家族そろって久々の外出となったその日は、朝から夏の太陽が照りつける天気だった。
「暑いねぇ」
「帽子かぶらなくて平気なの?」
「うん、平気」
他愛もない家族の会話をしながら駅へ向かう。
マンション暮らしの片岡家ではあるけれど、自家用車を持っている。それなのに、なぜ炎天下を歩くのか。
茜音は少し不思議に思いながらも、それは表に出さないでいた。
鉄道で約1時間、その後バスに揺られて住宅地の方に進んでいく。
先日まで全国を駆け抜けた茜音、実は地元は昔の同窓生に会いたくないという事情も加わり、あまり詳しくない。
両親二人が自分をどこに連れて行こうとしているか茜音は理解できていなかった。
「もうすぐ降りるよ」
「うん分かった」
窓から外を見回してもあまり大きな目的地があるようには見えない。
それに夜はお祝いの食事は夕食となっている。
あとで分かるとだけ。何かサプライズを仕掛けているに違いないとは感じているけれど、その想像ができなかった。
住宅地の中にポツンと立つバス停に降りたのは三人だけだった。
「茜音、ここに見覚えは無いか?」
「どうかなぁ……。分からないかも……」
父親から尋ねられた彼女が周囲を見渡している間に、二人は先に進んでしまう。
今日も真夏日になっているのだろう。じっとしていると汗が玉になって落ちてきそうだ。
少し小走りで両親が立ち止まっているところまで追い付いたとき、茜音は足が動かなくなった。
「あれ……」
小さな園庭の幼稚園。
今は夏休みなので園児たちの姿は無い。
しかし、少しくたびれてしまった建物は茜音が今までどうしても思い出せなかった記憶を少しずつ呼び戻しはじめた。
成長した今となっては、簡単に開けられる門のロックを外し、その中に入っていく。
「こんなに小さかったんだぁ……」
今は窮屈になってしまったブランコに座り少し揺らしてみる。
あの当時、一人になった夕方の幼稚園の庭で、茜音はよくこのブランコで両親の帰りを待っていた。古くなって交換もされているだろうが、ここから見る景色には覚えがある。
「茜音、行くよ」
「う、うん……」
呼ばれなくても、今にも走り出しそう……。
通りに出て微かによみがえった記憶を元に道を進んでいく。
「まだあった……」
夢で見たお店はまだ存在していた。こちらは当時よりも外見は小綺麗になっているようだが、外看板のメニューを見れば茜音の好物はまだ残っているらしい。
「ってことは……」
茜音の胸は早鐘を打ち始めた。
間違いなくここは自分が幼い時に暮らしていた街。となれば……。
後ろから付いてくる二人を置き去りに、早足で歩いていく。
道順の記憶は完全ではない。体の奥底から沸き上がってくる感情のままに足を進めた。
「あったぁ……」
ある家の前で足は止まった。茶色いレンガ造りの戸建ての家は、主人を待っているかのようにそこに建っていた。
「あれぇ、そういえば表札が無い…」
この家に今は誰が住んでいるのだろうと思っても、どこを見ても現在の住人のものと思しき表札は出ていなかった。
「あっ……」
しばらく見て回ると、郵便受けの中にそれは外されているのが分かった。
門を押してみると鍵はかかっていない。
「佐々木……茜音……。う、うそぉ……」
忘れもしない。三人の名前が刻まれたプレートだ。
「やっと着いた」
「やっぱり、坂を上ってくるから疲れるわね」
門の外で二人の声がした。
「お父さん、お母さん……」
茜音はそのプレートを持ったまま門を開けた。
「お、早速見つけたか」
彼はポケットの中から1本の鍵を出して茜音に渡した。
「マスターキーだ。預かっていたものを返すよ。茜音」
「ほえ?」
一瞬その言葉が理解できなかった。ここは他人の家ではないのか。しかし手に持っているプレートと鍵。
「ここが茜音の本当の家なんだから、遠慮することはない」
言われるままにその鍵を扉に差し込んでみる。何のためらいも無くその鍵は回った。
