残った二人は菜都実を見送った後もその間を動けずに考えていた。
「うーん。きっかけがないんだねぇ」
最初に口火を切ったのは茜音だ。
「そうだね。なんか話を聞いている感じでは二人とも仲が悪いって訳ではなさそう」
「うん。そうだよぉ。嫌いになっちゃったら、連絡先を渡したり、手紙を送ったりはしないと思うんだよね」
二人とも意見は固まっている。
「なんとかしてあげたいなぁ……」
菜都実は強がっていても、今でもその保紀のことを思って寂しがっているし、逆も間違いなさそうだ。
ただ、こうなった原因が原因だけに、なかなか二人だけでは再会するタイミングが計れないだけのかもしれない。
「これは…、健ちゃんに相談かなぁ」
「なに、なんか考えたの?」
唐突に健の名前が出たので、佳織は尋ねる。
「うん……。まだ出来るかどうか分からないんだけどねぇ……」
「微妙な問題かもしれないから、あんまり急いで首を突っ込まない方がいいかもしれないわよ?」
「そうだよねぇ。いきなり飛び込んでもねぇ」
ことの重大さは茜音たちの時以上かもしれない。
それぞれの居場所が分かっていながら顔を合わせられないのであれば、二人の想像を超えるものがあるのかもしれないから。
「もう少しいろいろ状況を調べてから動いてみることにするよぉ」
「そうね。でも新学期始まるから、あんまり時間はないかもしれないわよ?」
再び商店街に引き返し、本来の買い物を済ませながら、来週に控えた入学式などの予定を思い出す。
「そうだけど、空いている時間はあるよぉ。佳織の方が忙しいと思うから、わたしと健ちゃんで相談してみるよぉ」
佳織と別れたあと、茜音は一人、菜都実の家でもある喫茶店ウィンディに向かった。
日もすっかり落ちた後で店の中の方が明るくなっているためか、道路の反対側に立っている茜音には店内から気づかない。
店の中でいつも通りに給仕の仕事をしている菜都実が見えた。
昼間にあれだけのことがあったにもかかわらず、その様子は微塵も感じられない。
「いつもあんなことしてたんだもんねぇ。それは辛いよぉ……」
茜音は菜都実が忙しそうなのを見届けると、店には寄らずそのまま家の方へ消えていった。
「もし、二人が会いたいと思っているなら、そろそろ頃合いじゃないかなぁ? 高校も終わったわけだし、菜都実は専門だから2年でしょ?」
その晩、横須賀の茜音の家では佳織と呼び出された健も集まって夜遅くまで話し込む姿があった。
「4年制大学に行っちゃうと、またそこで時間が空いちゃうからねぇ」
同じように2年で卒業となる短大に通う茜音もその作戦は理解できる。高校を出た時点で、茜音は自分の将来をほぼ決めていたからだ。
学校に通っているのは、それまでの時間で何か自分に出来ることを少しでも増やしておきたいという気持ちからと周囲も理解している。
菜都実が進路を専門学校にしたと聞いたときには少し驚いたが、彼女の事情を知った今ではそれは十分すぎるほど理解できた。
それだけではなく、菜都実は自分が健との再会のための旅を続ける上で、いなくてはならないほどの協力メンバーだった。
献身的なほどの二人の手助けがなければ、茜音の今はないと考えていたくらいだ。
今の茜音が出来ることと言えば、その恩返しだと常々考えていた。
「ちょうどいいんじゃないか? お互いの気持ちは今から確かめるしかないとしてさ。もし菜都実さんたちの気持ちが今でもそれを望んでいるなら、協力することはしても」
ずっと話を聞いていた健が、そこで言葉を発した。彼も茜音と同じで、今回の話を聞いたくらいで動ずることはない。
「まずは、その彼がいまどこにいるのか。そこからだな」
この発言は、彼の経験上からも軌道修正は十分に可能だと判断したからに他ならないのだから。
「マスター、秋田保紀くんてご存知ですか?」
