「結局朝までずっとしゃべっててぇ。ちょっとまだ眠いかもぉ」
「そうなんだ。でも、楽しそうだなぁ。男はあんまりそういうのないからなぁ」
健が途中で買ってきたおかずを暖めながら笑っている。
茜音は止まらないあくびをこらしながら、ダイニングテーブルに肘をついて座っていた。
菜都実の店で夜明けを迎え、一度家には帰ったものの、軽い朝食とシャワーを浴びた後、健と待ち合わせをしていた家の方に移動していた。
新年度からは、これまでの別荘的な扱いから、正式にこの家が茜音の下宿先となる。実際には家自体彼女の物なので『下宿』と言えるかは微妙なところだけど。
片岡家のマンションからは勉強道具や衣類を少しずつ運び出しつつある。
その段ボールを開けて自分の部屋まで持って行く力仕事を健が手伝ってくれることになっていた。
そして寝不足で作業が遅れ気味の茜音の代わりに、健が昼食を用意しているところだった。
「そういえば、未来ちゃんは昨日大丈夫だった? 今日も健ちゃんひとりで出てきちゃって平気だったの?」
茜音は二人分のお皿をテーブルに置きながら、気になっていたことを聞く。
あれだけ周りから言われてしまったのは、未来があの場で口火を切ったとしても少々可哀相な展開となってしまった。
「うん、今日は部活だって。それにあの後はおとなしかったよ。もらったネックレス大事そうに今朝もつけてたし」
「そっかぁ。それならよかったぁ。チョーカーの方が可愛かったんだけど、好き嫌いあると思ってねぇ」
あの日、後ろに未来がついてきていると分かっていながらも、茜音は未来にもお土産を考えるのを忘れなかった。
「本当にあの騒ぎが嘘みたいにおとなしくなっちゃったし、朝も機嫌が悪いわけでもなさそうだし。里見さんも気味悪がってたよ」
「そうなのぉ?」
茜音は面白そうに笑うと、
「里見さんも健ちゃんも未来ちゃんとずっと一緒にいたんでしょぉ? 未来ちゃんは本当はおとなしい女の子だよぉ」
「そうなんかなぁ」
茜音の言うとおり、未来との時間は圧倒的に自分の方が長いのに、茜音の洞察力はその時間ですらカバーできない部分を見抜くことがある。
「未来ちゃん、ずっと寂しかったんだよ。それに、わたしが来ちゃって健ちゃんを取られるって思ったから、少しでも目立っておきたかっただけ。だから、わたしと健ちゃんがちゃんと未来ちゃんを見ていくってことが分かったから、未来ちゃんは元のおとなしい女の子に戻っただけなんだよ」
「茜音ちゃんが言うんなら、本当なんだろうな」
「わたしたちの小さかったときにも、そういう子がいたよね。目立っておきたいって思う子がねぇ。でもそれには悪気はないんだから、怒っちゃダメだよ」
「茜音ちゃんにはまいったなぁ」
これではどっちが本職だかわかったものではない。
「わたしたちがちゃんと世話をするって事も条件なんだから、ちゃんと未来ちゃんのことはいつも気にしているよ。それに、未来ちゃんも、もう少し大きくなるときっとモテると思うんだよなぁ」
どちらかと言えば自分とは正反対の魅力を持っている未来。最近の風潮なら自分よりも男の子の受けはいいと茜音は予想していた。
「変なのに引っかからないように見張るのが僕の役目かもな」
「ははは。大丈夫だよぉ。きっといい男の子連れてくるよぉ」
「なんか、親みたいな会話になってきてるね」
「未来ちゃんは家族なんだもん。未来ちゃんにも幸せになって欲しいなぁ」
一つの論点ではようやく決着が付いたが、これからもいろんな事でぶつかってくることだろう。
「ま、僕が珠実園にいさせてもらえているのも、それをちゃんと見届けるのが仕事だからね。特別扱いは出来ないけど。それなりにみんなちゃんと巣立っていくんだからさ」
「そっかぁ。さぁて、午後も早くやっちゃおう。今日は昨日の分も寝ないとなぁ。健ちゃんはこの後戻るんだよね?」
この後、健は平日は仕事が終わった後に通う定時制の高校に向かうことになっている。
「また明日早く来るよ。差し入れ持ってくるから」