「ほえぇ……」
扉を開けた茜音はそれ以上の言葉が出なかった。玄関の上がり口のところに座り込んで、見回している。
「お邪魔するよ」
「へ? あ、うん」
体は勝手に動いた。当時と全く同じ場所からスリッパを出してくる。玄関から横に入れる扉がリビングのはず。
「うわぁ……」
口をぽかんと開けてしまった。記憶の中と寸分違わぬ自分の家。夢の中にいるような感覚だ。
「あ、あのぉ……」
リビングの明かりが灯り、奥から父親が戻ってくる。
「とにかく座りなさい。説明しよう」
「う、うん……」
そうでなくとも、腰が抜けそうなのだから。
「この家を茜音に返すことが、茜音と家族になるための条件の1つだったんだよ」
静かなリビングに、その声はゆっくりと響いていった。
この家が、片岡家の娘として迎える条件だった……。
「そ、そうなのぉ?」
つまり、いつかは茜音がこの家に帰ることを分かっていての養子縁組を決めてくれたのだと。
「そう。それ以外にもたくさん条件があってね。でも、初めてあなたに会ったとき、この子はどんな厳しい条件でも、幸せにしてあげたいって、それを受け入れたわ」
そこで話された内容は、茜音の知らなかった大人たちの話だった。
事故で両親を亡くしたと同時に、彼女本人の意思とは全く関係なく、この家をはじめとする莫大な財産を受け継いでいた。
家は将来茜音が判断できるようになるまでは維持すること、財産は本当に茜音本人の養育以外には使ってはならず、残りは必ず本人に返すことなど。なかなか条件を満たすことは難しかったという。
「そこで、私たちが施設の園長先生に出したのは、養育費は受け取らない。家も含め全ての財産は茜音のものだと。園長先生も納得していただいて初めて預けてもらえた。大変だって分かってたけど、茜音と一緒に暮らせるようになって、本当に嬉しかったのよ」
「そうなんだ……」
茜音も知っている。片岡の両親は自分たちで子供を授かることができない。自分たちの子育てとして引き取ってくれたのだとは聞いたことがある。
「今日で、茜音が来て10年になる。お前ももう18歳の年頃だ。もう分別もつけられると思って、この日に預かったものを返そうと決めたんだよ」
「お父さん、お母さん……」
もう一度リビングを見回してみる。
「掃除は時々していたからきれいなはずだ。家電で古くなって危ないものは少し処分させてもらった。電気や水道ガスはもう一度点検していつでも使えるようになっている。あと換えたのは玄関の鍵くらいかな。それ以外は手をつけていないよ」
「ちょっと、見てきてもいい?」
何とか立ち上がり、リビングを出た。廊下の途中にある階段を上っていく。家の正面に面した部屋の扉を開けた。
「すご……」
何もかも当時のままだった。
翌春には小学校に上がる歳だったから、机もすでに買ってもらっていた。部屋に置かれているタンスも見る。当時の服がまだきちんと畳まれて保管されていた。どうやら茜音の服の趣味は昔からあまり変わっていないらしい。
部屋の奥の窓に寄ると、昔は椅子に乗って見ていた景色が広がっていた。
「本当に……、帰ってきたんだ……」
2階の他の部屋や両親の寝室もそのままだった。
「茜音、ここから一人で帰ってこられるかな? 買い物をしてからお店に行くようにしようかと思ってるんだけど」
「うん、分かった。直接行くね。本当にありがとう」
一人残った茜音は、再び自分の部屋に戻った。ベッドに腰掛けると今でも十分に使えることが分かった。亡くなった両親は、本当に子供用でなければならないものを除いては高くても質のいい大人用を茜音に与えていたことが分かる。おかげで机も新品同様に使える。服などは整理する必要があるが、急ぐ必要はなさそうだった。
家の中を確認すると、言われていたような家電品がいくつか足りないが、すぐにでも生活が可能な最低限はそろっている。