翌日のウィンディでのアルバイト、店内にお客や菜都実のいない一瞬の隙をついて、茜音はマスターからその保紀の情報を引き出すことにした。
いろいろ聞き方を考えたけど、時間もないからズバリ正面からの強行突破だ。
「おぉ、彼か。茜音ちゃんからその名前を聞くとはなぁ。彼がどうしたんだい?」
マスターは最初にその名前を聞いたときは驚いた様子だったが、特に嫌っているわけではなさそうで、逆に懐かしそうな顔をしている。
「うん、菜都実に恩返しがしたいから」
マスターも茜音が菜都実や佳織にお礼をしたいといつも言っているのを知っているから、それ以上は茜音への質問をやめた。
どうやら茜音が菜都実の過去を知ったと察したこと。茜音や佳織がそのことを興味本位のネタにしようとしているのではなく、真剣に娘の傷を治そうとしてくれていることを理解すると、メモに走り書きをして渡してくれた。
「こんな遠くにいるんですね……。偉いよ菜都実……」
「まぁ、菜都実も彼もちょっと早まりすぎただけなんだよな。二人とも悪気はなかったわけだし、もう今なら問題ない歳になった。あの報告が今だったら、みんなでお祝いなんだがなぁ……」
これだけ長く世話になっているマスターからも、保紀に対する敵意などは感じられない。
「茜音ちゃんや佳織ちゃんたちが動くのであれば、こちらも用意したいものがあるから、菜都実には内緒で日程を教えてくれないか……?」
本当に時期を間違えたことだけの無念さだけしか茜音には感じられなかった。
「分かりました。佳織とも話は合わせておきます」
「でも、この住所だとなかなか会いに行くのは大変だねぇ」
メモに書かれた住所は、これまで茜音が旅をしていた地域とはかけ離れている。飛行機ですら1本では行くことが難しい。
「すぐに行くってわけにはいかないねぇ」
菜都実には内緒で動くために、ウィンディでの仕事の後に茜音の部屋に集まる三人。
「遠いなぁ。でも、やると決めたらやるんでしょ?」
「やるしかないよね」
数日後、佳織は茜音に計画を伝えた。
「ゴールデンウィークで飛行機取れるかな?」
「このまま夏休みまで待つより、やれるだけやってみるしかないでしょ。最悪は船になるかも知れないけど構わない?」
自分の旅の時に、全国の交通機関を駆使して計画を組んでくれた佳織。どんな難しい場所でも彼女にかかればどうにかしてしまう。
「あとは二人の気持ち次第だね……」
新しい学校が始まったあとも、三人は時間を見つけては準備を進めていた。
「茜音、飛行機と宿の用意できたから。あとは段取りよろしくね」
「うん。わかった。あとは行って確かめるしかないね」
それを佳織と二人でマスターに伝えると、苦笑している。
「やっぱり、佳織ちゃんには敵わないな。将来は旅行会社にでも就職した方がいいんじゃないかい?」
そこで、出発前に渡したいものがあるから、タイミングをみて寄って欲しいと真剣な顔で教えてくれた。
「茜音ちゃんの言ったとおりだったな。菜都実のことは二人に任せるよ」
「分かりました」
茜音が前年夏の「10年の約束の日」に書き置きを残してまで単独行動を強行したとき、佳織が「必ず無事に連れて帰る」と、彼女の両親を説得したことを聞いていたから。
ゴールデンウィークのウィンディはマスターが一人で乗り切らせなければならなくなったけれど、その時の顔はお店のマスターとしてではなく、「菜都実の父親」そのものだったと後で気づくことになった。
「しっかし、茜音が沖縄に行きたいというとは思わなかったなぁ」
「だって、まだ一度も行ったことないし。わたしだって行きたいところはあるんだよぉ」
ゴールデンウィークでごった返す羽田空港。朝早くに集合したのは、茜音たち三人に健を加えたメンバーだった。
「それにしたって、四人でってのは予想外だったし? 健君と二人で行けば良かったのに?」
「だって、なんか卒業旅行もバタバタしててできなかったし……。佳織には悪かったよね。原田君には……」