「はぁい。それじゃ未来ちゃんと里見さんによろしくねぇ」
健を玄関先で手を振って見送り、門扉と家の扉に鍵をかける。
「ふぅ~。明日までに少しは片付くかなぁ…」
結局、あまり作業も進まないうちに睡魔に負けてしまった茜音。
しかし一つだけ、健に持ってきてもらった未来の写真を家族や健と一緒に並べることだけは忘れなかった。
【茜音 短大1年 夏休み】
「……茜音と会ったのって、高校の初日だったっけ?」
「違う違う。菜都実は櫻峰の結果発表の日だよ。ほら、補欠合格のところにいて、番号なくて落ちたって思ったって」
厨房の菜都実に、テーブルをセットしていた佳織が首を横に振る。
「あぁ、それで佳織が正規合格者のところに番号あるって教えたんだっけ」
「まさか、受験の時に前に座ってたのが茜音だったなんてねぇ……。どこにきっかけがあるか分からないものだわ」
「あぁ、恥ずかしい……もぉ。そんなきっかけだったねぇ」
ランチの営業時間が終わったウィンディでは、午前中に自宅の家事を済ませた茜音の到着を待って三人組が遅い昼食を取っていた。
「そんな茜音に、『10年間の約束』だなんて話がくっついているなんて、その時は予想もしていなかったけどね」
「それが校内ヒロインまで成長したよなぁ。最終的には成功させちゃったんだからさぁ。根性というか、とにかく最後の頃の執念は恐いくらいだったぞ?」
「そ、そうかなぁ……?」
「あんだけ気迫があれば、もう誰もからかったりはしないだろうに」
「そんなに恐かったかなぁ……?」
茜音が首をひねると、佳織も菜都実を援護するように、
「そうね。菜都実と私もこれなら茜音が次に進んでも大丈夫だって思ったし。もう短大では前みたいにいじめられたりはしていないでしょ?」
春に無事高校も卒業し、今はそれぞれ茜音が短期大学、佳織が4年制大学、菜都実が専門学校と違う道を進んでいる。
しかし週末や休みの日はこうやって高校時代と変わらず集まっては遅くまで話し込んでいくのが習慣になっていた。
さらに最初の夏休みに入ってからは、毎日のように通うのが当たり前のようになっている。
「うん。もう嫌がらせはないかな。みんな全国あちこちから集まっているし。あと小峰さんがゴールデンウイークのコンサートで紹介してくれた記事が大きかったみたいでねぇ……」
「その記事見た見た! 反響凄かったじゃん」
昨年、高校3年生の夏は茜音にとっても人生が大きく変わったタイミングだった。
幼くして10年後の再会を誓った健との約束を結実させ、彼が生活していた福祉施設である珠実園に出入りすることになってから、
事故で亡くした実の両親との深交があった音楽家の小峰氏とも再会。
彼がオーケストラメンバーに紹介すると同時に、各種のイベントに演奏や歌唱ゲストとして登場するなど、これまでの交通事故孤児から養子になったりと、どちらかと言えばネガティヴなイメージを抱かれだちだったものが、一気に逆転した。
「大学でいじめはないだろうなぁ。それに茜音だけじゃなく、うちらだって少しはモテるように成長したんだからさ。佳織は原田君だっけ?」
佳織の方を見る。彼女は茜音の成功を見届け半年後の卒業式直前から、1年後輩の男子生徒との交際を始めていた。
今では佳織の入った大学に入るために猛勉強中ということで、表立ってデートなどもできていないらしいが、その代わり佳織が家庭教師に行っているというのだから、何かと上手くやっているようだ。
「休みだし、今度連れてくるわよ。今の男子にしては珍しいくらいおとなしくて素直な子ね。かと言ってお坊ちゃんでもないし」
「佳織に今から言われてるんじゃぁ、将来がちょっと心配だな」
「なによそれ。菜都実だって同じようなもんじゃない? まぁ彼が菜都実にゾッコンなのかはよーく分かったけどね」
「佳織も急に言うようになりやがって……」
そんな二人のやりとりを、茜音は面白そうに見ている。
「なにをそんなにニコニコしてんのよ」