当時はそうと気づいていなかった防音室。その部屋の中にはグランドピアノが置いてある。これも小さい頃に一緒に弾かせてもらった。
「パパ、ママ……」
リビングのソファーに再び座った。幼稚園までだとしても生まれ育った家での記憶はたくさん思い出せる。両親と過ごした楽しい時間、いたずらをして叱られたこと。なにより、茜音が施設にいたときも忘れずに持っていた家庭のイメージはこの場所で作られたものだ。
確かに誰もいないこの家は今の茜音一人には大きすぎるかもしれない。
それでも思い出がたくさん詰まっていて、自分の帰りを待ちわびていてくれたこの家を手放すつもりにはなれなかった。
昔を思い出してしまう品物も多くある。そのうちにいろいろ整理していけば、菜都実や佳織たちを招くこともできるし、きっと自分と健の新居としても使えるのではないかと思いついたとたん、茜音の顔が赤くなった。
「今度、みんなにお願いして整理に来るかなぁ」
腕時計の針は出発する時刻を示していた。
「いってきまぁす」
家中の戸締まりをして、誰もいないとは分かっていてもまたこの場所で言えたことが奇跡だ。
周辺の地理はやはり体が覚えているようで、バス停への道に迷うことはない。しばらくあそこで生活していれば、昔の自分を知っている人物にも再会しそうだ。
来るときは知らない場所に思えたのに、帰りはもう何度も行き来した懐かしい道に戻っていた。
再びバスと電車を乗り継ぎ、何度も来たことのある店の前に着いた。こぢんまりとした店構えの個人宅レストランで、別客がいても個室に区切ってくれる。
幼いころはファミリーレストランすら人目が気になり苦手だった茜音にも都合がよく、片岡家では茜音が小さい頃からよく使っているお店だ。
「いらっしゃいませ。もうご両親見えてますよ」
お店のマスターさんも茜音のことを覚えている。奥の個室に通されて、お祝いの食事が始まった。
「こんなわたしのこと、家族にしてくれて本当にありがとぉ……」
いつになく深々と頭を下げる。家族の中では9月10日の茜音の誕生日と同じくらい重要な日だ。
「茜音を任せてもらえると決まって、本当によかった。難しい子だと聞いていたからなぁ」
夫婦となり、家族がなかなか増えないことをきっかけに病院で告げられた現実。そこに茜音の存在というものは大きなものだった。
「うん……。事故のことで結構有名になっちゃったから……、わたしに面会した人は多かったよ……。でも、ダメだったの。だんだん人に会うのが怖くなっちゃって……。お父さんとお母さんは、初めて会ったときから大丈夫だったかも。さっき話してくれた条件なんかは知らされていなかったけど、よかったと思う」
当時を思い出すように茜音は話す。
夫妻の他にも彼女と面接をしていたところはあった。しかし、当時の茜音は環境の変化によるショックなどから非常に扱いにくい子だったこと。また数時間前に知った自分に付けられていた条件。
何回か面接をしていくうちに、ほとんどの候補が消えていった。
片岡家に来る最終的な決定は、茜音を本当の家族として養子の籍を入れることだったという。苗字は変わってしまうかもしれないが、彼女の生い立ちや経歴を考えると、18歳で期限が切れてしまう里親よりも、一生家族関係を持っていける養子縁組の方がよかったと判断したらしい。
「あの話は聞いていたから、きっと早い時期に家を出て行ってしまうことは分かっていたよ。それでも茜音が帰ってこられる家を作ってあげたほうがよかったからね」
施設にいた頃の彼女の評判は、『何も話さない難しい子』だった。しかし、数度会っている中で、実際には何も話さない訳ではなく、サインが他の子に比べ目立たないだけだということが分かり、それを理解してあげることで茜音の心を開くことに成功した。
引き取ってみると、夫妻には茜音は手のかからない子だった。8歳という年齢にもかかわらず、基本的なマナーや作法はすでに備わっていたし、小さい子には難しいフォーマルの服も一人で着られることもわかり、茜音が生まれ育った家での教育がしっかりしていたことをうかがわせた。
