本当の娘のような存在だ。当時の彼女は飛行機事故で両親を失ったという傷心からも完全に立ち直っておらず、扱いも難しいとされていた。
他の里親候補と競合する中で、唯一この夫妻だけが彼女の心を開くことに成功してから今年で11年。
「先に寝るよ茜音」
「おやすみなさい、お父さん」
いつものように交わされる会話も、茜音自身も知らなかった彼女の生い立ちが次第に分かるにつれ、お互いに奇跡のような出会いに感謝している。
「茜音は健君と予定合わないの?」
すっかり年頃でもあり、公認の彼氏もいる娘が、この時期にずっと一人でいるのも可哀想だと思っていたものの、お互いの状況を知ると無理にとは言えない。
「明後日の夜に誘ってくれたよぉ。それに、明日はお仕事だけど会えるし」
「そう、それならよかった」
このくらいの年齢なら、全力でイベントを楽しんでも許されるだろし、学校の友人の中には長期休暇を海外というケースも聞く。幼い頃から厳しい現実を見てきたこの若いカップルは、茜音が片岡家の中で不自由ない生活をしていても質素だ。
「お風呂できたよ。パジャマ置いておくからね」
「うん。ありがとう。先に寝ていていいよ。おやすみなさい」
「おやすみ茜音」
母親も寝室に消え、コップを洗ってバスルームに入る。
ココアで少しは取り戻したが、やはり手足の先は冷え切ってしまっている。
熱いシャワーを頭からかけて全身を洗ってバスタブに飛び込んだ。
「やっぱり寒かったなぁ」
髪を洗ったときにほどいた左右のサイドに作っている三つ編みの癖を取るためにゆっくりお湯に浸す。本当ならもうこの髪型でいる必要もない。ただ茜音自身も健をはじめとする周囲もこのトレードマークについては変えない方がという声が多い。そのために、他の部分を切ってもこの編み込みの部分だけは他よりも長くなってしまう。
冬場になって毛先を揃えるだけにしていたので、長い部分は胸元まで届こうとしていた。その先端に視線を下ろすと、必然的に二つの膨らみに行き着いてしまう。
「健ちゃん、これで満足してくれるかなぁ」
両手でそっと押さえてみる。この大きさになったのは中学でもなく、半ば諦めていた高校時代。
親友たちで見れば、出会った頃からプロポーション抜群な菜都実。高校の卒業間近にサイズが上がったという佳織にも抜かれてしまったけれど、もともとが幼い雰囲気の自分にはこの程度かなと納得している一方、健にそれを聞いたことはなかった。
もっとも、不満と言われてもどうすることも出来ないし、彼がそんな基準だけで自分を選んでいないとも知っている。
「変わらなくちゃいけないのかもなぁ」
幼い頃の約束とその想いに応えることが二人の原動力だった。昨年の夏に、それを成し遂げて恋人という道を歩き出した茜音と健。
おぼろげながらもその先のゴールは見え始めている。それでも、一歩一歩進まなければならないことも。そして、その歩みを踏み出すことが、本当に大丈夫なのか。これまでのこともあって、健が最初で最後の恋愛と決めている彼女には、比較するものがない。
「いつか……。大丈夫だよね……」
そんな茜音がすっかりのぼせて布団に入ったのは、日が変わって1時間以上が過ぎていた。
「じゃぁ、菜都実も佳織もごめんね」
「いいよ。行ってきな。みんな喜ぶし」
ウィンディでのランチタイムを終えると、今日の夜までサポートに入っている佳織と菜都実に声をかける。
今日と明日は茜音も昼だけだ。今日のこのあとは、茜音がヘルパーとして入り、また健の家でもあり職場でもある珠実園のクリスマス会だからだ。
今夜はそのまま夜中まで滞在し、子供たちの枕元にプレゼントを置いて回るのが恒例になっていた。