「だってぇ。やっぱり変わらないなぁと思って」
三人の持ち寄った話によれば、少なからず高校から大学に進学したときにイメージチェンジにはしる、いわゆる「大学デビュー」がいたようだ。
茜音は普段の生活がこの街から離れてしまったものの、菜都実の情報では少なくとも高校時代の同級生の数人はガラリと変わってしまった姿を見かけることもあるという。
「茜音なんかは、健君とも会ったわけだし、イメージを変えてくるかと思ったんだけどなぁ」
「結局、髪型も全然変えなかったもんね」
二人の指摘どおり、茜音の外観というのは高校の頃を含めそれ以前から変わっていない。
『健ちゃんと会うまでは変えられないんだよね』と語っていた髪型は、二人が無事に再会した後も、幼い頃からの三つ編みが特徴の形を変えていなかった。
「うん~。健ちゃんとも相談したんだけど、変える必要もないってことになって。自分でも想像してみたんだけど、なんかわたしじゃなくなっちゃうんだよねぇ」
「なんかそれは分かる! なんかそれがなかったら茜音じゃなくなっちゃうよ」
物心ついたときからのものを変えるというのは、やはりそれ相当の勇気が必要だろう。
「うんー。だからこのままでもいいのかなぁって」
「そっかぁ。いいんじゃない? うちらも見慣れちゃったからなぁ」
佳織たち二人にしても、出会った頃から見慣れてしまうと、今さら変えられてもという思いもある。
「わたしが、わたしでいるために、まだもう少しはこのままでいたいかな……」
「茜音が茜音でいるために……か。大人になったねぇ」
感慨深そうな佳織。あの心細そうに教室の隅で小さくなっていた頃を知っているだけに、茜音のこの成長は嬉しくもあり、一方で寂しく感じられるようにもなっていた。
「なんか佳織はすっかりおばさんみたいよ? 茜音はもうそんなに心配いらないんだからさ。自分の方を心配したらどう?」
「どうせ、私は世話好きなおばさんですよ。彼氏だって年下だし……」
そこまで言ったとき、カランと店の扉が開く音がした。
「あ、いらっしゃいませ!」
佳織が席を立って飛んでいく。
「そろそろ夜のお仕事だわな」
高校卒業が近づいた当時、もはやアイドル状態であったこの三人娘が見られなくなるのを惜しむ声が数多くあったくらいで、その後も継続できるかが、この店にとっても重要な問題だった。
この店が実家である菜都実は別として、それぞれ学校に電車で通っている佳織と茜音は、可能な限りと言うことでシフトを入れている。
店の客たちもそれを知っているものだから、三人が揃う日はかなりの混雑になる。
『まったく。若い女の子がいるなんて、ゲンキンなもんだよなぁ』などとマスターは笑って言うのだが、売り上げに貢献しているのだから納得するしかない。
「茜音、今日は弾けるん?」
「うん。準備してくる!」
以前、偶然から始めた茜音の演奏会も変わらずに続いている。
その時間目当ての常連客も以前にも増して増え、その時はいつもは若干の空席もある店内がびっしりと埋まってしまうほどだ。
楽器も変わらず、菜都実の妹が遺した縦型のピアノと、茜音が持ち込んだバイオリンが主だが、佳織が彼氏の影響からか、受験後にギターを習い始めたと言うことで、時々練習がてら登場するときもある。
少し前に店の一角を演奏ステージのように改装したおかげで、客の飛び入り参加も出来るようになっただけでなく、小さいライブステージとしても一般に開放することが出来るようになった。
そんな状況をインターネットやタウン情報誌などで紹介されてしまったものだから、茜音たちも止めるわけにはいかない。
今日もそんな演奏が聞ける日だと分かっている常連さんたちで店はすぐにカウンター席までいっぱいになってしまった。
「それじゃぁ、今日もよろしくお願いしますぅ」
パタパタと楽譜を抱えて走ってきた茜音。夜は落ち着いた雰囲気にする店内をさらに暗くすることにしたので、手元のスタンドとステージ用のダウンライトに照らされる。