「そろそろ着いてるかな?」
「はぅ?」
料理もあまり進めていない状態で、両親が顔を見合わせた時に、先ほど案内してくれたオーナーが顔を出した。
「お、見えましたか? 通してあげてください」
「え~~~~!?」
茜音は思わず椅子から腰を浮かした。
続いて扉から姿を見せたのは、紛れもなく茜音と先日再会を果たしたばかり、しかも昨日二人で会ったはずの松永健本人だったから。
「さぁ、こっちにどうぞ」
「ほえぇ……」
昨日会った時よりも髪を短くこざっぱりとさせていた。
彼もまさかこういうお店だとは知らされていなかったのだろう。茜音の隣に座るように勧められ、多少緊張した面持ちだったのは仕方ないことだろう。
「せっかくなんでね。こういうのは早いほうがいいだろう?」
「お父さん……、それはそうだけどぉ……。心の準備がぁ……」
茜音は苦笑した。タイミングを見計らって紹介することは話していたが、まさかこの席に両親が彼を呼んでいたとは想定外だったから。
「茜音だって、彼に会いに行く日にこちらの想像できないようなことしたんだから、これで帳消しだな」
「はうぅ。まぁいいかぁ。というわけで健ちゃん、こういうことする両親だから覚悟してねぇ」
「う、うん」
気を取り直したように、茜音は顔を赤らめて言った。
「お父さん、お母さん。10年ぶりに、ようやく会うことができた松永健君です」
茜音が初めてこの夫妻に会ったときのように、その後の会話は全員リラックスして進められた。
そのときの会話で、茜音が養子となって施設生活を離れたあとも、彼の方はその後も里子に出されることも無く、今も施設で暮らしていることが分かった。
そして、昼間は施設の手伝いをしながら収入を得て、夜は定時制高校へ通っている生活だという。
「ずいぶん苦労してるんだな」
「そうかもしれませんが、僕にとってはここまで育ててもらえた場所ですから。来年3月で退所の日の後は、職員として働いていくことも大体決まってます」
「そうか。うちの茜音はそういう厳しさをまだ知らんな。君からすると頼りないかもしれないぞ?」
そんな言葉にも、彼は首を振って答えた。
「茜音さんは十分に苦労して頑張ってきてます。それに、僕の状態を昔から本当に理解してくれるのは、茜音さんしかいませんから……」
「そうか」
大人二人は満足そうにうなずいた。
「茜音、率直に聞こう。実際に再会してみてどうだろう。お前の思ったとおりだったか? 気持ちは変わらなかったか?」
「うん。思ったとおりだった。それに、わたしの気持ちは今も変わらないよ」
茜音の声に迷いはなかった。他の面々も一番の鍵を握る彼女がはっきりした態度を示せば異論を挟むことはできなかった。
「松永君。まだ結婚と言うには少し早いが、これからも茜音を支えていって欲しい。君たち二人ももう18歳だ。二人のことは二人で相談して決めなさい。ただ、他の人の迷惑になったり心配をかけることだけはしないように。二人なら心配するまでも無いかもしれないがな」
「ありがとぉ……」
「ありがとうございます」
今日はこれをやりたかったから、昔の家を返したのかと茜音はこのときになって気づいた。
「茜音、あの家はどうする。すぐにでも移ってもかまわないんだが?」
「ううん。まだ当分は今の家にいるよぉ。準備に急ぐ必要ないから。ただ、お泊りとかは増えるかもしれないねぇ……」
ここに来るまでの道中、菜都実と佳織には空いている日を教えてもらうようにスマートフォンからメッセージを打ってある。
あの家からなら三人とも学校に十分間に合うので、週末を過ごすことなども計画しようと思っていた。
食事会を終えて両親は先に帰宅し、茜音と健の二人は二人の時間をもらってから帰宅することになった。
横須賀の夜景がよく見える海沿いの公園。周囲にもそれらしい二人連れがたくさん見られる。