佳織にも今は1つ年下の彼氏がいる。本当はその彼の分も構わないとしてあったのだけど、
「ほら、今年は受験生だし。終わったらどこでも連れてくからって。今回はお土産買って帰ることで許してもらったわよ」
「そっかぁ。佳織も厳しいなぁ」
急なスケジュールだったこともあって、全員が固まりに席が取れなかったと佳織は謝っていたけど、飛行機で行けるだけありがたいと茜音は思っていた。
「なんか……、運転手お願いしちゃってごめんねぇ」
今回の行程では、佳織の下調べの結果でも、公共交通機関だけでは不測の事態に十分な足が確保できないと言うことも予想されたことから、健がドライバーとしてアサインされている。
「それは構わないけど、2泊3日で行くにはちょっと忙しいかも」
「うん。でも仕方ないよ。それしか取れなかったし」
やはりゴールデンウイークでは限られたスケジュールの中で組み立てるしかなかったけど、茜音はそれでも決行することにしていた。
「乗り継ぎとか席が悪いけど許してちょうだい」
「いいよ。あんなに突然だったのに、なんとかなったんだし」
佳織としては、飛行機の座席をまとまって取れなかったことを詫びていたが、全員が同じ便で行けるだけよしとしていた。
「でも、結局むこうでどうなるかは分かんないんだよね」
「うん……。みんなは大丈夫だろうとは言ってくれているけどね」
佳織の計らいで、並びの席にしてもらった茜音と健。言葉や服装とは裏腹に、バカンス旅行という雰囲気ではなく、どこか重要な会議にでも行くような気分だ。
途中、化粧室に立ったときにちらりと見た菜都実の表情もやはり固く緊張しているように見えた。
羽田空港から沖縄・那覇空港まで3時間。そこから乗り換えを挟んで宮古空港まで1時間。直行便ならば現地でも十分な時間がとれるけれど、朝6時半のフライトではそれこそ前泊が必要になってしまうから、離島への旅のハードルを上げてしまう。
窓際でなかったので、健と話しながら時間をつぶして、経由地の那覇空港に降り立つ。
「ついに沖縄まで来たぁ」
「そっかぁ、茜音でも初めてか」
飛行機から出たその瞬間に空気が違う。強い日差しに照らされている景色が、飛行機の機内で薄暗さに慣れた目には厳しいくらいだ。
空港のコンコースに南国の花が飾られていて、構内に流れるBGMも三線を使っている独特の音色の曲と気がつけば、やはり自分たちの普段の生活圏とは違うことを実感する。
乗り換え時間があるが、預けた荷物はそのまま目的地に向かってくれるので、昼食を調達に佳織と健が行き、茜音と菜都実が待合いロビーに残った。
「ねぇ茜音……」
「はぃ?」
隣でSNSの日記を更新し始めた親友に声をかける。
「ごめんね……。宮古島……、遠いよね……」
「でも、行きたかったから平気だよぉ。学校で言ったら、みんな羨ましがってたし」
場所は決まっても、そこに何があるかまでの詳細は分かっていなかったので、以前のようにネットで調べたり学校の友人に聞いてみた。結果的に茜音自身でも十分に楽しめそうだという感触を持って乗り込むことにしたのだが。
「なんかさぁ、人選まで気を使ってもらっちゃったみたいでね」
そう、単なる観光旅行であるなら、もっと一緒に行きたいメンバーはいくらでもいる。
珠実園で共同生活を送りながらも、茜音の妹分として家族にも認められている田中未来《みく》や、佳織の交際相手の存在もある。普通の旅行ならみんな一緒にしても構わないほどの信頼関係は構築している。
しかし、今回はそうではない。現地の足として唯一車を運転できる健を加えてはいるが、この旅は茜音が全国を走り回ったあの1年間の続きとして企画されていることだ。今回の旅費を彼女が全て出していることからもわかる。
菜都実とて、行き先を告げられたときに、発生するかもしれない事態については十分想像できた。
だからこそ、茜音は何が起きても大丈夫な、絶対の信頼を置くメンバーだけに絞った。