「やっぱ、茜音ってその道に行った方がいいんじゃないかなぁ……」
ステージの時間帯は、厨房は一息がつける時間帯になるので、佳織と菜都実は目立たないように隅に立っている。
ダウンライトに照らされて鍵盤に指を走らせている茜音を見て、佳織がつぶやいた。
「ん? やっぱり佳織もそう思う?」
「うん……。だって、素質は凄い物を持ってるんだもん。磨かなかったらもったいないって思ったし。以前に比べて演奏しているのが楽しそうに見えるようになったってのもあるかな。今の学校に行っている理由は聞いているけどね」
佳織はギターで茜音とセッションをやることもあるから、余計にそう思うのだろう。
「今日はいいん?」
「うん。今日は練習もしてなかったし……」
結局、この日も閉店時間までの数時間、茜音は演奏を続けた。
「お疲れさま」
「うん、疲れたぁ。そういえば、今日は保紀君来てたけどよかったの?」
店内のお客を全て帰し終わり、茜音は冷蔵庫に残っていたアイスティーにガムシロップを2つとミルクを入れて飲みながらたずねる。
「大丈夫。だって会うのは明日の予定だったのに、早い飛行機に乗ってきたんだって言うからさ」
店の掃除をしていた菜都実は手を止め、外を見やる。
「そんなこと言って。お店の方はやっておくから、会いに行ってきなよ。あのとき以来なんでしょ?」
「……でも……。いいん……?」
全員が分かっている。仕事が終わるまでは彼は近くで時間をつぶしていて、そのあとは菜都実の部屋に泊まることになるのだろうということ。
数年前に法改正が行われ、健は夜間高校に在学中というため、満18歳となった今も珠実園を卒園しないでいるが、時期を見て一人暮らしをと以前から言っていて、その費用がもったいないと茜音と同居を始めるのは事実上の既定路線となっている。
佳織も同じ市内に生活圏を持っているから、交際中の彼と離れているという感覚は持っていない。
「はいはい。さっさと行ってらっしゃい。マスターには言っておくからさ」
なかなか動き出せなさそうな菜都実を、佳織と茜音の二人で追い出す。
「たまにしか会えないんだからいいよねぇ」
「そうそう。きっと会いたくて予定を前倒ししてきたんだろうから」
二人はネオンサインを消した店の外を見ながら言った。
菜都実の交際相手との物理的距離は、二人とは桁外れに遠い。この時間に現れたということは、直行便ではなく飛行機を途中で乗り換えてきたのだと。
「菜都実がいなかったら、今のわたしもないからねぇ。みんなうまくいって欲しいんだよぉ」
「大丈夫だって。茜音が心配しなくたって、みんななんとかやっていくものよ」
「うん……。そだよねぇ」
「ま、菜都実の場合は茜音とは違ってちょっと事情が表沙汰にはできないわなぁ」
「うん、あれは話せない……。菜都実にはこのまま頑張って欲しいよ……」
「……私ね、茜音と会えたことと、この春に菜都実のことを知ってね。司法試験を目指して卒業後は弁護士になろうって決心したの。誰かを支えてあげられる仕事に就きたい。原田君も賛成してくれた。これからの勉強も大変だって分かってるけど、茜音たちが乗り越えてきた苦労に比べれば、まだまだ恵まれてるもん……」
これまで、まだ何となくしか将来の進路を描けていなかった佳織が、ここまでハッキリと将来のビジョンを話したのは初めてではなかったろうか。
茜音の生活経験や珠実園の存在は、その考えの土台にあったとして、菜都実の過去の一件は佳織の針路を軌道修正するには十分すぎるほどの刺激があったということだ。
「佳織……。なれるよ……。佳織なら大丈夫。そしたら、わたしも相談に乗ってもらおうかな」
「もちろん。茜音と健君の役にたてるように頑張るよ」
二人は掃除のモップを片付けて店内を暗くし終わると、再びブラインドを開けて月明かりの海辺に視線を戻しつつ、春先からのことを思い出していた。
【茜音 高校卒業後 春休み~】
時間は数ヶ月遡ることになる。
「さむぅいぃ!」