さっきの件でもう両親公認となってしまったわけで、焦りはしたものの、今はなんだかさっぱりしている。
「健ちゃんひどいよぉ~。昨日には分かってたんでしょう?」
「ごめん。茜音ちゃんを驚かせたいから黙ってるように言われていたんだ」
「ふ~ん。あ、そっかぁ。自宅の電話に名前登録したから分かったんだぁ」
茜音は両親がどうやって連絡を取ったのかをずっと疑問に考えていたけれど、蓋を開けてみればなんてことはない。自分の携帯電話だけではなく、自宅の親機にも名前登録をしてあっただけのことで、それに気が付いた。
「今度、片付け終わったら、さっき言っていたお家に案内するね。ちょっと今はテレビもないから。準備するのに少し時間かかるよぉ。あと、健ちゃんところのお手伝いとか行くからぁ」
「そうだね。みんな見たがってるし……。大変な騒ぎになってるみたいでさぁ……」
「う~、そんなに騒がなくてもぉ」
夏休み中なので、学校での反応がまだ分からないが、恐らく全校生徒にうわさは広まっていると考えてもいいだろう。
2学期の初日は大変なことになるのではないかと思っている。
「そういえば、茜音ちゃん」
「ほう?」
「さっき、ご両親の前であんなこと言ってたけど、本当に後悔しない?」
「うん。もう決めてた。何があってももう離れたくない……」
隣に立っている健の腕をぎゅっとつかむ茜音。
「茜音ちゃん……」
「お願い……。わたしを……、もう茜音を一人にしないで……」
彼一人にしか聞こえない小さな声。その声は震えていた。
「茜音ちゃん、僕の顔を見てくれる?」
「うん?」
小さな外灯の光の中で見る茜音の顔。頬には細い筋が残っている。それでも一生懸命に微笑んでいる顔は小さくて、施設で初めて茜音に出会ったときと同じように瞳が揺れていた。
「本当は、ご両親の前よりも茜音ちゃんに先に言いたかったんだ。僕のことを分かってくれるのはあのときから茜音ちゃん一人だけだったんだ。……これからもずっと一緒にいてくれるかな。時期が来たら、二人であったかい家族を作ろう……」
「本当に……いいのぉ……?」
「うん。それを実現するには茜音ちゃん以外に考えられないんだ」
「ありがとぅ……。大好きぃ……」
飛びついてきた茜音の細い体を両腕で抱きしめる。
「10年……、くらいしたら結果出てるかな……?」
「そうだねぇ。これまでの10年頑張ってこられたんだもん。これからは二人だもん。大丈夫だよぉ」
「約束だよ」
「うん。約束ぅ」
幼かったあの時と同じように、小指を絡ませた。楽しいことも、辛いこともあるかもしれない。でも、これからは二人で一緒に進めばいい。
そんな二人を夏の星座が静かに見下ろしていた。
【茜音・高3・夏休み課題】
「はぁ~、今回はここに行くんですかぁ?」
片岡茜音は担任から渡された書類を確認して聞き返した。
「確か、片岡は児童施設でいいんだよな? 一人だけど大丈夫か? 今回は先方の事情で昨年と施設が変わるのを言ってなかったから、断って選びなおしてもいいんだぞ?」
先生は茜音にすまなそうに聞いた。
「はいぃ。大丈夫です。分かりました。これから行って挨拶してきます」
「行き方は書類の中に書いてある。駅で向こうの人が迎えに来てくれるそうだから」
「分かりました」
茜音は教室を出た。
「どしたぁ?」
廊下に出ると、上村菜都実と近藤佳織の二人が待っていた。
「う~ん、まぁ行くところが変わったって感じかなぁ?」
「へぇ。どこどこ?」
「ん~、内緒ぉ……」
「ケチ~」
三人は夏休みのガランとした学校を出る。
彼女たちの通う私立櫻峰高校では、夏休みなどの長期休暇の課題の1つとしてフィールドワークが全員に課せられる。
この期間、主に公共の施設やボランティア活動などを生徒たちは1つ選んで参加しなければならない。
ものによって内容の難度や期間は様々で、1日で終わる物から、数日にわたるものまである。