「きっと、大丈夫だよ」
「だといいな……。でも、アポもなんもしていないのよ?」
「住所が分かっていれば十分だよぉ」
「本当に、どうなるか分からないよ?」
「うん……。きっと大丈夫。お父さんからの伝言。『元気になって帰ってきなさい』って」
ゴールデンウイークを菜都実たち不在でこなさなければならないマスターも、娘から連休中の留守について何度も聞いたけれど、「せっかくだから楽しんでこい」と今回の旅行を了承してくれた。
「まったく……、あたしみんなに迷惑ばっかり。借りも作っちゃうなぁ」
「借りなら、わたしだっていっぱいあるよ。だから、頑張らなくちゃって思うんだ」
「ごめんね。どうなるか結果も保証できないのに」
「ううん。菜都実のそばにいたいから」
それは、いつか茜音が同じことを発したときの佳織の答えだ。
嬉しいときは一緒に飛び上がって喜べばいい。押しつぶされてしまいそうな悲しみの時だって、三人なら何とか堪えられる。そのためには、いつもこのメンバーでなければならないと。
「あ、そうそう。これもう渡しておくね」
手荷物にしてきた、茜音のショルダーバックから封筒を取り出して菜都実に渡す。
「これ……」
思わず口を押さえる。菜都実と保紀二人へと書かれている手紙。
「今は開けちゃだめ。二人で開けて欲しいって預かってきたよ。わたしはそのタイミングにはいないと思うから」
「もぉ……、みんなしてあたしのこと泣かせたがってる?」
時遅く、買い物に出ていた二人も戻ってきてしまう。
「菜都実……、大丈夫だって」
「もぉ……、あたし、なんて友達に恵まれたんだろう……」
いつも元気を取り柄とし、大切な妹を亡くしたときでさえ、表では気丈に振る舞っていた菜都実が、例外として涙を見せられるメンバーに絞った茜音の意向に佳織も異存はなかった。
「もう、着いちゃうんだね」
健に茜音の隣席を替わってもらい、窓から午後の海を見下ろしながらつぶやく。
そんな菜都実の手が柔らかい両手で包まれる。
「茜音……?」
「わたしもそうだった……。去年の夏……。一人で夜のバスに乗って、確約なんかない約束のために。帰りがどうなるかなんて考えてもいなかった……」
高校3年生の7月。同行するメンバーの申し出を振り切ったかのように一人で出発した。
周囲を慌てさせたのは、それ自体よりも残してきた手紙の方で、うまく行かなかったときにはたとえ帰らなくても探さないで欲しいという内容の方だ。
「あのときはそれしか答えが思い浮かばなかった。みんなに心配とか迷惑かけたことも分かってる。でも、行くことで結果を確かめるしかなかったの。もう進むことも戻ることもできなかった」
「たぶん、茜音が一番分かるのかな。一番近くにいてくれるのが、茜音でよかったよ」
菜都実はそれ以上言葉を発しなかったし、茜音もそれきり黙ったまま。それでも飛行機を降りるまでつないだ手を離さなかった。
宮古島空港に着いて、レンタカーの手続きに事務所へ移動する。
「さて、せっかく来たんだし、一回りしてみますか」
「写真にあったビーチ行ってみたいなぁ」
「砂山ビーチでしょ? ナビ出る?」
もう一度空港の方に戻り、さらに北上。市街地を抜けてしまうと、サトウキビやパイナップルなどの畑が広がる。同じような景色が続くので、意識していないとどのくらい進んだのか分からなくなってしまいそうだ。
それでも近場になると「砂山」と書かれた案内板もある。ほどなくして駐車場に車を停めた。
「ちゃんとサンダル履いていきな。裸足だと痛いし傷だらけになっちゃうよ」
出発の直前、菜都実からそんなメールが入っていたことを思い出す。
数百メートルの坂を上り、切り通しから海が見えると自然と足は早まった。
「きれいだねぇ」
吸い込まれるように波打ち際まで走っていく。
真っ白な海岸線の浜に宮古ブルーとも呼ばれるコントラストは見事だ。