途中で食材を買い込んで、園に着いた頃には、子供たちもそれぞれの学校から帰ってきていた。
「こんにちはー」
「あ、茜音ちゃん来た。お願いできる?」
「はぁい」
エプロンを取り出して、すぐに厨房の手伝いに入る。
「ごめんねぇ、せっかくのイブなのに」
この調理場を預かる里見も、実は茜音が幼い頃に一緒に入所していた縁。彼女は茜音と健が引き起こした、僅か小学2年生での駆け落ちという大騒動も、その背後にある想いも十分に理解していてくれる。
「だってぇ、お仕事だとしても一緒にいられる方がいいですよぉ」
「そうゆーもんかなぁ。健君には言ったのよ? 年に一度くらい茜音ちゃんに尽くしてあげなさいって」
「もぉ、またそんなこと言うと健ちゃん本気にしちゃいますから」
そんな話をしながら、次々に料理を仕上げていく。
「あ、茜音せんせーだ」
「うん、こんにちはー」
高校を卒業し進んだ短大で、心理学と幼児教育を専攻している茜音のことを、子供たちはいつしか先生と呼ぶようになった。もちろん、その実態がもはや伝説になっている健との10年越しの恋を実らせたヒロインであることも十分知ってのことだ。
「健兄ちゃん、まだ帰ってこないぞ」
厨房の作業は予定よりも早く終わり、子供たちに運んでもらい終わると、さっきまでのバタバタが嘘のように静かになった。
「ふぅ、終わりましたぁ」
「ありがとうね……」
言いながら周りを見回した里見が何となく寂しそうな顔をしているのを見て、茜音は気になっていた。
「あ、里見さん……、ひょっとして?」
「うん、私がこの役目をするのも今年でおしまいかなぁ」
「でもでも、おめでとうなお話ですよね?」
調理用の手袋を外したときに気づいた。彼女の左手の薬指に光るものを。
「そうねぇ。もう少しこの賑やかな中で仕事も悪くなかったんだけどなぁ」
その指輪をはめた手がゆっくりとお腹に当てられた。
「えー、おめでとうございますぅ! それじゃぁ立ちっぱなしのお仕事出来ないですよぉ」
里見の結婚自体はしばらく前から決まっていて、入籍を待つだけとなっていたらしい。おまけの話は一昨日判ったばかりだという。もちろん、いつ入籍かという段階だったから、一緒に病院に行ってくれた男性も一緒に大喜びしてくれたそうだ。
「だからね、来年の元旦に入籍することになったの。だから、茜音ちゃんの知っている古い私は今年でおしまい」
「そうですよ。珠美園のみんなも大事だけど、今は里見さんと赤ちゃんが一番大事です」
里見も悩んだそうだ。しかし、家庭を持つという昔からの夢をかなえるために、今回の決断になったらしい。まだ日にちは決めていないが、体と相談しながらとなると。
「でも、退職にはならないみたいで、しばらく休職って感じらしいのよね」
「じゃぁ、また会えるんですね?」
「もちろん。茜音ちゃんを見届けなくちゃ、私も落ち着かないし」
「よかったぁ。……あの、里見さん……」
「どうしたの?」
今度は少し深刻そうな茜音の話を里見が聞くことになる番だった。
「お疲れさまでした」
時計は昨日と同じく、もうすぐ日をまたごうとしていた。
珠実園の子供たちの枕元にプレゼントを園長と置く仕事をしている健の代打で、里見が茜音を家まで送ってくれていた。
「茜音ちゃんも悪かったね」
「ううん、いいお話も聞けたし、明日は昼間お店そんなに混まないだろうしなぁ」
「さぁ、どうかなぁ?」
「えぇ? なんかあるんですかぁ?」
「ううん。あ、そうだ、茜音ちゃん明日の夜は健君とデートでしょ?」
「は、あぃぃ」
「あの服持ってきたら? もちろん上着は持ってきてね?」
「えぇ? あのジャンスカって夏服ですよ?」
「だからよ。ブラウス長袖にできるでしょ?」
