「……ちゃん、茜音ちゃん?」
名前を呼ばれて、意識が戻る。
「うんん……?」
健が茜音の顔を心配そうに覗きこんでいた。
「ほ、ほぇ……」
気がつくと、自分の頬に幾筋も涙の跡が残っている。
「大丈夫? ずっとうなされているみたいだったから」
「そっか、夢を見てたよぉ」
「夢?」
「うん……。まだ幼稚園の頃に病気で一人でこの部屋にいたときのこと。寂しくて泣いてたときのことだと思うよぉ」
「そっか、それでママとかパパとか言ってたんだ」
「うん。健ちゃんに会う前のことだよぉ」
そうだ。茜音がこの家を一度離れたのは幼稚園年長の冬休み。だから以前の記憶時代には健とはまだ出会ってもいない。
「楽しかった頃?」
「うーん。楽しかったのかなぁ。パパとママは優しくて暖かくて……。家族の中は楽しかったよ。でも、お家の外はそうでもなかったかもしれない。思い出せないから……」
健が思い出してみると、茜音のその頃の話は主に両親の話で、幼稚園や親戚の話というのは聞いたことがなかった。まだ封印されている記憶があるのかも知れないけれど。
「そういえばねぇ、健ちゃん。さっき聞こうと思っていたことがあったの……」
話題を変えたくて、茜音は健に話しかけた。
「なに?」
「あのねぇ、昨日健ちゃんがここに運んできてくれたと思うけど、それ以外に誰かいてくれたの?」
「いや? 僕一人だけど」
「じゃあ、あのお洋服からパジャマに着替えさせてくれたのも健ちゃん?」
壁のコートかけには、茜音が昨日着ていた服がハンガーに掛けられている。皺にもなっていないから、この部屋に到着してすぐに着替えさせてるれたのだろうが、そのときの記憶が全くない。
「うん。どうしようか迷ったんだけど……。茜音ちゃん汗びっしょりだったし、服のままだと寝苦しいと思って。お湯とタオルで身体を拭いてパジャマにしたんだ」
「そっかぁ。お母さんが、健ちゃんが夜通し看病してくれたって言うし、着替えも終わってたって感心してたんだぁ。でもぉ、それだったらぁ、昨日スカートの中見えそうになったときに目をつぶらなくてもよかったのにぃ。わたしのお洋服脱がせたんだもぉん?」
面白そうに茜音は笑う。
「う、うん、どうしようか悩んだんだ……。茜音ちゃんに無断でそんなことしていいなんて思ってなかったし。でも、茜音ちゃん苦しそうで、じっとしていられなくて……」
健は真っ赤になって取り繕おうとした。考えてみれば茜音の言うとおりだ。当然その時はただ茜音を楽にしてあげたいという一心だったから、責められることはない。そのことは当然彼女も分かっている。
「ううん。いいのぉ。本当にありがとう。一緒にいてくれたのが健ちゃんでほんとよかった。わたしのこと助けてくれたの何回目だろうねぇ」
施設にいた頃から、ずっと一緒にいてくれた健。
いじめられたときも病気になったときもいつも一番の味方になってくれた。だからこそ、茜音は彼女の全てを健にだけは見せることが出来る。
昨年の夏、川の中に落ちて記憶が途切れていたときの様子を友人たちから聞いた。まさかの事態に動けなかった二人に構わず、彼は自分を水の中から抱き上げ、そのままあの足場の悪い坂を一気に登って毛布で包んでくれたという。『あれは真似できないわ』と菜都実も証言している。
「そういう意味じゃ、健ちゃんは私の白馬の王子様だねぇ。お父さんとかお母さんよりも頼りにしちゃってるかなぁ……。でも、健ちゃんは今は珠実園の頼りになるお兄さんでもあるんだよね。わたしが独り占めするわけにいかないね」
「いいんだ。ちゃんと理由は話してきた。これから茜音ちゃんを送っていくよ。それが一番大事だから」
そのために健は一度園に戻って車を取ってきたのだと気づいた。
「うん。それじゃぁ着替えるよぉ。健ちゃん、パジャマから着替えさせてぇ?」
「茜音ちゃんの服は難しくて無理だなぁ」
「うそだぁ」
健はハンガーの服を茜音に渡す。目があった瞬間、二人とも思わず吹き出してしまった。
「まー、まだ襲われたって言われたくないからね。戸締まりの用意だけしてくるよ」
「わかったぁ」
結局、茜音はその週の半分を体調の回復に使ってしまったという。