「まったくー、早く暖かくならないかねぇ」
高校の卒業式も無事に終わり、少し長めの春休みに突入した片岡茜音と近藤佳織は、進学先で必要な物の買い出しに出ていた。
3月とは言っても、ここ数日は寒の戻りと天気予報でも言われていて、空は曇りで薄着では外出できそうもない。
そんなせいか、桜の便りもまだしばらくかかりそうだ。
「ねぇ、あれって菜都実かなぁ…?」
「ん? そうだなぁ。珍しいあんな格好して」
二人が立ち止まった先の路地から、一人の女性が出てきた。
「菜都実ぃ?」
少し遠慮がちに呼んでみると、やはり親友の上村菜都実だった。
「どうしたのよ。なんか浮かない顔してるし、こんなに地味なの着ちゃって。最初分からなかったんだから」
佳織の言うとおり、普段はラフな格好が多い菜都実が、今日はグレーの上下であることも二人の判断を遅らせた原因でもある。
それにまだ彼女の進学先である専門学校の入学式には早すぎる。
「うん、ちょっとそこまでね。買い物と野暮用」
「うん?」
買い物というには少々雰囲気からして違う気がする。商店街へはどのみち方向が一緒なので再び三人で歩き出す。
ふと菜都実が足を止めたのは花屋の店先だった。
実際は寒くても、カレンダーは確実に春になっているので、冬場には出ていなかった柔らかい色彩が店頭に並んでいる。
しばらく考えた後、菜都実は一人で店に入り、小さな花束を包んでもらい戻ってきた。
「わぁ、ピンクのチューリップだぁ。もうすっかり春だねぇ」
菜都実を待っている間に、茜音も店先に並んでいる彩りを見て、後で買って帰ろうかと考えていたほどだったが、佳織はそれよりも別のことを考えていたようだ。
「菜都実がそういうの自分から買うなんて珍しい」
「そらぁ、あたしだって一応女だし……?」
菜都実はその小さい花束を大事そうに抱え、次の場所へと向かう。
「あのさ……。もっかいちょっと持っていてくれていいかな?」
「うん。いいよ。じゃ待ってるね」
本来なら自分たちも買い物をするはずのスーパーマーケットの前で、二人は菜都実から渡された花束を持って待つことにした。
「菜都実、どうしたんだろ……。ちょっと普通じゃないみたい」
「やっぱりそう思う?」
普段は必要な時以外フィルターをかけたように天然系キャラを演じている茜音が気づくくらいなら、佳織はその空気をとっくに読み取っていたようだ。
もっとも、茜音も真剣に本領発揮をすると、誰もが驚くほどの読心力を発揮することになるので、二人とも菜都実に会ったときに感じていたことをようやくここで口にしただけなのかもしれないが。
「なんかちょっと落ち込んでいるというかぁ」
「そうねぇ……。でも、まだ由香利ちゃんの日じゃないはずだしなぁ」
「だよねぇ」
一昨年の冬、菜都実は双子の妹である由香利を亡くしている。茜音はそのとき菜都実を励まそうと傷心旅行にも同行した。
彼女の心の傷の深さも、時々墓前にも行っているというのも知っている。しかし、今は墓前の妹に会いに行くという雰囲気ではない。もっと重い何かがあるような気がした。
しばらくして菜都実が小さな袋を持って出てきた。袋から透けて見える品物に気づくと、ますます目的地がそちらではないことをはっきりと確信できた。
「どうすっかな……。二人とも来る?」
「ほえ? い、いいの……?」
なにやらこれ以上踏み込んではいけないような気がしていたので、どうやってこの場を収めようか考えていたのに、菜都実は正反対の提案をしてきた。
「うん……。逆に二人ならいい答えが出るかもしれないし」
菜都実は茜音から花を受け取り、二人についてくるように促した。
菜都実が二人を案内したのは、市内でも端の方にあるお寺だった。
あまり大きな寺院ではなく、観光地にもなっていない様子でひっそりとしている境内の中には遅咲きの梅の香りだけが漂っていた。
「ここは……?」
不思議そうな顔をしている茜音の前で、菜都実は桶に水を汲んでいる。
「由香利はここじゃないもんね。わざと分けたんだ。でもあの子も見てるとは思うけど」