その希望調査は休みに入る直前に渡されて提出。何に当たるかはこのように受け入れ側の日程などもあるので、先のように一人ずつ言い渡される。
当然ながら簡単な内容で日数の短い物は競争倍率も高く、自分の希望する物に当たらない確率も高い。
ただし、休み明けにはその内容をレポートにして提出しなければならない。短く内容が楽なものほど、そのトレードオフとして、規定の枚数に内容を工面するのがなかなか大変だ。
茜音は1年生の時から毎回この課題に児童福祉施設での手伝いを選んでいた。
日数もあり、また子供たちの相手となると要求されるレベルも高いため、あまり競合することもない。
派遣を受け入れる側としても、仕事内容を身をもって経験している彼女の存在は重宝されていた。
「それじゃぁ、また店でねぇ」
「ほぉい。終わったら行くねぇ」
同じように今日から活動が始まる佳織と、これから店を手伝う菜都実と別れ、駅から電車に乗る。
「まぁ……、こういうこともあるんだねぇ……」
渡された書類を封筒からもう一度出して見て思った茜音。
先生は担当する施設が変わることを気にしていたようだが、彼女には特別大きな問題があることではない。
これまで休みごとに会ってきた子達と会えなくなるのは寂しいが、新しいところとなれば、それはそれで新しい出会いがある。
しかし、今回の場所は担任はもちろん親友二人にもまだ話せない、彼女には少し別の意味を持ちそうだからだ。
最寄り駅として書類に指定された駅は、名前ではよく聞いていたけれど、降りたことはなかった。
「そっかぁ、この駅なんだぁ」
初めて降り立った駅のホームを見回す。
先日までの1年を駆け抜けた旅行では、いつも見知らぬ初めての駅に降り立っていた茜音だ。
とりあえず今日から一週間、お世話になる駅。これまでとは違い階段と列車の位置などを確かめる。
階段を上って、改札前が待ち合わせ場所だと書いてある。
学校からは茜音がこれから向かうことは連絡済みだから、受け取った書類によると、改札口に迎えが来ることになっている。
「あれぇ、健ちゃん?」
ラッシュが過ぎた昼前の時間帯、改札前は1本の列車が到着して降りる乗客の波が過ぎれば閑散とする。そこに茜音は見知った顔を見つけた。
「茜音ちゃん」
駅の改札前にいたのは同い年の松永健。
先月10年越しの約束を乗り越え無事に再会した茜音の彼氏だ。直後の茜音の両親の作戦で早々に紹介することになり、すでに片岡家では公認の仲となっている。
「健ちゃん、誰かを待ってるの?」
今日は二人が会う約束をしている日ではない。様子を見るに、電車から降りてくる誰かを待っているようだ。
「うん……。今日来るって人を待ってるんだけど……」
「へぇ、そうなんだぁ……」
「櫻峰高校の学生さんだって言うんだけど、あんまり制服とか分からないから、どんな人なのか知らないんだよなぁ」
茜音はおかしくて仕方なくなったが、それを必死に顔に出さないようにして続けた。
「櫻峰の制服ならこれだよぉ?」
茜音は自分の着ている服を指した。
「え、そうなんだ。夏休みだから普段着かと思った……」
紺をベースにしたシックなチェックのスカート、白いブラウスにスカイブルーのスカーフタイをつけ、ライトグレーのベストという茜音たちの通う櫻峰高校の女子夏制服も、健はそれに気が付いていなかったらしい。
そもそも茜音が彼の前に制服で現れることがこれまでなかったし、彼女の普段の私服の中には学校の制服よりずっと洒落たものが多いという個人的事情も手伝う。
「だってぇ、学校から直接来たんだもん」
「そっかぁ。それでも、同じような制服の人他にはいないなぁ……」
「なんで、その人のこと待ってるのぉ?」
「今日から、うちの手伝いに来てくれるっていうんだけどさ。名前も教えてくれなかったんだよな」
「ほえぇ。その人なら、ここにいるよぉ」
茜音はついに笑いをこらえられなくなって、自分を指さした。