宮古島は石灰質の土台の上に珊瑚礁ができ、それらが隆起して生まれた島だと言われている。そのためか高い山がないので雲ができず、空は抜けるように青い。また同じ理由で降った雨がすぐに地面に染み込んでしまうため大きな川がないことから、この島の周辺の海は濁りがない。
珊瑚のかけらが細かくなった砂浜は真っ白だが、裸足で歩くには少々痛い。
波が時間をかけて浸食したこの浜にあるトンネルは島の名所としてもガイドブックにもよく登場する。
「この海を見るだけでも来てよかったって思っちゃうなぁ」
「うん。なんか帰りたくないなぁ」
「ほんと、ここまで来ちゃうとね」
「ねぇ、あんな方に空港あった? 宮古の空港とは方向違うよね」
佳織が指さす方には、飛行機が向かいの小さな島の方に降りていくところだった。
「下地ね。この時間ならまだ間に合うか……」
菜都実の声でさっきの砂山を登っていく。帰りの方が勾配がきついので、車に戻るだけでも一苦労だ。
助手席の茜音と後部にいた菜都実が入れ替わり、彼女はナビの画面など見ずに健に方向を指示していく。
以前は水道を隔てた伊良部島へはフェリーで渡るしかなかったという。海上の橋で繋がれてからはフェリーの時間を気にする必要がなくなった。
伊良部島に渡ってからも、海沿いの道を指示していく。
「さっきの飛行機は下地島空港って言って、今は格安航空会社とか、たまに訓練に使ってる。それよりも見せたいものがあんの」
空の色が真っ青から徐々に夕焼けの黄色に染まりつつある。
腕時計を見ながら、菜都実は目的の島、下地島への橋を指示して南側から海沿いのルートを進めた。
「健君、あそこの広くなっている路肩に停めてくれる?」
言われるままに車を下りると、海沿いが小さな砂浜になっていて降りていくことができる。
先ほどの砂山ビーチとは違い、海は岩場になっているので、魚たちが泳ぐ姿を見ることもできる。
「きれいだぁ……」
ビーチの石の上に腰を下ろす茜音。まもなく日の入りで、周囲を赤く染め上げていた。
ここから日の沈む方向には水平線しかない。全員言葉も出ずにその時間を見送った。
数分後、今日の太陽は真っ赤な残り火をあげながら、海の中へと溶けていった。
「天気が良くてよかった」
「もぉ、菜都実も水くさいなぁ。ここに来たことあるんでしょ?」
佳織も笑っている。菜都実が初めてでなさそうというのは感じていたけれど、それならば何時と言うことになる。
「まぁね……。黙っててごめん」
「ううん。話せないことだってあるよ」
「うちさ、由香利がいなくなっちゃって。なんにも手が着かなくなっちゃって。やすに教えてもらっていた夕焼けが見たくなって、一人でここに来たんだ。原付バイク借りてね。いつか一緒に行こうって約束してたから、由香利の写真と一緒に見て、思いっきり泣いて。そこからやっとリセットした場所なのよ、ここは……」
あの当時、法事も終わった後に菜都実が数日間学校を休んだことを思い出す。当時は疲れなどもあるはずだと、深くは追求しなかった。
まさかこんな沖縄の離島にまで来ていたとは想像もしていなかった。
「今日も由香利ちゃんといっしょ?」
夕日を見ながら、彼女が手帳を大事そうに握りしめていたから、そう思っても自然な流れだ。
「ううん、今日は違う。どっちにしても天国にはいるんだけど……」
封筒に入っていた白黒の画像。モザイクのような背景に、小さな円が写っている。
これは、経験した者にしか分からないだろう。首を傾げる二人を見て菜都実は微笑んだ。
「分からなくて当然。あたしの赤ちゃん。たった1枚だけ、あの子が生きていた証だから」
入院の際、状況を確認するために撮ったエコー写真。
「この時には、もう心臓が動いてるのが見えた……。あたしなんてどうなってもいい。シングルマザーでもいから、あのまま頑張らせてやりたかった。でも、その日の夜に、この子は自分で外に出ちゃった。まだ外では生きられないって分かっていたはずなのに……」