準備を終えると、菜都実は桶を持って歩き出す。
「あ、茜音。そっちじゃないんだ……」
「ふぇ?」
一般の墓地区画ではなく、菜都実は別の一角の方へ歩き出した。
「そっちは……」
「うん、いいのこっちで……」
慌てて菜都実の後を追う二人。突き当たりには小さな地蔵がたくさん立ててある一画があった。
あまり来る人はいないのか。区画整理がされていて、墓碑の前に献花や供え物がある一般の場所よりも殺風景に見えてしまう。
それに墓石がいわゆる地蔵の形をして並んでいるのも少し不気味さを感じてしまう要因かもしれなかった。
しかし菜都実はその1つの前に膝をついてしゃがみこみ、妹の墓参りのときと同じようにその石碑を丁寧に清めた。一つ一つには献花台もなく、線香を手向ける箱もない。
それでも彼女は黙々と作業を続けた。
買ってきた花の茎を短く折り前を飾る。幼児用のお菓子と小さいプラスチックの容器に入ったジュースを供え、線香を地面に刺し終わった頃には、この寒い中でも顔からの汗が地面にしたたり落ちていた。
手を合わせ、一心に何かを祈り続けている菜都実の姿は、茜音はもちろん中学の頃から一緒だった佳織すら見たことがないのではないだろうか。
「さ、終わり。ごめんね。二人の邪魔しちゃってさ」
いつもの声に戻った菜都実だったが、ここまで見てしまった茜音と佳織が何もしないで自分たちだけ楽しむということが許せる性格ではない。
「菜都実、もしよかったら本当に悩んでること話してもらえないかな……」
「うん、まぁ二人ならもう話してもいいかな……」
菜都実は石碑が見えなくなる角の所でもう一度振り向いて頭を下げると、今度はまっすぐに寺の外へと歩き出した。
「それじゃぁ、また明日ねぇ」
「うん、今日はありがと」
別れ際、家に戻る菜都実を信号で見送る。
「まさか菜都実の話をここで聞くとはなぁ……」
「うん……。辛かったと思うよぉ」
しばらく立ち止まって見ていると、遠ざかる背中がいつもより小さく見えた。
「毎月やってたなんて……。早く気づいてあげられたらよかったわ」
「そうだねぇ……。わたしもまだ菜都実の気持ち分かってあげられていなかったなぁ」
「茜音が悪い訳じゃないでしょ」
「うん、でも菜都実のあんな顔見たことなかったよぉ」
「まぁなぁ。原因が原因だけになぁ。茜音みたいに公表はできないよね……」
二人はそこで顔を見合わせ、小さなため息をついた。
「悪いねぇ。なんか用事があったんでないの?」
寺院を後にして、ようやく日差しが出てきて暖かくなりはじめたというのに、人気のない児童公園で、三人はベンチに腰を下ろした。
「どうせ大した用事じゃないから。それより菜都実の方が気になってさ」
佳織が三人分の缶コーヒーを買ってきて渡す。
「そんなにあたし落ち込んで見えたかな」
「うん、そうだねぇ。落ち込んでいたというか、普段見たことがないから何かあったのかなって……」
茜音の素直な感想だ。高校で出会ってから3年以上の付き合いになるのに、さっきの菜都実の姿は一度も見たことがなかったから。
「そっか……。まぁ、仕方ないかぁ……。誰にも話してこなかったもんなぁ……」
さっきの線香の煙が昇っていった春霞のかかる青い空に視線を上げる。
「まぁ、別に見られたのが今回が初めてだってだけで、実は毎月同じことしてたんだけどさ」
菜都実は、しばらく話を止めてどうするか考えているようだった。
「見てたと思うけど、さっきのお地蔵さんってさ、普通のじゃないんだよな」
「うん、それは分かったよ」
それが分からないほど二人とも世間知らずではない。
たくさん並んでいた小さな地蔵は、普通とは建立の由来が違う。
病気や何らかの理由により、この世に生を受けることができなかった小さな命を祀るためのもの。戒名すら付いていないことも多い。
一般的には水子地蔵と呼ばれる。地蔵とは名が付くけれど、経験した者からすれば、あれも立派な墓碑であることに違いはない。