思いがけない提案だけど、昔から変わらないのいたずら好きの里見の笑顔で言われてみると、それはそれで面白いかとも思う。健も夜に車で迎えに来ると言っていたことだし、寒かった時に備えて防寒の服も用意しておけばいいことだ。
「じゃぁ、本当にありがとうございました」
「茜音ちゃん、明日は頑張るんだよっ」
「あはは、がんばりまぁす」
家に入る茜音を見送り、里見は車を家とはまた別の方に走らせた。
「じゃぁ、菜都実も佳織もごめんね」
「いいよ。行ってきな。みんな喜ぶし」
ウィンディでのランチタイムを終えると、今日の夜までサポートに入っている佳織と菜都実に声をかける。
今日と明日は茜音も昼だけだ。今日のこのあとは、茜音がヘルパーとして入り、また健の家でもあり職場でもある珠実園のクリスマス会だからだ。
今夜はそのまま夜中まで滞在し、子供たちの枕元にプレゼントを置いて回るのが恒例になっていた。
途中で食材を買い込んで、園に着いた頃には、子供たちもそれぞれの学校から帰ってきていた。
「こんにちはー」
「あ、茜音ちゃん来た。お願いできる?」
「はぁい」
エプロンを取り出して、すぐに厨房の手伝いに入る。
「ごめんねぇ、せっかくのイブなのに」
この調理場を預かる里見も、実は茜音が幼い頃に一緒に入所していた縁。彼女は茜音と健が引き起こした、僅か小学2年生での駆け落ちという大騒動も、その背後にある想いも十分に理解していてくれる。
「だってぇ、お仕事だとしても一緒にいられる方がいいですよぉ」
「そうゆーもんかなぁ。健君には言ったのよ? 年に一度くらい茜音ちゃんに尽くしてあげなさいって」
「もぉ、またそんなこと言うと健ちゃん本気にしちゃいますから」
そんな話をしながら、次々に料理を仕上げていく。
「あ、茜音せんせーだ」
「うん、こんにちはー」
高校を卒業し進んだ短大で、心理学と幼児教育を専攻している茜音のことを、子供たちはいつしか先生と呼ぶようになった。もちろん、その実態がもはや伝説になっている健との10年越しの恋を実らせたヒロインであることも十分知ってのことだ。
「健兄ちゃん、まだ帰ってこないぞ」
厨房の作業は予定よりも早く終わり、子供たちに運んでもらい終わると、さっきまでのバタバタが嘘のように静かになった。
「ふぅ、終わりましたぁ」
「ありがとうね……」
言いながら周りを見回した里見が何となく寂しそうな顔をしているのを見て、茜音は気になっていた。
「あ、里見さん……、ひょっとして?」
「うん、私がこの役目をするのも今年でおしまいかなぁ」
「でもでも、おめでとうなお話ですよね?」
調理用の手袋を外したときに気づいた。彼女の左手の薬指に光るものを。
「そうねぇ。もう少しこの賑やかな中で仕事も悪くなかったんだけどなぁ」
その指輪をはめた手がゆっくりとお腹に当てられた。
「えー、おめでとうございますぅ! それじゃぁ立ちっぱなしのお仕事出来ないですよぉ」
里見の結婚自体はしばらく前から決まっていて、入籍を待つだけとなっていたらしい。おまけの話は一昨日判ったばかりだという。もちろん、いつ入籍かという段階だったから、一緒に病院に行ってくれた男性も一緒に大喜びしてくれたそうだ。
「だからね、来年の元旦に入籍することになったの。だから、茜音ちゃんの知っている古い私は今年でおしまい」
「そうですよ。珠美園のみんなも大事だけど、今は里見さんと赤ちゃんが一番大事です」
里見も悩んだそうだ。しかし、家庭を持つという昔からの夢をかなえるために、今回の決断になったらしい。まだ日にちは決めていないが、体と相談しながらとなると。
「でも、退職にはならないみたいで、しばらく休職って感じらしいのよね」