目が覚め、事を説明されて病室で号泣する菜都実に担当医でもあった叔父が渡してくれたのだと。
「だから、一緒に連れてきた。この子のお父さんの顔を見せてやらなくちゃって」
「菜都実……」
「分かってるよ、あたしだってここまで来れば覚悟決める。住所も分かってるし」
夕陽に照らされた菜都実の顔は、自分たちより数段先の人生経験をしているように穏やかだった。
「わたしね、両親がいるお寺で聞いてきたんだ。赤ちゃんは絶対に菜都実のことを怨んだりしないって。菜都実がそんなに毎月忘れないでお参りしているんだから、空で楽しく幸せに遊んでいるって。お母さんが幸せになれるように逆に祈ってくれているって」
茜音にも不定期に空白のスケジュールがあり、そんな時は決まって両親の眠る墓前にいる。
悩んだり迷ったときに、現実の片岡家の両親と同等以上に彼女を落ち着かせるために手を合わせるのだと。
「きっと、茜音も私もそういう時が来る。菜都実って経験者がいるだけで安心だよ」
「佳織ぃ、この経験だけはあんまりしないほうがいいぞぉ。さぁて、おなかすいた。宮古に戻ってお店探す?」
「もう、お店は予約してあるよ」
それまで黙って三人を見守っていた健がようやく入ってきた。
「健ちゃんごめんね。なんか重くなっちゃって」
「いや、みんな菜都実さんみたいな親ばかりだったら、珠実園の子どもたちの半分は居ないはずなのにって思ってさ」
不慮の事故や病死など、やむを得ない理由で預けられる子供たちが半分ほど。残りは育児放棄や、両親の顔を知らない子たちもいる。
健も今は職員として働きながら、茜音も彼らの役に立つようにと勉強しているが、一人ひとりの心の傷を癒していくことが一筋縄でないことは、自分たちの経験で痛いほど分かっている。
ホテルにチェックインして、荷物を部屋に下ろしてからロビーに再集合。まだ開いている土産物屋などを覗きながら、商店街の一角にあるお店に着いた。
「へぇ、健君もお店選び上手になったねぇ」
「ま、まぁそんなとこ……?」
郷土料理や海鮮がメインの食事処といった感じで、観光客だけでなく地元の人にも人気があるようだ。7時前という時間にもかかわらず、席はほとんど埋まっている。
「大丈夫? 予約席って空いてはいなさそうだけど」
扉を開けて健が中に入っていく。
「うん……。すみません、予約をお願いしていた松永ですけど」
「あ、はい! こちらへどうぞ」
手前のテーブル席ではなく、奥の座敷へと通される。
「すごぉい! こんな予約していてくれたの?」
テーブルの上には、大きな刺身のお皿をはじめ、煮付けや焼きのもなどが並べられていたからだ。
「いらっしゃいませ。遠いところをおつかれさま。……菜都実ちゃん、すっかり美人になったわねぇ」
「えっ?」
三人がその声の方を振り向いたとき、すでに菜都実は頭を畳にこすりつけていた。
「おばさん、ごめんなさい!」
今回のイベントでは、これまで見たことのない菜都実の姿を見てきたが、ここまで号泣しながら頭を下げるなんてことも初めてのこと。見守ることしかできない。
「もう、たくさん泣いたんだもの。これからは菜都実ちゃんが幸せになる番よ」
「でも……」
お店の女将さんと思しき女性は、自分たちの母親と同じような世代。泣きじゃくる菜都実の頭を撫でていた。
「遠いところいらっしゃい。おい、なに菜都実ちゃん泣かしてるんだ?」
「菜都実ちゃんがあの子をもらいに来てくれたの。早く呼んでおいで」
やはり同じ世代の男性が顔を出す。
「健ちゃん……、いったい……?」
「マスターがさ、食事のことは心配するなって言ってたんだよ。こういう事だったんだね」
なんてことはない。二人が早まって犯してしまった過ちについては、とっくに両家とも整理はついていた。