「え? そうなの?!」
突然のカミングアウトに呆気にとられる健。
毎日のように電話で話しているけれど、茜音から事前にそんな話は聞かされていなかった。
「はい、これが学校からの書類。不慣れですが、ご指導よろしくお願いします」
茜音はあらたまった顔で彼に頭を下げた。
施設までの道中、茜音は健に事情を話した。
「だからねぇ、さっき、その書類を渡されるまで、知らなかったんだよぉ。ごめんねぇ」
「そうだったんだ」
茜音が派遣される施設の名前を聞いたとき、当然彼女はこういう展開もあり得ると思っていた。
駅から歩いて15分ほどで、目的地の珠実園に到着した。
「なんか、懐かしい雰囲気かもなぁ……」
素直な茜音の感想だ。
「僕がここに来てから外見は変わってないからね」
茜音は初めての場所だが、健はあの一件の後に連れてこられたのがこの施設で、彼にとっては家同然の場所である。
「うるさいぐらい賑やかだけど、許してやってよ」
健が門を開ける。夏休み中なので子供たちの声が中から聞こえてくる。
「あ、健兄ちゃんだ!」
後ろから男の子の声がした。
「お帰り。プール行ってたのか?」
真っ黒に日焼けした小学校低学年くらいの子供たちが5、6人走ってくる。
「うん! 兄ちゃん、この人だれ?」
彼らは茜音を指さした。
「みんなに言ってただろ? 今日から一週間みんなの手伝いをしてくれる人が来るって」
「そうだった! みんなに知らせてくる!」
彼らはわいわい騒ぎながら玄関に走っていった。
「元気だねぇ」
「ま、あの辺が一番大変かな。わんぱく盛りでさ」
彼に連れられて、事務室で挨拶を済ませる。
「よろしくお願いします」
「あなたがあの茜音ちゃんなのね。よろしくね」
健と同様に他の職員たちにしても、まさか派遣された人物があの事件のもう一人の主人公と知って驚いていた。
「……では、みんなにお願いします」
さっき戻ってきた学校のプール組を待つため、少し遅くに変更されたという昼食の席で、彼女は紹介されることになった。
「はいぃ。えと……、今日からしばらくお世話になります。片岡茜音です。よろしくお願いします」
「えぇ~~~??!!」
子供たちが一斉に声を上げる。
「健兄ちゃんが言ってた人だ」
「へぇ、めちゃ可愛いんだ」
「犯罪だぞ犯罪!」
「あのぉ……、健ちゃんどう言ってたの……?」
茜音の問いにも健は肩をすくめて苦笑するだけだ。
当然のことながら、今では一番の古株になる健の話は全員が知っている。
もちろん先日の10年越しの再会がかなったこともトップニュースで伝わった。そのうちに遊びに来ることは予想されていても、こんな形で現れるとは誰もが予想外だった。
「そうかぁ、健君の気持ち分かるなぁ」
年上の女の子たちからも声が上がる。
「でもさぁ、これはミク姉ちゃん勝ち目ないなぁ……」
「そうねぇ。健君一筋だもんねぇ。ちょっと可哀相かなぁ」
「ほえぇ?」
茜音が見回すと、1つだけ用意されていない空席があった。
「今日は学校の委員会で遅くなるとか言ってたんだ。明日来るときには会えるよ」
「う、うん……」
気にはなったが、午後の時間を過ごしてもその子は現れなかったので、茜音は引き上げることになった。
「明日から本格的にお願いします」
すっかり暗くなった中、茜音と健は門のところまで歩いてきた。
「今日はありがとう。茜音ちゃんと分かってほっとしたよ」
「うん。そだねぇ。明日からは普段着で来るねぇ」
「あんまりお洒落しない方がいいよ。汚されちゃうからさ」
「あはは。うん、分かった。もうここでいいよぉ」
門を出て最初の角のところで、茜音は立ち止まった。
「駅まで送るよ?」
「ううん、お片付けとか残ってるでしょぉ。あと、ミクちゃんによろしくねぇ」
「気にしてるの?」
「え? ううん、平気平気。それじゃまた明日ねぇ」
茜音は大きく手を振って駅の方へ走り出した。
「あ、うん。また明日……」