「じゃぁ、また会えるんですね?」
「もちろん。茜音ちゃんを見届けなくちゃ、私も落ち着かないし」
「よかったぁ。……あの、里見さん……」
「どうしたの?」
今度は少し深刻そうな茜音の話を里見が聞くことになる番だった。
「お疲れさまでした」
時計は昨日と同じく、もうすぐ日をまたごうとしていた。
珠実園の子供たちの枕元にプレゼントを園長と置く仕事をしている健の代打で、里見が茜音を家まで送ってくれていた。
「茜音ちゃんも悪かったね」
「ううん、いいお話も聞けたし、明日は昼間お店そんなに混まないだろうしなぁ」
「さぁ、どうかなぁ?」
「えぇ? なんかあるんですかぁ?」
「ううん。あ、そうだ、茜音ちゃん明日の夜は健君とデートでしょ?」
「は、あぃぃ」
「あの服持ってきたら? もちろん上着は持ってきてね?」
「えぇ? あのジャンスカって夏服ですよ?」
「だからよ。ブラウス長袖にできるでしょ?」
思いがけない提案だけど、昔から変わらないのいたずら好きの里見の笑顔で言われてみると、それはそれで面白いかとも思う。健も夜に車で迎えに来ると言っていたことだし、寒かった時に備えて防寒の服も用意しておけばいいことだ。
「じゃぁ、本当にありがとうございました」
「茜音ちゃん、明日は頑張るんだよっ」
「あはは、がんばりまぁす」
家に入る茜音を見送り、里見は車を家とはまた別の方に走らせた。
翌日、茜音が荷物をもってウィンディに到着すると、思いがけない看板が出ていた。
『本日のランチタイムは貸しきりです』
「おはよぉございまぁす。今日ってそんな予約が入ってたんですねぇ」
「おはよう茜音。今日はあんた忙しくなるよ」
「ほぇ?」
菜都実にも言われて、ますます分からない顔になる。
しかし、しばらくして、その顔は驚きに変わった。
「おはようございます」
「今日はお世話になります」
「ほぇぇぇ?」
そこに現れたのは、昨日最後まで話をしていた里見と、今日の夜にならないと現れないはずの健だったから。二人とも大きな箱を抱えている。
「茜音ちゃん、手伝ってもらえる?」
「はぃぃ」
言われるがままに里見が持っている横断幕の紙を広げたとき、彼女は動けなくなった。
「里見さん、ずるぅい……ですよぉ……」
自然に涙がこぼれ落ちる。
ときわ園同窓会。忘れもしない。茜音が事故で両親を亡くし、初めて連れてこられた施設。健と初めて出会った場所。そして、閉園間際に健と二人で前代未聞の駆け落ち事件を起こした施設だ。
「ね? あの服にしなさいって理由分かった?」
「もぉぉ、健ちゃん!?」
もちろん、これだけの大掛かりな計画が進んでいたのなら、準備は相当前からしていたはずだ。自分だけが知らされていなかったことに、その恥ずかしさを健にぶつける。
「中心は私。打ち合わせも茜音ちゃんが来ない日を狙ったし。菜都実ちゃんなんか真っ先に賛成してくれたわよ?」
里見のフォローで、何とかその場を押さえたが、茜音としてはここに集まるメンバーにどのような顔をしていいのか分からなくなってしまう。
なにしろ、あの失踪の時には全員が自分たちを探しに出てくれたのだ。
会場づくりを里見と健に任せ、菜都実とカウンターの中に入る。
「もぉ、菜都実もひどぉいよぉ」
「面白いじゃん。後で来るけど佳織も賛成だったよ。それはそれで面白そうだって」
「そんなぁ」
「それにしても、みんなクリスマスなのに平気なんかねぇ」
考えてみれば、こんな日は各自予定も入っているだろう。
「大丈夫。みんないつかやりたいって言ってたし、クリスマス会って感じだから。さぁ、そろそろ集まり始めるわよ。着替えてらっしゃい」
言われて、菜都実の部屋を借り、持ってきた服を取り出す。