もともと、二人の関係には異論がなかったし、あの事件でさえ時期が悪かったというだけで、それ以上の話は出なかったのだから。
「菜都実……」
小さな声だったが、それにガバッと振り返った視線の先には、ひとりの少年が座っていた。
「やす……、ごめんなさい! やすは何も悪くないのに、やすが引っ越して、あたしはそのままで……。何度も謝りに来ようと思って、でもできなくて……」
彼は菜都実の手を握った。
「菜都実も悪くないんだ。それよりもここに連れてきてくれた友達にお礼言わなくちゃ」
「うん」
菜都実は席を離れて彼の横に座った。
「菜都実から聞いていると思いますが、自分が保紀です。菜都実とのことについては本当にお世話になりました」
あの事件のあと、数年のブランクがあっても、しっかりと手を握っていられる信頼感。やはり二人の結びつきは変わらないということだろう。
「ほら、全部運んできちゃいな。菜都実ちゃん、今日のは全部保紀だから、味は保証しないからね?」
「ほんとに?」
「ど、どうかな……」
最初に魚の煮付けに箸をつけた菜都実。
この一行の来訪を聞かされて以来、メニューから仕込み、調理にいたるまで、他の注文の合間に彼がひとりで担当したという。
「うん……。美味しい。すごく美味しいよ。凄いね、やす……」
再び涙が流れ出した菜都実。今度は笑っていた。
最初のショックも収まって、保紀を入れて五人での食事は楽しく進んだ。
なにより同行した三人が新鮮だったのは、やはり戻るところに戻れた菜都実が、今までに見たことがないほど柔らかい顔をする発見だった。
あの事件のあと、菜都実とのけじめをつけるために選んだのが、宮古島でこの店を営んでいた年老いた親戚のところだったという。
一家で移住した後に店を任せてもらい、高校に通いながら、店のことを一から覚えて今では厨房に立つことも多いという。
「菜都実に会うためにはちゃんと仕事して、独立できなくちゃと思って」
「うん、凄いよ。頑張ったんでしょ」
ここまで来るには並大抵ではなかったはずだ。知らない土地での再出発というだけでハードルが高くなる。
「保紀、これ俺たちからな。必要になったら使え」
「俺たち?」
調理着姿の父親から渡された封筒の中身を引っ張り出してみる。
「父さん」「おじさん……」
周りも広げられたそれを見て息をのんだ。
これまでに自分たちを含め何度も恋愛劇を繰り広げてきた茜音ですら、本物を見るのは初めての書類。
婚姻届には両家の父親が証人のところに署名してあった。ウィンディーのマスターが、やることがあると言っていたのはこのことだったのだろう。
「これから話を進めても、どんなに早くても来年にはなっちまうだろうから未成年の承諾のところは書いていないけどな。必要だったら書いておくぞ?」
保紀の父親が豪快に笑う。あの悲しい出来事から4年。物理的な距離を置いて再起にかける保紀の作戦は誰もが辛かったに違いない。
「大丈夫。もう急がない。ゆっくり決める。菜都実もそれでいい?」
「うん。これだって急展開なんだから。でも、あたしはもう決めてる」
店の方も終わりに近づいて、菜都実も一緒になって皿の片づけに入っている。
「菜都実ちゃんいいのよ。お客さんなんだから」
「昔、おうちでご馳走になったときにいつもやってましたし」
お茶の湯呑みだけになったテーブルを拭いて、菜都実は一息着いた。
「健くん、茜音と佳織も。なんか恥ずかしいところ見せたなぁ。でも、ありがとうね」
「荒療治できるかずっと気にしていたから、良い方に行ってよかった」
「なんかねぇ、茜音のすごさが改めて分かった気がする。本当に世話になっちゃった」
「でもぉ、あっという間に追い越されたよねぇ」
実質上は婚約をしている自分たちでさえ、それをいつにするかなどは未定のままだ。
暗くなった商店街を、保紀もホテルまで送ってくれた。
「明日のお昼はうちの店で用意します。夜はどうしますか?」