出遅れてしまった健は、茜音に手を振り返して呟く。
「もう……、茜音ちゃんは嘘つくとすぐに分かるんだよな……」
「兄さん!」
茜音が見えなくなったので、珠実園に戻ろうとした背中に、飛びつく者があった。
「未来ちゃん」
中学校のセーラー服を着ている彼女は振り向いた彼に笑顔を見せた。
「さっきねぇ、すれ違った兄さんと同じくらいの女の人が悩んだみたいに歩いてたんだぁ」
彼女は振り向いて言った。角を曲がっているし暗いのでもうその姿を見ることは出来ない。
「そうかぁ……」
人通りが少ない住宅街の道で、未来がすれ違ったと言えば、それは自ずと絞られる。
「茜音……」
「兄さん?」
考え込んでいるような健に未来が問いかける。
「あ、何でもないよ。ご飯が早かったから、とってあるからね」
「うん、お腹すいたぁ」
二人は珠実園の中に消えていった。
翌朝、茜音はバスケットを抱えて珠実園に出勤した。
「おはようございます」
「あー、茜音姉ちゃんだぁ」
「おはよぉ」
門をあけて中に入ると、子供たちが駆け寄ってきた。
「健兄ちゃん待ってるよ」
「あはは、そうなんだぁ」
彼らに手を引かれるように中に入る。
「こら、午前中は宿題の時間だろ?」
奥から聞き慣れた声がした。
「だって、健兄ちゃんの彼女連れてきたんだぜぇ」
「そっか宿題中なんだ。すぐ用意するね」
自分たちに出される夏休み必須課題は先日のフィールドワークの課題受け取りの日に提出する必要があったので、あの騒ぎのあとはウィンディで仕事が終わってから佳織と菜都実の三人で協力して片付けたものだ。
「健ちゃんも大変だねぇ」
「まぁねぇ。茜音ちゃんも手伝える? 小学校中学校の課題だから分かると思うよ」
「分かった」
集合テーブルで、門まで迎えに着てくれた小学校組の宿題を手伝うことにする。
「よぉし、さっさと宿題終わらさないと」
今度は調理場の方から女子組が帰ってくる。
珠実園ではいくつかのグループに分かれ、調理や掃除などの仕事を分担していると説明を受けていた。
「あれ、茜音さんじゃん。今日は早いね」
昨日の騒ぎで、茜音へのイメージはすっかり完成されている。
「おはようございます。お邪魔してます」
上級生になると、個室も与えられることになっていると聞いていたけれど、このときは集まって宿題を片付けることにしたようだ。
「あ、未来姉ちゃん」
茜音の目の前に座っていた子が顔を上げた。
「うん?」
部屋に入ってきたのは、中学生くらいの子だった。大きなブラウンの引き締まっている意志の強そうな目。栗色の髪型に少し特徴があった。後ろはかなり短くしているが、もみあげ近く、茜音で言えば三つ編みをしている付近だけは長めにのばしていた。ふんわりとした可愛さが特徴の茜音とはまた違い、きりりと引き締まった美少女という雰囲気を持った子だ。
「茜音ちゃん?」
「うん?」
健に呼ばれて茜音は立ち上がる。
「この子が昨日いなかった田中未来ちゃん」
「片岡茜音です。よろしくお願いします」
茜音が頭を下げる。
「今は中学……3年だっけ?」
「うん。そうでぇす。兄さん忘れたの?」
未来は紹介している健の腕に抱きついた。
「兄さん……?」
茜音の顔に『?』が浮かぶ。
「あぁ、別に本当のじゃなくて、ずっといるからね」
「そっか。そうだよね……」
自分は施設から引き取られたが、彼はあの事件の後はずっとここで暮らしていたのを思い出す。
「茜音ねぇちゃん元気ねぇぞ?」
「あわぁ、ごめんね」
宿題を見ていたはずの茜音だが、子供たちにつつかれてふと我に返る。
「なんか、さっきからぼーっとして。そんなに未来ねぇちゃんと会ったの嫌だった?」
「うん、そんなんじゃないよ」
挨拶の後、今日も学校の補習に行ってしまった未来の姿は消えた。それでも昼までには戻ってくると言うことだった。
その後は気を取り直して子供たちの宿題を手伝う。
そうこうしている内に、昼食を用意する時間になった。