「あれは、菜都実の弟妹の?」
普通はそう考えるだろう。しかし、菜都実から返ってきた答えは二人の想像を超えていた。
「ううん。あれはあたしがお願いしたんだ。あたしのだから……」
「えぇ? 菜都実の……?」
あっけにとられている二人。
「ど、どういうこと……?」
「あれはね……、あたしが中学の時に建てたのよ。彼氏と二人で……」
「そんな!」
「ほえぇ?」
聞いている方には、菜都実の口から語られる話の内容すべてが衝撃の連続だ。
「うーん、とりあえず、どっから話せばいいかな」
「うぅ。どっから聞けばいいのかなぁ?」
どうやらこれから語られる話の内容は数々の事態を乗り越えてきている茜音ですら想像できる範囲をすでに超えてしまっているような気がした。
「うん……。うちらもどこまで聞いていいものか分からないから、話したいところだけ話してくれないかな。菜都実の気持ちが少しでも楽になるなら、それでいいと思うし」
佳織が促すと、茜音も同意というようにうなずく。
「まぁ、さすがにあんまり大きい声じゃ話せないんだけどさ。茜音と佳織だもんね、二人に隠し事はしたくないな……」
菜都実は記憶をたぐり、整理をするようにぽつりぽつりと話し始めた。
中学3年生1学期の中間テストも終わり、菜都実は部活の練習を引き上げ、昇降口で上履きに履き替えた。
夕日もかすかに赤みを残すだけ。暗くなった校内には人影も見えないし、ほとんどの部屋の明かりが消えていた。
「遅くなったなぁ……」
この夏の大会の予選も近い。夏の大会を終えれば結果はどうであれ菜都実たち3年生は引退だ。
小学校の頃から体を動かすことが好きで、常に体育は5段階評価の5。
中学1年生で陸上部に入ってからは、その頭角をめきめきと現し、常に学年のトップを走り続けてきた菜都実は、学校にとっても期待のホープであり、彼女自身も次の大会にかける意気込みは並々ならぬものがあった。
この日の練習がここまで遅くなったのも、合同練習はもっと前に終わっていて、表向きは彼女自身が自分に課した居残り練習……だった。
「もぉ、全く嫉妬って恐いなぁ……」
独り言をつぶやきながら、さすがに疲れた足をひきずり、教室のある最上階まで階段を上る。踊り場の窓からの色は、もうすぐ完全に周囲が暗くなることを告げていた。
公立校で進んできた子たちには、高校で初めての受験を体験する中学3年生という時期は、誰だって不安定になる。
それが自分の外に飛び出し、誰かの方向を向いてしまうと、周囲はそれぞれが抱えたそのイライラを同じベクトルに向けてしまう。
特に微妙な心理の女子にとって、そのベクトルから外れることが非常に恐い。仲間はずれというレッテルを貼られたとたん、自分も被対象になってしまう恐怖感が常にあるからだ。
そのきっかけは何であってもいい。周囲より何かが優れているとか、彼氏がいるとかそんな些細なことであっても構わない。いつ、自分が目標になってしまわないかと。
だからこそ、どこかのグループに属していたいから、本音ではやりたくないことも、作り笑いをしながら同調しがちだ。
それらのグループに属していない子は、本当に一部のごく少数派。
自分の強い意志で適度な距離感を維持出来ている方はいい。問題なのは、いわゆる仲間外れにされてしまった側だ。
個人的な心情では「かわいそう」と思っていながら、その子に手を差し伸べることによって、自分がグループから外されるだけでなく、理不尽な目に遭うことも少なくないから。
「まったく、バカバカしい……」
もともと、小学生時代から菜都実はそういった同調行動には加わらないと立場をとる考えの持ち主だ。
だから、小学生のときもあまり友達が多い方ではなかった。男子の比率の方が多かったくらいだ。彼女にとってはその方が都合がよかった。
中学に入ってからもそれは続いていて、部活選びも自分一人であっさり決めた。