結局、この食事代も保紀の修行代という名目で持ってもらってしまった。
「明日は、午後からみんな別行動だから、夕食は大丈夫。やすだって午後から休みもらったんでしょ?」
せっかくだからと、明日の午後から菜都実が帰るまで休暇をもらった保紀には菜都実との時間を作ってもらいたいし、そもそも二人で来ている茜音たちも問題ない。
佳織はと言えば、ネットで知り合った石垣島の友人と会うことになっているという。
「じゃぁ、また明日ね」
ホテルの入り口で挨拶をして保紀は帰っていった。
「菜都実、よかったね」
「ごめんね。あたし佳織にも迷惑かけたなぁ」
「いいの。明日はこの部屋には戻らないんでしょきっと?」
顔を真っ赤に染めた菜都実の肩をたたき、面白そうに何度もうなずく。
「私だってそんなことくらい分かってる。荷物はまとめておいてくれればいいよ。万一戻るようなことがあったら電話して?」
「うん。ありがとう。本当にあたしは幸せだわ」
もっと夜中まで話し続けるのかと思いきや、長旅や緊張からの疲れで、すぐに部屋の電気が消えた。
「本当に、佳織には悪いね」
「私も今日は楽しみにしてるんだから。遠慮なくいってらっしゃい!」
午前中は商店街のお土産店などをまわり、予定通りに昼食を済ませた後、菜都実を保紀に預けた。
「じゃぁ……、甘えることにする。埋め合わせはするから」
「そんなのいいって。ただ、明日の飛行機間に合うようにね。他の便は満席だったから、乗り継ぎも含めて全部取り直しになっちゃうぞ」
「分かった。それは守る。茜音とちがって、二人だし」
「その二人だから心配なのさぁ」
佳織がその言葉を待っていたかのようにニッと歯を見せて笑う。
今朝のホテルを出るとき、菜都実は明日までの必要最低限の荷物を持ってきていた。予定では明日の空港での合流になる。
残りのメンバーは、その待ち合わせまで二人の邪魔はしないつもりだ。
その場に現れない可能性もリスクとして残る。ただ、二人とも次は失敗したくないという意向をはっきりと示していたから、それを信じることにしている。
「じゃあ保紀君、菜都実のこと一晩お願いね」
前の晩に続いて、お昼ご飯をご馳走になり、残りの三人がお店を後にする。
「じゃぁ、わたしたちも出よぉ」
残りの三人で一度ホテルに戻って買ってきたお土産などの荷物を片づけてから、最初に佳織を空港に送り届けることになっている。
「佳織、本当にごめんね。お友達さんにもよろしくね」
「謝ることないじゃん。私にも予定あるんだし。茜音もうまくやるのよ?」
横須賀からの土産を持った佳織を空港のロビーに送り届ける。
「帰りはバスで平良のホテルまで戻るから、私には気を使わないで?」
「本当にいいの?」
「こうやって、地方路線乗っておかないと、いざ茜音みたいに突然出かけると言ってもなかなか答え出ないでしょ? 空港だからタクシーもいるし何とかなるわ」
佳織のスマートフォンには、石垣島を出たという連絡がすでに入っている様子で、楽しみがちゃんとあるというのも嘘ではなさそうだった。
「茜音もうまくやるのよ?」
「ありがとう……。でも、わたしも焦らないでいいよね」
「もちろん。健君と二人で考えられるでしょ?」
佳織は茜音の肩をポンと叩いて、空港ロビーの到着口の方に歩いていった。
「これからどうしようか?」
健が車の中で待っていてくれて、茜音の帰りを待っていてくれた。
「そうだねぇ。また海が見たいな。いつも忙しいから、ゆっくりお話しがしたい」
そんな場所を茜音は菜都実と保紀から昼食の時に聞き出していた。
昨日行った浜は菜都実の大切な場所だから2組のバッティングは避けたい。そんな気持ちを悟ったのか、菜都実は笑いながらお店にあった観光地図に油性のサインペンで書き込みをしてくれた。
「それじゃあ、行ってみようか」
二人きりになった車の中、助手席の茜音の手を握って車を走らせた。