「久しぶりだねぇ」
ハンガーに吊された襟にフリルの付いた白いブラウスに、ベージュのシンプルなジャンパースカート。
7歳の当時、茜音はこれと同じ服でときわ園を抜け出した。離ればなれになっていた10年間、肌身離さず持っていた写真にもこれが写っている。オリジナルは当然もっと小さいが、昨年夏の再会のシーンにあわせて、彼女の親友が作り直してくれたものだ。
流石に半袖では無理があるので、同じような丸襟の長袖ブラウスをクローゼットから引っ張り出して合わせた。
久しぶりに袖を通し、レースのハイソックスまでセットして、姿見を見る。
「なにを言われても大丈夫! よぉし、行くかぁ」
最後にその上からエプロンをつけて、階段を下りていった。
「久しぶりだなぁ」
「大きくなったねぇ」
客席の方には当時の面々が続々と集まってきていた。
今回の集まりは、里見が地道に連絡先を探して、かつ更新し続けていたからこそ実現したものだ。
「おっ、健じゃんか。すっかり大人になっちまって」
「お久しぶりです」
飲み物をつぎながら、健が各テーブルを回っている。
「あれ、彼女はどうした? 結局あれからどうなったんだ?」
「まぁ、いろいろありましたよ」
一番最新の話題として里見の結婚と妊娠やら、いろいろな思い出話に花が咲くが、やはり一番は当時のときわ園最後の最後で起こした大事件だ。
「えー、健君、会えたんでしょ? まさか……?」
「マジで? やっぱ10年は厳しかったか?」
「あの里見さんでも追いきれなかったんだもんね。大きくなった茜音ちゃん見たかったなぁ」
「あの子可愛かったもんなぁ。健にはもったいないってみんな言ってたんだぜ」
どうやら、この中に集まったメンバーであの物語のラストシーンを知っている者はいないらしい。
当然知っているチラリと里見に目を向けると、彼女も苦笑している。
「健、10年間の結果発表しろ」
「マジっすか?」
「当たり前よ。みんな気になって仕方なかったんだから」
あちこちから結果発表のリクエストがコールされた。
「こりゃ、仕方ないですねぇ」
普段は演奏喫茶モードに使うステージの上に上がる。
今日はすっかり黒子に徹している菜都実も口元で笑いそうになるのを堪えながらマイクを渡してくれた。
「えーと、そうでしたね。もう11年も前になりますが、僕と、佐々木茜音ちゃんの事件では本当にご迷惑をおかけしました」
「そうだそうだ!」
「面白かったけどね」
みんなの反応からも、あの事件はとっくに時効で、そもそも責められるようなものではなかったのだと。
「結論から言ってしまうと、僕には今、お付き合いをしている女性が居ます」
「おー、健もリア充かぁ」
「えー、茜音ちゃんかわいそう」
「相手の人の写真とかないの?」
「クリスマスにカミングアウトねぇ」
健はそれらの声にはすぐに答えず、一度段を降りて店の奥に進んだ。
この店の従業員の女性がドリンクや料理の用意をしていた。
「相手は……」
その内の一人、一番奥にいて後ろを向いていた女性に近づいて耳元にささやくと、深めに被っていた三角巾をそっと外した。
彼女の動きがすっと止まる。
その中にしまっておいた三つ編みと長い髪が下に落ちて当時そのままに戻る。
「えぇ!?」
その後ろ姿だけでも、ピンと来たメンバーが何人かいた。
「このお店で頑張っている……彼女です」
エプロンも外して、後ろを向いていたその人物を振り返らせる。
「はぅぅ……。すっかりご無沙汰していますぅ」
佳織が営業中は消しているサービスカウンター上の照明をつけた。
「あーっ!」
顔を真っ赤に染めて頭を下げた人物の素性が分かったとたん、店内は拍手喝采の騒ぎになった。