その性格や行動力から、グループから強制スピンアウトされてしまった子の相談相手になったりすることもあったほどで、そういった子たちからは信頼も厚いのだけど、それはあくまで例外的なケースだ。
何かの成績がいい、彼氏がいる……。
菜都実は幸か不幸か、本人が気にすることもなくその両方を持ち合わせていた。
確かに頭の方は正直言ってあまり自慢は出来ない。しかし中学在学中の各スポーツ大会での成績はその不足を補うには十分だったし、秋田保紀《やすのり》という小学校からの幼なじみの存在は、誰の目から見てもお互いが特別な存在であることは明らかだった。
「あーあ、今日はどうなってるかなぁ」
当然、教室の電気は消えている。小さくため息をついて取っ手に手をかける。
「あ、お疲れ」
「ひぇっ」
誰もいないと思っていた教室の中から声が聞こえ、ビクッとする。
「そんなに驚かないでよ」
「え? やす…?」
目をこらすと、自分の席のところに保紀が座っていた。
「もぉ、脅かさないでよ。でも、こんな時間までなにしてたの?」
「図書館で調べものしてた。菜都実だって、こんなに遅くまで」
「あたしは居残り。大会も近いしさ……」
「ほんとに?」
保紀に顔をのぞき込まれ少し俯く。
「今日も、バラバラにされてたからさ、ちゃんと戻しておいた。大丈夫だと思うけど中身確認してよ」
机の上に載せられている自分の鞄。ここ数日これがまともに乗っているなんてことがなかったのに。
保紀に言われたとおり、中身を確認する。自分が入れた順番とは違っていたが、中身はちゃんと戻されているようだ。きっと誰もない教室の中でずっと探し集めてくれていたに違いない。
「ごめんね……。やすにも迷惑ばっか……」
「こんなことでいいのか?」
保紀の言葉には怒りすら感じられていた。
「いいよ。あと半年。あたしは大丈夫。あたしが次の大会で優勝でもすれば、やすとつき合っていたからなんて言われないし。そうすればやすだって何も言われなくなるよ」
直接は知らされていないけれど、この陰湿な状況は自分だけではなく、保紀にも及んでいることは十分考えられた。
「俺も大丈夫。菜都実こそ我慢しないでいいんだよ」
「ごめん……。ぇっ?」
汗ふきのタオルで顔を覆った時、後ろ側から抱きしめられた。
「ダメだよ。ここ教室だよ……?」
「もう誰もいないよ。それに、そんな泣き顔のまま菜都実と帰りたくないな」
しかたなく、菜都実は体の向きを変えた。
「やっぱり……」
保紀が菜都実の顔を見ると、既に彼女の目は充血で赤くなっていた。
「菜都実をこんなに……、しやがって……」
今度はさっきより強い力で抱きしめられる。
「うぅぅ……。ふぇ?」
保紀は突然、菜都実の唇をふさぐ。
「ごめん、こんなことしか今の俺に出来ないけど……」
それには返事をせず、菜都実は彼の誘いに応えることにした。
無意識のうちに繋いだ二人の手が、体操着の上からでも分かる柔らかい菜都実の膨らみに触れる。自分の心臓が全身に伝わるくらい大きな音を立てている。
自分達が初めてのキスをしたのは中学1年の時だ。
それまでの遊び相手という関係から、気になる幼馴染みにシフトして、少しずつ、たった一人の特別な存在に変わっていくまでそれほど時間はかからなかった。
誰にも教わったわけでない。それでも色々とこの年齢ともなれば興味本意で入ってくる情報は思春期の二人を少しずつ先に進ませるには十分すぎる。
「暖かいな、菜都実……」
菜都実にも、保紀が何を望んでいるのかは、2年生の時から少しずつ、何度か経験していることだから分かっていた。
「ここ、学校だよ……?」
陽はすっかり落ち、窓から見える範囲には明かりがついている部屋は見えない。職員室からこの教室は見ることが出来ないから、二人の生徒が残っていることも遠目には分からないだろう。
「もう俺たちしかいないよ」
「それもそうか」
他の生徒の荷物が残っていないことを確認してから、二人で教室の鍵を内側からかける。
「もぉ、やすも気が早いんだから……」
少し笑うと菜都実は保紀に自分の重みを預けた。